歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

ラウテン・カンパニー『ラッソ_世俗曲集』

2015年02月03日 | CD 中世・ルネサンス
Orlando di Lasso
Deutsche Lieder
Spägele, Landauer, Jochens, Herberich
Lautten Compagney
5011

1993年録音。54分59秒。CAPRICCIO。4人の歌い手がクレジットされているけれども、むしろ器楽中心のアルバムでした。歌い手はところどころ出てきて花を添える程度。四重唱は全24曲中、3曲のみ。肝腎の"Matona mia cara"が最後に演奏されているのですが、これが器楽のみなのにはマイッた…。ラッソの合唱曲が聴きたい人には勧められないなあ。

しかし全体として演奏の質は高いのですよ。捨てがたい魅力があると言っていい。器楽は総勢9人で、ビオラ・ダ・ガンバやリュートのみならずツィンクなどいろいろ出てきます。これがなかなか達者。渋めの演奏ながら、ドイツ・ルネサンスのシックなというか、重厚なというか、この国らしい音楽の魅力をしっかり楽しませてくれる。

それにしてもラッソ(ラッスス)の世俗曲を集めたアルバムってなかなか決定盤がない。以前コンチェルト・イタリアーノのを聴いたのですが、全然ダメだった。粗くて。このラウテン・カンパニー盤も、もうちょっと重唱で何曲か聴かせてほしかった。

クリスティ『オリエント急行の殺人』

2015年01月31日 | 本とか雑誌とか
クリスティ/長沼弘毅訳『オリエント急行の殺人』(創元推理文庫)読了。もちろんフジの三谷幸喜ドラマの影響です。でもドラマは前編の放送日は気がつかずあらかた見逃し、後編のみ見ました。むらむらっと再読の気が沸き起こり、創元版を購入。古い訳ですが「ポワロ(notポアロ)」という表記がいいし、それにハヤカワより安いので。

初版は1959年ですが、文章に古さはほとんど感じない。名訳と言うべきではないでしょうか。訳者の長沼さんは東大法学部を出たあとお役人をされて、そののちミステリの翻訳家として重きを成した人とか。訳者あとがきに、クリスティの父がアメリカ人と指摘してあるけどこれはぜんぜん知らなかった。

閉塞された空間を舞台とし、登場人物が限られていてかつ個性的な人物が多い。これはいかにも映像化にふさわしいし、楽しむ側も、映像化してもらったほうが分かりやすいところがちらほらある。フジ版も面白かったので再放送があったら見逃さないようにしよう。八木亜希子という人は映画ではバーグマンがやった役を振られて、よっぽど三谷幸喜に気に入られているんですね。

ホグウッド『バッハ_ブランデンブルク協奏曲他』

2015年01月24日 | CD バッハ
Bach
Brandenburg Concertos
Concertos BWV 1060, 1062, 1064
Academy of Ancient Music
Christopher Hogwood
455 700-2

1984,87,90年録音。68分49秒/60分27秒。DECCA/L'Oiseau-Lyre。84年録音の『ブランデンブルク』は、通常版ではなく第一稿によったということで当時話題になったもの。第一番が3楽章だったり、第五番の1楽章のチェンバロ独奏箇所が短かったり。しかしそういうマニアックな興味は差し置いて、今聴いても、音楽として充実していて、実に聴きごたえのある演奏。ホグウッド追悼の思いで買いました。ホグウッドのバッハは良いものが多いですよ。

一番といい五番といい、通常版は、バロックの協奏曲としていびつなところがありますね。この第一稿は、そのいびつな個性的な曲に変貌する前の、言わばういういしい曲たちの姿が楽しめる。まあそのいびつなところが『ブランデンブルク』の『ブランデンブルク』たる所以でもあるので、ある面では物足りなく思わないでもないけど…。

『ブランデンブルク』全曲ともホグウッドが弾き振りしているのは言うまでもないんですが、古楽アカデミーのメンバーは6曲をとおして流動的。vnはマッキントッシュ、ハイロンズなどですが第四番のみヤープ・シュレーダーが参加。またミシェル・ピゲがob、bflで参加、さらにセオン盤(レオンハルト指揮)でも吹いていたク・エビンゲがobで参加。第二番のtpはフリーデマン・インマー、第五番のflはスティーブン・プレストン。それぞれ興の乗った演奏で、オワゾリールらしい清新な音づくりも相俟って、とても三十年も前の演奏という気がしない。

『ブランデンブルク』だけだと85分しかかからないそうで、その後録音されたバッハの協奏曲を埋め草に入れてあります。『バイオリンとオーボエのための協奏曲BWV1051』『2つのチェンバロのための協奏曲BWV1060』『3つのバイオリンのための協奏曲BWV1064』。1060はルセが客演。このころまだルセは売り出し中の新進だったと思いますが、どういう経緯でホグウッドとの共演にいたったのか、いまとなっては分からないけど、あれこれ考えちゃう。1064はハイロンズ、ハジェット、マッキントッシュの3挺のバイオリンがのびのび歌う華やいだ演奏。

「足踏み」と「鏖殺」

2015年01月22日 | 気になることば
ちょっとうっかりしてましたが、わたしが読んだ新潮文庫版『武蔵野夫人』は平成17年10月25日の74刷です。出典のページ付けは同版のもの。今どきの文庫本にしては字が小さめでした。税別400円。今Amazonで同じ本を見ると、カバーが違う。それに値段も高くなっている。たぶん、わたしが買った後で、字を大きくして組み直したんだと思う。だから、最新版ではページ数が違うはずです。念のため申し添えておきます。
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【足踏み】
「仲人に立った秋山の旧師の大学教授も、ほとんど形式的なものであった上に、一種の偏屈者である秋山は普段からあまり足踏みしていなかった。」(大岡昇平『武蔵野夫人』新潮文庫、p.183)

こういう「足踏み」の使い方をわたしは初めて見ました。けど、こういうの、あるんですよ。『日国』は「ある場所や家などに足を踏み入れること。訪問。でいり。」として、16世紀以降、近世までの例を挙げている。でも近代の例はあがってないので、この『武蔵野夫人』のは貴重な用例になるでしょう。なお、『日国』以外の辞書では、『大辞林』も『大辞泉』も、この語義を拾っていません。
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【鏖殺[おうさつ]】
「勉はふとこの取水塔に毒を投げ込めば、東京都民を一挙に鏖殺できるかも知れないと考えて、自分の考えに驚いた。」(『武蔵野夫人』p.212)

「鏖」はこれ一文字で「みなごろし」。このことはなぜか知っていたんですが、これも実際に本を読んでいてこの字にぶつかったのははじめてだったので、記念にメモ取り。

卒業証書とトルストイ

2015年01月21日 | 本とか雑誌とか
〈卒業証書の件〉
「まるめた卒業証書を望遠鏡のように使って彼を眺めた。」(大岡昇平『武蔵野夫人』新潮文庫、p.79)

卒業証書を筒のように丸めて覗く、というのは『こころ』にも出てくるんですよ。卒業式を終えた青年のほうの「私」は、下宿に帰ると上半身裸になって(夏なので)、二階の窓を開けて、卒業証書を遠眼鏡のようにして「見えるだけの世の中を見渡した」。

まだ二つしか気がついていないのでもう少し用例を拾いたいところですが、これってどういう意味なんでしょうかね。開放感? ところで、卒業証書というものは、丸まった状態であるのがむしろ平時の姿なのだなあと今ふと思いました。
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〈『アンナ・カレーニナ』冒頭の引用〉
「露国の文豪もいったように、幸福な家庭の幸福は似通っているが、不幸な家庭の不幸はそれぞれ趣きを異にしているものである。」(『武蔵野夫人』p.194)

これはトルストイの『アンナ・カレーニナ』です。偉そうなことは言えない。読んでないから。でもすぐ分かったのは佐竹昭広『下剋上の文学』にこの同じ箇所の引用があったのを憶えていたからです。古典を論じた論文に『アンナ・カレーニナ』。これはちょっと衝撃でした。衝撃を受けるとともに、このトルストイのことばに、確かに確かに、とうなづいたこともよく憶えています。そのかみ、『アンナ・カレーニナ』は大学生の必読書だったのかなあ。大岡昇平は1909年、佐竹さんは1927年の生まれ。ともに、東京生まれで京都に学ぶ。