歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

著者近影

2008年07月31日 | メモいろいろ
■小谷野敦さんの『新編軟弱者の言い分』(ちくま文庫)が届いたので読みはじめたのだが、表紙をめくったところのカバー裏に著者の写真が載っていたのでびっくりした。写真が載っていること自体に驚いた。なんとなく、小谷野さんが自分の写真を晒すことはもうないような気がしていたのである。で、まあ、言うまでもなく、その写真の撮りかたも変わっている。デジカメ? いや、もしかしたら携帯電話で自分撮りしたのを使っているんぢゃなかろうか。そんな感じの手ブレ写真。本の著者近影に関してこれほどびっくりしたのは、神田龍身さんの『物語文学、その解体』以来だ。

聴いてきた

2008年07月30日 | 音楽について
■本格的にクラシックを聴くようになったのは大学に入ってからで、最初に買ったCDはガーディナーの『メサイア』。つまり古楽を聴きはじめた当初から時代楽器で聴いてきたってことになります。『メサイア』は合唱のメンバーとしてステージで毎年、複数回歌いました。(一緒に演奏してくれたのはもちろんモダン楽器のオケでしたけどね。)そのうちバッハやモンテベルディも次第次第に聴くようにはなりましたが、ヘンデルの音楽が肌に合ったというか、相性がよかったというか、とにかくいちばん長い時間聴いていたのがヘンデルです。

■大学を卒業するころにルネサンス専門の合唱団に参加して、それからルネサンスものも積極的に聴くようになりました。いちばんたくさん歌ったのがジャヌカンとジョスカンで、このふたりは今でも大好きです。20代は、歌うにしろ聴くにしろ、ヘンデルと、ルネサンスのポリフォニーにどっぷり浸かっていました。

■30代になってからルネサンス以前の中世音楽(とくにスペインもの)やバロックよりあとの音楽(モーツァルトとか、とんでイギリスの近代もの)も聴くようになりました。ガーディナーは時代楽器に移行する以前、モダン楽器のオケを使ってパーセルの『来たれ、汝ら芸術の子ら』とかヘンデルの『エジプトのイスラエル人』のようなすぐれた録音を残していて、それらについても早くから知っていたので、モダン楽器にもさほど抵抗はなかったです。(ただしガーディナーの演奏はモダン楽器といってもごく時代楽器に近い音でした。当然ですけど、モダン楽器の音といっても千差万別なんですね。)で、レパードやマリナーのヘンデルをまづ聴くようになり、その後、マリナーのボーンウィリアムズとか。さらに、古楽で耳になじんだ歌手が歌っているシューベルトとか、イギリス近代歌曲とか。ボーンウィリアムズは歌曲や合唱曲もとてもいい曲を書いてます。

■それからついに自分で弾くことは断念したけどギターが好きです。古楽だとリュートですけど、リュートよりもギターの音が好き。バッハのリュート組曲とか、スペインやイギリスのルネサンス期の撥弦楽器のための音楽も、ギター編曲で聴くことのほうが多い。ギタリストではイョラン・セルシェルとデイビッド・ラッセルがとくにお気に入り。

■ヘンデルについては、オペラよりオラトリオのほうが好きです。オペラはあまり関心なかったけどこの15年ほどですか、ものすごいブームで、なんとなくブームにつられてCD買いました。しかし文句なく好きなのは『リナルド』と『セルセ』くらい。そのほかヘンデルについてはあらゆるジャンルをむさぼるように聴いて、ちょっと飽きてきた。今はパーセルですね。ヘンデルはときどき退屈なことがあるけど、パーセルは聴いていて退屈ってことがありません。これから何年かは、パーセル、シャルパンティエ、カリッシミ、このあたりを聴きこんでみたいと思っています。

幾島と小ノ島

2008年07月28日 | 演ずる人びと
きのうの『篤姫』で違和感あったのは、大奥に幾島を訪ねてきた小ノ島が、幾島に対して下手から出るものの言い方をしていたことですな。薩摩藩邸にいたころは完全に小ノ島が上で、幾島が下だったんですけどね。幾島が大奥にあがった時点で身分も逆転したってことですかね。

昨日から安政の大獄がはじまって、『篤姫』はこれからどんどん大変なことになっていきますが、このドラマは最終的にどこらへんまで行くんですかね。まさか天璋院さまが死ぬところまではやらんでしょ。小松帯刀が死ぬまでか、西南戦争で西郷が死ぬまでか。どっちかだと思います。

アーノンクール『ヘンデル/イェフタ』

2008年07月26日 | CD ヘンデル
Handel
Jephtha
Hollweg, Thomaschke, Linos, Gale, Esswood, Sima
Mozart-Sängerknaben
Arnold Schoenberg Chor
Concentus Musicus Wien
Nikolaus Harnoncourt
0630-17390-2

1979年録音。64分04秒/61分24秒/49分57秒。Teldec。気迫にみちみちたアーノンクールの指揮ぶりと、エスウッドら歌手たちの名唱。聴くべし。今はもっとスタイリッシュなヘンデルが流行ですが、この『イェフタ』の張りつめた世界はただものではありませんよ。

ベルナー・ホルベークのイェフタは粗野であらあらしく、豪胆な造型。どう聞いてもバロック向きではなく、ワーグナーでもいけそうな強い声ですが、アーノンクールの峻厳な曲作りにはよく合ってます。ソリストで調子のいいのはイフィス(ソプラノ)のエリザベス・ゲイル、ストルジェ(メゾ)のグレリス・リーノス、ヘイマー(カウンターテナー)のポール・エスウッド。バロックの歌唱法を踏まえつつ、じゅうぶんに劇的で、アーノンクールの意図を生かしています。

『イェフタ』いちばんのヤマ場は、第2幕後半の、イェフタ、ゼブル、ストルジェ、ヘイマーの四重唱だと思いますが、こういうのはアーノンクールの独擅場(どくせんじょう)ですね。イフィスを生け贄にするかどうかのせっぱ詰まったシーンですが、ヘンデルの筆も冴えているし、アーノンクールの棒も緊張感高く、ソリストたちもそれぞれの役を歌い切ってます。

『イェフタ』は第3幕に版の問題があります。イフィスが死を免れることになって、ソリストたちが祝福と神への讃美をじゅんじゅんに歌っていくフィナーレのところ。ここで、ゼブル、ストルジェ、ヘイマー、イフィスが順にソロを歌い、最終合唱につなげるやり方と、イフィスとヘイマーの独唱曲は省いて、ふたりの二重唱、さらに他のソリストが入った五重唱がちょっとあって、最終合唱になるやり方と、ふたつあるんです。後者の、二重唱から五重唱になる版のほうが盛り上がりそうなものなんですが、これがねえ、曲のできがあんまりよくないんですよ。で、アーノンクールは、デュエットではなくヘイマーとイフィスにもソロを歌わせるほうの版をつかっていて、この選択はよかったと思います。

残念なのはシェーンベルク合唱団の調子がそんなによくないことです。79年のアナログ録音で、録音のせいもあるんでしょうか、もやもやしていて英語の発音も不明瞭です。

あらっぽいことを言いますが、このヘンデルの『イェフタ』は、第1幕と第3幕がもし散逸して第2幕だけ残っていたとしても、ヘンデル晩年の名作として世に喧伝(けんでん)されたと思いますね。1幕と3幕がある以上、2幕だけ取り出して上演するわけにはなかなかいかないでしょうが、やってみるとおもしろいと思いますよ。それくらい2幕の充実ぶりがすばらしい。

小野田博一『論理的な作文・小論文を書く方法』

2008年07月25日 | 本とか雑誌とか
日本語で仕事文を書くすべての人に、小野田博一さんの『論理的な作文・小論文を書く方法』(2001、日本実業出版社)をお勧めします。世間ではそれほど話題になっていないんぢゃないかと思いますが、とてもいい本です。

小野田博一さんは、書名に「論理的…」と入った本を日本実業出版社から何冊も出している人です。このシリーズは順次文庫化されつつあり、今のところPHP文庫から『論理的に話す方法』(元版1996、文庫版2005)と『論理的に書く方法』(元版1997、文庫版2008)の2冊、光文社知恵の森文庫から『論理的に考える方法』(元版1998、文庫版2007)が出ています。まだ文庫化されていないのは『論理的に説得する方法』(1999)と、わたしが最初に挙げた『論理的な作文・小論文を書く方法』。このシリーズ、わたし全部買いました。そのなかで一番できがいいのが、最後に出た『作文・小論文を書く方法』なんですよ。

自分の結論だけをだしぬけに主張して、「ね、そうでしょ? そうだよね?」って無理やり同意を求める人、わたしのまわりにもいて、ふだんから閉口してるんですけど、こういうのを小野田さんは徹底的に否定するんです。何かについて自分の考えなり意見なりを表明するのならば、かならずその根拠とともに述べなさい、というのが小野田さんの基本的な立場です。あとは、そのオリジナルな考えやその根拠を、いかにまとめ、つないだら説得力あるひとまとまりの文章に仕上がるのか、そのテクニックをていねいに教えてくれます。「根拠を書けってそんなの当たり前ぢゃんか」と思われるかもしれませんが、今わたしがふだん目にする文章にもその当たり前のことができてないのがあるし、かつてわたしが仕事で書いた文章の中にも、そうなってないものが実は少なからずあったかもしれない。なにしろわたしは、小野田さんの本に書いてあるような内容を、体系的に学校で教わったことはなかったんです。

既刊の、『…話す方法』以下の何冊かも確かにためになる部分は多いんですが、どうも勇み足というか、余計なこと書きすぎてると感じさせる部分がある。しかしシリーズの最後に出た『論理的な作文・小論文を書く方法』に関しては、無駄なところがなくて、役に立つ参考書として躊躇なく勧められる。文庫本サイズよりもいまのB6判ソフトカバーのほうが読みやすいと思いますが、文庫になったほうが広く読まれるには有利でしょうから、するんだったらPHPでも光文社でもいいので早く文庫にしてください。

学生時代のわたしは、はづかしいけど自己表現に関して意識が低かったので、当時すでにロングセラーだった『論文の書き方』(清水幾太郎)も『知的生産の技術』(梅棹忠夫)も読まずじまいだったんですよ。どちらも30代になってからやっと読みました。今の若い人には、『論文の書き方』はできたら読んでほしい。『知的生産の技術』のほうは、まあ時間がなかったら読まないでもいい。でも『論理的な作文・小論文を書く方法』はぜひとも読んでほしいです。

Jedit X

2008年07月24日 | MacとPC
■Jedit XをVersion2にアップグレードしてから3か月ほどになります。ファイルドロワというのが装備されて、アウトラインエディタのような使い方ができるのかなと思っていたんですが、そこらへんはまだ使い込めていません。思いがけず使いやすくなっていたのは表示倍率の柔軟さで、175%が選択できるようになっているのがありがたい。いまわたしは、MacBookでつかうJeditの初期設定を、プレーンテキスト、11ポイント、35字、175%にして書いています。11ポイントだと150%でも200%でもそんなに違和感ないんですが、11ポ×175%というのがわたしとしてはいちばんツボなんですよ。必要や気分に応じて表示倍率をちょこちょこ変えてやってます。

■MacのエディタとしてはもうひとつLightWayTextというのが広く知られていて、わたしもMacを使い始めてわりと早い時期からユーザー登録してあるんですが、今はあんまり使ってません。LightWayTextのウリは縦書き表示ができることと簡易ワープロとしても使える、というところです。縦書きはたしかに大きな魅力だったんですが、とくにOS Xへの移行からこのかた、カーソルをしょっちゅう動かして文章の推敲してたりするときに表示がおかしくなることがあって、ちょっと気持ちが離れました。またワープロとしては、わたしのところはまだegwordががんばってます。egwordくらいの機能がないと仕事にならないし、さくさく動いてくれるところも気に入ってます。

■つまり文書作成に関しては、テキストを打つ段階、書き溜める段階はJedit Xを使い、それを仕上げるときはegword Universal 2で、というのがわたしの日常的なやり方になってます。

ホグウッド『ベニスの愛』

2008年07月23日 | CD バロック
A. Marcello - Oboe Concerto
Vivaldi
Trio Sonata 'La Folia', RV 63
Concerto 'per Flautino', RV 443
Cantata 'Amor hai vinto', RV 651
Cantata 'Nulla in mundo pax sincera', RV 630
Emma Kirkby, Clare Shanks, Michael Copley
The Academy of Ancient Music
Christopher Hogwood
421 655-2

1978,80年録音。54分14秒。DECCA/L'Oiseau-Lyre。いかにもイギリス的な、いかにもホグウッドらしい、品のいいイタリア・バロック。夏の休日の夕方に、思いがけず涼しい風が吹いてきたようなそんなアルバムです。耳になじみのある曲を室内楽的編成でさらりと聴かせてくれて、最後にカークビーがビバルディの世俗カンタータと宗教カンタータを1曲づつ。これも私の愛聴盤です。

マルチェッロのオーボエ協奏曲はクレア・シャンクスという人のソロで、これはさすがにいま聴くとあっさりしすぎ、化粧っ気なさすぎかもしれません。しかし「ラ・フォリア」やソプラニーノ・リコーダーの協奏曲はしっかり聴きごたえのあるいい演奏です。リコーダーのソロはマイケル・コプレイ。

カークビーはちょうどこの録音のころから本格的にソリストとして活躍しはじめました。大輪のバラがいままさに咲きほころびようとするほんとにいい時期の録音だと思います。とくに最後の「真の平和はこの世になく」RV630がすばらしい。当時はビバルディっていうとまだほとんど器楽しか聴かれていなかったころで、この2曲のカンタータの録音は貴重な音源でした。

熊倉功夫『後水尾天皇』

2008年07月22日 | 古典をぶらぶら
■熊倉功夫『後水尾天皇』を読了。岩波の同時代ライブラリー。元版は1982年、朝日新聞社刊。後水尾院を中心に、京における寛永文化のネットワークを語るもの。ただし現在はすでに品切れ。そもそも、同時代ライブラリーってシリーズ自体がもう終熄してるんですよね?

■わたし、室町から江戸のはじめにかけての文芸に関心がありまして、日本史のほうでは織田信長から近世なんだそうですが、文学史からいうと、寛永のころまではまだまだグラデーションで中世の気配が残っていました。この『後水尾天皇』は文化史の本ですが、やはり同じような立場で、ただし成立してまだまもない江戸幕府の権力を後水尾院を中心とする宮廷文化と対立するものしてはとらえず、むしろ幕府の出先機関である所司代の動向を後水尾の文化圏に取り込むかたちで俯瞰してあります。

■17世紀の前半ていうのはほんとにおもしろい時代です。明日の命も分からなかった戦国の世とはちがって少しづつ文化的なことがらに人々の関心が向くようになって、しかしながら徳川の政権もまだできたばっかりで、いつまた下剋上の世に逆戻りするかもわからず、新しい身分制度や社会秩序も流動的だった。社会的に混沌としたそういう状況が、新たな文化を生み出す装置としてフルに機能していました。下剋上の思想とか、貴賤が一座する文化的いとなみ(この本では立花がとりあげられています。連歌なんかもそうなんでしょうね)とかが、まだ生きていました。それが、次第に年をへて世の中が落ち着いていくにつれて、社会の秩序や権力者の意図と折り合いのつくものへと、文化が変質していく。

■鹿苑寺の鳳林承章(勧修寺晴豊の息。後水尾院の父である後陽成院の従兄弟)の日記『隔メイ記』(メイはクサカンムリの下に冥)が資料として活用されています。その鳳林和尚に引き立てられた山本友我という絵師が「平敦盛幽霊の図」(須磨寺蔵)を描いていて、ありがたいことにp.153に挿絵として載っています。賛がついていて、「浦遠波高/并揚悲聲/一笛千古/未聞鳳鳴/可惜少君/断命續名」と読めました。

ガーディナー『ビクトリア/ミサ・オー・クァム・グロリオースム』

2008年07月21日 | CD 中世・ルネサンス
Pilgrimage to Santiago
The Monteverdi Choir
John Eliot Gardiner
SDG 701

2005年録音。77分44秒。SDG。プログラムの中心はビクトリアの『ミサ・オー・クァム・グロリオースム』。ガーディナーがア・カペラのミサを指揮したのをはじめて聴きました。ほかに『モンセラートの朱い本』のなかの"O Virgo splendens"とか、あとルネサンスのモテットとか。とにかくぜんぶア・カペラ。声の編成は8・5・6・5。ルネサンスもののCDとして立派に通用するレベルです。やればできるぢゃん。

ただ、ビクトリアにしてはきれいすぎる。ビクトリアの演奏には、腹の底から血が騒いでくるような独特な力感がないと、なかなかビクトリアらしくならない。タリス・スコラーズの演奏も同じ欠点をもっていて、だからわたしはタリス・スコラーズのビクトリアにも点がやや辛いんです。なおかつこれは指揮者がガーディナーですからね。ガーディナーへの悪口で、きれいな演奏だけどただそれだけ、というのがよく言われるんですが、面白いことにア・カペラを振らせても、ガーディナーはやっぱりガーディナーなのね、よくも悪くも。

モンテベルディ合唱団が創立40周年をむかえた2004年に、合唱団のメンバーが実際にサンティアゴ・デ・コンポステラまでの巡礼の旅を体験して、その途中の教会で歌わせてもらった曲を、ロンドンに帰ってからスタジオ録音したんだそうです。

ガーディナーはこれまでにもときどき思い出したようにア・カペラ曲の録音はしてたんですよ。国内盤で『クリスマス物語』というタイトルで出たクリスマス・アルバムでは古楽と現代のクリスマス・キャロルをきれいに演奏して、雰囲気よく仕上がってました。ガーディナーは、そういう小品を集めたアンソロジーならば、文句のつけようなく巧いんですよ。

ペレス『ジョスカン/ミサ・パンジェ・リングァ』

2008年07月20日 | CD ジョスカン
Josquin
Missa Pange Lingua
Ensemble Clément Janequin
Ensemble Organum
Marcel Pérès
HMC901239

1986年録音。51分31秒。HMF。アンサンブル・クレマン・ジャヌカンとアンサンブル・オルガヌムの連合軍をマルセル・ペレスが指揮してます。歌っているのは、Ensemble Clément Janequinが、Dominique Visse、Michel Laplénie、Philippe Cantor、Antoine Sicot。Ensemble OrganumがGérard Lesne、Josep Benet、Josep Cabré、François Fauché。男声八人。最上声部がビスとレーヌというぜいたく。

これいいんぢゃないでしょうか。タリス・スコラーズのような無機的な感じもなく、ア・セイ・ボーチのようなモヤモヤ感もない。ところによっては速すぎる箇所もないではないけれど、全体のキズになるほどではない。わたしとしては、いちばん耳になじみのある、受け入れやすいスタイルで演奏された『ミサ・パンジェ・リングァ』です。

タリス・スコラーズほどの完璧な響きってわけではありません。ところによってはハーモニーがにごったりもする。解釈も、現代的でスタイリッシュなタリス・スコラーズとくらべると野暮ったい。しかし、にもかかわらず、聴き終わったときの満足感をもっともたっぷりと感じさせてくれるのがこのHMF盤です。

ミサの「キリエ」の前に5分40秒のイントロイト(グレゴリオ聖歌)があってかなり待たされる感じはありますねえ。しかし聴き手はもうここで完全に中世音楽の大家であるマルセル・ペレスの世界に引きずり込まれてしまいます。ドミニク・ビスのあの特徴のある声も気になりません。

タリス・スコラーズのはあくまでも現代的な響きでジョスカンを再構築してみせ、ア・セイ・ボーチ盤は16世紀の教会の空気感の再現を目指しているように見える。それらに対してこのHMF盤は余計なことに気を取られずに、ジョスカンの音楽そのものにたっぷり浸れる。名盤といいたいです。