歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

別れの予感

2014年03月30日 | 『美しき人生』
イ・サンウよりも顔のいい俳優は韓国にいくらでもいると思うのですが、この人はとくに韓国人ごのみの顔立ちなのか、あっちでもこっちでも特別扱いである。『美しき人生』ではヤン家の末娘チョロン(ナム・ギュリ)が初対面のキョンス(イ・サンウ)に一目惚れしていたし、口の悪い「下の叔父さん」ビョンゴル(ユン・ダフン)まで、キョンスとはじめて会ったとき「どうしてそんな俳優みたいな顔してるんだ? 遊び人なのか?」とか、面と向かって言っていた。『馬医』でも、クァンヒョンの妹弟子がソンハ(イ・サンウ)に一目惚れだった。

キョンスはなにかというとテソプ(ソン・チャンウィ)の髪に触る。あまりの愛しさに思わずちょっかいを出してしまうという感じ。そしてテソプはいつもうるさそうにその手を払いのける。

細かい設定だけど、キョンスが辛いもの好きで、冷房はがんがん効かせるのが好き、というのもいかにもこの人らしい。

キョンスは月に四五回ソウルまで往復しているそうだ。チェジュ・ソウル間の飛行機は片道7,000円とか8,000円とかするそうで、往復割引とかいろいろあるんだろうけど、それでもひと月ごとになるとそれなりの金額である。やはりキョンスは金持ちで、祖父の遺産かなにかで遊んでいても暮らせるような身分なのではないか。

しかしいつの日か必ずやキョンス&テソプには別れがやってくるだろう。死が二人を分かつよりも前に。キョンスの思慮を欠いた行動がテソプの誤解を招き、テソプはその誤解がもとで嫉妬して、取り返しのつかない行動に出てしまう──そんな気がする。そしてその後のテソプの生活におとずれるであろう寂寥を思うと、なんだかこちらまでさびしい気持ちになってしまうよ。

『美しき人生』の『コレヘト』

2014年03月26日 | メモいろいろ
無料動画GyaO!『美しき人生』第54話。ビョンジュン(キム・サンジュン)とアラ代表(チャン・ミヒ)との電話のやりとり。このときアラさんはビョンジュンに振られて、虚無的になっていた。アラさんは電話の向こうにいるビョンジュンに、「何というむなしさ 何というむなしさ すべてはむなしい」と言います。このことばが「頭に響いている」と。GyaO!の字幕では引用句であることをはっきり示してなかったけれど、これは旧約聖書の『コレヘト』(伝道の書)ですね。わたしは曾野綾子経由で、たまたま知っていました。聖書をちゃんと読んでるクリスチャンには有名なところなんだろうと思います。『美しき人生』の字幕では新共同訳の聖書と一致することば遣いになっているから、字幕をつけた人も、これが『伝道の書』だということは分かっていたんでしょうねえ。

この「何という空しさ」の箇所は、他の日本語聖書では「空の空」と訳されていて、はじめて見たとき、わたしはこれだけではピンときませんでした。あとから、「ハレルヤ・コーラス」の〈King of Kings〉は「王の(なかのもっとも最たる)王」ってことだから、となると「空の空」とは「空しさのうちのもっとも最たる空しさ」の意なのだろうとようやく見当がつきました。

それにしてもどうしてアラさんはここでこのことばをつぶやくのか。もちろん知ってるからつぶやいたんでしょうが、アラさんはクリスチャンだったっけかな。まあアラの信仰いかんにかかわらず、教養として『伝道の書』を知ってた、って可能性もあるけどね。そして、韓国では日本よりクリスチャンの割合いが多いことはわたしも知っていますが、このシーンを見た韓国の人たちは、アラさんのこのせりふを聞いて「あ、伝道の書」ってすぐ気がつくくらい、広く聖書に親しんでいるのかなあ。そのへんがわたしには分かりません。

ジャネット・ニール『天使の一撃』

2014年03月15日 | 本とか雑誌とか
ジャネット・ニール/坂口玲子訳『天使の一撃』(ハヤカワ・ミステリ文庫)。英国推理作家協会賞新人賞受賞作。英原著は1988年刊。邦訳は1990年刊。もうだいぶ前に品切れになってます。

この『天使の一撃』については当然ここで書いていたつもりになっていましたが、調べてみると書いてなかった。ネットで検索しても、ほとんどこの本の話は聞かない。ただ、わたし自身がむかし某所(!)に書き込みしたのが引っかかりました。あと、ブログをはじめる前にわたしがやっていた日記サイトでも少し書いていたけど、その内容はもうネット上には残ってないし、そこで、また忘れる前に、ここでこの本についてまとめておくことにします。

『天使の一撃』はかんじんのミステリとしての深みがイマイチで、いつの間にか品切れになってしまいましたが、ヘンデリアンとしては面白く読みました。ロンドンの高級官僚の日常が音楽ネタをからめて描かれています。ヒロインが貿易産業省の官僚で、そしてアマチュアの合唱団員でもある。仕事のあとに『メサイア』の練習に行くんです。

さらに、ヒロインの弟が、クラシックからポップスまでこなすプロのシンガーなんですわ。そのシンガーが、小説のわりとはじめのほうで『メサイア』のソロを歌う。そしてその演奏のあまりの素晴らしさに、姉は袖をぬらすのです。読んだ当座はそんな歌手いるもんかと思いましたが、ラッセル・ワトソンみたいなのを想定すればよかったのですかね。ただし、ニールの好みはワトソンのようなのぢゃなく、ポール・エリオットみたいな、もっと澄んだ軽い声のテナーらしい。

ポール・エリオットはホグウッド盤の『メサイア』のテナーのソリストです。作者のニールは、ホグウッド盤を当時愛聴していてポール・エリオットのテナーソロを念頭におきつつ、あそこの件りを書いたに違いない。ニールの文章からわたしはそう確信しましたよ。『メサイア』歌いのテナーはあまたいますが、エリオットほどのメロウボイスはまたとない。ただし、声の美しさ、英語のディクションの端正さとひきかえのようにして、テクニックにおいてやや聞き劣りするのがエリオットの弱点なのですが…。

わたしはこの本のことを、広島にいたころ先輩から教えていただいた。『メサイア』が出てくる小説があるって。ヘンデリアンには、古本屋をあさって読んでいただきたいと思う。ジャネット・ニールが音楽好きだから必然的にそうなるのだろうが、この小説の中のイギリス人の、音楽に対する親近感は、わたしのような歌う人間にはとても好ましく映る。

二時間で死刑

2014年03月06日 | 『美しき人生』
「音信普通」という誤変換については、だいぶ前にここでも面白がってネタにしました。「音信普通」という字の並びのなんとも間の抜けた感じがいいのと、「音信不通」と「音信普通」とは、理窟から言うと真反対の意味になってしまう面白さ(深刻さ?)もあって、気に入ってる?誤変換の一つです。

無料動画GyaO!の『美しき人生』第46話の日本語字幕でこの「音信普通」が出ました。キョンス(イ・サンウ)の父が心臓発作で倒れ、その看病のためソウルに戻るキョンスに、テソプ(ソン・チャンウィ)がまめに連絡するよう釘を刺すシーンで、そのテソプのせりふの字幕に、「音信普通は2時間で死刑だからな」とありました。誤変換もさることながら、「死刑」てあんた…。

その前のシーンで、キョンスはテソプにむかって、「娘とは離れても暮らしていけるが、お前なしには生きていけない」とか言ってたのですよ。つまりキョンスはテソプにぞっこんなのである。しかしながらテソプは不安でいっぱいだ。ソウルにいるキョンスの両親はまだ(この時点では)二人の関係を認めていないし、別れたとはいえキョンスには美しい元妻と娘がいる。キョンスは、この前、元妻や娘と再会して半日を過ごし、そして二人を見送った後、娘に申し訳ないといって泥酔していた。加えてテソプには、「キョンスは魅力的だけど、自分は平凡」てコンプレックスもある。そんなこんなで、キョンスに対してつい束縛がきつくなるのでありましょう。

それにしてもキョンス&テソプは、実にまめにメールし合う。わたしに言わせりゃ驚くばかりです。とくにテソプは、四六時中、キョンスのことばかり考えてるように見える。なにせ、連絡がつかなくなったら「2時間で死刑」って言うほどですもの。でもこういうのってどうなのよ。今はまあ、キョンスの眼中にいるのはテソプだけなので痴話喧嘩で済んでいるけど。ふつう嫌われないか?

心に移りゆく/心に映りゆく

2014年03月05日 | 古典をぶらぶら
『徒然草』序段の「心にうつりゆくよしなし事を」のくだりですが、「うつりゆく」は、「移りゆく」?「映りゆく」?

きのう、わたしが自分で入力した岩波文庫『新訂徒然草』のテキストファイルから、この箇所をコピー、ペーストして、はじめてあれッと思いました。岩波文庫の本文は「心に移りゆくよしなし事を」となっていて、この部分の注に「心の中を移動してゆく、とりとめもないこと。」とある。これちょっとおかしくないですか? 「心の中を移動してゆく」ってどういうことだろう。すんなりとは意味が分からんです。

ジャパンナレッジ版『新編日本古典文学全集』の『徒然草』では、この箇所、本文「心にうつりゆくよしなし事を」としています。訳文では「心に浮んでは消えてゆく、とりとめもないことを」。そして「うつりゆく」の頭注には「映っては消えてゆく」とあります。

頭注に「映っては」というからには、古典全集においては、当該箇所を第一義的には「心に映りゆく」と捉えているんでしょうね。しかし「浮んでは消えてゆく」とか「映っては消えてゆく」とかの表現から臆測するに、古典全集も「移る」の意を完全には捨て去れずにいるのかもしれない。だからこそ本文では漢字を宛てずに「うつりゆく」と仮名書きにしたのではないか。

この箇所は高校でも教えていると思うけど、教科書ではどうなっているんだろう、とか、久保田淳さんが『國文學』に載せていた評釈ではどう書いてあったろうとか。そのほか、「心にうつる」という言い回しがほかではどういうふうに使われているか、とか、興味は尽きませんが、きょうはタネ蒔くだけで終わり。

心にうつりゆくよしなし事

2014年03月04日 | メモいろいろ
先週、検索で飛んできて、去年の十一月に書いた「「ビキニ」語源説」を読んでくださったかたが何人がいたんですが、できたらその次の日に書いた「「ビキニ」の話の続き」も併せて読んでおいてね。

このブログを毎日定期的に訪れてくださる常連さんはだいたい二十人から三十人くらいですかねえ。ありがたいけどお気の毒とも思います。たとえば古楽のCDの話を読みに来た人には、『徒然草』の話なんかどうでもいいだろうになあ、とは、つねづね考えているところである。しょせん、書き手であるわたしが百パーセント自分だけのために書き溜めているメモ帳のようなものと割り切っていただいて、読む気になったところだけ摘み食いしていただくほかはないのです。

しかしわたしが買い溜めたCDの記録も、むかしほどの筆の勢いはもうないですね。はい、分かっております。だって、あるていど偉そうな顔して書けるヘンデルのオラトリオや、パーセルの作品については、もうだいたい書いちゃったんだもの。ヘンデルもオペラはさほど楽しめないし、バッハやモーツァルトも好きは好きだけど、さほど前のめりな姿勢では聴いてこなかったのでつい筆が鈍るのである。実は、記録をとりはじめたもののまだ書き上げてないCD記録のテキストファイルが、まだCD百枚分以上もあるのだ。しかしもう、そのすべてを書き上げることはないでしょうね。これまでもそうだったですが、気が向いたものを気が向いたときにアップロードするばかりでしょう。コンソート・オブ・ミュージックのダウランドとか、気に入ってるにまだぜんぜん書いてないのもあるなあ。

よしなし事ついでに書いてしまうけど、『美しき人生』の無料配信版は、韓国での本放送そのままではなくて、著作権の問題から、一部省略されてる箇所があるようですね。テソプとキョンスが部屋に籠って『さらば、わが愛』のDVDを観るシーンとか、夜の砂浜でテソプがキョンスにラブソングを歌うシーンとか。本放送版にはあったようですが、GyaO!では、たしか、なかった。テソプ役のソン・チャンウィは、韓国ミュージカル界のスターなのだそうな。わたしも若いころ「優しそうですね」とさんざん言われてうんざりしたけど、ソン・チャンウィもほんと、優しそうな人です。

ガーディナー『バッハ_マタイ受難曲』

2014年03月03日 | CD バッハ
Bach
Matthäus-Passion
Rolfe Johnson, Schmidt, Bonney, Monoyios, von Otter, Chance, Crook, Bär, Hauptmann
The Monteverdi Choir
The London Oratory Junior Choir
The English Baroque Soloists
John Eliot Gardiner
POCA-2131/3

1988年録音。65分48秒/49分51秒/41分09秒。ARCHIV。このガーディナーの『マタイ』については、悪口を言う人の方が多いです。スタイリッシュにすぎて、感動が薄いと言われます。そう言いたくなる気持ちも分かる。でもわたしはこの演奏嫌いぢゃないんですよ。余計なものを排除し、バッハの音楽を、しっかりした演奏で聴き手の前にそのまま差し出して、あとは聴き手にゆだねるこのガーディナーの行き方は、あり、だと思う。とにかく手堅い、スキのない演奏だということはだれしも認めるでしょう。

福音史家はロルフジョンソンで、もちろんイギリス人ですが、わたしにはこの人のドイツ語のディクションの善し悪しは分かりません。聞いていて違和感はありません。柔らかめの発声で、奥行き感のある懐のふかい歌いぶり。わたしの好みとしてはも少し澄んだ響きが好きなのですけどね。何度か書いてきたようにこの人は本来古楽畑の人ではなく、ガーディナーとの仕事が多かったせいで結果的にいろいろな古楽の録音に携わることになった人ですが、この『マタイ』は、ロルフジョンソンの古楽における代表作、ということになるんぢゃないかと思います。(このテナーの、ボーンウィリアムズの歌曲集の録音は絶品です。)

ほかにソリストはシュミット、ベア、オッター、ボニー、チャンスと当時のスター歌手を集めていて、そりゃ豪華。さらにわたしはボニーの蔭に隠れたもうひとりのソプラノのアン・モノイオスが好きですねえ。線は細いけれど透明感のある声で、個性ある歌い手でした。アメリカの人で、リフキンの指揮でバッハを入れているほか、ヨーロッパではピノックの『パーセル_ダイオクリージャン』でも澄んだ声を聴かせています。

独唱者たち、合唱、オーケストラと、どれをとっても手抜かりのない密度の高い音楽を聴かせる。それで充分なんぢゃないでしょうか。

佐藤大介『オーディション社会 韓国』

2014年03月02日 | 本とか雑誌とか
佐藤大介『オーディション社会 韓国』(新潮新書)読了。でも読んだのはだいぶ前です。去年の夏、『シークレット・ガーデン』をNHKで見て、現代韓国事情について自分があまりにも無知なことを悟り、手ごろな本を物色したんですよ。あまり右がかってないものをね。この本は共同通信社のソウル特派員だった人が書いた本で、2011年6月発行。すでに日本と韓国との仲がこじれてから書かれた本ですが、実際読んでみると、上からでもなく下からでもなく、ありのままに、書き手が自分の目で見てきた韓国の現状を伝えようとしていると思いました。

でもタイトルの『オーディション社会』というのは成功していませんね。素直に「超競争社会」としたほうがよかったのではないか。じっさい腰巻きには、「就職のために整形/家計の半分が教育費/先進国1位の自殺率……/「超競争社会」はこんなにツライ!」とある。そんなツライ国に生まれなくてよかった、というのが、わたしの正直な感想でした。

『シークレット・ガーデン』の始めのほうの回で、キム・ジュウォン(ヒョンビン)が、キル・ライム(ハ・ジウォン)が借家住まいであることにひどく拘泥っている描写がありました。借家住まいの女を恋愛の対象にするなんてオレとしてはあり得ない、みたいな文脈だった。わたしはこれに腑に落ちない感があったのですが、第6章「お住まいはどちら?」で納得した。韓国においては、「上位二〇パーセントの高所得層が、韓国の土地の九〇・三パーセントを所有している」(p.170)そうですよ。ものすごい格差社会。ふつうのサラリーマンがマイホームを手に入れるのはたいへんなことらしい。キム・ジュウォンはもちろん「上位二〇パーセント」の中の人なので、金持ち君であるキム・ジュウォンにしてみれば、賃貸の女というのはそれだけでもう、恋愛対象から外れてしかるべき、取るに足らぬ存在なのですね。たしかにそれくらいイヤミな性格の男ではあった。

第7章「家庭崩壊と自殺大国」。そういえば高齢化率は韓国のほうが日本よりも深刻なんですもんね。わたしは『美しき人生』を、韓国ではまだこういう大家族のドラマが成立するんだ、と思って郷愁を感じていたわけですが、韓国にあってもヤン家のような大家族は今どきめづらしい。ソウルではダメで、舞台をチェジュ島にもってきたのも、チェジュ島ならまだなんとかなる、という意図もあったんだろうと思います。

乙鶴丸をめぐって

2014年03月01日 | 古典をぶらぶら
『徒然草』の、こないだ書いた「猫また」の次の段が第九十段です。「猫また」の第八十九段とは、「暗いせいで相手の正体が分からなかった」という点が同じで、つながっている。しかし、この段を高校までに学校で読んだという人はいないはず。男色の話だから。これは短い段なので、せっかくですから岩波文庫で全文を引きますよ。
大納言法印の召使ひし乙鶴丸、やすら殿といふ者を知りて、常に行き通ひしに、或時出でて帰り来たるを、法印、「いづくへ行きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿のがり罷りて候ふ」と言ふ。「そのやすら殿は、男か法師か」とまた問はれて、袖掻き合せて、「いかゞ候ふらん。頭をば見候はず」と答へ申しき。
などか、頭ばかりの見えざりけん。

いちおうこの話のキモは、大納言法印に「そのやすら殿というのは在俗の男か、法師か」と問われた乙鶴丸が「さあ。頭は見ておりません」て答えた、ってところでしょう。

気になるのは例の直接経験の助動詞「き」が使われていることですね。前段、「猫また」の第八十九段には「き」は使われていなかった。

この乙鶴丸の話を読んで、われわれは、今ひとつ食い足りない、なにか説明不足なような読後感をもつのではないでしょうか。それはやはり兼好の責任なのであって、大納言法印も乙鶴丸も、兼好にしてみれば直接の顔見知りだったせいで、「猫また」のときのような、ネタの客観視が足りなかったんだろうと思います。

この「乙鶴丸」「大納言法印」「やすら殿」というのはそれぞれ何者なのか。直近の研究動向については知らないんですが、まだ断定されてはいないと思いますよ。ただ「やすら殿」については、滋賀県に「安羅神社」というのがあり、また兵庫の出石には「安良」という地名があるそうで、漢字を宛てるとこのどちらかになるんでしょうかね。ちなみに岩波文庫『徒然草』の校注者は安良岡さんという方。