歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

マリナー『ヘンデル/メサイア』

2006年02月28日 | CD ヘンデル
Handel
Messiah
Ameling, Reynolds, Langridge, Howell
Academy of St. Martin-in-the Fields
Neville Marriner
POCL-3858/9 (444 824-2)

1976年録音。68分01秒/72分03秒。DECCA/LONDON。ホグウッド校訂版。「1743年3月23日ロンドン初演に基づく」とある。

ラングリッジ、ハウエルの二人がとてもいい。わたしが知っているすべての『メサイア』の男声ソリストの中で最もすぐれている。声は朗々として立派、テクニックも安定していて、安心して聴いていられる。アメリンクにも不満なし。レイノルズについては、今どきの古楽系アルトをあれこれ聴いたあとではやや違和感が残る。地声めいて聞こえるところがある。合唱は古楽的ではないけれどよくトレーニングされていておおむね快調だ。何人で歌っているのは分からないが。

いろんなナンバーで異稿を採用しているので、合唱団で『メサイア』を歌うことになった人が勉強用に聴く、などという用途には向かない。ふつう合唱で歌われる"Their sound is gone out into all lands"が、合唱曲ではなくテナーの独唱になっている。そのちょっと前の、通常ソプラノ・ソロが歌う"How beautiful are the feet"は、ソプラノとアルトのデュエットから合唱に引き継がれる版を採用している。Novello版の楽譜の付録に載っていたりするので、こういう異稿を楽譜として見たことのある人は少なくないと思うが、音になったのを聴くことはきわめて稀だ。演奏会で聴く機会はほとんどないだろう。

他の演奏だと、ソプラノ・ソロの出番が多くバスの曲が少ないと感じるが、この版は四人のソリストがほぼ平等に出てくる感じで、よい。

「平損」。

2006年02月27日 | 気になることば
『解釈』2004年5・6月号に、長沼英二さんというかたが『「平損」考』という論文を書いていた。「平損」は平安時代の漢字文献に出てくる語だそうである。『性霊集』『高野雑筆集』にある言葉だそうだが、古辞書にも見当たらず、現代の辞書にも立項されていない。長沼さんは『性霊集』『高野雑筆集』以外の「平損」の用例十九例を挙げてこの語が「病気が治る」の意味であることを帰納し、さらに、「損」という字が単独でも「病勢が衰える」意で使われていたと述べて、「平損」は「平癒」「平復」などからの類推でつくられた和製漢語だろうと結論づけている。

長沼さんというかたのことは全然知らないし、「平損」なんて日本語があったというのもはじめて知ったが、なにしろ知らないことばを教えてもらうのは嬉しいものである。「平損」をいつまで憶えているかはわからないけど。

ラジオ体操とフィギュアスケート。

2006年02月24日 | メモいろいろ
ゆうべは夜の一時前にふつうに寝たのだが、今朝はいつもより早く六時より前に目が覚め、いつものように枕もとの携帯ラジオをつけるとちょうど安藤さんがすべっているところだった。あまりにもタイミングがいいので録音かと思ったらナマだという。で、そのまま蒲団のなかでラジオを聴いていた。やがて荒川さんが完璧に滑り了えた。ところが、いよいよ荒川さんの点数が出る、という寸前で、六時半のラジオ体操に入ったのである。そして十分後、ラジオ体操が明けてトリノからの中継に戻った時には、次の、村主さんの演技も終わっていたのである。あらまっ。おそるべしラジオ体操。

そらまあなあ。村主さんの実況を放送するために今日だけラジオ体操の時間をずらす、とかいうわけにはいかなかったんだろう。日本中のラジオ体操の愛好者たちが、三百六十五日、六時半は体操、と思って待ち構えているんだろうから。しかし、仕事の都合やなんかでこの時間テレビを見てるわけにいかずラジオを聴いていた人たちはトホホな思いをしたはずである。荒川さんの得点発表も、村主さんの演技も、リアルタイムでは聞けなかったんだから。

今朝、日本中の早朝体操会の人たちは、安藤さんの滑りをたぶんテレビで見た後に、体操するために近くの公園かどっかに大急ぎで走っていって、ラジオに聴き入っていたことであろう。で、荒川さんがとても上手にすべったのを聴いてからウキウキして体操して、そのままラジオをつけっぱなしにしていたら、その十分間の間に村主さんが終わってしまっていた。彼らも、なんとなく、気まづかったのではなかろうか。

カウンターテナーの御三家(20世紀版)。

2006年02月23日 | 音楽について
HMFの「三大カウンターテナー」はパスカル・ベルタン、アンドレアス・ショル、ドミニク・ビスだそうだが、ここでわたしなりに、カウンターテナー御三家を考えておこうかと思う。(パスカル・ベルタンという人は最近BCJのカンタータ全集に出るようになったらしい。わたしはミンコウスキの『ジューリオ・チェーザレ』でニレーノを歌っているのを聴いただけである。)

二十世紀最後の四半世紀における古楽復興を担ってきた大物御三家としては、エスウッド、ボウマン、ヤーコプスということになるのではないだろうか。ヤーコプスはもう歌いそうにないし、さすがのボウマンもそろそろ終わりだろうし、エスウッドにいたってはとっくに一線を退いている気配だが、しかしこの三人の仕事は、質量ともに他を圧している。

ポール・エスウッドはわたしが最初に好きになったカウンターテナーだ。この人の歌の品格の高さはちょっと比類がない。プロ・カンツィオーネ・アンティカでボウマンとともに活躍しつつ、例のテルデックのバッハ・カンタータ全集に参加しておもにアーノンクールの指揮でバッハを歌い、かつヘンデルのオラトリオも録音した。ヘンデルのオラトリオでは高潔な若い戦士がアルトに振り当てられることが多いが、この人で聴くと、声と役柄とがまさにぴったりの相性で聞こえるのだ。

大陸に渡ったエスウッドと違い、ボウマンはイギリス国内にとどまった。そのおかげでこの人はイギリスの古楽のほとんどのリーダーたちと仕事する機会に恵まれた。マンロウ、ガーディナー、ホグウッド、ピノック、パロット、キングなど。たとえばホグウッドの『アタリア』やキングの『ヨシュア』ではカークビーと恋人同士だったり夫婦だったりで共演しているのだが、わたしとしてはこれがボウマンではなくてエスウッドだったらもっといいだろうに、とつい思ってしまう。この人の声はなんかこう、ぬめぬめした不気味な感じがあって、わたしは苦手である。

ヤーコプスについてはそんなに多くのことは知らない。エスウッドとともにテルデックのバッハに参加して、おもにレオンハルトの指揮で歌っていたと思う。いまやHMFを代表するアーティストの一人だけれど、そういえばこの人の歌手としての初期の代表盤の一つである『ペルゴレージ/スターバト・マーテル』もHMFだった。この人の声もかなり個性的で、わたしはあんまり好きではない。ドミニク・ビスはその異能ぶりでヤーコプスの直系だろう。

旧御三家の話だけで長くなってしまった。新御三家、でも御三卿、でもいいのだが、若手では、ショル、アサワ、ジャルスキ、といったところでどうだろう?

ヘレベッヘ『ラッスス/エレミアの哀歌』

2006年02月21日 | CD 中世・ルネサンス
Lassus
Hieremiae Prophetae Lamentationes
Ensemble Vocal Européen de la CHAPELLE ROYALE
Philippe Herreweghe
HMC901299

1989年録音。74分20秒。HMF。ラッススの『エレミアの哀歌』。別にとりあげたプロ-カンツィオーネ-アンティカの2枚組のうちの1枚目とまったく同じ内容。しばらく放っておいたのですが、これも悪くない。というかこちらのほうが今風ですねやっぱり。プロカンのはしっかり骨太で、ベテランの風格で歌い通していますが、このヘレベッヘ指揮のはプロカンにくらべると若々しくさわやか。人気投票をしたら、圧倒的にヘレベヘに票がいくと思います。

徹頭徹尾、なめらかに仕上げてある。わたしがじぶんで歌うわけではなくて聴くだけの側の人間であったら、手もなくヘレベッヘのほうを選ぶと思います。ただ、プロカンのと聴き較べたとき、歌い手として「ああ自分もこんな演奏がしたいな」と思うのはヘレベッヘではなくてプロカンのほうなのですね。ヘレベッヘのこの演奏はあまりに優美で、演奏者としてはとても手が届かない。自分がこんな演奏をするようになるシチュエーションを想像できない。プロカンのはもちろんプロフェッショナルな高水準な演奏ではあるのですが、こういう音楽の作り方ならある程度は自分にもアプローチできる、と思わせてくれる親しみやすさがある。

気が向いたので、歌い手の名前を書き写してみます。

Dominique Verkinderen, Maria-Cristina Kiehr, Gundula Anders, sopranos
Vincent Darras, Betty van den Berghe, Kaï Wessel, altos
Angus Smith, Simon Davies, Gert Türk, Hervé Lamy, ténors
Renaud Machart, Peter Kooy, Stephan Schreckenberger, basses

キールが歌ってる、とか言って喜ぶ人もいますが、それよりも、アンサンブルの名前に「ヨーロッパ」というのが入っているだけあって、英仏独蘭白(白は下記参照)あたりから幅広く歌手が参加していることのほうがより注目される。モンテベルディ合唱団、タリス-スコラーズ、レザール-フロリサン、アンサンブル-クレマン-ジャヌカン、コンチェルト-ボカーレなどのアンサンブルで歌っている人たちを集めて、ヨーロッパの古楽演奏の精髄を聴かせようというヘレベッヘの意欲を感じる。

漢字で書くとベルギーは「白耳義」だというのを、さっき調べて、はじめて知りました。ためしに「日白」で検索すると、外務省サイト内、平成16年7月付の「ベルギー経済と日白経済関係」というページがまづヒットする。まあこれは前後の文脈で推測がつくけど、いま、いきなり「日白関係」とか言われても何のことか分かりませんよねえ。

『クラシック・ウィリアムス/ロマンス・オブ・ザ・ギター』

2006年02月16日 | CD 古典派以後
CLASSIC WILLIAMS
ROMANCE OF THE GUITAR
John Williams
SRCR 2535

1983~99年録音。75分06秒。SONY。ギタリスト・ジョン-ウィリアムスのベスト盤。定番中の定番「禁じられた遊び」の「ロマンス」からはじまり、フォーレの「パバーヌ」にいき、現在活躍中のギタリスト・アンドリュー-ヨークが書いた「サンバースト」に飛ぶ。バッハもあればバリオスもある。「コンドルは飛んでいく」は洒落た編曲で聴かせる。最後は他の楽器とのセッションが2曲。ビバルディの室内楽曲の第3楽章と、そして「アランフェス協奏曲」の第2楽章で閉じられる。

クラシックギターをはじめて聴く人にも薦められるし(ただ最初の一枚にしては凝りすぎているかもしれない)、そうとう聴き込んでいる人にもあらためてウィリアムスの才能を再認識させるにたるCDだ。イエペスの『ムジカ・カタロニア』を聴いた後でこのウィリアムスを聴いたのだが、イエペスのニュアンスに欠ける堅い演奏と較べると、ウィリアムスという人は何を弾いても歌ごころが豊かで実に聴かせ上手だ。

そして、ギターという楽器の小回りのよさを改めて感じた。大げさなことはできないが、バロックにも向いているし、クラシックとポップスの間をいくような現代物では楽器の魅力を最大限に発揮する。まあ今更言うまでもないことだけれど。

わたしはこのCDではじめてスカルラッティのソナタを聴いた。チェンバロやピアノで弾かれたスカルラッティはまだ知らない。だから偉そうなことは言えないが、スカルラッティとギターはとても相性がいいと思う。

ガーディナー『ヘンデル/シオンの道は悲しみ』

2006年02月14日 | CD ヘンデル
Handel
The Ways of Zion Do Mourn
Burrowes・Brett・Hill・Varcoe
Monteverdi Choir & Orchestra
John Eliot Gardiner
4509-96954-2

1978年1月の録音。43分51秒。ERATO。まだモダン楽器を使っていたころのガーディナーのヘンデル。『シオンの道は悲しみ』はいい曲なのに録音は少ない。ガーディナーの解釈には説得力があり、音はやや古いが、今なお存在価値のある録音だ。実はまさにこの年、78年、ガーディナーはモダンから時代楽器に移行する。移行直前の録音ということになる。この指揮者の足跡をたどる上でもこの録音は興味深い。

アンセム『シオンの道は悲しみ』はジョージ二世のお妃キャロラインの葬送音楽で、お弔いのための曲は、確かこれしかヘンデルは書いてないんぢゃないかと思う。序曲は重々しくはじまり、充実した音楽が続いていく。しかしお葬式の曲を書いても陰気になりきれないところがヘンデルである。たとえばトラック10の'but their name liveth evermore'という歌詞がホモフォニックに明るく繰り返されていくあたり、いかにもヘンデルらしい。重唱曲が何曲かあるが独唱曲はない。こういう構成はヘンデルとしてはめづらしい。

たしかにモダン楽器のオケの音は後年の時代楽器のものとははっきり違うし、録音のせいもあって、合唱もすみずみまでクリアとは言いがたい。わたしも当初少なからず違和感があったのだが、最近ではもうさほど気にならなくなってしまった。少なくとも、モダン楽器のバロックに往々にしてみられるヌメヌメしたいやらしさは感じない。合唱も、たとえばコルボのモンテベルディみたいなモヤモヤした感じではない。現在の古楽の合唱の演奏および録音の水準からすると多少聴きおとりがする、という程度である。

ソリストはバロウズ、ブレット、ヒル、バーコーで、ガーディナー盤の、またイギリスの古楽の常連ぱかりだから何の問題もない。そういえばヒルはこのころコンソート・オブ・ミュージックでダウランドも録音していたのではないか。

この録音、今は、旧テルデックの、アーノンクールのヘンデルとカップリングされて出ている。しかしアーノンクールのは時代楽器だし、ガーディナーとアーノンクールとではまったく芸風も違う。無理なカップリングではないかと思う。なお、このガーディナーの『シオンの道は悲しみ』は、前後して録音された『エジプトのイスラエル人』とのカップリングで2CDでも出ていた。実はそちらも持っているのだが、『エジプトのイスラエル人』については後日。

PCA『ラッスス/聖週間の音楽・4声のレクイエム』

2006年02月09日 | CD 中世・ルネサンス
Lassus
MUSIC FOR HOLY WEEK and Easter Sunday
REQUIEM in four parts
Pro Cantione Antiqua
Bruno Turner (Lamentetions and Easter Music)
Mark Brown (Requiem)
CDD22012

2CD。1981年録音。64分21秒/65分59秒。Hypeion。CD1は木曜日、金曜日、土曜日それぞれ3曲づつのエレミアの哀歌。CD2は復活祭のためのモテット5曲と、4声のレクイエム。いまはハイペリオンからRegisにレーベルが移って、CD1枚ごとに分かれて出ているようです。メンバーは、ブレット、ペンローズ、グリフェット、パートリッジ、ジョージなどで、レクイエム以外の曲にはソプラノが加わる。女声が入ったプロ・カンツィオーネ・アンティカは初めて聴きました。

このCDのプロカンはいいですよ。ざっくりとしたアナログな雰囲気を残しながら、アンサンブルはじゅうぶん練られている。ああこういう演奏をしたいなあと思わせられる。当時すでにバロックのソリストとしても活躍していたイアン・パートリッジにしろ、特別参加の女声陣(ややハスキー)にしろ、ノン・ビブラートではなくほのかにビブラートのかかる感じ。しかしけっして嫌みではなく、むしろ自然で、よい意味で大らかな雰囲気を醸し出しています。

わたしは、CD1の《Three Lamentations for Maunday Thursday》を歌ったことがあって、その同じパート(Tenor2)を歌っているパートリッジの声が特によく聞こえてくるんですが、この手の曲を完全に手中にしているベテランが気持ちよく歌っているという気配がただよいます。

プロカンが、80年代に入ってからも、ヒリヤード・アンサンブルやタリス・スコラーズに代表されるデジタルっぽい緻密さとは一線を画しつつ、このように優れた演奏を聴かせてくれていたことは感慨深い。プロカンというと、70年代の、もわーんとした音のアルヒーフ録音をつい連想してしまいますが、あれとはぜんぜん違う。ただしCD2のはじめのほう、復活祭のモテットは、アンサンブルの精度の点で、他の曲、エレミアの哀歌やレクイエムよりもやや劣る。

プロ・カンツィオーネ・アンティカが80年代に入ってもまだ録音活動を続けていたというのをわたしは知りませんでした。しかし80年代どころか、1994年には、あのボウマンやブレット、ジョージも参加して、ハイペリオンにパレストリーナの『ソロモンの雅歌』を録音していたんですよ。驚きました。

紀子さま御懐妊。

2006年02月07日 | メモいろいろ
紀子さま御懐妊、だそうで、これでますます、皇室典範に手を入れるという問題は先行き不透明になりそうですな。

宮家は今いくつあるのか知らないけれど、一つや二つぢゃないでしょう。無理して減らすことも増やすこともない。皇室を離脱した旧宮家を今さら復活させるという話にはならないだろう。女帝も女系もあっていい。それが現代においては自然というものでしょう。

男の子が何人か生まれたら、継がなかった子は宮家を立てて、そして何代かしたら昔の臣籍降下みたいに皇室を離脱する、という仕組みが自然なんぢゃないでしょうか。女の子が結婚しないで独身をとおす、ということだって、あっていいのである。去年の御結婚のとき、多くの人が同じように思ったと思いますが、皇室の女の子が、結婚した途端に「さま」から「さん」になる、というのも不自然な話で、結婚しようがしまいが、御本人については男女を問わず亡くなるまで皇族のままで「さま」でとおしたほうがいいと思う。もちろん結婚した相手の人は、「ただびと」のままにして。

ドラホシュほか『ビバルディ/忠実な羊飼い』

2006年02月03日 | CD バロック
Vivaldi
Il Pastor Fido
Sonatas for Flute and Basso Continuo Op.13, Nos.1-6
Béla Drahos・Pál Kelemen・Zsuzsa Pertis
8.550648

1991年録音。64分01秒。NAXOS。いいですよこれ。曲は親しみやすいですが、ピンと気の張ったみずみずしい演奏。モダン楽器のバロックも捨てたもんぢゃないです。

なにしろ『バロック音楽の楽しみ』のリスナーだったのでぜひともこの曲のCDはほしかったのですが買いそびれてました。できたら時代楽器でと思っていて、しかし時代楽器の演奏がなかなか手に入らなかった。そうこうするうちにモダン楽器のバロックも聴くようになって選択肢が拡がり、最終的にラリュー&ラクロワか、このナクソスかに絞り、試聴の結果、ナクソスにしました。

演奏者は3人で、ベラ・ドラホシュのフルート、パール・ケレメンのチェロ(CDにはViolaと書いてあるが、いわゆるビオラではない。ビオラ・ダ・ガンバ?)、ジュジャ・ペルティシュのチェンバロ。ドラホシュという人の名前も演奏もはじめてききましたが、力のある人だ。ハンガリーという国は音楽大国だとあらためて思います。

『バロック音楽の楽しみ』のテーマ曲に使われていた第2番の第1曲は、当時使われていたランパルとほぼ同じようなテンポで悠々と進められています。装飾音符の挿入も巧みで、プレイヤーのバロックに関する解釈の確かさを感じさせる。

『忠実な羊飼い』は実はビバルディの作ではないのだそうだけど、まあ、伝ビバルディってことで、わたしは気にしません。

フルートというのは、ピリオドとモダンとで音色の差が特にいちじるしい楽器だと思うんですが、ほんとのこと言って、わたしはフルートに関してはモダンの音のほうが好きです。安心して美音にうっとりしていられる。