歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

『ヘンデル・オペラの栄光』

2006年07月31日 | CD ヘンデル
The Glories of Handel Opera
Kirkby, Sutherland, Tebaldi, Berganza, Horne, Bowman, Pavarotti, Nafé, Mingardo, Robinson, Greevy, Evans
289 458 249-2

1960-95年録音。77分07秒。DECCA。デッカの録音のなかからヘンデル・オペラのアリアのさわりを集めたカタログのようなCD。いちばん新しいのはルセ指揮『リッカルド・プリモ』のサラ・ミンガルドのアリアですが、大半は60年代から70年代初めごろの古い録音からとられています。

往年の歌手の中ではテレサ・ベルガンサが好きで、たとえば『イタリア古典歌曲集』はベルガンサのを愛聴しています。それでベルガンサの歌うヘンデルを聴きたかったのだ。しかしベルガンサのヘンデル録音も古いものばかりで、いきなり40年も前のオペラ全曲録音を買う気にもなれなかった。ところにこのCDが出て、ベルガンサが2曲歌っていたので、ためしに聴いてみることにしました。

デジタル録音のミンガルドもいいんですが、むしろ古い録音のほうが面白い。ベルガンサはもちろんいいけど、マリリン・ホーンやサザランドの60年代の録音がこれほど新鮮に聴けるとは思わなかった。サザランドでは特にトラック17の"Da tempeste il legno infranto"(『ジューリオ・チェーザレ』のクレオパトラのアリア)がテクニックも万全で感心させられる。パバロッティも1曲アリアを歌っている。この人のヘンデルというのはかなり珍しいと思いますが、ちゃんと行儀よく歌っていてほほ笑ましい。

ふだんヘンデルは古楽器でしか聴かないという人もいちど聴いてみるといい。古い録音だからといってバカにしたものではありませんよ。

egword universalとATOK2006。

2006年07月30日 | MacとPC
注文していたegword universalとATOK2006が、週末の休み前にたて続けに届いた。しばらくは世間の評判をうかがって、様子を見てからインストールしようと思っていたのだが、ことにegwordの仕上りぐあいが気になって、そうなるともう、まとめて入れちゃえと思いを決め、いっきに両方ともインストールしてしまった。

egword universalは、以前の大文字のEGWORDとはまったく別ソフトと思ったほうがいい。それくらいさま変わりした。わたしのような旧バージョンからの移行ユーザーはしばらくのあいだ戸惑うことになりそうだ。しかしほとんどすべての動作においてストレスを感じさせず軽快に反応してくれるこの心地よさは特筆に値する。以前のバージョンでわたしがずっと不満を感じていたルビの不細工さも解消されて、実際に使えるものになっている。当分は、インターフェイスをあちこちつっつきながら、新バージョンにからだを慣らしていくことになりそうだ。

わたしはMacを使うようになってからワープロはずっとEGWORDだったので、EGWORDを買うと自動的にくっついてくるEGBRIDGEもずっと使い続けてはきたのである。EGBRIDGEも今回、小文字のegbridge universalということになって、まあ何しろインストールしてまだ日がないので詳しいことは書けないが、またいろいろと使い勝手がよくなったような気配である。

とはいえ日本語入力ソフトに関してはどうしてもATOKを手放せない。egbridgeで満足できれば経済的にも助かるんだけどなあと思いつつ、今回もやはり、ATOKも買ってしまった。

わたしは日常的に「ぢ」「づ」を使って文章を書いたり、たまに旧カナで古い文章を打ちこむ作業をしたりするのだが、そういうときに、ATOKだと余計な手間をかけられることなくスムーズに対応してくれるのである。この点でegbridgeは融通が利かない。たとえば「融通」という言葉を出すのに、ATOKだと「ゆうづう」でOKだが、egbridgeでは「ゆうずう」と打たなければならない。egbridgeで「ゆうづう」と打つと「湯宇都得」と変換されてしまうのである。まあこれだって単語登録してしまえばいいわけだが、わたしのわがままにデフォルトで対応してくれるATOKの居心地のよさは、やはり大きな魅力なのだ。

ATOKは、前バージョン(ATOK2005)で、決して打鍵の速くないわたしにもそれと分かるくらい、明らかにスピードアップした。それがまた遅くなっているといやだなと思ったのだが、今のところ、とくに反応が遅くなったとは感じない。egbridgeにときどき浮気をしながら、メインに使うのはATOK、という状態がしばらくは続きそうだ。egbridge universalはえんぴつアイコンが復活しているのがうれしい。前バージョンの、□の中に「あ」がはいっているアイコンはATOKと紛らわしかった。

「是や─これや─こりゃ」。

2006年07月28日 | 気になることば
いま手軽に手にはいる文庫本では、漱石の小説の本文がどういうふうに表記されているか、ということにこのところ関心を持っていて、おもに新潮文庫とちくま文庫の夏目漱石全集とで、ときたま比較してみているわけです。でも今日は、古本で買ったまま本棚の奥にしまいっぱなしの新書判の漱石全集を引っ張り出して、まづこれから見てみることにします。ネタは『吾輩は猫である』十一、水島寒月が郷里ではじめて自分のバイオリンを手に入れたときの、ながい話の一節。それでは新書判『漱石全集 第二巻 吾輩は猫である 下』から。ただし漢字は新字体で。

 「丁度十一月の天長節の前の晩でした。国のものは揃つて泊りがけに温泉に行きましたから、一人も居ません。私は病気だと云つて、其日は学校も休んで寐て居ました。今晩こそ一つ出て行つて兼て望みのワ゛イオリンを手に入れ様と、床の中で其事ばかり考へて居ました」
 「偽病をつかつて学校迄休んだのかい」
 「全くさうです」
 「成程少し天才だね、是や」と迷亭君も少々恐れ入つた様子である。

「偽病」は「けびやう」とルビ。表記上の注目点は「ワ゛イオリン」と「是や」。つぎに新潮文庫『吾輩は猫である』の同一箇所を見てください。

「丁度十一月の天長節の前の晩でした。国のものは揃って泊りがけに温泉に行きましたから、一人も居ません。私は病気だと云って、その日は学校も休んで寐ていました。今晩こそ一つ出て行って兼て望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」
「偽病をつかって学校まで休んだのかい」
「全くそうです」
「成程少し天才だね、これや」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。

いろいろ面白い。新書判全集の「是や」が、新潮では「これや」で、つまり「是」をかなに開いただけの処理ですね。新潮は「コレヤ」と発音するものと解釈してるんでしょうか? それから、「ワ゛イオリン」と「ヴァイオリン」ぢゃ、文字づらからうける印象がかなりちがいます。

最後にちくま文庫『夏目漱石全集1』。

「ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。国のものは揃って泊りがけに温泉に行きましたから、一人もいません。私は病気だと云って、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行って兼て望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」
「偽病をつかって学校まで休んだのかい」
「全くそうです」
「なるほど少し天才だね、こりゃ」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。

「是や」が「こりゃ」になっている。新潮の「これや」とみっつ並べてみると、旧カナで書かれた文章を新カナに書き直すのってめんどくさい作業だなあとしみじみ思いますね。ここはちくまのように「こりゃ」とすべきかなあ。しかしそれはそれとして、ちくま文庫は漢字をひらがなに開きすぎです。

セルシェル『ギター名曲集』

2006年07月27日 | CD 古典派以後
Famous Guitar Pieces
Göran Söllscher
UCCG-9356

1982年録音。47分16秒。Deutsche Grammophon。今となってはかなり少なめの収録時間。ルネサンスのリュートのための曲から、ヴァイス、バッハを経てソルの変奏曲までかなり多彩なプログラム。こういう感じで、60分くらい録れてくれていたら文句なしだった。

セルシェルをこのCDではじめて知った。どういう経緯で買う気になったのかもう憶えていないが、なにしろ1200円の廉価盤だったのだ。安くで出ていなかったら買わなかったと思う。

このギタリストはとにかく音がきれい。プログラムはじめのほうのルネサンス物はどれも甘く澄んだ音色でうっとりさせられる。トラック7からトラック9まで、ミケランジェロ・ガリレイという人(b.1575)の短い曲が入っているが、この人はビンチェンツォ・ガリレイという作曲家・理論家の息子で、ガリレオの弟だそうである。ガリレオ・ガリレイの父親も弟も作曲家だったなんて知らなかった。

トラック10のヴァイスに入った途端に雰囲気がガラッと変わる。やはりヴァイスの音楽の丈の高さであり、その丈の高さを表現するセルシェルの腕の確かさだろう。トラック11の"Ciacona"は有名曲。セルシェルもいいのだが、この曲はどうしても原典版のリュートで聴いてみたくなって、後にモレーノの演奏を買った。

『三四郎』の冒頭。

2006年07月26日 | 気になることば
ちくま文庫の夏目漱石全集には「本書は原文を現代かなづかいに改め、原文の表現をそこなわない範囲で漢字をかなに改めた。また、難解な語句には小口注を付した。(編集部)」とある。『三四郎』の冒頭はこうなっている。

「うとうとして眼が覚めると女はいつの間にか、隣の爺さんと話を始めている。この爺さんはたしかに前の前の駅から乗った田舎者である。発車間際に頓狂な声を出して、馳け込んで来て、いきなり肌を抜いだと思ったら背中にお灸の痕がいっぱいあったので、三四郎の記憶に残っている。爺さんが汗を拭いて、肌を入れて、女の隣に腰を懸けたまでよく注意して見ていたくらいである。」

同じところ、新潮文庫の『三四郎』ではこうなっている。

「うとうとして眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている。この爺さんは慥かに前の前の駅から乗った田舎者である。発車間際に頓狂な声を出して、馳け込んで来て、いきなり肌を抜いだと思ったら脊中にお灸の痕が一杯あったので、三四郎の記憶に残っている。爺さんが汗を拭いて、肌を入れて、女の隣に腰を懸けたまでよく注意して見ていた位である。」

「いつの間にか/何時の間にか」「たしかに/慥かに」「背中に/脊中に」「いっぱい/一杯」「くらい/位」。

トゥキュディデス。

2006年07月25日 | 気になることば
さりげなく再開いたします。

桜井万里子さんという人の『ヘロドトスとトゥキュディデス』という本が山川出版社から出たそうである。読売のサイトに紹介(書評?)が出ていた。それにしても「トゥキュディデス」か…。舌を噛みそう。というか、わたし、ちゃんと発音できかねますよこんなカタカナ。むかし「ツキジデス」といわれていた人のことだと思う。この名前については丸谷才一もどこかで書いていた。西洋史の人たちは、いちいち、りちぎに「トゥキュディデス」と発音しているんだろうか。