歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

夏休みの宿題

2011年08月31日 | メモいろいろ
いまはもう8月31日といっても、夏休み最後の日、ぢゃない子が東日本に限らず全国的にいるのですね。わたしなんかはやはり、夏休みは8/31まで、成人の日は1/15、ってほうがしっくりくるんですがねえ。二十四節気、と同じようなもんで、日本人の生活サイクルの区切りの日でしょう。その区切りの日がきょうびのようにあやふやになっちゃうのは居心地が悪いです。

まあとにもかくにも多くの子にとっては夏休み最後の日、ってことで、いつものようにぼんやりしておりましたらね、ああそう言えば大学でも夏休みの宿題てあったなあ、と思い出したのですよ。今はどうなっているのか知りませんが、私が大学生だったころ、東千田では前期の期末が9月の末ごろでして、途中に60日の夏休みが入りました。宿題なんか出すのは今にして思えば、律義な先生ですわ。わたしが憶えているのは、米谷先生の近世文学史?の授業で、自分の地元出身の文人の著作について書け、って課題が出ました。夏休み前の最後の授業で、米谷先生がお作りになった、近世の文人を各国ごとに一覧したプリントが配られたことも憶えております。

あの宿題が出たのはたしかまだ2年生のときで、地元長崎の近世文学なんてなんにも知らなくて、プリントに載っていたなかで唯一なんとなく聞いたことがある「向井去来」でわたしはレポートを書きました。いちおう、帰省して立山の県立図書館とかへも行きましたけどね。なにしろわたし俳諧ってほとんど興味なかったのですよ。何を書いたか憶えてもないけど、さぞかしいい加減なレポートだったでしょ。去来に関するわたしの知識は、恥ずかしながら四半世紀後の今日でも当時とほとんど変わりません。

丸谷才一『袖のボタン』

2011年08月30日 | 本とか雑誌とか
丸谷才一『袖のボタン』(朝日文庫)読了。短編のエッセイ36編を収める。新聞連載だそうですが、ちょっとどうでしょうか。新聞の紙面の限られたスペースにそれぞれの文章を押しこむことにきゅうきゅうとしていて、あるいは調子が出る前に枚数が尽きちゃう感じで、闊達な気配がぜんぜんないのね。無理している。口調も『オール讀物』の時とは違ってあいそがないし。年寄りに無理をさせたらいけないと思う。

丸谷さんが大好きな歌舞伎役者は勘三郎と海老蔵で、これは前から分かっていましたが、このふたりに次いで、仁左衛門と吉右衛門が御贔屓らしい。(女形については分からない。やはり玉三郎か。)それから、モーツァルトで1曲えらべ、と言われたら『クラリネット五重奏曲』だそうだ。まあそういう、ファンにとっては「へー」と声が上がるような情報はちらちら出てきますが、大したことはないですよ。

伊東祐子さん(この方、もしかして「すけこ」さんてお読みするのかしらん?)て研究者が、『源氏物語』の匂宮と薫は、愛人の浮舟に向かって話をする時に引き歌を用いていない、ってことを発見なさったよし。浮舟は田舎者なので、ふたりから見下されているのだ。丸谷さんも喜んでいるが、こういう話はわたしも好きだなあ。

「モノノアハレ」と題された一編。いきなり「秋が深む。」と丸谷さんは書きはじめているのだが、この「深む」は微妙ぢゃないかねえ。たしかに『日国』第二版を見ると、「(秋が)深まる。」のつもりで「深む」という例もないではないらしい。マ行五段動詞で、木山捷平「秋がだんだん深んで行った」(1933年)という例が上がっている。活用は、深まナイ、深んデ、深む、深むトキ、深めバ、深め、深もウ、ですか…。この「深む」は俳句では今も使われるらしい。なるほどね。しかし、うーむ、少なくともわたしは、ふつうの散文の文章ではたぶん死ぬまで使わないなあ。丸谷さんは和歌の「秋深み」なんて言い方に慣れているから、それでつい「秋が深む」なんて書いちゃったんぢゃないのかなあ。

整備済製品

2011年08月29日 | MacとPC
諸般の事情によりまして、この夏、勤め先で使っているパソコンをMacBookからMacBook Proに更新することになりました。でもLionは出たばかりでしょ。べつに今回のLionに限らず、出たてのOSには近づくな、というのがわが家の家訓なんですわ。つまり、最初からLionが入っていて、Snow Leopard環境で起動できないような機械では困るんです。そこですかさず、ネットのアップルストア内の「整備済製品」をウォッチングいたしました。そして望みどおり、Snow Leopardで起動できるMacBook Proの13インチのをつかまえることができました。それが、7月の末のことですよ。

手続きをして、もう、すぐ届きました。セコハンですから箱がくたびれているのは仕方ないけれど、中身はちゃんとしたもんです。ただ、蓋を閉じた上面に、ごく軽小なカスリ傷みたいのがありましたが、その程度。まあ、自用パソコンの処女性をあくまで重視なさる方にはもちろんお薦めしませんけどね。しょせん仕事で使い倒そうと思ってるわたしみたいな人間にとっては、新品並みの品質で、多少安く買えて、なおかつ安定したOSが入ってる、ってんですから、とくに今回の買い物はわたしにしては上出来だったと思っています。

整備済製品を買うのもタイミングが大事ですな。もう、この8月の末ですと、整備済製品のMacBook Proの出物があっても、すでにSnow LeopardではなくてLionプリインストール機だったりするらしい。

しかし8月は、ちょっと大事な仕事が入っていたりお盆休みもあったりして、MacBookからMacBook Proへの中身の引っ越しは先週になりました。今回もTime Machineからの復元を使ったのでラクチンでした。サードパーティ製のソフトをいちいちDVDなりCDなりからインストールしないですむのもさることながら、LANにつなげるための、あのわけ分からん数字の設定そのほか、いろんな設定を全部自動で引き継いでくれるのが何よりありがたい。Time Machineから一切がっさい復元するのに、時間にしてまあ1時間くらいのもんでしたかねえ。時間も短縮できますが、精神的な負担が以前とはぐっと違いますわ。

庄野潤三『夕べの雲』

2011年08月26日 | 本とか雑誌とか
庄野潤三『夕べの雲』(講談社文芸文庫)読了。庄野潤三は、新潮文庫の初期短編集くらいしか読んだことがなくて、あまりピンと来なかったんですが、この『夕べの雲』はいいですねえ。生田の高台の家に越してきた一家の物語、というか、日々の穏やかな生活の記録。昭和39年(1964)9月から昭和40年(1965)1月まで、日本経済新聞夕刊に連載。小津に通じる、昭和30年代の端正な空気感をただよわせる。

もちろんこの時期、いいことばかりぢゃ無かった。『夕べの雲』のなかにも山が削られてしまう話が出て来るけれど、高度成長のひずみとか、やがて公害につながっていく環境汚染とか、経済成長から取り残される人たちの問題とか、いろいろあったはずなんだよね。だからわたしも手放しで昭和30年代の幻にうっとりするつもりはないんだけど、にもかかわらず、たとえばこの『夕べの雲』の、腰のすわった確かな意思の表現には圧倒される。

昭和41年(1966)12月には、須賀敦子訳でミラノの出版社からイタリア語版が出ているそうです。須賀さん、惚れこんだんでしょうなあ。須賀さんのほかにも庄野潤三の本が好きって声はおりおり耳にする。わたしにとって庄野潤三というと「プールサイド小景」だったので、この人の本が平成になってからも売れつづけているのはちょっとした謎だったんですが、ああこういう路線なら、わたしも納得です。

小説家たち

2011年08月21日 | 本とか雑誌とか
「よく晴れた夏の一日には、日が傾いて赤い夕焼けがはじまる直前、外の空気がひととき金色に輝いて見えることがある。鋭い西陽と、深紅の夕陽との合間に、外の景色も人も車もすべて金色の光の紗でつつまれてしまったように見える時刻が訪れる。」(佐藤正午「小説家の四季」、『ありのすさび』p.139)

佐藤正午さんのエッセイ集『ありのすさび』(光文社文庫)を読んでいます。佐世保のこの人の本を読むのは、実はまだ2冊目。それで今まで知らなかったんですが、この人は人気作家なのですね。小説を途切れなく書きつづけていて、どの本もそこそこ売れているらしい。これはすごいことだと思うよ。

わたしが買った佐藤正午1冊目は岩波新書の『小説の読み書き』で、これは、年間購読している『図書』に連載が載っていて、それが連載終了後にまとめられたものでした。『小説の読み書き』から勝手に想像していたのは貧相な醜男だったのに、『ありのすさび』カバーの内側に写っている佐藤さんの写真は、まあおっさんではあるけれどべつに貧相でも醜男でもなく、意外なほどの好中年、でした。

長崎には青来有一、吉田修一あり。でも佐世保にだって、佐藤正午がいて、そしてこれもわたしは読んだことないんですが村上龍もいた。村上龍や吉田修一は長崎県を出ていったけど、佐藤正午と青来有一は県在住である。地方の県で、現役の作家がこれだけしっかりがんばっているところもめづらしいんぢゃないですかね。

「城の古址」・教会・春徳寺

2011年08月20日 | メモいろいろ
鳴滝の入り口のところにある春徳寺さんは臨済宗のお寺ですが、あそこはキリシタン時代にはトードス・オス・サントス教会があった場所だそうで、石碑が建っていた。石碑だけぢゃなくて、坂を登ったところの道の壁に石がはめ込まれていて、ここがカトリック教会にとって?重要な遺跡であることが顕彰されていたように憶えています。

新大工町の商店街から桜馬場中学校のほうへそのまま通りを歩いていって、桜中の手前で左折して坂を上がると、突き当たりに「トードス・オス・サントス教会跡」の石碑がありました。そこを右に折れると鳴滝、左に折れるとすぐ春徳寺。

山門の手前の階段をちょっと下りて、春徳寺さんに沿ってぐるっと回るように狭い道をあるいて、出たところの坂をまた登っていくと、春徳寺裏手の墓地です。家並みの向こうに長崎港が見えた。その斜面にひろがる墓地群の裏山にある「城の古址」というのが、長崎の領主・長崎甚左衛門のいた古城の跡、と伝えられていました。

「城の古址」は、上のほうは岩ばかりなんですが、確かに下のほうには空堀らしい遺構があった。中世城郭の遺構としては貴重なもんだったろうと思いますよ。今はあのへん、どうなっていますかね…。

長崎甚左衛門というのはかわいそうな人で、大村純忠が長崎をイエズス会に寄進したせいで長崎を追われて流浪したとかいう話です。

教会が建てられたのは長崎がイエズス会領になるよりも前です。ということは、一時期は、教会の裏山に、長崎甚左衛門のお城が共存してた、ってことになりますね。そしてその後、時が流れて、甚左衛門が去り、教会が破却された跡にできたのが春徳寺、と。自分の通っていた中学校の裏手に、そんな歴史があったんですよ。長崎にいたころから、知識としてはなんとなく知ってましたけど、ふりかえって歴史をこうたどってみると、なんかもったいない気になりますね。もっとちゃんと調べときゃよかった。

Amazonで洋書の楽譜…

2011年08月18日 | メモいろいろ
最近ときどきAmazonで洋書の楽譜を買ってます。在庫があるとあっという間に届きますからね。おフランスに注文して送ってもらうのとは大ちがいだよ。

ダウランドのリュート歌曲集4巻分を2冊にまとめたDover版買いました。大きい楽譜で見やすい。けれど全曲が独唱プラス伴奏、の譜面でした。合唱用ではなかったのは残念。伴奏はリュート用の譜(わたしは読めません)とギター用に起こしたものと、両方ついています。ダウランドの音源はコンソート・オブ・ミュージックの全曲録音を持っているので、ぜひ楽譜を見てみたかったんですよ。

《The Oxford Book of French Chansons》も買った。ルネサンス期の無伴奏・多声のシャンソンを集めた、まあ平たくいえば合唱曲集です。「一時的に在庫切れ」の状態が続いていたけど、たまたまチェックしたら「在庫あり」になっていたので急いで注文しました。このオックスフォードのは、シリーズで《Italian Madrigals》《English Madrigals》も出ていて、この2冊は持っていた。《French Chansons》だけ持っていなかったんですよ。以前、梅田のササヤ書店だったかで見かけたけど、ジャヌカンの曲が少なかったので買いそびれていた。そのジャヌカンをはじめとするパリ派のシャンソンと、ジョスカンやラッススらのフランドル派のシャンソンをともども収録。

ムジカ・フィクタ『モラレス_レクイエム』

2011年08月15日 | CD 中世・ルネサンス
Cristóbal de Morales
Requiem
Lamentabatur Jacob
Inclina Domine aurem tuam
Miserere nostri Deus
Musica Ficta
Raúl Mallavibarrena
EN 2002

1998年録音。64分07秒。enchiriadis。モラレス(c.a.1500-1555)はビクトリアよりも先輩にあたるスペインの作曲家。モラレスの音楽をはじめてちゃんと聴きました。1544年にローマで出版された《5声のレクイエム》を中心にしたプログラムで、余白に、〈Lamentabatur Jacob〉〈Inclina Domine aurem tuam〉〈Miserere nostri Deus〉のモテット3曲を収めています。わたしにとってこれが初めてのモラレスでした。この《レクイエム》は名作の名演ですよ。5声のレクイエムを各パート1人、たった5人で歌って(ただしオルガンが下から支えます)、しかし圧倒的な迫力で聴く者に迫ってくる。山あり谷あり、ではなくてずーっと山が続く。ビクトリアほどのねっとり感はないけれど、やはりスペインものらしく、目の詰んだ、聴きごたえのある音楽です。

Musica Fictaという名の団体はデンマークにもありますが、ここで歌っているのはもちろん本場スペインのグループのほうです。録音場所はマドリードではなくバルセロナとのことなのでやはりその辺をホームグラウンドにしているんでしょう。ここではソプラノに今やソリストとして有名なヌリア・リアルNúria Rialが参加。ほかの4人ははじめて名前を聞く人ばかりですが、みな実力派でアンサンブル巧者。やはりリアルの美声が耳に立つけれど、下の声部がしっかりしているのでソプラノが浮き上がらない。

ジョン・ルイスのバッハ

2011年08月12日 | 音楽について
ジョン・ルイスによるバッハ『プレリュードとフーガ』はVol.1-4の4枚がそれぞれ分売で出ていて、わたしは最初になぜかVol.3を買ったんです。そしてこれがいいCDだった。それで、やっぱ順番通り聴くべきかなと思って次にVol.1を買った。しかしそのVol.1を、わたしはしばらくほっておいたんですね。これがいけませんでした。そのVol.1を最近になって聴いたんですが、これはまだVol.3ほどの完成度には達してないと思う。

Vol.3を今あらためて聴きながらこれを書いているんですが、ほんと、このバッハは、くるくる回る万華鏡をのぞくような面白さがあります。バッハであり、でもジャズであり──ジャズ初心者のわたしにも分かる。これは端正なジャズですよ──、このスイング感がじつに心地いい。わたしはよく歌うバッハが好きですが、このVol.3は、バッハがジャズをたしかに歌っている。(このCDを初めて聴いた時よりも評価が高くなりました。)

Vol.1は、もちろんいろいろ準備して録音に臨んだんでしょうが、どういうふうに音楽をもっていくか、プレイヤーがまだ決めかねている感じがする。ジョン・ルイスとしては「4回も録音するんだから、だんだんよくなるよ」って乗りで、このVol.1はちょっと小手調べのつもりだったのかもしれません。