歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

ガーディナー『ダイオクリージャン』の演奏者

2011年06月28日 | CD パーセル
ガーディナーの『アセンズのタイモン/ダイオクリージャン』について補記。演奏者の件。モンテベルディ合唱団は9・5・6・5。音で聴くともっと少ないように感じます。いやこれは褒めてるんですよ。パーセルらしい、17世紀らしい古雅な感じが好ましい。オケは、1stVnが5。2ndが4。Vaが3。Vc(Bass violinsと表記)が3で、今年亡くなったリチャード・キャンベルがいます。Cb1。Rec2。Ob2。テナーOb1。Fg1。Tp2。Timp1。Cem1で、これはアラステア・ロス。Lute1で、これはリンドベルイ。録音は1987年で、80年代の古楽オケには、リンドベルイかユングヘーネルか、このどちらか(または両方)が呼ばれる例が多かった。

CDを100まで減らす

2011年06月23日 | 音楽について
いま、たぶんわたし、CDを400枚以上持ってるんですよね。そのうえさらに増えつつあるし。しかし、これからは順次、CDの数をぐんとしぼり込みたい。できたら100枚ぐらいまで減らしたい。シンプルライフを目指したいのです。「CDが邪魔ならiPodでも買ってそれにたたき込めばいいぢゃん」て言われるかもしれないけど、それはまだ嫌なの。音楽は、やっぱり、一枚一枚のモノを意識しながら聴きたいから。

ぢゃあ2CDとか3CDの組み物はどうするんだよ、ってことになりますが、まあそのへんになると話は曖昧で、けっきょく厳密にCD100枚ってわけではなく、だいたい100組くらい、ってことで妥協しちゃいそうです。

で、試しに、自分にとってどうしてもはづせない、わたくし的決定盤をいくつかためしに挙げてみました。

・レオンハルト『バッハ_ブランデンブルク協奏曲』
・パロット『バッハ_ロ短調ミサ』
・セルシェル『バッハ_ギター作品集』
・ガーディナー『ヘンデル_メサイア』
・キング『ヘンデル_ヨシュア』
・ガーディナー『ヘンデル_水上の音楽/王宮の花火の音楽』
・レコール・ドルフェ『ヘンデル_室内楽曲集』
・ガーディナー『パーセル_ダイオクリージャン』
・ピノック『パーセル_ディドーとエネアス』
・ピノック『パーセル_アーサー王』
・マンロウ『パーセル_メアリー女王のための音楽』
・クリストファーズ『パーセル_妖精の女王』
・クリスティ『シャルパンティエ_クリスマス牧歌劇』
・ネーベル『カリッシミ_オラトリオ集』
・ロジャーズ『モンテベルディ_オルフェオ』
・パロット『モンテベルディ_聖母マリアの夕べの祈り』
・カークビー/ルーリー『時間は静止して』
・フレットワーク『ダウランド_ラクリメ』
・パロット『ジョスカン_ミサ・アベ・マリス・ステッラ』
・ペレス『ジョスカン_ミサ・パンジェ・リングァ』
・マンロウ『デュファイ_ミサ・ス・ラ・ファセ・パル』
・ヒリヤード『ダンスタブル_モテット集』
・サバール『モンセラートの朱い本』
・オデット『リュートのための古風な舞曲とエア』
・カイヤール『ルネサンス・シャンソン集』
・マリナー『ボーンウィリアムス_管弦楽曲集』
・レイトン『20世紀イギリスのキャロル』

バランス欠いてますけど、思いつくまま書くとまづはこんな感じ。やっぱり組み物が多いですね。レコール・ドルフェとかは6CDだし…。ヘンデルのオラトリオとかバッハのカンタータとかは、いろいろCD聴いてきたけどいざ選ぶとなるとどれを残すか迷うので、入れてません。ルネサンスのア・カペラものや舞曲のCDもたくさん聴いてきたけど、選びきれない。ここに挙げたのは現時点でとりあえず外せない最低限のものだけ。

コリン・デクスター『キドリントンから消えた娘』

2011年06月19日 | 本とか雑誌とか
コリン・デクスター/大庭忠男訳『キドリントンから消えた娘』(ハヤカワ文庫)一日かけて読了。初読の作家。なかなか調子いいです。主任警部モースの推理が二転三転して、読者をあっちこっちに連れていく、そのドライブ感がけっこう快感。

舞台は大学の町オックスフォードとその周辺。大学関係者は出てこないけど、問題の「キドリントンから消えた娘」というのが「十七歳をすぎたばかり」だったので、日本でいうと高校?にあたる学校の関係者がいろいろ登場。

本文がはじまって3ページ目にあたる、冒頭すぐのところ(p.9)で、ある人物が物思いにふける。「彼の目は道路の向こう側にならんでいるやや高級な家々をゆっくりと見わたした。四つの寝室に、広い庭。自分もああいうプレハブの温室を建てて、トマトかキュウリをつくってみよう、ディオクレティアヌスのように……いやエルキュール・ポアロだったかな?」とある。ディオクレティアヌスっていったらこれ、《Dioclesian》のことぢゃん? ディオクレティアヌス帝って、むこうぢゃそんなに有名なのかな。

デクスターは人気のある作家のようですが、現在多くは品切れ。『ウッドストック行最終バス』というのだけ、入手可能だったので、さっそくキープしました。

リチャード・キャンベル死去

2011年06月18日 | 音楽について
フレットワークの創立時からのメンバーであるRichard Campbellが、今年の3月8日に亡くなったそうです。まだ55歳でしたって。キャンベルについてこれまでとくに意識して聴いたってことはないんですが、この人が加わっている『ラクリメ』は、名盤として評価が高い。わたしもこの『ラクリメ』はつよい説得力をそなえたすぐれた演奏だと思います。一つ一つの音にしっかり気持ちが入っている、と思った。それまではビオールの合奏ってなんだかザリザリした音が気に入らなくて、避けてたんですが、フレットワークの『ラクリメ』を聴いて、ビオールの音に初めて心打たれました。フレットワークでの仕事以外にも、キャンベルはたしかホグウッドやガーディナーに呼ばれていろんな録音に加わっていたはず。たとえばカークビーが歌ったパーセル歌曲集では、ホグウッドやルーリーとともにカークビーをサポートしています。

55歳は若すぎる。タリス・スコラーズのTessa Bonnerも若死にでしたけどねえ。どうか安らかに。

ハヤカワはディック・フランシスを品切れにするな!

2011年06月14日 | 本とか雑誌とか
ハヤカワ文庫のディック・フランシスで、品切れのものがいくつかあるんですが、早川書房はどういうつもりなのだろう。もう刷り増しはしないんだろうか。わたし、まだ読んでないのがいくつかあるのよ。読みたいのに読めない、というのはイライラする。それに、第一もったいないよ。刷れば売れるだろうに。だってあんなに面白いんだもの。フランシスを三つか四つ読めば、ああこの人はコンスタントにこういうレベルの高い小説が書ける人なんだなということは誰にだってわかる。品切れのままほっとくなんて、理解に苦しむ。それとも、クリスティみたいに「ディック・フランシス全集」でも出すつもりなのかなハヤカワは。

品切れにしてるのは、あるいは訳の問題なのだろうか。菊池光さんの訳文はとにかくかっこいいけど、競馬のことを知らないことによる誤訳があって、競馬にくわしい人からは指弾されているようです。競馬に関心がないおかげで不満を感じることなく楽しめるわれわれは幸せ者ですな。それにしても、あの訳文のかっこよさが、ディック・フランシスの文章ゆえなのか、それとも菊池光の翻訳ゆえなのか、ほんとのところ、わたしは分かりません。見当をつけるために、菊池さんが訳した他のミステリを読んでみようと思いつつ、まだ果たさない。

祝!マリナーの『イェフタ』復活

2011年06月11日 | 音楽について
HMVからお知らせメールが来ました。マリナー指揮の『イェフタ』が7月に復活するそうです。めでたや。はやく聴いてみたい。CDの復活を心待ちにしていた録音のひとつです。1979年録音のデッカ盤。タイトルロールはロルフジョンソンで、ほかにマーガレット・マーシャルのイフィス、ポール・エスウッドのヘイマー、そして天使のアリアを歌うのがカークビー。このキャストで時代楽器使ってくれてたらどんなにいいかと思うけど、無いものねだりはよしましょうね。それに古楽系の指揮者では、このキャストの共演はありえなかったと思う。エスウッドのヘンデルはアーノンクールの指揮によるものがほとんどで、デッカへ出演して、しかもソリストとして歌っているのはこの録音だけではないかしらん。ボウマンぢゃなくて、よかった。カークビーがモダン楽器で歌うのもめづらしいし、マーシャルは実はぼちぼち古楽の録音もあるのだけれど、ほとんどガーディナーの『メサイア』でしか聴かれていない。

マリナーのヘンデルは1976年の『メサイア』がすぐれていた。その3年後の、同じデッカへの録音なので、『イェフタ』も期待できると思う。

アクセス権の修復

2011年06月10日 | MacとPC
Mac(わたしの場合MacBookですが)を再起動後、デスクトップに置いていたフォルダやファイルが勝手に整頓されてしまう事案が発生していたんですが、「ディスクユーティリティ>ディスクのアクセス権を修復」でとりあえず解決できました。「ディスクのアクセス権を修復」って、従来もときどきやってはいたけれど、あんまり恩恵を感じられずにいたんです。でも意外なところで役に立つ。先日も、どういう加減か、Jeditの起動にえらく時間がかかるようになったとき、ふと気がついて「ディスクのアクセス権の修復」をやってみたら効果覿面、元どおりのタイミングでJedit書類が開けるようになりました。

平岩弓枝『下町の女』

2011年06月09日 | 本とか雑誌とか
平岩弓枝『下町の女』(文春文庫)読了。1970-72年の連作。平岩さんも若いころの小説のほうが読みごたえがあるなあ。筋を売るだけではなくて、登場人物にちゃんと血が通っている。昭和40年代の花柳界を背景にした話で、もちろんわたしには未知の世界のことですが、幸田文『流れる』を読んだときのような特別な違和感は、ここにはなかった。

藝者屋のおかあさんであり自身も売れっ子藝者である「こう」と、娘の桐子の話。ショックなのは主人公のこうが四十代後半から五十にさしかかろうかという年齢設定で、作中「人生の老いの坂を迎えて」と表現されてしまうこと。まさにわたしが今そのあたりなのだ。「老いの坂」…。執筆当時はこれでおかしいことはなかったのだろう。

発表後ほどなく、東芝日曜劇場で8回にわたってドラマ化されていますが、わたしは見たことありません。こうは杉村春子。桐子は吉永小百合。TBSのサイトに当時のスチールがアップしてありますが、杉村春子は四十代には見えないよ。それに、やっぱりそんなに美人でもないと思う。

それから『下町の女』でも藝者さんたちは人力車に乗る。『流れる』といっしょだ。なお平岩弓枝は『流れる』が舞台化されたときに脚本を担当している。

B6のカード

2011年06月01日 | メモいろいろ
梅棹さんたちは、〈知的生産〉のシステムを、一から、それもアナログで組み上げていったわけでしょ。そのエネルギーたるや、ものすごいもんだよね。昭和の学者の底力というか。今はただソフトを選ぶだけですもんねえ。パソコンで使える、〈知的生産〉のための便利なソフトがいろいろ用意してあって、悩みどころは、どっちのソフトがより便利かってくらいのもんですよ。

しかしなにを隠そうわたしも学生時代は、それこそ梅棹さんがつかっていたのと同じようなB6のカードを使っていました。わたしのまわりでもみんなB6のカードだった。大学生協に行くと、厚手のや薄手のや、B6のカードがいろいろ売られていました。あるいは、そのころ国文の授業や研究会用の資料はB4の大きさの紙ばかりだったので、準備したコピーが余るとそれをB6×4枚に切って、メモ用紙として常備していた。それらのカードやコピー用紙の裏に、ことばの用例をとったり、卒論とか研究発表用の原稿をまとめるのに使えそうなフレーズを書き込んで、クリップでとめて束にして持ち歩いたりした。でもそのころは、これが梅棹さんの発案だとは知りませんでした。梅棹忠夫という名前は(高校の国語の教科書にこの方の文章が載ってたので)知ってはいたけど、梅棹さんの本もまだ読んでいなかった。