歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

「足踏み」と「鏖殺」

2015年01月22日 | 気になることば
ちょっとうっかりしてましたが、わたしが読んだ新潮文庫版『武蔵野夫人』は平成17年10月25日の74刷です。出典のページ付けは同版のもの。今どきの文庫本にしては字が小さめでした。税別400円。今Amazonで同じ本を見ると、カバーが違う。それに値段も高くなっている。たぶん、わたしが買った後で、字を大きくして組み直したんだと思う。だから、最新版ではページ数が違うはずです。念のため申し添えておきます。
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【足踏み】
「仲人に立った秋山の旧師の大学教授も、ほとんど形式的なものであった上に、一種の偏屈者である秋山は普段からあまり足踏みしていなかった。」(大岡昇平『武蔵野夫人』新潮文庫、p.183)

こういう「足踏み」の使い方をわたしは初めて見ました。けど、こういうの、あるんですよ。『日国』は「ある場所や家などに足を踏み入れること。訪問。でいり。」として、16世紀以降、近世までの例を挙げている。でも近代の例はあがってないので、この『武蔵野夫人』のは貴重な用例になるでしょう。なお、『日国』以外の辞書では、『大辞林』も『大辞泉』も、この語義を拾っていません。
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【鏖殺[おうさつ]】
「勉はふとこの取水塔に毒を投げ込めば、東京都民を一挙に鏖殺できるかも知れないと考えて、自分の考えに驚いた。」(『武蔵野夫人』p.212)

「鏖」はこれ一文字で「みなごろし」。このことはなぜか知っていたんですが、これも実際に本を読んでいてこの字にぶつかったのははじめてだったので、記念にメモ取り。

「瓦解」と「遊弋」

2015年01月18日 | 気になることば
【瓦解】
「もと旗本であった彼の家が瓦解後静岡に移って間もなく彼は生れた。」(大岡昇平『武蔵野夫人』新潮文庫、p.12)

これは『坊っちゃん』「一」に出てくる、「この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、」と同じ「瓦解」の使い方です。ただし『日国』などで「瓦解」を引いても、「特に江戸幕府の崩壊を指す」とかいう記述はされてないようです。これも丸谷さんが何処かでエッセイのネタにしてました。大岡昇平は『坊っちゃん』を意識していたのかいなかったのか。
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【遊弋】
「彼は憂鬱にフランス語教師の職に満足しなければならなかったが、そのスタンダール耽読から、彼はこの十九世紀サロンの遊弋者の恋愛修行や姦通の趣味についてはなはだ熱っぽい影響を受けた。」(『武蔵野夫人』p.17)

「遊弋」はわたしが普段から気にしてることばで、辞書選びの時など必ず引くんですが、文脈のついた用例をじつはここで初めて見ました。ここはスタンダールのことを、サロンを遊弋して恋愛したり姦通したりする者であった、と述べているんですな。遊弋とは、獲物がないかとらんらんと目を光らせながらあちこち動き回るさま。

「ギリシャ」

2014年06月22日 | 気になることば
今朝も日本・ギリシャ戦の再放送やってましたけど、NHKは「ギリシャ」と表記しているんですね。前からこうだったっけ。「ギリシア」ではなくて。日本語としては、発音に忠実な「ギリシャ」という表記のほうが素直で好ましいとわたしも思います。

それにしてもギリシャの選手の名前がすごかったです。ゴールキーパーが「カルネジス」、以下「マノラス」「トロシディス」「ババスタソプロス」等々。哲学者集団みたいである。

「検討もつかない」

2014年06月15日 | 気になることば
某番組で「私には検討もつきません」て字幕を見てしまったんですが、でもこの誤変換、うっかり見逃してしまいそうで、わたしいつもちょっとこわいです。

NHKの岩佐英治さん、アナウンサーは卒業して相撲中継のディレクター専任にでもなったのかと思ってたら、いま名古屋放送局にアナウンサーとして所属なさっているのだとか。もう本場所の実況はしないのかしらん。

きょう日本に勝ったコートジボワールは、昔、象牙海岸と日本語で言っていたところですよね。正式国名は《République de Côte d'Ivoire》だそうで、ほんとはコートディボワール、って書きたいところ。ディヴォアール、とか書いてもだれにも分からんと思うが、「ヴァ行」使いたい派の人は、書いてみたらどうか。

四万十と釧路

2014年06月14日 | 気になることば
高知に四万十市という市があることは有名だと思いますが、高知県にはこの四万十市とは別に、四万十町、という自治体もあること、ご存知でした? わたしみたいな余所の人間からしたら紛らわしくて仕方ないんぢゃないかと思うけど、どうなのかしら。こんなところは高知県だけだろうと思っていたんですが、しかし北海道に行くと、釧路市、のとなりに、釧路町、というのがやっぱりあるのね。面白いことに、四万十も釧路も、自然で有名な観光地ですが(四万十川と釧路湿原)、なにか似たようなからくりでもあるんでしょうか。

ところでNHKでは、地方の映像を全国ニュースで流すときに、どこの映像かを示すために「長崎 大村」とかいうふうにテロップを出す。こう出たら、それは長崎県大村市のニュース映像なのである。つまり、大村市の「市」は略す。だから、たとえば「広島 呉」とあったらそれは広島県の呉市、「高知 四万十」なんてテロップが出たら、それは高知県四万十市の映像なのである。

ぢゃあ、NHKが高知県四万十町の映像を出すときにはどうなるかというと、「高知 四万十町」となるのである。つまり、「町」の場合は略さない。そういう決まりになっているらしい。今月はじめの大雨のニュースでは四万十市と四万十町との間にある黒潮町の映像も出ましたが、原則どおり、「高知 黒潮町」となっていた。

しかしこれは紛らわしいです。「市」を略すことに何の意味があるのだろう。まったく分からない。「高知 四万十市」「高知 四万十町」でいいぢゃないか。

AnnaとEmma(続き)

2014年05月24日 | 気になることば
Anna ReynoldsをOS Xの読み上げ機能で読み上げさせると、「アナ・レノーズ」と聞こえましたよ。Emma Kirkbyは前にも読み上げさせたことがあるから知ってる。ふつうに「エマ・カークビー」と読んでくれる。

映画のヒットのせいで、今年は、「あな」と読む名前の女の赤ちゃんが必ずや増えるにちがいない。「亜奈」とか、「愛菜」とか。しかしわたしは日本人の名前としては「あな」よりも「あんな」のほうがいいなあ。この場合「ん」が入ることで響きがぐっと優しくなる。字はひらがなで「あんな」でもいいし、漢字なら「安奈」とか。そういえば、中川一政の孫の、中川安奈[あんな]という女優さんがいますね。

しかしEmmaの場合は、「えま」よりも「えんま」のほうが優しい感じがするかというと、ぜんぜんそうぢゃないところが面白い。これはやはり「閻魔」という恐ろしげなことばがすでにありますからね。その影響が大きいだろう。これについては、曾野さんが小説でネタにしていた。確か『時の止まった赤ん坊』だったと思いますが、日本人のスール(シスター?)で「エンマ」という名前(洗礼名?)をもらった人がいて、「あら、閻魔様といっしょだわ!」とか言ってそのスールが面白がる話が出てきたと思います。

それから、Emmaというと、そういう名前の写真週刊誌が昔ありました。ウィキペディアによると、1985年から87年にかけて出ていた雑誌なんだそうです。これはEmma Kirkbyのカタカナ表記が「エマ・カークビー」に統一されていった時期に当たる。当時の古楽好きの人たちとしても、えげつない写真週刊誌を連想させる「エンマ」を避ける気持ちが確実にあっただろう。

AnnaとEmma

2014年05月23日 | 気になることば
『アナと雪の女王』の「アナ」は原語では〈Anna〉だそうです。むかしは、これをカタカナでは「アンナ」と書いた。たとえば、リヒターの時代に、バッハ歌いのメゾソプラノでAnna Reynoldsという人がいましたが、この人はずっと「アンナ・レイノルズ」だった。この人のことを「アナ・レイノルズ」などと書いたものをわたしは見たことがない。

たしかにまあ、『アンナと雪の女王』だと、ちょっとひなびた、というか、のどかな雰囲気が出ちゃうよね。わたしは別に『アナと雪の女王』という邦題を攻撃するつもりはありませんよ。アナ。今ふうでよろしい。

これに似たのが〈Emma〉という名で、古楽の女王と言われたEmma Kirkbyをもって知られている。もちろんわたしはこの人の名前をカタカナでは「エマ・カークビー」と書くし、古楽について書く人は今はみんなそうだと思いますよ。でもEmma Kirkbyが日本で知られるようになってしばらくは、そうでもありませんでした。1970年代の後半から80年代のはじめ。「エンマ・カークビー」と書かれることもないではなかった。それが次第に、まあ記憶では80年代の半ばごろには「エマ」で固定化したように思います。

クレーの「ゐ」のデザイン

2014年04月25日 | 気になることば
テレビのテロップでは、いまやフォントワークスの天下、って思います。とくにNHK。ゴシックはあまり意識したことがないけれど、明朝体については、NHKではここぞというところではたいてい筑紫明朝を使っています。たしかに筑紫明朝の平がなはカッコいいんだよなあ。とくに筑紫明朝の「が」とか。見るたびにほれぼれするもん。ただ、それでも、NHKが使うには、筑紫明朝はやっぱり個性がありすぎると思うのですよ。NHKの画面で筑紫明朝を見るたびに、NHKにはヒラギノ明朝こそふさわしいのに、とわたしはいつも思います。

さらにフォントワークスのクレーもこのごろますますテレビでよく見かける。NHKではドキュメント番組でよく見る。興味をもった方はぜひ検索して字体見本を見ていただきたいのですが、ちょっと見は教科書体のようで、教科書体よりも先っちょがとんがっていて、都会的というか現代的というか、たしかに今ふうなフォントである。わたしも一時これ欲しいなあと思っていた。でもやめた。なぜか。「ゐ」のデザインがおかしいのである。「ゐ」の字の右下の留めのところが、「ぬ」みたいに下に突き出てしまっている。こんな「ゐ」ははじめて見ました。ほかのフォントではこんなデザインの「ゐ」はないと思う。

まあ、テレビでは、クレーで「ゐ」の字を使うシチュエーションはたしかにほとんどないでしょうね。だからこれまで見過ごされてきたのかもしれません。でもわたしはこのクレーの「ゐ」には強烈な違和感をぬぐえない。こんな「ゐ」をわたしのMacには入れたくありません。それで買うのはやめました。

いまはフォントワークスの主力商品は筑紫シリーズなんでしょうが、筑紫が出るまでは、フォントワークスといえば、画家の名前のついたフォントがメインでした。これが憶えにくいのよね。っていうか、未だにわたしは名前を憶えられないし、今後も憶えないでしょう。「マティス」が明朝体で、「セザンヌ」が角ゴシックで、「グレコ」が楷書体で、以下みんなこんな調子なのである。なんでセザンヌが角ゴなんだろう、とか、そんなことまで考えちゃうでしょ?

昭和のことば「二号さん」

2014年04月24日 | 気になることば
うっかりしていた。ヤン家のお祖父さんの愛人の件。ひとりめの愛人が「二号」さんなのだから、五人めの愛人は、「五号」ではなくて「六号」さん、なのであった…。あ、念のためですが、これ、もちろん冗談で言ってます。「六号」を辞書で引いても当然ながら色っぽいことはなにも書いてありません。物好きなので、ここで念のためJapanknowledgeのサイトを開いて『日国』を引いてみました。すると、「二号」には、語義の(2)として「(本妻を一号と見立てたのに対して)めかけをいう。」とあり、徳田秋声『縮図』(1941)、井上友一郎『湘南電車』(1953)、庄野潤三『道』(1962)の各用例が載ってます。ほほー。「二号さん」て、そんなに古いことばぢゃないのね。昭和のことばなのか…。以下、「三号」「四号」「五号」「六号」と見出しは立っているけれども、いづれも活字の話がほとんどで、愛人の話は一切ナシ。当たり前だけどね。

ていうか、愛人が何人いても本妻以外はぜんぶ「二号」さんなのかも。なにしろてんで実感のない話なのでよく分からない。

この語義(2)の「二号」ももはや死語でしょうね。1954年には、飯沢匡が、戯曲『二号』を書いて岸田戯曲賞を受けています。そのころの流行語だったのかな。わたしはこのことばを大叔母から教えられた。この人は女学校の英語の先生でしたが、オールドミスで、満州育ちらしくちょっとふわっとしたところのある人だった。だれだったかたしかに憶えていないけれど、ある女優さんがテレビに出ているのを一緒に見てたら、横で、大叔母が「この人はだれそれの二号さん」て言ったのですよ。だれのことだったのかなあ。

岩波文庫『太平記』の誤刻

2014年04月23日 | 気になることば
岩波文庫の新刊『太平記(一)』に誤刻を発見。巻二「長崎新左衛門尉異見の事」(p.91)に、「しかれども、或いは他に譲つて口を閉じ、或いは己れを顧みて言を出ださざる処に、」とある。「閉じ」は、「閉ぢ」とあるべきところ。凡例を見ると、「仮名づかいは、歴史的仮名づかいで統一し、」(p.4)とあるから、ここは「閉ぢ」でなければならぬ。

この岩波文庫の『太平記』は、古態本である西源院本を底本としています。元は漢字カタカナ交じり本。上の誤刻に関して興味あるのは、原本ではどんな表記になってたのかということ。「口ヲ閉ジ」とでも書いてあったのかなあ。しかし、古写本の生理として、「閉ぢ(閉ヂ)」と書くべきところを「閉じ」とか「閉ジ」とか書くことって、あんまりないような気がするけどなあ。

この岩波文庫の『太平記』は兵藤裕己さんの校注で、今月(一)が出ました。全六冊だそうです。(二)は今年の十月に出るそうです。文庫本で太平記が出るのは中絶した角川文庫以来ですかね。早めに完結させていただきたいです。でも誤刻はやだよ。「口を閉じ」の件、岩波にはメールで知らせよう。もう勘づいてるかもしれないけど。増刷があったら直してくれると思うけど、増刷あるかなあ…。