歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

エルゴソフトの撤退

2008年01月30日 | MacとPC
エルゴソフトから【パッケージソフト事業終了のお知らせ】ってメールが届きましたよ。たはーっ。egbridgeがいづれ使えなくなるのも困りますが、わたしの場合、仕事の文書をほぼすべてegwordで仕上げていたので、このソフトが死に体になってしまうことによる差し障りのほうがより重大です。

■以前、PageMakerの開発がOS9版で止まってしまってOSXに対応せずじまいに終わったときにもわたしはそうとう痛い思いをしているんですが、PageMakerの場合にはいちおうInDesignという受け皿が用意されていました。ところが今回はegシリーズを長年にわたってリリースし続けてきたエルゴソフトって会社そのものが事実上廃業するんだそうです。事態はほんとに深刻です。

■それで、今後、このブログでは、egwordやegbridgeの使い心地のよさについて、つとめて書いていこうと思います。いまはまだegシリーズ終了のアナウンスがされてすぐなので、いろんな人がegシリーズについて書いています。けれどもいづれそれらも収束してしまうでしょう。しかし忘れられたら困るんですよ。egwordやegbridgeはこんなに使い勝手がよくて、こんなに愛着を持ってるユーザーがいるのだ、ということを発信し続けることが、さしあたってegword愛用者のとるべき道だ、という気がしますね。

Minkowski!

2008年01月24日 | 気になることば
■サッカーの人で「Pierre Mankowski」って人がいるそうですな。やっぱりフランスの方のようです。検索してもらえばこの人のカタカナ表記がいくつか出てきますが、たいしたもんですな。感心しちゃった。日本のサッカー・ジャーナリズムのかたがたは、体育会系らしくさばさばと、率直にカタカナにしておられますよ。そこいくてえと、われわれは例の指揮者の「Marc Minkowski」をカタカナでどう表記するか、そうとう悩んでおります。わたしはまあ、「ほんとは違うんだろうけどなー」と心のなかでつぶやきつつも、「マルク・ミンコウスキ」と書いています。ま、カタカナにしちゃった時点でこれはもう日本語なんですから、こういう中途半端な書きかただけど、どうかかんべんしてくださいな。

■と、思っていたら、たまたま見かけたんですが、さきのセンター試験の国語の評論問題で、やっぱりフランス人の「ミンコフスキー」って人の話が出てましたね。その評論の筆者はわたしの存じ上げない人でしたけど、フランス語に堪能な方なんでしょうかしら。「ミンコフスキ(ー)」っていう発音も、フランス語としてほんとにアリなんでしょうかねえ。疑問です。

木下是雄さん

2008年01月15日 | 本とか雑誌とか
■木下是雄さんといえば何はさておき『理科系の作文技術』(中公新書、1981)かもしれないけれど、木下さんはその後、より一般向けの文章技術の本として『レポートの組み立て方』(筑摩書房、1990)を出した。ちくまライブラリーというソフトカバーのシリーズの1冊で、その後ちくま学芸文庫にも入りましたが、もとのちくまライブラリー版もいまなお生きているようです。わたしはさきに文庫本で買って、後からライブラリー版を買い直したんですが、どうもライブラリー版のほうが読みやすい気がする。ライブラリー版は、大学あたりの教科書として需要があるのではないかしらん。わたしの手もとのライブラリー版は、2005年の24刷です。

■ほんとうにねえ、わたしもこういう教科書を使った授業を、学生時代に受けたかったですよ。現に木下さんは──この方は物理学のえらい先生なんだそうですが──勤めていらした学習院大学で、文科系の一般教育の「表現法」という授業を担当して、その経験をもとにこの本を書いたそうです。木下さんははじめのほうでこう書いています。「つまり、レポートに書くべきものは、事実と、根拠を示した意見だけであって、主観的な感想は排除しなければならないのである。」(ちくまライブラリー版、p.2)そらまあね、今だったらわたしだって、これは当然のこととしてわきまえてますよ。狭義のレポートだけに限った話ぢゃありませんよね。われわれが日常の業務で書くほとんどの文章がそうだ。でも、学生時代のわたしは、まあなんとなく雰囲気としては、「事実と、根拠を示した意見だけ」で勝負しなくちゃならん、と気がついていたとは思う。けれどやっぱりこの木下さんの本のように、はっきり明文化して教えてほしかったね。

「ほふり」

2008年01月09日 | 気になることば
国税庁が差し押さえた株券、電子化未対応で無効の恐れというこちらのニュースではじめて知ったんですが、証券保管振替機構というのがあって、その「愛称」が「ほふり」なのだそうですよ。ああなるほどね、「保管」の「ほ」と「振替」の「ふり」で「ほふり」ですか。でもわたしなんぞは「ほふり」なんて言われると、血なまぐさいとか、肉を切り刻むとか、どうしてもそういう方面のイメージしかわかないです。

■「ぽぷり」。半濁音の◦が二つついただけで雰囲気変っちゃうんですけどねえ。「ほふり」は止めたほうがいいと思いますよ。

『魔術の殺人』と"オンブラ・マイ・フ"

2008年01月03日 | 音楽について
■アガサ・クリスティの『魔術の殺人』を読みました。1952年の作で、マープルもの。クリスティはもうだいたい読み尽くしたつもりだったんですが、これは初めてでした。何かの拍子で未読だったんですね。で、ヘンデルの楽譜の話が出てきます。舞台はクリスティによくあるイングランドの田舎のお屋敷で、そこで殺人事件が起こり、警部が部長刑事とともに捜査に乗り込んできます。

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 警部は、ピアノにのっている楽譜を、もの思いにふけりながら、のぞきこんだ。「ヒンデミット? だれだね、これは? 聞いたことのない名前だな。ショスタコヴィッチだと! おやおや、ひどい名前があるものだ」彼は立ちあがると、古風なピアノ椅子を見おろした。彼は座面を持ちあげ、なかをのぞいた。
「こいつはまた、クラシックだね。ヘンデルのラルゴ、ツェルニイの練習曲、先代のグルブランドセンの時代のものばかりだ。“われは知る、うるわしき園を──”私が子どものころ、教区牧師の奥さんがよく歌っていたっけ──」
(クリスティー/田村隆一訳『魔術の殺人』ハヤカワ文庫、p.272)
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■この小説にはピアノを弾く人は出てくるけれど歌をうたう人は出てこないし、あとのチェルニーはもちろんピアノの曲ですから、「ヘンデルのラルゴ」は、たぶんピアノ編曲版の楽譜だったんでしょうね。で、この警部は「ヘンデルのラルゴ」っていうのがどういう曲か知っていて、子どものころに牧師の奥さんが“われは知る、うるわしき園を──”って歌っていたのを思い出した。この歌詞は"Ombra mai fù"にしてはちょっと言葉の意味がずれている気もしますが、たぶん牧師夫人は英訳の歌詞で歌ってたんぢゃないでしょうか。まあクリスティの原英文を見たらすぐ解決のつくことですが。で、1952年に働き盛りであった警官が子どもだったころ──ということはつまり20世紀初頭──、"Ombra mai fù"はすでにこれだけイギリスでポピュラーな音楽だった、ってことになっているわけですな。

リュリとパーセル

2008年01月01日 | 音楽について
■旧年中に買っておいて、けっきょく封も開けなかったCDがけっこう溜まっている。その中からまづクリスティ指揮のリュリ«Les Divertissements de Versailles»(WPCS-11357)を開封。

■トリニティ・クワイヤの『ダイオクリージャン』や『アーサー王』を聴いてすっかりパーセルにはまったわけですが、去年の秋のある日、サバール指揮の«Les Grandes Eaux Musicales de Versailles»(AV9842)ってCDをたまたま聴いてびっくりしたんですね。これはサバールのフランス・バロックのCD何枚かから再編集したサンプラー盤で、わたしはフランス・バロックはシャルパンティエ以外はほとんど興味がなかったもんですから、このへんの音楽はこういうつまみ食いみたいなCDを一枚聴いときゃいいかなあと思って購入したんですが、リュリとパーセルって何だかよく似てるんですよ。こんなに似てると思ってなかったのね。調べてみたら、リュリってひとは1632年生まれで1687年に死んでます。パーセルの同時代、かつ、リュリはパーセルよりも17歳年上で、ちょうど手本にするに手ごろな年の差。パーセルにとっては、隣の国の、一番ボスの作曲家だったわけでしょう。影響を受けてないわけがないですよ。それで、こりゃあリュリの音楽もちょっとは聴いておきたいなあと思って、何枚か買ったわけです。

■で、このクリスティのリュリですが、ちょっと衝撃を受けましたよ。トラック10の『イジス』「寒さの場」ってのは、『アーサー王』の凍える神のシーンのネタ元に間違いないし、トラック14『アルミード』の音楽(の後半、パッサカーユ)は、やはり『アーサー王』でわたしが最近気に入っているPassacaglia"How happy the lover"とほんとに雰囲気がよく似ています。パーセルは、リュリをほんとによく研究していたみたいですよ。