歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

ボストリッジ『イングリッシュ・ソングブック』

2009年02月28日 | CD 古典派以後
The English Songbook
Ian Bostridge
Julius Drake
TOCE-55094

1999年録音。68分58秒。EMI。ひさびさにイギリスから登場した大物歌手ボストリッジによる、イギリス近代歌曲集です。イギリス歌曲の入門としてお手頃なアンソロジー。ボストリッジが日本でメジャーになってしばらくして国内盤で出たので買いました。以前紹介した《A Treasury of English Song》も素晴らしかったけど、歌曲はやはり歌詞対訳つきがいいです。知性派のボストリッジがその冷たさを抑えめにして、口当たりよく聴かせてくれます。

しかしさいしょのスタンフォード〈La Belle Dame Sans Merci〉なんか、これはむかしのお姫様を歌ったバラードなんですが、ボストリッジらしく、すでになにやら虚無的な気配がただよってくる。曲に入れ込まないで、どこかで醒めてる。この先ゆったり聴いていけるかちょっと心配。でも何曲か続けて聴いてるとこういうボストリッジの語り口にも慣れていきます。

どの曲も短めで、大袈裟な作り方はしてないけれどさりげなく個性的。なかでもわたしが気に入ったのはボーンウィリアムズ〈Linden Lea〉〈Silent Noon〉、クウィルター〈Come away, Death〉〈Now sleeps the Crimson Petal〉あたりです。これらはイギリス歌曲としてはよく歌われている作品で、ロルフジョンソンやアレン、エインズリーの録音でも聴いたことがあります。〈Silent Noon〉はターフェルのイギリス歌曲のアルバムのタイトルにもなりました。ブリテン編曲の〈The Sally Gardens〉は、やはりブリテンらしく一筋縄ではいかぬ個性的な編曲で、これがまたボストリッジによく合うんです。この曲はラングリッジが歌ってるCDも持ってます。

ボストリッジはモーツァルトやバッハも歌いますが、本領が発揮されるのは近現代の声楽曲だと思います。ブリテンあたりドンピシャでしょう。Bach Cantatas Websiteによると、ボストリッジは1964年12月25日(!)生まれ。同じくイギリスのテナーであるエインズリーは1963年7月9日、パドモアもエインズリーよりちょっと上くらいで、この3人、同世代です。

百歩も譲るな

2009年02月27日 | 気になることば
わたしは「百歩譲って」という言い回しは使いません。これは何かの議論なり主張なりの場で、文字どおり「譲歩」するときの言い方ですが、日本人の平均的な歩幅は一歩がだいたい60~65センチくらいだそうですから、百歩も譲るとなると自分のほうから600メートルも身を引いちゃうわけです。これはもう議論になんかならんでしょう。本来、「一歩譲って」というのが正しいのであって、議論のときに反対意見に譲歩するにしても、なるほど60センチくらい身を引く程度なら、まだ議論は成り立つでしょう。

「百歩譲って」という言い方の由来に関しては、「五十歩百歩」という慣用句との混同による、という説明をどこかでみたことがありますが、これについてはよく分かりません。「一歩譲って」という言い方では「インパクトに欠ける」と思った人(または人たち)が自然発生的に「百歩」も譲りはじめたのだろう、と思いますが、そういう人たちに「五十歩百歩」という言い回しがどれほど影響したかは測りかねます。

「百歩譲って」という言い回しはいまや大辞林(電子版、第三版)にも広辞苑(同、第六版)にも登載されて、多くの人が「慣用」する文字どおりの「慣用句」になってしまったのですね。大辞林には「百歩譲って(も)」として立項され、「相手の主張を大幅に認めるにしても。」と説明されます。広辞苑では「百歩譲る」で項が立ち、「大幅に譲歩する。相手の言うことを最大限認める。」とあります。広辞苑には例文として「百歩譲ってこの作品が評判になるとしても長続きはしないだろう」というのが載っています。

この広辞苑の用例、「百歩譲ってこの作品が評判になるとしても長続きはしないだろう」。いやだなあ。「負け犬の遠吠え」ってことばが思い浮かぶよ。あんたは「この作品は詰まらん」と思ってるわけでしょ。それなら百歩も譲りなさんなよ。この作品のどこがどう詰まらんのか、事を分けて説明してあれば、600メートルも後ずさりする必要なんかないはずですよ。要は、自分の意見に自信がないから、「一歩」譲るべきところをついつい「百歩」も譲ったりしてしまうんだろう。「百歩」も譲るくらいなら、他人に向かって何かを言ったりすることなど、やめたほうがいいですよ。

いやわたしもね、日本人だからよく分かります。「一歩譲って」をついつい「百歩譲って」と書いてしまう、これは日本人の議論べたが背景にあると思う。日本人は議論を勝ち負けで考えてしまうから、ついつい先回りして、もし自分が言い負かされても最低限これだけは相手にも認めさせよう、っていうのね。「百歩譲って」と書きたくなる気持ち分かるけど、それぢゃあ建設的な議論にはならないですよ。譲るのは一歩だけ。

バレストラッチ『ビクトリア/ヨハネ受難曲ほか』

2009年02月26日 | CD 中世・ルネサンス
Victoria
Officium Hebdomadae Sanctae (1585)
La Stagione Armonica
Sergio Balestracci
TC 552901

1998年録音。53分18秒。TACTUS。1585年にローマで出版された《聖週間の聖務日課曲集》からの抜粋盤。30分かかる《ヨハネ受難曲》がプログラムのメインですが、個人的には、後半に入っているモテット《Vere Languores》と《Popule meus》のために買いました。この2曲、歌ったことがあるんですが、手もとに音源がなかったんですよ。

最初の和音を聴いた瞬間に、あ、イギリス勢とは違うな、と思わせられます。なにしろよく歌ってる。いかにも南のチームによる演奏。声の響きはイギリス勢ほど洗練されていなくてちょっとばかりなまなましい感じもあるんですが、赦してあげますよわたしは。合唱部分は、各パート5~8人前後の、わりと多めの人数で歌われます。タリス・スコラーズにしろザ・シクスティーンにしろイギリス勢のビクトリアはなんかきれいすぎるんだよなあと思っていたところにこのCDを見つけて、買ってみました。久しぶりにビクトリアらしいビクトリアを聴いた、という気がしました。

《ヨハネ受難曲》はわたしの聴いてきた範囲でいうとシュッツの《マタイ》を思わせるようなしぶい受難曲。テナーの福音史家がお経のように聖書を朗唱し、ところどころにソロや多声のみじかい合唱が挿入されます。ビクトリアが受難曲を書いてたというのも知らなかったんですが、こういう受難曲、わたしは興味あるんです。キリシタン時代の日本でも上演されたと記録が残るキリストの受難劇ってこんな感じだったのかなあと思いながら聴きました。

《Vere Languores》と《Popule meus》はわたしの抱いていた曲のイメージに近い。なつかしかった。《Vere Languores》の動、《Popule meus》の静、しかしいづれにしてもビクトリアらしい、力のこもった曲。

ビクトリアのことをTOMASO LUDOVICO DA VITTORIAって表記してありますよ。イタリア風に書くとこんな表記になるんですよね。いかにもイタリア国内仕様って感じです。いかにもTACTUSらしい、鄙びた古楽、ディープな古楽、ってところがまたいいですな。味わい深いB級グルメですよこれは。

観覧車に乗って

2009年02月25日 | メモいろいろ
去年だったか、山梨で、結婚式場に放火して捕まった人がいましたね。奥さんいるのに別の女の人と結婚の約束をしてしまって、式場が燃えたら結婚せずにすむと思って火をつけてしまった人が。今日、その人の裁判があって、検察側が懲役六年を求刑したそうですよ。

こんや夜七時半からのNHKラジオの列島リレーニュースで、東京の担当の人がこのニュースを読んでいました。ニュース原稿を書いた記者がおもしろがって書いているのが伝わってくるようだった。当事者のかたがたにとってはもちろん面白いどころの騒ぎではありませんけどね。

そのニュースによると、被告はその浮気相手の女の人と観覧車に乗って、その時の気持ちの昂ぶりのせいでついつい結婚の約束をしてしまったそうです。奥さんとは離婚したと嘘を吐いて。一方弁護側によれば、被告は、自分が火をつけた場所にスプリンクラーの設備がついているのをちゃんと確認してから火をつけた、のだそうで、だから軽い刑にしてくれ、というような話でした。

これね、被告の40歳の男はおもしろがられても仕方ないけど、周りの人がたまらんですよ。結婚の約束を土壇場で反故にされた女の人も気の毒だけど、被告と結婚してた奥さんがまたつらい。

レコール・ドルフェ『ヘンデル/室内楽曲集』

2009年02月24日 | CD ヘンデル
Handel
The Chamber Music
L'Ecole d'Orphée
CRD5002

録音年不明ながらおそらく70年代後半。ADD。74分16秒/57分36秒/61分17秒/70分15秒/66分40秒/67分49秒。crd。レコール・ドルフェは、ジョン・ホロウェイをリーダーに1975年に結成された古楽アンサンブル。これはまたいかにもイギリス勢らしいヘンデル演奏。実力ある人たちが、とても丁寧に、ニュアンスに富んだ演奏を繰り広げています。ただし、地味。技術面では、スティーブン・プレストンのフラウト・トラベルソが多少古めかしく感じられますが大きなキズにはならないでしょう。むしろ、まだアナログ録音だった時期の録音であるにもかかわらずこれだけ粒のそろった演奏を聴かせてくれることに感謝したい。タイトルは単に《The Chamber Music》ながら、全集に準ずるもの。

CD1。《フルート・ソナタ集》。スティーブン・プレストンのFl、スーザン・シェパードのVc。ハープシコードはジョン・トールとルーシィ・キャロランが分担しています。

CD2。《バイオリン・ソナタ集、オーボエ・ソナタ集》。ジョン・ホロウェイのVn、デイビッド・ライシェンバーグのOb、シェパードのVc、ハープシコードはキャロラン。バイオリン・ソナタが4曲、バイオリン・ソナタの断片が2曲、オーボエ・ソナタが3曲。HWV371のバイオリン・ソナタがやはりいいですね。フィナーレが《イェフタ》第3幕の天使のシンフォニアです。オーボエ・ソナタはまあまあ。

CD3。《トリオ・ソナタ集》Op.2。1番にスティーブン・プレストンのFl、4番にピケットのRec。その他はホロウェイ、コンベルティのVn、シェパードのVc。ハープシコードはロバート・ウーリーとトールです。4番は、冒頭、ピケットがやや安定しないんですが曲が進むにつれてこなれてきます。

CD4。《トリオ・ソナタ集》Op.5。7曲。ホロウェイ、コンベルティ、シェパード、キャロラン。わたしはOp.2よりもOp.5のほうが好きです。4番はオラトリオ《アタリア》に多くを負っており、わたしは《アタリア》も好きなのでお気に入り。6番は《カッコーとナイチンゲール》の爽やかなメロディーで、これまたいいです。

CD5。《2つのバイオリンのためのトリオ・ソナタ集》。1stはホロウェイ、2ndをコンベルティとアリソン・バリーが分担しています。2曲目のHWV392にも《アタリア》の序曲の一部が現れます。5曲目、HWV403は全曲がまるまる《サウル》の序曲の音楽。Op.2やOp.5よりさらに地味な1枚ですが、一つ一つの曲は充実しています。

CD6。《リコーダー・ソナタ集》。Recはピケットとレイチェル・ベケット。Op.1からの4曲など、全8曲。全体にちょっと弱いかなあ。いまはフェアブリュッヘンで聴く人が多いんぢゃないでしょうか。

レコール・ドルフェは、BBCのための録音やヨーロッパでの演奏旅行は行なったそうですが、アルバムとしてはこのヘンデルくらいなんぢゃないでしょうか。しかしこれはいい仕事です。これ以後、時代楽器によるヘンデルの室内楽全集はまだ出てないんですよ。没後250年でそろそろ次のが出るかもしれませんが。

ヤーコプス『ヘンデル/サウル』

2009年02月22日 | CD ヘンデル
Handel
Saul
Joshua, Bell, Zazzo, Ovenden, Slattery, Saks
RIAS-Kammerchor
Concerto Köln
René Jacobs
HMC901877.78

2004年録音。78分53秒/70分46秒。HMF。ヤーコプスは、ヘンデルのオペラは録音していましたがオラトリオはこれがはじめてでした。いくつか気になるところはあるんですが、初回聴いた印象よりはいいですね。まとまりのいい演奏です。先行盤はガーディナーもマクリーシュも3CD。2CDに収めたものとしてはアーノンクールがありますが、アーノンクールのは省略があったはず。省略なしで2枚組で聴けるというのはアピール度が高いです。

細部の表現ではガーディナーのほうがライブであることに助けられてかポイント高い箇所があるんですが、全曲聴き通すとヤーコプスのもよく設計されていて、オラトリオ《サウル》を味わうのにヤーコプス盤に拠っていてもさほど問題はないようです。そもそも《サウル》はヘンデルのオラトリオとしては台本が悪くないので、ダレるところが少なく、ヤーコプスが余計な演出する必要がないのがよかったのかもしれません。

今世紀に入ってからの録音なので、全体にまづ音が鮮明です。RIAS室内合唱団うまいしね。オケもフルート、オーボエ、バスーン、トランペット、トロンボーン、ハープ、リュート入りで豪華。通奏低音も適度に能弁。

第3幕でサウルがエンドルの魔女のもとを訪れる場面はヤーコプスのほうがガーディナーよりも優れている。こういう不気味なシーンはヤーコプス巧いねえ。いっぽう、第1幕で、サウルが、自分よりもダビデのほうを民衆が支持していることを知って愕然とするあたりは、ヘンデルのすべての劇音楽の中でももっともドラマティックな効果を上げているシーンですが、ここはヤーコプスよりガーディナーのほうがいい。さらに、前後しますが、全曲の冒頭、長めの序曲のあとにダビデの帰還を祝うアンセムがあるわけですが、ここはヤーコプスあんまり巧くありません。スカッとしない。ここもガーディナーの勝ち。

ソリストではジェレミー・オベンデンのヨナタンが悪声と言わざるを得ず困ったもんです。第2幕までしか出てこないからこれでいいと思ったのかなあ。しかしその他の人はよく歌っていると思います。ガーディナー盤のレイギンのダビデがどうにも品がないのにくらべるとローレンス・ザゾはだいぶマシ。ザゾには先輩カウンターテナーのエスウッドやショルほどのオーラはありませんが、どんな役もソツなくこなす。王女ミカルのローズマリー・ジョシュア、同メラブのエマ・ベル、サウルのギドン・サックスはそれぞれ役柄にふさわしい声質、歌い回しで満足できます。特にサックスは感情のぶれの大きいサウル役を説得力のある歌唱で演じています。それから、大祭司とエンドルの魔女をマイケル・スラッタリィ(Michael Slattery)というアメリカの若いテナーに兼ねさせていますが、巧く歌っています。

「全知全能」

2009年02月21日 | 気になることば
麻生さんが「景気回復に全知全能を傾ける」と言ったそうで、これも誤りなんですが、これはときどき見かける誤用で、漢字の並びから言っても意味は通じるし、まあ許してあげて差し支えないレベルの話だとわたしは思います。

文字づらでは「すべての知識とすべての能力」というふうに漢字が並んでますからねえ。ことばの正しい使い方はもちろん知っておくべきですが、ついうっかり言い間違える、ってことはこの場合往々にしてあり得るでしょう。

ほんとは、「全知(全智)全能」というと次に来ることばはほぼ「神」と決まっています。国語辞典で「全知全能」を引くとたいてい「全知全能の神」という例が載っている。英語では"Almighty God"ですね。オールマイティー。完全無欠。このことば、ヘンデルのオラトリオにもたまに出てきますよ。

言うまでもないでしょうが、麻生さんは「景気回復のために全身全霊を傾ける」と言いたかったんでしょうね。

わたし、麻生さんにはもともと同情してたんですよ。こういう思いもよらない景気悪化に出くわさなければ、この人、かなり人気のある総理大臣になり得たんぢゃないかって。しかしせっかく福田さんが選挙のタイミングを図って譲ってくれたのに総選挙やり損ね、国会では口の軽さもそうとうなもんだ。思っていたほどの器ぢゃなかったかもしれんですなあ。中川昭一さんの件も、あの人が国会の本会議場で財政演説かなにかしてるのをテレビで見たんですが、もうその時、どこか呆【ほう】けているような、異様な感じがしたのを憶えています。そういうことが見抜けないで肝心かなめの要職につけたままにしといたのは、やはり麻生さんの失錯です。

自民党としては、小泉さんをもっと早く辞めさせて、そのあと麻生さんをもってきて、政策の揺り戻しをやっとくべきでしたよ。(ってあの小泉人気ぢゃ無理か。)そしたら今ごろは安倍さんあたりが総理大臣で、まあ不況からは免れ得なかったでしょうが、そこそこ堅実にやってくれていたかもしれません。

それにしても民主党の山岡さんの悪代官顔って、何とかなりませんか…。あの顔がテレビに出てなにかしゃべってるのを見るたびに、絵に描いたような悪役顔なんで感心してしまいます。

クラークス・グループ『オケゲム/ミサ・ミ・ミ』

2009年02月20日 | CD 中世・ルネサンス
Ockeghem
Missa Mi-Mi
Salve Regina & Alma redemptoris mater
The Clerks' Group
Edward Wickham
CDGAU 139

1994年録音。63分23秒。ASV/Gaudeamus。オケゲムの《Missa Mi-mi》と《Salve regina》《Alma redemptoris mater》。ほかにヤコブ・オブレヒト、アントワーヌ・ビュノワ、ハインリヒ・イザークのモテット1曲づつ。クラークス・グループらしく、ふわりとした、浮遊感のある演奏です。クラークス・グループはオケゲムのミサを数多く録音してきています。

《Missa Mi-mi》はヒリヤード・アンサンブルのも有名ですが、わたしとしてはこのクラークス・グループの演奏のほうが好みです。リラックスして聴きほれていられるから。

わたし、オケゲムについてはそのヒリヤード・アンサンブルのCD以外、ほとんど聴いてこなかったんです。オケゲムはたしか歌ったこともなくて、これは残念だったなあ。まあ、ぼちぼち聴いていこうかなと思っております。骨太なジョスカンのミサと較べると、オケゲムには不思議な軽みというか、繊細さというか、なんともいえないみずみずしさがただよいます。こういうのって、歌い出そうとするとジョスカン以上にむつかしそう。

クラークス・グループにはジョスカンの録音もあって、それもまあまあの演奏ですが、ジョスカンよりもオケゲムとのほうが相性いいのではないでしょうか。ただし、クラークス・グループのオケゲム、雰囲気はとてもいいんですが、もう少しメリハリつけてもいいかなという気もします。

ア・セイ・ボーチ『ジョスカン/ミサ・パンジェ・リングァ』

2009年02月19日 | CD ジョスカン
Josquin Desprez
Missa Pange Lingua & Motets
Maîtrise des Pays de Loire
A Sei Voci
Bernard Fabre-Garrus
E 8639

1999年録音。69分22秒。ASTRÉE/naïve。ア・セイ・ボーチがロワール県のchoir-school(合唱学校?)の生徒たちと協演した《ミサ・パンジェ・リングァ》。合唱技術の粋を尽くしたタリス・スコラーズ、また鮮鋭な声が個性的なペレス指揮のもの、それぞれ聞き逃せませんが、このア・セイ・ボーチのものはより日常的な雰囲気のなかにジョスカンの音の世界を淡い色合いで描き出そうとしています。パステル・カラーのジョスカン。

とにかく旋律線がやわらかい。タリス・スコラーズのもペレスのも音がくっきりしすぎていて耳が疲れるようなところあるでしょ。ここにはそれがありません。ほんとに聴きやすい。そして聴きやすいだけぢゃなくて、CD1枚聴き終わると、ああいいジョスカンだったなあとちゃんと満足させてくれる。これは素晴らしいことですよ。

若い子たちを使っているとはいえ、イギリスの聖歌隊の演奏にままあるような甘さはまったく感じさせません。むしろこのCDは、若い声のソプラノが演奏全体を良いほうにリードしているように思えます。実を言いますと、テナー、バスのパートで、ちょっと不用意なナマな発声の箇所がほんの少しあって、合唱歌いにとってはそっちのほうが気になります。

ホグウッド『ヘンデル/アタリア』

2009年02月18日 | CD ヘンデル
Handel
Athalia
Sutherland, Kirkby, Bowman, A. Jones, Rolfe Johnson, Thomas
Choir of New College, Oxford
Academy of Ancient Music
Christopher Hogwood
417 126-2

1985年録音。55分45秒/65分37秒。L'Oiseau-Lyre。《アタリア》はヘンデルのオラトリオとしては本格的な多作期に入る以前の作品ですが、完成度はきわめて高いです。それにまた演奏がすぐれている。いやーどうしちゃったんでしょうホグウッド。いいですよいいですよ。序曲の最初の音から、いきなりホグウッドらしからぬ充実ぶり。うーん、でもこのあと録音した《リナルド》はふつうだったからなあ。デッカの女王サザランドが横で睨んでいるんで緊張して、それで音楽がひき締まったとか?

ユダヤの神を奉じる神官ジョアドおよびその妻ジョザベス側と、女王アタリアとの対立がしっかり書き込まれているので緊張が切れません。それに、登場人物のソロを合唱が引き継いだり、合唱曲のなかにソリストが歌う部分がはめ込まれていたり、boySのゾリのあとを合唱が受けたり、たんにソロと合唱がかわりばんこに歌うだけではなくいろいろ変化がつけてある。ニュー・カレッジの聖歌隊はこの《アタリア》ではじつに調子がよく、大人の合唱団に迫るできばえ。

サザランドとカークビーと、それからアレッド・ジョーンズ。3人のソプラノが競演。サザランドは、タイトルロールとはいえ破滅する異教徒の女王の役ですよ。よくこの仕事受けたなと思いましたけど、別にどうってことないのかな。それはさておきサザランド、賞味期限切れすれすれながら、声のコントロールもできていて、役柄の強さをよく表現し得ています。とくに第2部で怒りにまかせて歌う"My vengeance awakes me"がいい。サザランドのコロラトゥーラ・ソプラノとしての残り香?がただよいます。

一方のカークビーのほうがじつは出番も多いです。実質的にはカークビーの歌うジョザベスのほうがこのドラマの中心人物ですね。80年代半ばというとカークビーの最盛期で、表現の幅の広いジョザベスという役を完璧に歌いきっています。

アレッド・ジョーンズはそんなに目立ちませんが、まあこんなものでしょうか。いまならもっと歌えるboySがいますけどね。ジェイムズ・ボウマンはいつ聴いても心から好きになれない声の人ですが、まあいいでしょう。そのほかアタリア側の神官メーサンが第1部で破滅の予感におののくアタリアをなぐさめて歌う"Gentle airs, melodious strains!"はヘンデルのテナーのためのアリアとしては出色のできばえ。ボストリッジもパドモアもヘンデルのアルバムで歌ってないけど、「なんでー!」って感じ。