平和の歌・核兵器絶滅へと戦った英雄の歌

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NO3 核問題

2020年08月02日 | Weblog

NO3 核問題

  婦人(当時学生)

午前8時 一舜の閃光(せんこう)直後爆風  外に出た時、広島は地獄に変わっていた。 真っ黒に焦げた顔。赤くただれた皮膚、ボロボロになった服を着た血だらけの人たち、病院に押し寄せてきた。階段や玄関まで負傷者があふれていた。(助けて下さい)(子供がーーー)。   毎夜のように、病院の広場で遺体が焼かれた。絶えない炎と人間の臭い。(2016年8月七日S)


    戸田平和記念館
横浜 戸田平和記念館  (反戦 平和と生命尊厳の哲学を発信する拠点会館)
1979年オープン
来訪者100万人へ

 戸田城聖が1957年9月、原水爆禁止宣言を発表する。その弟子の池田大作が、恩師の精神を受け継ぎ、核兵器廃絶へと、世界を舞台に反核展示、提言とう行動されてきた。戸田平和記念館は平和への発信の拠点として誕生させた。記念館には、戸田城聖の貴重な草稿及び核兵器の恐さしる資料、パネル等展示されている。現在、来訪者は100万人近くに。  2010年 作

 交通

   桜木町駅(JR) からバス 他もあり
   

解説 原爆は広島、長崎で多大の人が亡くなった。一発で何十万人も。家、ビルの姿もない。赤ちゃん、年配者、青年も無差別に。その無残さを、創価学会会長の戸田城聖は悲しみ、原水爆禁止誓言をされた。その弟子の池田大作は、師の戸田の精神を受け継ぎ行動した。世界へ、国連へ、原子爆弾廃絶へと行動した。その発信の拠点が戸田平和記念館である。まもなく、100万人になる。会館には原爆の恐ろしさをわかる。  2010年08月04日 作

 

 

NO2 核問題

戦争の悲惨


証言 壮年
 外国の敵は女性を狙った。胸を調べる。うちの姉はさらしまいて逃げたよ。

 婦人は漁船で逃げた。多くの乗客がいた。子供も、だが、敵は密告船がいないか、サーチライトで調べる。その漁船に赤ん坊が泣いた、男性の乗客は言った。黙らせろ。敵に見つかる。母は赤ん坊の口をふさいだ。男性は見つかる、早くだませろと。そして、母は、赤ん坊の口をふさぐ。赤ん坊は二度と息を返さなかった。

 その漁船に、サメの大群が押し寄せた。船長は、サメの恐さを知っている。餌をあげなければ大変な眼にあうと。

 証言 壮年
 サメ恐いよ、歯がすごいよ。奴らも必死だ、大群では小さな船をひっくり返すことも出来るだろう。

 漁船の船長は、小さな子供を、病人を投げた。海に投げた。私は(助けて)の声を耳にふさぐことしか出来なかった。

 この婦人はこの悲劇を言うのがいやだった。胸に秘めていた。この恐ろしい話をするのがとても恐かった。しかし、信仰して、使命を知った。未来の人達のために証言をしなければいけないと。平和のためにもと。そして、講演をされている。

 解説
 日本は中国に侵略した。そして、現住民との間でトラブルを起こし兵舎を構えた。なにしろ、何もないのだ、兵隊は、御飯も少ないのだ。上官の命令なんか聞いていたら大変だとばかり、現地で民家を襲った。武力でだからたちが悪い。故に、終戦なったら、日本が負けたと聞いたら現地人の人はここぞとばかり立ち上がって仕返しだ。
 日本の外地の庶民は大変である。そんな思いもよらないから。来た時には甘い言葉で軍の甘い話で来たのだから。日本は強いぞ、勝った、侵略ではない、正義の戦争だ、強い者の領地だ、土地は強い者のものとばかり侵略していった。ひどいものである。 前記の婦人は運がよかった。日本に帰ってきたのだから、そして、言いたくない証言をマスコミにしてくれたのは、平和のためにも貴重であった。何分、今の世の中、戦争映画などで戦争が美化されている。実態は悲劇なのである。戦争は無残なものである。子供を、病人を海に投げてしまうのを平気でやるのである。ひどいものである。
                                                   2009年8月作

婦人 (中国で終戦を迎える)

 ラジオで終戦を告げたとき、現地の人が暴動起こした。日本人は逃げるのにいっぱいだった。私は両親の手配した漁船で逃げた。逃げなければ殺された。男の服装で頭は丸坊主だった。

 

NO1 核問題

  原爆の恐さ  

広島 1945年8月 原爆広島投下

1回の投下で14万人ー20万人が死亡。



長崎 1945年8月9日 原爆投下7万人死亡