あれから55年・・アンヌのひとりごと

ズバリ!団塊の世代。ひし美ゆり子のブログsince・06・1・14

実相寺監督を偲ぶ会・・

2007年03月30日 18時32分30秒 | アンヌのひとりごと
昨夜は「実相寺昭雄監督を偲ぶ会」に行ってきた。
その日、3月29日は実相寺さんの70回目(古希)のお誕生日だ。
とにかく、明る~い・楽し~い会だった。
故人を偲ぶにはそれが一番ふさわしいと参加者が意気投合し、
「献杯」ではなく「乾杯」の音頭で始まった。
ウ~ンやったぁ!私もやっと実相寺監督と乾杯出来たのだ。

実相寺さんの交遊は幅広く意外にウルトラ関係は少なかったかナ?
満田監督、冬木透さん、蝮さん、熊谷健さん、円谷アキラさん等に交じって
祭壇の一番前の丸テーブルに私がデ~ンと座っててイイのだろうか。
飯島さん、池谷さん、桜井さんはお忙しそうに飛び回っていたのに。。
ウルトラ「マン」「セブン」の出演者の出席は蝮さん、桜井さん、私だけだ。
他には「ダイナ」のつるの剛士さんと「マックス」の青山草太さんがいた。

蝮さんのスピーチは相変わらず毒舌満開だっ。
『昔、実相寺の映画に出演しました・・未だギャラを貰っていません。
 昔、カツサンド30人前差し入れました・・未だ一言のお礼も聞いていません。
 (遺影に向かって)こら、ジッソージ、もう帰って来るなよっ』
もうもう場内が大爆笑でした。

女流作家・永井路子さんのスピーチの一文インパクトありました。
実相寺監督の口癖は・・『人生は、死ぬ時までの暇つぶし』だそう。
つぶせない程に暇を持て余しちゃったのかしら。一寸早かったんじゃないですか?
でも実相寺さんらしい一文ですね。

これまた実相寺夫人の女優・原知佐子さんのご挨拶も凄かった。
『皆様きょうは有り難うございました。
 私は娘に嫌われているのできょうはひとりで来ました。
 先日の葬儀のお返しの本が送られて来ないと何人かの方に言われましたが、
 まだの方で欲しい方はどうぞ遠慮なく言って来て下さい。
 ゆっくり送りますので、どうぞあせらないでお待ち下さいね。』
ブルーグリーンの渋いお着物をお召しになって落ち着いた未亡人風でしたが、
スピーチ後、おどけて飛んだり跳ねたり踊ったりお茶目な方なのですねぇ。
とても姉さん女房には見えません。お若い。

・・と、こんな楽しい偲ぶ会だったのです。

二次会はぜ~んぶ蝮さんのおごりで宴会場の下のレストランでやりました。
おまけに帰りに私とロコに過分なタクシー代まで下さいました。
ヤッタ~~~!蝮さんって相変わらず気前がイイナ。。

カラダの具合が今イチの私の筈なのに、三次会まで行ってしまった。
帰宅した時、時計は午前2時を回っていた。ウフフ・・不良ですね。

明日は秋葉原・石丸電気で「シルバー仮面」のトークに行きます。
お時間のある方ぜひいらして下さいね。

合い言葉は・・アンヌ缶

2007年03月29日 10時21分29秒 | アンヌのひとりごと
おはようございま~す。
きょうはお天気もよく気分までホっとしますね。
サクラもチラホラ開花しだし、うら若き乙女状態です。
週末はお花見には絶好期、満開状態でしょうねぇ。

ところで小耳に挟んだ知識なのですが、
サクラ(染井吉野)の寿命って約60年位らしいです。
でも、老木も手当てをすれば数十年は活気があるそうです。
そういや木の幹の辺りによく藁の様なモノが巻いてますよね。
あれは朽ちだした部分を根治を施した証しなんですって。
日本中に丁度60年ほど前一斉にソメイヨシノを植えたらしいですが、
そうか、サクラも団塊の世代だったのですねぇ。
私もまだまだ大丈夫、真っ盛りとは言わずも狂い咲きくらいはね(笑)

最近の私、絶好調とはいえませんが、何かとやっております。
きょうは実相寺監督の偲ぶ会に出席します。
昨日もフルハシ隊員(毒蝮さん)からお電話を頂き、
『明日は車をおいていくからアンヌもおいて来いよな!』
って・・嬉しい一報でした。お元気な証拠です。
今夜は実相寺監督が旧知の戦友たちを集めて下さったと思って
懐かしいメンバーに会ってきま~す。

さて、缶コーヒーアンヌ缶がたくさん業者さんから送られて来ました。
もし「アジアンタイペイ」にいらっしゃることがあったら、
合い言葉『アンヌ缶』って言って下さい。お一人ひと缶ずつプレゼント致します。
無くなり次第終了ですが300本はありますので。。

私の啓蟄・・

2007年03月25日 10時29分37秒 | 地谷子のひとりごと
驚蟄(けいちつ)
大地が暖まり冬眠していた虫が穴から這い出し顔を出します。
私の啓蟄・・
冬眠していた虫ならぬ石がご丁寧にも腎臓から這い出てきました。
「イイヨイイヨ!余計な顔を出さなくてもっ」って石に云いたいが、
既にもう7-8ミリの大きさに成長していて今は尿管にいるのだそう。
フーーッ。

きのう退院後、始めての検診で医師から詳しい説明をうける。
いずれにしても取り除かなければいけないのだそう。
除去法、二者択一を迫られ開口一番
「痛くないほう」
結局全身麻酔で手術をするコトになりそうです。ギョッ!

あ~ぁ、これが7-8ミリのダイアや金だったらねぇ。。
いずれにしてもカラダには傷を付けずに内視鏡での手術、
医療が進んでてヨカッタ。
そういや昨年から風邪?だのノロウィールス?だの、
陣痛の様な痛みに何度か見回れたけど、
フフーン、あれは石の仕業だったのですね。

まっ50代のうちにジャマッケは退治して、
明る~~~い60代を迎えようじゃありませんか。ねっ!


あれれそんなことより今北陸で大きな地震が発生したそう。


サクラサク・・

2007年03月21日 16時36分23秒 | 地谷子のひとりごと
サクラサク
昨日、全国に先駆け東京都心の桜が開花しました。
いよいよ春到来です!こうしちゃ居られませんっ。
・・って何やればイイのか?
桜が咲いたからって毎年のこと、さわがずあせらずです。

・・って、気持ちは大様に構えておりますが、
私「サクラ」の時期になると一種独特な風情に切なさがつのります。
見事にパッと咲いてからあまりにも散り際の儚さに
己の身も心も”はらひれはれ~”・・と感傷的になるんです。
これも暗示に掛りやすい私のコト毎年なんですよっ。
どこかに同様な方もいらっしゃるんじゃないですか??

サクラサクで思い出しましたが、
「サクラサク」合格  「サクラチル」不合格
昔は大学受験の合否の通知が電報で配達されたものです。
浪人生活を経験した二人の兄を持つ妹の身としちゃ、
一緒になってその電報を恐る恐る開く時のドキドキ感は忘れられません。


でも、ホントにこうしちゃ居られません。
体調も良くなりつつあるし、すこし表に出て足慣らしの散歩でもしなくちゃね。


一進一退・・

2007年03月18日 22時39分41秒 | 地谷子のひとりごと
退院して一週間にもなるというのにいまだ時折微熱が出ます。
夕方、寒気がするので体温計ってみると37、2度ありました。
電気毛布を入れた布団の中でうつらうつら一眠りしたら、
今は36、3度まで下がりました。

それでも昨日はサイン入れ(バンダイフォトパネル)を全て済ませ、
子供の保護者会にも行きその足でデパートへ買い物にもいきました。
が、翌日の今日はダウン。
何だか一日置きに行動しているといった感じです。
・・と云う事は明日は大丈夫な日なのかな?

そんな不安定な日が続いています。正直気弱にもなります。
こんな時優しく看病してくれる人がいたならな。。な~んて甘いな。
夫は仕事でいっぱいいっぱいだし、子供達も夫々忙しいみたい。
つくづく思いました。健康が一番!
あせらずきっちり治して早く健康を取り戻さなくっちゃネッ。

なんだか去年の6月1日、骨折してからというものあまりイイことないわね。
おっとー、スミマセ~ン、愚痴ばかりで。

そう云えば私の本名「地谷子」八卦につけて貰ったらしいのですが、
八卦といったら中国からきているので中和辞典で調べたら、
谷子とは中国語で粟(アワ)という意味らしい。
「地谷子」を引いたら「地面いっぱいのアワ」と訳されました。
アワは昔は主食です。
・・って云う事は食いっぱぐれのないよう付けられた名前かも?
あ~そんな事思ってたら今になってお腹空いちゃった。
おにぎりでも食べよっと。

緑の恐怖も真っ青・・

2007年03月14日 14時55分02秒 | 地谷子のひとりごと
だいぶご無沙汰しております。生きてますよー。
先週は、思ってもみなかった異物に振り回され
一週間の入院生活を余儀なくさせられました。

犯人はストーン(石)
な・何と私の腎臓に石が住んでいたのです。
もうもう「緑の恐怖」も真っ青です。
その石が悪さをして私の腎臓を冒してたんですが・・

左脇腹のズズーンと激痛に始まり、(脂汗タラタラ)
高熱・悪寒・目眩・嘔吐で居ても立ってもいられません。
診察途中から車椅子なしでは移動出来ない状態でそのまま即入院。
約一週間の点滴の末、4日前に解放されました。

てな訳でまだ本調子ではないのですが、
ゆっくりと様子を見ながらブログ生活にカムバックしようと思っております。
皆さま、宜しくお願いいたしま~す。”ペコリ”
お陰で体重2キロ減、ウレピー。

千坪の邸宅と大正ロマン!?団塊世代のひとりごとPー6

2007年03月03日 13時55分21秒 | 地谷子のひとりごと
「ここだよ~。」
母や姉の顔がフリーズした。
「どこが1000坪なの?」
「いや~裏に回ってみてご覧っ。広いぞ~」
父の云った「1000坪」とは何と住いの裏の邸宅が千坪だとっ。
「窓からウチの庭だと思って眺めてりゃ同じ事さ。ハハハ」

一家6人三鷹での新生活が始まった。
一軒家ではあるが6帖2間に3帖の板の間に台所だ。
6人住むには窮屈な家だった。おまけに中野と違って水道がない。
外に出て井戸水を汲みに行く、母は溜息ばかりをついていた。
「三鷹って田舎ネ~」

母の嘆きの極め付けは内風呂の無いことである。
人前で裸を晒すのはイヤだと近所の銭湯には一切行かなかった。
夜な夜な薄暗い台所でタライで行水をすませた。
近所のおばちゃんに
「ちや子ちゃんのお母さんいつお風呂に行くの?」
応えに困った。
「ウン?夜遅く。」
それでも冬場はたまに吉祥寺の駅むこうの銭湯まで
買い物籠に風呂道具をそっと忍ばせて
人目を忍んで入りに行っていたらしい。

子供心の私の夢は、内風呂のある家に両親を住わすこと。。
アンヌ隊員のギャラじゃとてもとても無理だったなぁ。
それが叶ったのはズーっと後のコトだ。

銭湯にはよく父に連れて行かれた。
父はカラスの行水なのでさっさと上がってしまう。
男湯にひとりポツンと残された少女、子供と云えども恥ずかしいものだ。
イヤな思いや恥ずかしい思いはいつになっても忘れられないモノですね。

あっそうそう銭湯と云えば姉と一緒に行った時のこと。。姉が
「あの人、ゾルゲのお妾さんよ。」
度々見かける50がらみの断髪でほっそりとしたモダンな感じの女性だった。
当時「お妾さん」の意味も分からない私だったが「ゾルゲ事件」の超本人。
ゾルゲとはロシア人のスパイ「リヒャルト・ゾルゲ」
何とか法違反?で尾崎秀実と共に日本で1944年処刑されたらしいが、
後に愛人の石井花子さんによって多摩墓地に埋葬されたらしい。
いつも銭湯でお見掛けした方がその「石井花子」さんだった。

愛人と云えば・・話が拡散しそうなので端折って書くが、
女流作家の山田順子の寂しい晩年もご近所に身を寄せていたので知っている。
作家の名声よりも人妻でありながら竹久夢二や徳田秋声と浮き名を流し
いわば魔性の女かも知れない。
恋多き大正ロマン画家「竹久夢二」の愛人お葉から横恋慕し
夢路と秋田に逃避行したが、わずか半年足らずで別れている。
翌年30才年上の小説家「徳田秋声」の愛人になったんだとサ。


「大正ロマン」って響きのイイ言葉だ。
文壇や画壇に身を置く人の情炎に身を焦がす話は数知れず、
私が崇拝する「宇野千代」も昨日ここのブログに出た「東郷青児」と、
また梶井基次郎や尾崎士郎ともかなりの狂恋だったらしい。
調べてみるとその東郷青児も若い頃竹久夢二の女性に横恋慕した~!?
明治生まれの人ってけっこう激しいねぇ。

憧れるな~。
ウチは大正生まれの母だが「二夫にまみえずタイプ」だ。
今や「男はロマン・女は我慢」なんてぇ云っていられない。

同じ一生だもん、私もまだまだ人生楽しまなくっちゃ!

新天地へ一家大移動・・団塊世代のひとりごとPー5

2007年03月02日 23時51分46秒 | 地谷子のひとりごと
昭和29年8月某日、
初めて見た吉祥寺・・井の頭線のガード下には
まだ露店商が地べたに商品を並べ、
片隅では白装束の傷痍軍人(しょういぐんじん)が
物悲しい音色のアコーディオンを弾いていた。
まだまだ戦争の名残りの残っているご時世だった。

今でこそ若者の集うオシャレな町並み吉祥寺だが、
その変遷は程なくして徐々に見え隠れしてきたのだ・・
そう!まさにあの「3丁目の夕日」の昭和32-3年頃か?
そのガードのあたりにオシャレな高級洋菓子店「ボア」(Bois)
いつしか吉祥寺の名店になっていた。
東郷青児デザイン画の包装紙を使った「ボア」
今でもあるのだろうか?

話は戻るが・・
駅から南に直進して5分程歩くと階段下は井の頭公園のど真ん中、
軒並み「氷」の旗を掲げた茶店があって鯉の餌(麩)も売っていた。
その先は大きな池に長~い七井橋が掛っていた。

橋の途中で麩をばらまくと40-50センチはあろう見事な鯉が
大きな口をパクパク開けて面白いように寄って来た。
側でカイツムリがすばしっこく水面に出たり入ったりして、
遠くのほうにはアヒルの親子が優雅に行列していた。

それを眺めていた私は子供心になんだか得した気分で、
「凄~い!イイ処に越して来たねっ。お父ちゃま。
 このお魚釣って食べれば晩ご飯のおかずも助かるよねっ」
「バカだな、泥臭くて食べられたモノじゃないよ。」
いやいや我ながら天真爛漫な子でした。
この頃父は齢49才を迎える誕生月だった。(明治38年8月31日生れ)

そのうち引っ越し第2グループの
母・姉・兄二人4人連れ立って橋の上に追い付いて来た。
姉が「今そこの茶店でかき氷り食べたのよっ」
「ウワ~ずるいずるい」
「ちや子はお寿司食べたんだからイイじゃない」
「私もかき氷たべたかったよ~~う」
かき氷よりも何よりも母と一緒に食べた姉兄が無性に羨ましかった。
(このかた母とは一度も外食などしたことなどないのです。)

「もうすぐそこだよ、あと2-3分だ。」
父に連なって6人の親子は千坪あるという新天地?に行列した。

新天地・井の頭!?団塊の世代のひとりごとPー4

2007年03月01日 15時24分01秒 | 地谷子のひとりごと
昭和29年夏・中野の生家から井の頭公園に引っ越しだ。
父は1000坪のところに引っ越すと家族に豪語していたが・・

引っ越しの先発隊として父と私ふたりは電車で移動だ。
父にとって10数年住み慣れた町を後にする思いはどんなだったのか?
途中、父の馴染みの店か?都立家政駅で寿司を食べさせてくれた。

父が寿司屋の店主に何やら挨拶をしていた。
店主が「おなごりしいですなぁ。お元気で・・」
”おなごりおしい”
その日はご近所の皆から散々聴かされた耳新しい言葉だ。
7才の私には妙にへんてこな言葉だった。

西武新宿線で新宿を経由して省線(ショウセン)父は当時そう云っていた。
今でいう中央線に乗り換えた。車両はチョコレート色だ。
「ねえ何と云う駅で降りるの」「きちじょうじだよ」

車中”きちじょうじ”が一回では覚えきれず何度か父に聞き返した。
結局覚えられず「キリンのきがつく駅・キリンのき・・」とひとりごとを反復して
停車する度にプラットホームに掲げられた駅名プレートのひらがな文字を探した。
途中、ふっと以前母に「お行儀悪い」と叱られた痛い思いが脳裏をよぎった。
後ろ向きに車窓に向かって膝立ち座りは人様に迷惑と散々言れたが・・父は叱らなかった。

大久保・東中野・中野・高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪・西荻窪・吉祥寺
各駅停車で行くこの8駅が私にはすごく長く感じた。
(今でも電車嫌いな私の原点はここから始まっているのかも。)

「キリンのき」がつく文字がやっと目に入ったっ。
「吉祥寺駅」が転居先の最寄り駅なのだ。

昭和29年8月某日・・三鷹市牟礼(現・井の頭4丁目)が、
菱見地谷子がアンヌやゆり子になるまでの新天地に踏み出す一歩だった。
さて1000坪のところはどんな場所だったのか?

朗報&御礼!

2007年03月01日 11時38分31秒 | ゆり子のひとりごと
ひし美ゆり子写真集 YURIKO 1967-73(新装版)
昨年の秋に第5刷りとして結構な多部数刷られましたが、
ナントお陰さまで第6刷りが重版される事に決定致しました。
皆さま~有り難うございま~す(ペコリ)
たった7年間ものプライベート写真ですが保存して置いて良かった!

イエネ、この写真集を刊行する一寸前に親友から
「チヤちゃん、そろそろ貴女の昔の写真を処分しといた方がイイわよ。
 子供達があとで大変な事になるわ」
と云われたところでした。
彼女のお母さまも女優さんで東宝映画の前身PCLのスターさんでした。
お亡くなりになった後、彼女が大変な思いをされたとか・・
うふふ危機一髪でした〜。

まだお手元にない方はぜひこの際お買い求め頂ければ幸せで~す。

ひし美ゆり子写真集 YURIKO 1967-73 <新装版>

ジェネオン エンタテインメント

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