「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

ブログ人のつながりについて

2008年01月03日 09時29分51秒 | BLOG論
 あけましておめでとうございます。

 って誰もいない雰囲気の中で、打ってますが。

 あれほど、毎日更新してたのに、なぜだか書く気力が伴わなくて随分と失礼しています。

 日記ですから、いつ書こうがやめようが勝手なんですが、この世界に存在する、ブログで繋がっていた人たちの人間関係をほったらかしにしていて良いのかなというところは、ずうっと引っかかっているって言うのはあります。

 で、そんなものに責任感を感じてたら、ネット社会ではやっていけないよと言う声もあるわけでですね。
 ブログの責任感って何だろうって考えると、随分とぼやっとした考えしか浮かんでこないんですよ。
 今年も年賀状が届きました。
 もう随分お会いしてない人もいたりして、それでも元気でがんばっていらっしゃるんだなって感じますよね。
 年に一度の生存確認みたいなものですね。

 で、それをブログの世界でやったらどうなるんだろうって思うんですよ。

 やはりそんな風に思うのだろうかって。

 僕はブログの人間関係ってもう少しシビアかもしれないって思うんですね。

 ある程度は継続していかないと、薄くなってしまう。

 一年に一度きりじゃだめなんじゃないか。

 なぜなんだろうか。

 年賀状だけでも繋がっていいるという実感がもてるのは、その人と僕が直接触れあった経験があるからで、年賀状一通でもその人の質感が蘇ってくるからだと思うんですね。でもネット上の人間関係にはそれがない。

 だからブログ上の人間関係における責任感は、その人の勝手な道徳観にすがるしかないような気がするんですね。

 このブログで多くの人と出会いました。積極的に拡げることもしました。そしてブログを継続していけば、少しずつでも世界やネットワークが広がっていくものだと考えていました。
 でも実際は少し違って、増えていく速度よりも消えていく速度の方が早い気がするんですね。
 いや、速度の問題じゃなくて、突然、何の前触れもなく断ち切られる衝撃の強さが人とのつながりを求める心を臆病にさせているといった方が良いかもしれません。

 新年早々なんてこと言ってるんだと思うかもしれませんが、

ブログの公共性とバランス感覚 七尾藍佳さんのブログについて

2007年09月27日 00時40分20秒 | BLOG論
 七尾藍佳さんのブログにコメントが書けなくなりましたね。それから記事が一つ削除されましたね。総理を決める選挙の途中で福田さんよりの記事をあげていたんですが、それがどうも叩かれているらしくて、コメント承諾制で載せるつもりだったんだけど、それをするともっと批判を浴びそうな気配になったんっだろうね。まあジャーナリストとしての公平性に欠けるとか書かれたんだろうね。オフィシャルブログって銘打ったのはなぜなんだろうって疑問に思ってたんですね。今まで通りプライベートで充分じゃないのかなって思ってたんです。それで七尾さんへのコメントとして記事の書き方のスタンスが変わらなくてホッとしましたって書いたんですが。現実は厳しかったようで、ブログにオフィシャルの要素が加わると、どうもこれは公共放送じみてくるんですな。しかもジャーナリストの一員として、一般人の入れない空間に入って仕事してるんですから、尚更なんでしょうね。

 七尾さんは、評論家や政治家やジャーナリスト、キャスターとしてもとてもバランスの取り方が上手な人なんですけど、それでもブログは個人の意見の言える場所ですから、多少は主観的にならざるを得ない。

 だからってそれを責めるべきではないかと思いますね。

 あえて言えば仕事の内容というか、取材したニュースソースをダイレクトに汲み上げて藍色に染色して、オフィシャルなものに載せてしまったことで、芸能人ブログで楽屋落ちのネタは載せないようにするのと同じような倫理規定を自ら設けるべきだったのではないかと思うのです。

 ブログってものすごい無責任なものだと思うのです。いつやめても良いし自分の都合で運営されてますね。ですから事故倫理規定ってのを持ってないといけないんですね。しかもオフィシャル(公式)って言っちゃってるでしょ)責任を生じさせてますよね。書くことに。ホントに本人が正直な気持ちを述べてますよ。他のメディアのフィルターはかけてませんよ宣言してるんですね。

 まあどうなっちゃうかわかりませんが、コメントのないブログなんて、クリープのないコーヒーみたいなものだ、ですかねえ。(古!)

ブログの締めくくり方について考える

2006年06月25日 23時08分11秒 | BLOG論
 ブログも長く続けていくと、だんだんと心に疲労感に似たものが溜まっていくようで、特にブログを毎日付ける日記のかわりだと認識している人に多い慶子なのではないかと疑っている。

 ブログは日記であるからその日あった出来事を綴っていけば、それで充分なので書くことが無ければ書かなくて良いし、書けるなら幾つの記事をアップしても構わない。

 しかし、ずうっと更新を続けていると、ある程度毎日更新しなくてはいけないという義務感に襲われる。

 その理由としては、ブログを見て下さる人達に対して失礼が無いようにしたいという心の働きが作用していると思う。

 記事数が五〇〇を超えてくると、更新がなくても50~80位は毎日コンスタントに覗いて下さる方がいる。

 数は違うが、他のブログでも久しぶりの更新となった人が、その第一声で謝意とともに驚きに似た感動を述べていることが多い。

 「しばらくぶりの更新なのに毎日こんなにも大勢の人達がこのブログを訪れてくれてたことに感謝します。」に類した記事にかなりの確率で出会うことになる。

 つまりそういう人は自分のアップする記事に関してはある程度のレベルを維持したいと考えていて、自分のブログに来る人もそれを望んでいるはずだと確信して、
へたな記事は上げない方が良いと判断するケースがあるのではないかと思う。

 この感想は僕の実体験であって他の人には当て嵌まらないかもしれないが、そうるすると更新はかなり飛び飛びになる。

 で、いっそのこと辞めちゃおうかなという気分が下の方から鎌首をもたげてくるのであるが、実はブログというものは簡単に締めくくれないのも事実である。


 サッカーワールドカップでのブラジル戦で負けた直後から6分間、中田英寿はピッチの上で一人で泣きながら20代最後のワールドカップ締めくくった。本人の意図は想像に過ぎないが、締めくくりとしては分かりやすいし、本人も後の態度をはっきりさせやすい反応だったと思う。

 次元が違うと笑われそうだが僕らはブログをどのように締め括るのが一番良いのか、考えてみたいと思う。

そして大気圏外へ

2006年05月13日 00時26分09秒 | BLOG論
 終わってみると短かったねえ。昨日は閲覧数270、アクセスip205でございました。

 だいぶ落ち着きましたねって、それでも日頃の倍以上ありますね。


 ただしもうアクセスランキングの対象外になりました。


 しかし、一日のアクセスIPが200を超えていても全然圏外なのですね。最低でも一日に229人の方が訪問しないと1000位以内に入ることが出来ません。ほんの1年ちょっと前ならば130を超えればランキングに入ることが出来たのに、今は論外なのね。

 
 

僕のブログで起こったアイロニー  ベスト100入りに寄せて

2006年05月10日 22時58分20秒 | BLOG論
 1昨日から僕のブログで起こっている現象は、ついにピークを迎えたようで、昨日1日でアクセス総数1031、アクセスip(訪問者数)915を数え、541890のgooブログの中で93位となりました。

 この現象が起きたのは、冷凍ミカン4個入りはブレイクするのかの記事が駄文ニュースに紹介されたからだ。

 このページに一体いつ掲載されたのかは定かでないが、僕のブログのアクセス解析からすれば8日の午後11時から12時に突如108人の訪問者が記録されていることからだいたいは想像できる。
 
 そして9日の午前0時から1時の間に89人、1時から2時の間に65人とやや数字を落としながらも僕のブログではあり得なかった数を連続させていた。

 だから昨日の結果はある程度まで予想は出来た。でもそれは伸びるだろうな、ぐらいのものだったから、93位という結果には驚いている。


 で、僕は「冷凍ミカン」の記事で、巨大なメディアに翻弄される慎ましやかな存在があることを知ってもらいたかった。

 しかし皮肉にも、まさしくその記事によって、大型のニュースネタサイトに紹介され「冷凍ミカン」と同じ運命と同じように一時的なヒットを生み出しているのである。

 で、それが何で一時的なものだと分かるのかというと、これだけのアクセス数を出しながら冷凍ミカンに関する記事に一つもコメント、トラックバックが増えていないことからも瞭然状態と言っていいのだ。


 しかし、なんだね。この駄文ニュースの管理人の人ってある意味すごいなと思う。

 どんな偶然か知らないけれど、こんなランキングにも乗らない、辺境のブログを見つけ出して、なおかつしっかり読んでいるのだからね。

 

 

メル友があるんだからコメ友があったっていいじゃなかについて考える3

2006年04月27日 22時19分34秒 | BLOG論
 コメントするのって勇気が要りますね。

 勇気を必要とする根拠は恐怖心だと考えていいのではないでしょうか。

 コメントしたことによって傷つけられる恐怖心。

 ただ傷付き方ににも、その傷の深さにも色々あって、それぞれ違うと思うのです。

 コメントすることによって人はどのように傷付くのでしょうか。

  無視される。

  非難される。

  削除される。

  自分のブログに乗り込んでくる。

  コメントした相手を傷つけてしまう。

 具体的に挙げてみるとそんなに数はないのだと言うことに気付きます。

 そしてそういうことが滅多にないことも私たちは知っています。

 とすると実は僕達は上に上げたような具体的なものでなく、もっと漠然とした恐怖からコメントをためらうのではないかと思うのです。
 
 つまり僕らの恐怖感は相手に対してでなく自分の内側にある何かに原因を求めているのではないかということです。


 その原因というものを色々考えたんですが、極端な話、自分が自分のことをあんまり信用していないことから起こるのではないかと思うのです。

 ということは僕らのコメントに対する一種の恐怖感って、完全ではない自分が他人に受け入れてもらえないかもしれないという不安であると言ってもよいのかなと思います。 

 だからコメントをするときに僕らは、その記事の書き手の何処を見てるかというと、その人が自分でも受け入れてくれる人かどうか、つまりより優しい人を、というより優しい言葉遣い、もしくは懐の深そうな文脈を手がかりにしているのだと思います。

 という観点でブログを見ていくと、閲覧数は少なくてもコメントが沢山つくブログの存在も無理なく説明がつくのではないかと思ってます。

 そういう点では、僕みたいなおじさんブログは脇が甘い部分がいっぱいあって、どうしても年下の人には上からものを言うような口調も出てくるし、元来が鋭くて厳しいツッコミが信条の僕としては、コメント数が拡がらないのも頷けるわけです。

 それなりに気を付けているんだけどなあ。

 まだまだ修行が足りないようで、反省しきりです。

 次はどうなりますことやら。  

メル友があるんだからコメ友があったっていいじゃなかについて考える 僕らのであいかた

2006年04月24日 21時57分20秒 | BLOG論
 メル友と記事にブログを通して築く人間関係(面倒くさいので以後「コメ友」と呼ぶ)で決定的に違うのは相手に対して面識があるかないかだと考えている。

 メル友も出会い系とかあるけど、ごく一部の利用法として排除し(いいのかな?)考えないことにする。
 出会い系もいずれは面識をもつことを前提としているからだ。

 思えば、携帯電話の番号がそのままメールアドレスであった時代には唐突に「メル友なりませんか」というお誘いがありました。

 男から…。

 まあそれは良いとして

 僕らはどのようにして出会うのだろうか。

 思いつく限り挙げてみる。

 1.単語検索をして引っ掛かったので来てみた。

 1.新着記事の欄からタイトルが面白そうなので来てみた。

 1.アクセスランキングに載っていて来てみた。

 1.トラックバック練習版に掲載されてたので来てみた。

 1.プロフィールに興味を持って来てみた。

 1.画像に興味を持って来てみた。

 1.雑誌やテレビ等のメディアを通じてその存在を知って来てみた。

 1.他の人のブログのブックマークにあってきてみた。

 1.他の人の記事にコメントをしていて、興味を持って来てみた。

 1.他の人のブログにトラックバックしてあったので来てみた。

 1.自分のブログにコメントをくれたので来てみた。

 1.自分のブログにトラックバックを貼ってあったので来てみた。


 もっとあるかもしれないけどこんなものかな?

 気付いたら教えて下さい。

 で、メル友の場合は最初に何らかの面識なり、友人のつてであったりしても知っている人同士の繋がりな訳で、もっと言えばメールアドレスという結構プライベート(ダイレクトに本人にアクセスできるという意味で)なものを教えるんだからそれなりの防御壁を越えるだけの魅力が相手にないといけないわけですね。

 で、今時の静岡の田舎の中学校では、どんなに遅くとも卒業時に携帯電話を持つのが常識だそうです。
 それは卒業式の後に進学先がバラバラになっても連絡が取れるようにみんなで?メールアドレスを交換するそうで、それに加われないともの凄い寂寥感におそわれるようです。

 で、高校にはいるとその個人情報が流れて、訳の分からない人からメールが来たり、暴走族などの資金調達に使われたりします。
 いきなり「3万を何時までに何処其処にもってこい」ってメールが来るらしい。

 そういう変な繋がりに発展したとしても最初は実に人間として密着した関係にあるのに対して、「コメ友」は言葉、もしくはフレーズ、もしくは文章のリズムから推し量る、ごく限られた人格に興味を抱いて近づいていくに過ぎないのである。

 次は出会いからコメントを付けるまでの心理について考えてみます。 

メル友があるんだからコメ友があったっていいじゃなかについて考える

2006年04月23日 00時51分47秒 | BLOG論
 ブログの楽しみの一つにコメントを頂くことがある。

 これって管理人に当たられたメッセージなのだから、その意味では携帯やパソコンに送られてくるメールと同じようなものだと思っても良いはずである。
 だからいわゆるメル友という言い方があるのならコメントを通じて親交を持つ「コメ友」という呼称や「ブロ友」なる呼び方があって良いはずである。

 だけど「メル友」と「コメントを通して係わっていく人間関係」を同列に見ることには違和感を覚える。

 どうしてなのだろう。

 少し考えてみようかと思っている。

 
 

TB武勇伝

2006年04月11日 00時15分21秒 | BLOG論
 時たま突然なんの前触れもなくTBが付くことがある。それはそれで別に良い。そうするとこの世界でのマナーとしてTBの付いたブログに跳んでお礼の気持ちを込めて読ませて頂き、挨拶代わりにコメントを残すことになる。

 で、その後、その人がこっちのブログに来るかというと、そういったものだけではないことに気付く。

 自分がTBのお礼代わりにつけたコメントに対し何らかの返事があるかと思いきや、幾日経っても一向に返事が書かれることはなく、みると色んなところにTBをしているらしく、僕と同様に義理コメント的なものがブドウの房のように連なっている。そして管理人はそういった人々にも返事を書いていない。

 なんなんだろう?この神経はと考えさせられる。

 この痛快なまでの無神経さを考えてみたいと思った。

 しかし分からない。

 アクセス数稼ぐためだけのTBであるならばこれほど愚かなことはない。

 コミュニケーションをとりたいならコメント等、何らかのアプローチがあって良いはずだ。

 ところが現実には何もない。

 こういった姿勢でブログに臨む人の多くに結構な高齢者がいる。傾向として多いといっても差し支えないと思う。

 そういう人が自分のブログを書くのであるから人生経験で積み上げたというプライドがあり、許容できる範囲も自ずから限定されてくる。

 そして人生を経てきたことの自信からか、あくまで雰囲気ではあるが良い記事を書いたので同じ話題でかいた君等には我が輩のブログを当然読むべきである。

 読んでコメント書いてそうそうに立ち去れい!

といってるようで、

放置されるコメント2 痛み

2006年03月25日 00時25分35秒 | BLOG論
 前回の「放置されるコメント」という記事が各所に波紋を呼んでいるようです。自分も書いていて、痛いなあ、と思った訳ですが、それ以上に僕がコメントをつけさせてもらっているブロガーさんにとって辛い思いをさせてしまったことに、謝意を表したいと思うわけです。
 
 といいますか、この「コメントを放置する」という好意は毎日欠かさずブログをしている人以外は必ず経験があるわけで、ブロガーとして1年以上のキャリアを持つ人なら誰でもが抱いた感情なのではないだろうか。
 そしてそれは「放置する」側だけでなく「放置される」側の経験でもあり、今回のこの稿で皆さんが、少なからずそれは多分コメンターに対しそれがどんな事情であっても、少なからず礼を欠く行為であることを自覚なさっているという証拠なのではないだろうかと思う。
 しかし著名人ブログだけでなく、コメントに対し、その数に関係なく一切返事をしないという方針があってもそれはそれで、「有り」なわけで、ブログが情報発信であったり、恣意的にコメントが選択されて返事を書こうと、それは自由なのである。