本日の講義(ZOOM)の中で「文献学」という用語が飛び出してびっくり。
講義中には、仏教学=文献学、という位置づけで使用されていたのですが、私は大学院院長による面談の際に、修論=文献学である、と言われました。
文献学では、書かれていないものは語らない、というのが定義らしい。
仏教学が文献学化していったのは40~50年代のことで、それまでは別のとらえかたもしていたそうですが、現在では違うことをやろとすると抵抗感があり、正面切ってやろうとすると色々工夫が必要であるそうです。
この40~50年というのが1940~1950年なのか、昭和40~50年なのか不明というところが我ながらおそろしい。
あまりにも無知ぶりで聞きたくても聞けない。
文献学に該当するものでなければ仏教学でない、つまり修論ではありえないということになります。
いまだ修論のネタが天から降ってくるのを待っている私としては、独創的なアイディアはまったく意味のないもので、考えるだけ無駄。
本棚に積んであるわけのわからない仏教書の中にしか見つからないということなのか。
ある人の質問で、医療関係者が仏教と医療の倫理とを結びつけて研究している例があるかどうかを先生に尋ねていました。
仏教と倫理とは対立するところがあって実例があったら教えてほしいくらいだと言われた、その理由はなにか。
仏教は対機説法から始まって答えがひとつではないのに対し、倫理とはみんなで決めるルールにしたがってひとつであるということから。