昨日ジャガイモ畑と田んぼに堆肥を撒いた。
ようやく春が来たのである。これからまた一年間、フィールドでのさまざまな「いのち」たちとのつき合いが始まる。そしてこの軽トラ3台分の堆肥は、夏から秋にかけて実り豊かな「収穫物」となるはずだ。
しかしダンプに堆肥を積む過程で、ちょっとした「思わぬ障害」に出くわした。
堆肥の中のそこかしこに、かぶとむしの幼虫が顔を覗かせているのだった。(中にはお尻を覗かせているのもいる。)
(「堆肥を占領した生き物の記録」 参照)
これは困った。このまま畑に撒くのは容易いが、そうしたらいずれこれらの虫たちはみんな殺されてしまうことになる。
我が家は無化学物質栽培なので確かに手作業は多いけれど、それでもある程度の機械は使っている。機械というものはほとんどの場合、画一的な作業を大量にこなすために作られている。だから便利な反面、それが産むさまざまな結果には注意を払わないといけない。例えば耕耘機の場合、それが通る道筋の土中の虫たちは、ロータリーに巻き込まれて死んでしまう。「大量虐殺」そのものだ。
いつもその光景を目の当たりにするにつけ、機械を使うことにある種の抵抗を覚えるのだけれど、いかんせんこれが無ければ最終的に今の我が家の生活水準を更に落とさざるを得ない。長い間機械無し(スコップと鍬)で農作業をして来た経験が私にそう語る。実際我が家の耕耘機は一年を通して活躍をしているが、これを人力で耕すとしたら、30倍の時間にぎっくり腰のおまけが付いて返ってくるだろう。
私は堆肥の山を掻き回し、カブトムシの幼虫を拾い上げては隣の新しい堆肥山に引越しさせることにした。探せば出て来る、出て来る。去年あんなに拾い上げたのに、丸まると太った幼虫が次から次へと現れた。どれもお尻が黒味を帯びている。後少しで蛹になるんだろう。
それは「カール」というお菓子の形に似ている。それよりひと回りふた回り大きい幼虫を摘まんでは投げ拾っては放り・・・たちまち何十というカブトムシたちが新しい堆肥場に積み上がった。
堆肥の撒布は農作業の中でも肉体的負担の大きい、重労働の部類に入る。今回はカブトムシたちのお陰でその上に思わぬ追加労働が加算された。まったく自然相手の仕事は、予想も計画もほとんど無きに等しいんだなあ・・・。
ふっ・・・! しかしカブトムシごときの虫命救助で音を上げる私ではさらさらない。たくさんいるとは言っても相手は所詮、初春の寒さに震えるか弱い虫たちだ。両手でごそっと掬い上げては、そうれ!と放り投げれば済む。しかしながら実はそれどころではなく、それ以上に難敵とも言える相手が畑には待っていた。
見た目にはとてつもなく大きなカブトムシの幼虫の形に似てなくもない。
まさに私がスコップに掬った堆肥を撒こうとしたその畑の畝に、ごろんごろんと、あるはのた打ち回り、またあるはスヤスヤと春の柔らかい日差しに居眠りをして一向に動こうという気配も無い。
猫たちである。
私の行くところ、畑だろうが裏庭だろうが、付き纏っては必ず邪魔なところに位置する、しかし1匹だけならまだしも、大概複数または集団で徒党を組んで、時にすこぶるやっかいな「障害物」と化して作業をする私の前に立ち塞がる。
畑の真ん中で山盛り堆肥のスコップを手に、私は立ち竦んだ。
言って大人しく聞いてくれる奴等ではない。しかもみんな先程耕したばかりの畝の中でごろんごろんしている。余程気持ちがいいんだろうか。しかし、果たして私はこの堆肥をどこに撒いたらいいのか。
この特大丸まるカブトムシの前には、本物のカブトムシなど可愛らし過ぎて、まったく取るに足らない。
さてさてお前ら、いい加減に早くどいとくれっ!!!
【写真は堆肥の切り返しや積み込みに使うバックホー。さて、もうひと働き、と思ったら、なんとこの中にも大きなカブトムシがいたあ~~!
(運転席で寝てるのはクマ。)】
ようやく春が来たのである。これからまた一年間、フィールドでのさまざまな「いのち」たちとのつき合いが始まる。そしてこの軽トラ3台分の堆肥は、夏から秋にかけて実り豊かな「収穫物」となるはずだ。
しかしダンプに堆肥を積む過程で、ちょっとした「思わぬ障害」に出くわした。
堆肥の中のそこかしこに、かぶとむしの幼虫が顔を覗かせているのだった。(中にはお尻を覗かせているのもいる。)
(「堆肥を占領した生き物の記録」 参照)
これは困った。このまま畑に撒くのは容易いが、そうしたらいずれこれらの虫たちはみんな殺されてしまうことになる。
我が家は無化学物質栽培なので確かに手作業は多いけれど、それでもある程度の機械は使っている。機械というものはほとんどの場合、画一的な作業を大量にこなすために作られている。だから便利な反面、それが産むさまざまな結果には注意を払わないといけない。例えば耕耘機の場合、それが通る道筋の土中の虫たちは、ロータリーに巻き込まれて死んでしまう。「大量虐殺」そのものだ。
いつもその光景を目の当たりにするにつけ、機械を使うことにある種の抵抗を覚えるのだけれど、いかんせんこれが無ければ最終的に今の我が家の生活水準を更に落とさざるを得ない。長い間機械無し(スコップと鍬)で農作業をして来た経験が私にそう語る。実際我が家の耕耘機は一年を通して活躍をしているが、これを人力で耕すとしたら、30倍の時間にぎっくり腰のおまけが付いて返ってくるだろう。
私は堆肥の山を掻き回し、カブトムシの幼虫を拾い上げては隣の新しい堆肥山に引越しさせることにした。探せば出て来る、出て来る。去年あんなに拾い上げたのに、丸まると太った幼虫が次から次へと現れた。どれもお尻が黒味を帯びている。後少しで蛹になるんだろう。
それは「カール」というお菓子の形に似ている。それよりひと回りふた回り大きい幼虫を摘まんでは投げ拾っては放り・・・たちまち何十というカブトムシたちが新しい堆肥場に積み上がった。
堆肥の撒布は農作業の中でも肉体的負担の大きい、重労働の部類に入る。今回はカブトムシたちのお陰でその上に思わぬ追加労働が加算された。まったく自然相手の仕事は、予想も計画もほとんど無きに等しいんだなあ・・・。
ふっ・・・! しかしカブトムシごときの虫命救助で音を上げる私ではさらさらない。たくさんいるとは言っても相手は所詮、初春の寒さに震えるか弱い虫たちだ。両手でごそっと掬い上げては、そうれ!と放り投げれば済む。しかしながら実はそれどころではなく、それ以上に難敵とも言える相手が畑には待っていた。
見た目にはとてつもなく大きなカブトムシの幼虫の形に似てなくもない。
まさに私がスコップに掬った堆肥を撒こうとしたその畑の畝に、ごろんごろんと、あるはのた打ち回り、またあるはスヤスヤと春の柔らかい日差しに居眠りをして一向に動こうという気配も無い。
猫たちである。
私の行くところ、畑だろうが裏庭だろうが、付き纏っては必ず邪魔なところに位置する、しかし1匹だけならまだしも、大概複数または集団で徒党を組んで、時にすこぶるやっかいな「障害物」と化して作業をする私の前に立ち塞がる。
畑の真ん中で山盛り堆肥のスコップを手に、私は立ち竦んだ。
言って大人しく聞いてくれる奴等ではない。しかもみんな先程耕したばかりの畝の中でごろんごろんしている。余程気持ちがいいんだろうか。しかし、果たして私はこの堆肥をどこに撒いたらいいのか。
この特大丸まるカブトムシの前には、本物のカブトムシなど可愛らし過ぎて、まったく取るに足らない。
さてさてお前ら、いい加減に早くどいとくれっ!!!
【写真は堆肥の切り返しや積み込みに使うバックホー。さて、もうひと働き、と思ったら、なんとこの中にも大きなカブトムシがいたあ~~!
(運転席で寝てるのはクマ。)】
運転席にまで・・・。w
「敵」は一番身近にいましたね。
よく見てみるとカワイイ?のでしょうか。
アグリコさんの文を読むと、今度ゆっくり幼虫を見てみようと思うのだけど、やっぱり怖くて写真は見れません~すみません。。
今まで雪に囲まれて震えていた猫たちも、春の風に吹かれながら気持ちよく畑に出るようになりました。(私としてはあまり出て欲しくない!)
猫たちがいつも私に寄って来るのは、日頃忙しさにかまけてあまり猫たちに構ってやってないからだと思うんです。
少しでも私が動きを止めれば、すぐに膝に乗って来たり背中に飛び乗ったりして来ますよ。
・・・かくして今年の春仕事も、大幅に遅延して行くのだった!・・・
このバックホー(実は1年半前に壊れて今は他のを使ってるのですが)、名前を「クマタ」というのです。
この運転席がお気に入りのクマと、メーカーのクボタをもじったのですが。
後ろのボンネットにはちゃんとクマの似顔絵も描いていたのですよ。
軽トラもバックホーも、私が少しでも離れるとすぐ運転席を占領されます。
彼らから言わせれば、私がすぐ場所を横取りするのだそうですよ。・・・
そうですね、イカリングや、海老の料理を食べれる人なら特に問題ないんじゃないかな。イカや海老よりずっと親しみがあります。
あれが蛹になり、カブトムシになるなんて、ちょっと想像できませんね。自然界の神秘です。考えてみれば、私たちも幼い頃には今の状態を全然予想できないのでしょうけれど・・・
因みに、冒頭の写真は猫家のバックホーとその中で昼寝しているクマなので、安心して見てくださいね。
今堆肥山にいる幼虫が、この夏にはみんな成虫になって飛び立っていくのですよ。
何百というカブトムシになって・・・
その想像に耽ると、なんだか壮大な気持ちになります。