アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

いのちの輪 1

2010-10-05 08:16:46 | 暮らし
「作る生活」

 出発点は、お金がないことだった。11年間のサラリーマン生活で貯めたお金なんて知れたものだったし、親がまとまった遺産を残してくれたわけでもない。手に技術があるとか、特別な才能や資格を持ってるわけでもなかった。ただ自分は、学生時代から親の手を借りずに生計を立ててきたものだったから、どこでもやっていけるさ、そんな漠然とした自信が、あると言えばあった。たぶんきっとなんとかなる。そうさ、今までもなんとかなってきたんだから。
 お金がないからといって、安易に借金だけはしたくなかった。幾つかの町や農協で、しきりに融資を勧められたこともある。ハウスを建てて資材を買って、300万借りられますよ。または、トラクター買ったり当座の営農資金で1000万まで借りれます。最初の3年は無利子だからとてもお得です・・・でも僕は、農業ってのが実はそんなに甘いもんじゃないってことを確信していた。会社を辞める5年も前から、休みを使ってはあちらの農家、こちらの農業実習、そちらでは営農講座、といろんな情報と体験を仕入れてきていた。就農した人に話を聞いてみたりした。小さいな地所を借りて野菜を育ててみたりもした。その結果、世の中には農業ほど割に合わないものはないんじゃないかと思うようになっていた。
 でも人生ってのは、人間ってのは不思議だね。自分の血が騒ぐのを止められない。やりたいことをするのに、なにをどこまで犠牲にすることができるだろう。それがその人の価値観でありその人独自の価値でもある。なにもしなくたって、人生は消費されていく。このままここで、小金を貯めながらムツムツとして人生の時間を失っていくのが耐えられなかった。お金で時間は買えないし、寿命を2倍に増やすこともできない。今この時、自分はなにをしているか。これが人の究極の「存在価値」だと思う。
 今振り返って、無謀と言えば無謀だったかもしれないなと思うことはある。でも今の生活だって、世間から見れば十分無謀と言えるかもしれない。ただあの頃とは違って、今では無謀を無謀と思わなくなった、それだけのことかも。しかしこれでもちゃんとやっていけるんだから、してみると「無謀」って、臆病な人、飛び込みたくない人が産み出すひとつの「自己正当化」概念なのかもしれない。
 さて話を戻して、「お金がない」から必要なものは自分で作ることにした。みんながいらないと言って捨てるものをもらうこともした。産業廃棄物の分別場は宝の山だった。そこでアルバイトをしながら、釘やらトタンやらなにかに使えそうなものを山のように持って帰った。当時から日本はとても豊かだったから、ゴミで生活していたのは決して僕ばかりじゃない。
 まず食べものは、始めの一年は仕事先の農家で「くず米」をいただいて食べた。ジャガイモとタマネギばかりでひと月暮らしたこともある。野原にタンポポが咲くと、その花をレジ袋いっぱいに摘んでサラダにして食べた。道端のフキやワラビを採り、菜の花や、シソなんかも定番のおかずだった。犬のおしっこがかかってるかもしれない、なんて気にもならなかった。とにかく食べられて体を維持できればいい。
 2年目には待望の田植え、豆まき。ソバや夏野菜もたくさん育てて、そのうち前年に駆け込みで蒔いた麦とニンニクが実を結び、その頃から少しずつ食べものらしきものを口にできるようになった。でも今では思うんだが、僕たちが日常考えてる「食べもの」ってなんなんだろう。スーパーに並べられているものだけが食べものじゃない。いや、後で詳しく話すけど、それらには食べものみたいだけど食べものじゃないものがかなり混じってる。あの頃食べ始めた野の草・山の草、道端の草々が、大昔から食べられてきた普遍の、人間にとっての「本当の」食べものだった。
 
 そういうわけでさしたる目的も意図もなく、ただ仕方ないだけで「自給」を始めた僕の暮らしは、ハナっから冒険と体の限界への挑戦、忍耐と、欲望との闘いに満ち満ちていた。「あるものだけで生活する」ことは、一見簡単そうでいてそれを続けるとなるとかなり難しい。それまで抱えていた「こうあるべき」「これは無くてはならない」「私ってこういう人間」といった個々人特有のこだわりから自分を解放して、現代風に煩瑣だった生活をこの上なく単純にする。
 例えば食べものについては、ある時期この場所で、食べれるものと食べれないものがはっきりする。夏に里芋やサツマイモは食べれない。秋にトマトが成っているはずがない。レタスやキュウリは冬にはない。ジャガイモは田植えの頃にはなくなってる、等など・・・野菜も野のもの山のものも、採れるに旬があり土地の気候があり土質や環境などの土地柄がある。
 またそれと同時に、人の体にどうしても必要なものとそうでないもの、大切なものと大切じゃないものが次第にわかるようになってきた。例えばおかずがたくさんなくても玄米を食べてれば大丈夫。塩は「食塩」だと体を壊す。特に漬物のような塩っ辛いものはなおのこと、自然塩でないといけない。肉も魚も無いなら食べなくていいが、その代り、大豆を食べないと体がもたない。つまり、玄米と塩、大豆は、日本で容易に手に入る体と健康のためのベストの食品である。これさえしっかりしてれば、他のものは多少少なくても偏っても健康は維持できる。
 こんな事々を日々の体験の中で見つけていった。その時手に入ったのが白米だったら白米を、くず米だったらくず米を無くなるまで食べ続けた。玄米を食べたこともある。そんな中で、特に仕事の激しい時、夏の暑い時などに白米を食べてると体が続かない。それが玄米だと体がずっと楽になる。それと塩。冬の食糧確保のために、どうしても大量の漬物を、しかもしょっぱく漬けなくてはならない。それが食塩を使った場合、それらはただしょっぱいだけで美味しくないし、しかも食べて30分後くらいには血が上ったように頭の芯が痺れてくる。それを少々高くても自然塩に変えたら、そのような症状が出なくなった。また味も格段に良くなったし腐らずに初夏の頃までももつ。
 添加物のない食べものを食べ続けると、次第に肉を食べたくなくなってくる。僕も昔は肉を山盛り食べたものだった。牛乳を欠かさず飲んでたしチーズも大好きだった。それが玄米と野菜・野草の生活に慣れるにつれ、肉を食べたくなくなる、というか、体が受け付けなくなるのだ。少量ならまあ食べれるけど、「肉野菜炒め」なんかを前にするとゲソッとしてしまう。牛乳もチーズも料理の材料や調味料代わりに使う分にはいいけれど、それ単体ではもう食べる気にならない。食の好みとか好き嫌いの問題じゃなくて、内臓がそう教えてくれるのだ。
 他に食べれなくなったもの、食べると体に悪いとわかるようになったものにはこんなものがある。化学調味料、着色料や保存料などの食品添加物、農薬をたくさん使った農作物。肉は自分で育てている鶏の肉なら食べれるが、スーパーで売っているものはどの肉もダメ。魚は、ものにもよるがたまに少量食べる分にはなんとか。無ければなくても構わない。
 ジュースや甘いものは、特に肉体労働者にとっては麻薬のようなものだ。疲れた時やここ一番という時に少し食べる分には、疲労回復に絶妙の特効薬となる。でもそれが毎日続くと次第にそれなしではいられなくなる。つまりそれ以前より体はかえって疲れやすくなってしまう。
 これは果物にも同じことが言える。特に秋から冬にかけての果物は、南方の物はもちろんのことリンゴや柿など身近で採れる物でさえてきめんに体を冷やす。夏でも冬でも毎日必ず外に出て働く僕だから、このような体調の変化がわかるんだと思う。美味しいから毎日食べるなんてもっての他だ。ビタミンやミネラルは日常の食事の中でしっかりと摂るべきだし、実際それくらいの栄養なんて簡単に摂れてしまう。果物を食べるなら夏だ。秋にどうしてもというなら週に1~2度、一度に少しだけ食べる分にはまあ許せる。でももちろん、無ければない方がいい。
 「旬のものを食べる」って体にいいことだと、誰もが知っている。季節季節のもの、その土地のものを食べて体を作るのは、確かに大切なことなんだけど、でも残念ながらそれがどうしてなのかを十分に知っている人は少ない。食べものの陰陽は確かにあって、さっき言った冬の果物なんかがいい例だろう。でもそれを実際どのくらいの人が「実感」してるだろうか。
 この絵は、とある春の日に僕がレストランに行って食事をした、その献立の内容をまとめたものだ。注文したのは「カレーライスとナポリタンのハーフ・セット」それにランチサービスでサラダとコーヒーが付いていた。


 季節は田植え前だったから5月前半だったと思う。それぞれのメニューの下に並べてあるのが使われた食材。黒字はその時期にここら辺で穫れるもの。青字は穫れないもの。つまり食材のうちどれだけ「旬」のものが使われていたかが表されている。ただし調味料やカレールーの小麦粉など、量的に少ないものは割愛してある。
 ご覧のとおり、旬と言えるものはほとんどなにも使われていないに等しい。米や小麦、豆、肉類は保存性が高く、言わば季節がないようなものだからいつでも旬と言えるしそうでないとも言える。その他の野菜・イモ類はニンジン・タマネギ・ジャガイモ・レタスなど、この時期には芽が出ていたりまだ小さかったり、トウが立ち始めていたりでどれも食材として使えないはずのもの。トマトやピーマン、キュウリなんて論外である。どうして気持ちの良い春の日に、夏野菜を食べなくちゃならないのか。
 僕たちが言う「旬のものは体にいい」って意識は、実はこの程度のものかもしれない。口先ばかりで実際の行動は大きくかけ離れている。春先から夏の始まりまでは、確かに野菜は穫れにくい。その頃昔の人たち、と言ってもせいぜい50年前頃までの日本人は、間引き菜や伸び始めたネギ、冬を越したアブラナ科の野菜や野草、浅葱やツクシ、山菜やら、タンポポやオオバコなどの若々しい葉っぱを摘んで日々の食卓を賑わしていた。僕の生活にとっても、この時期は一年で一番美味しい食べものに困らない季節になっている。それを何好んで、季節外れの美味しいとは言えない、加えて栄養価も低い食べものを食べなくちゃいけないのか。
 ところで栄養価と言えば、同じものでも「化学肥料で育てるかどうか」で栄養価はまったく違ったものになる。そのことはまず、食べた直後の感覚でわかる。僕にもたまに外食する時があって、そんな機会に巷にあるいろいろなものを食べてみる。そんな時いつも思うんだが、いつもはこれくらい食べれば十分だなって思う量を食べても、外で食べる物・買った物には体が充足感を示してくれない。満腹感が今ひとつなくて、なんか「足りない」「足りない」と言ってる感じなのだ。
 それを裏付けるようなことを、ある人が調査したことがある。それは昭和28年(1953年)、つまり今から57年前の「日本食品標準成分表」の内容と、現在のそれとを比較検討したものだった。米なら米、大豆なら大豆、豚肉なら豚肉の中に含まれているカロリーやミネラル、ビタミンなどの量を計り、それを比較した。したところ、半世紀前の日本の農作物は、総じて栄養価が今のそれよりもぐっと高い。あまり変わりないか、かえって現代の作物の方が高かったのはカロリーくらいのものだった。特にタンパク質、ミネラル、ビタミンなどの各項目は数十%アップ、ものによっては二倍、三倍のものなどたくさんある。
 それがどうしてそうなのか?その人は、おそらく化学肥料と農薬のせいだろうと言っていた。同じ作物でも何を食べさせるかでまったく別のように育っていくのは、畜産の世界でも言える。例えば今の鶏は化学物質をたくさん混ぜた配合飼料を食べさせるから、あのように短期間で丸々と太った家畜に育てられる。それが鶏本来の食餌のみ与えて育ったものとは、同じ期間で比べれば朝青竜と小学生ほどの差がある。
 例えばブロイラーを見てみよう。生まれたての雛の体重は40g。それを2ヶ月で3㎏弱に急激に太らせて出荷する。ブロイラーとして使われる品種は白色プリマスロックや白色コーニッシュといった、成長が速いように品種改良されたものだ。でも、これではあまりに速過ぎやしないか。うちで飼ってる鶏は、大人の大きさになるのに早くて7~8ヶ月かかってる。食べものは庭の草や自分のうちで穫れた米や小麦、雑穀。配合飼料やホルモン剤、成長促進剤の類は一切与えない。
 つまり出荷されるブロイラーは、小学生がお相撲取りの体をしてるようなものだ。もちろんろくに歩けないし、薬漬けにしなければすぐに病気で死んでしまう。因みに同じように育てる採卵鶏も4~5ヶ月で卵を産み始めるそうだね。これっていったいなんなんだろう。これを人間が食べるって、どういうことなんだろう。
 もうひとつ、体に入るものでどうしてもこれだけは外せない物がある。それは水だ。ある時僕は水が飲めなくなってしまった。それまでなんのことなく飲んでいた、蛇口を捻ると出てくる、あの水のことだ。おかしいな、なぜなんだろう。どうして飲めないんだろう。不思議に思いながらも、水がなくては体がもたないと思って、一口、二口と無理に流し込むように飲んでいた。したところとある朝、山を歩いていて伏流水が湧いてる所に行き当たった。ふと、この水なら飲めるだろうかと思って試しに飲んでみた。一口、二口・・・その時僕は思ったよ。これは水ではない!いや、正しく言うと「今まで水だと思っていたものは水ではない」。
 それから僕は本を読み、いろいろな情報を集めてみて初めてわかった。水道水には塩素を入れて殺菌するという決まりがあり、その塩素は家庭の蛇口から出る段階でも必ず含まれていなければいけないこと。塩素は第一次世界大戦中、ドイツ軍が化学兵器としての利用を考えていたほどの「毒」であること。そして塩素と水中の有機質が化合してできるトリハロメタン、これが、人や動物に癌や中毒を引き起こす毒性物質であること。
 「水道法」では、給水栓水での残留塩素量が遊離塩素の場合は0.1mg/l以上(結合塩素の場合は0.4mg/l以上)であること、また総トリハロメタン量は年間平均値で0.1ppmを越えないことを義務付けている。
 水道局の調査では、平均0.028mg/l(最大値で0.045mg/l)のトリハロメタンが、一般家庭の水道水中から検出されている。日本の基準値の1/3以下である。
 しかしながらアメリカ国立がん研究所(NCI)は、「僅かな量でも発ガン性物質を取り込むと、何らかの危険が生じ、その積み重ねは危険の増大を招く」と警告している。因みにドイツのトリハロメタンの水道水質基準値は0.025mg/l。日本の水道水のほとんどが飲料不適となる。
 WHOの飲料水水質ガイドラインは、クロロホルムについて、0.03ppmを設定している。

 これが僕の、「本物の」水を求める旅への出発点となった。幸いわが家の裏山は人家も牧野もなく、そのまま北上山系に連なる雄大な山懐にあたる。その春に僕は二本の井戸を掘った。それによって、今は飲用・料理用含めて口に入る水のすべてを山の水に拠っている。もちろんそれ以来水が飲めなくなるなんてことはもうなくなった。


(つづく)

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