アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

私は地球

2008-02-02 18:05:46 | 思い
 朝の一服に干し柿を齧りながら思う。
 晩秋に穫れたあのパンパンに張った赤い柿が、幾度かの雪と寒さを経てこのように縮み皺がより、肌にうっすらと粉を吹いた甘い甘い干し柿へと変わる。干し柿も干し芋も、日光を浴びながら乾燥することによってより甘くなりまた幾つかの栄養素を加味して、こうして冬に生きる私たちの活力源となってくれている。自然の力、生命の力とは不思議なものだ。ミイラとなることによって、更に自身を輝かせる存在があるのだから。いや、すべての生物はなべてそうなのかもしれない。ただひとつ、万物の霊長と自称する人間だけが死して役に立たないどころか、あまつさえ化石燃料を消費して大気汚染の一旦を担うというのは皮肉だと思う。しかしそれは果たして、自然なことなのだろうか。
 干し柿の起伏に富んだ表面には、私たちの目にはそれとは映らないながらもさまざまな、そして数え切れないほどの数の生命が息づいている。数ヶ月の間戸外で風に吹かれ陽光を浴びた状態で生息するに至った生きものたち。彼らがいるからこそ柿はこのままの状態の均衡を保ち腐らずして緩やかに熟成を深め、柿そのものだけではなく相互のいのち、また食する者のいのちを育みながら、生命の循環の中を彼らのペースでひと足ひと足歩んでいる。こうして見ると干し柿はひとつの「地球」のようだ。
 地球と言えば、思うに私たちの体、人体もまるで「地球」そのものだと思う。
 体内には例えば腸内微生物として、一説によると体細胞と同じくらいの数(約60兆個。重さで言えば1~3kg)の生きものが住んでいるという。また気管支・肺胞内、口腔や食道、粘膜の表面にはまた違った種類の微生物、そして皮膚表面もまた、多彩な常在微生物によって覆われている。彼らは嚥下した物質の消化を促進したり皮膚上に分泌された老廃物や代謝物質を分解するなどして、自らが生存すると同時に宿主である人間自身をも健康に生かしてくれている。その総体はそれぞれの構成要素がたえず拮抗を保っていて、すべての生物が生かされ健全であるためのバランスを維持している。
 生命の共生。彼らが正しい数、正しい配置で存在しなければ私たちは健康な状態では生きられない。彼らもまた面白いことに、宿主の体や心の状態を鋭敏に感じてその働きや個体数を常に変動させているという。そう、私たち人間のこの体自体が、地球なのだ。その表面に住む者内部に住む者外部から進入し、また取り入れられる者すべてが私という地球生命を生かしてひとつの纏まった宇宙を構成している。この小宇宙の主役は、もちろん自我を意識する個々の生命体すべてである。私たち人間が足元のこの地球の主役だと思いこんでいるのとまったく同じように。

 私が子どもの頃、その当時の情報や考え方の主流から「当然」と思われていたことが、本当は間違っていたということが数多くあった。
 例えば自由貿易主義を挙げてみよう。関税障壁を取り払って各国・企業が国境や地域に囚われず、地球レベルで自由競争を展開するのは技術の革新や労働の合理化を促し、私たちみんなの発展と幸福を突き詰めるのにとてもよいことのように思えた。だからガット(GATT:当時自由貿易化交渉推進の場となっていた)の存在意義は十二分にあると思っていたし、各種規制緩和も世の流れだと思っていた。実際それによって身の周りの小売物価は次第に下落して、それまでは見たこともなかった珍しい産物が世界の各地から手の届く値段で店頭に並ぶようになり、やはりこれでいいんだなと思ったものだった。たぶんあの頃に自分の主義や主張を形成した人で、それ以来新しい情報や見直すべき現実に触れていない人たちは、今でもそう思っているに違いない。
 でも世界の現実は今、違ったことを教えてくれている。戦後自由貿易主義が世界を席巻して半世紀の時間が経ったこの間に、それによっていったいどのような変化が顕れたのだろうか。
 まず当初の期待とは逆に、世界は総体的に貧しくなってしまった。地域的にも地球規模でも貧富の差や生活格差は広がる一方で、比較優位理論による国際分業と所得の再分配がそれを補うことは、確かに一部の地域や事例でそのような現象は起こったのだったが、それは世界全体の所得間格差を縮小するどころかその正反対に作用するものだった。特にアフリカや南アジア・南米の国々を見るがいい。かの国の多くは累積債務の上積みを繰り返し、かえってその困窮の度合いを深めたような気がする。誤解されるといけないからはっきり言えば、自由貿易は確かに莫大な富を生み出してはいたのだけれど、それは一部の勝者ー多国籍企業を筆頭にした大企業集団を富まして先進国を中心にした一部の富裕層に恩恵をもたらしただけだったのだ。その対極にある何倍もの数の敗者ー一次産品生産に従事する労働者などは現実に今や奴隷同然の状態で働いている。
 だからこの日本で、モノがこんなに安く手に入るのも頷ける。幸か不幸かこの日本の国民は例外的に全員が「勝者」の分類に位置している。だからなおのこと、世界のそういった状況に目が届きにくかったりもするのだろう。
 それと世界中が全体として貧しくなったというもうひとつの決定的な理由は、地球資源の枯渇化である。これは石油は鉱石などのエネルギー・鉱工業資源だけではなくて、地球や私たちのかけがえのない財産であった生態系というものが、自律再生力を遥かに凌駕されるスピードで破壊されていっているということだ。今や地球の大気も水もくまなく汚染され続け、一日に百種ともいう猛烈なスピードで生物種が絶滅している。これはしかし私たちが歩み選択した道に他ならない。自由貿易は環境に対する付加や代償を内部価格に反映させることなく、ただひたすらに生物や環境資源を食い潰しながら、地球規模の「焼き畑農業」を行ってきたのだった。
 もう何十年も前にこの事実に気がづいて、自分たちの進む方向を修正しよう、地球と共存する道を歩まないとこのままでは人類は自滅してしまうと働いてる人たちがいる。しかしどちらかと言えば未だそれらの人たちは少数派で、世の中の主流となって革新に加担しえないでいる。ガットが発展的解消を遂げてWTO(世界貿易機関、1995年に設立)が生まれたのもその一端だし、日本の外務省も今だに自由貿易主義一辺倒の外交姿勢を貫いている。開発援助は結果から見れば、途上国を未来永劫先進国にとって安価で安定した原料供給地としての地位に繋ぎとめる枷を、強固にする役割を果たしただけだったとも言えるかもしれない。
 自由貿易主義が世界中に浸透した結果、私の住む辺鄙な田舎の町にもマクドナルドができて大手のファミリー・レストランが軒を連ね、家具も電気製品も日用品も世界レベルで安価で高性能な品が手に入るようになった。でもその陰に沿うようにしていつの間にか、地場の店も農業も産業も、姿を消していってしまった。今ではみんな都会と同じような物に囲まれて同じようなモノを食べ、同じような生活を営んでいる。つまり暮らしの中から歴然として、多様性が失われてしまったのだった。

「生物多様性」は私が作物を育て草や虫や多様な生きものたちと向き合う中で見出したとても大切な生存の理念なのだけれど、それを生活環境や社会に敷衍して「多様性」を論じてもあながち的外れではないと思う。
 もし私の体を形成する微生物の中に、ある特定の種が他を圧倒するほどの毒を撒き散らしつつ生物体世界を際限なく侵食していったとしたらどうなるだろうか。ともに複雑な生態系を構成していた他の生物たちは生きられず、淘汰され駆逐されてやがては薄い生物層の中で私自身も生命力を失っていくだろう。あたかも干し柿が腐敗すると同じように。私は私単体で存在するものではなく、私という個体と運命をともにする数多の生命とのリンクの上で生存している。
 だから私たちも自分の周りの生命を殺してはいけない。化学物質を大量に含んだ食物を口にして腸内の微生物のバランスを壊すことは、それと同時に私たち自身の体を損ねてしまうし、仮に即効性がないとしても、その行為を反復することによって私たち自身が確実に「腐敗」していってしまう。
 またもうひとつの大きい「地球」を見た時に、私たちの撒く殺虫剤や大気中に発散する有害物質が、私たちの視力に映らないレベルで多くの生物たちに甚大な影響を与え、それはつまり、根底からこの地球と生物層と私たち個々とを「腐敗」に陥れるという事実を忘れてはならない。
 欲を充足し快適さを求めるゆえに効率的であろうとする、その姿勢を一概に否定しはしないけれど、しかし私たちは未だそのために処すべき現実的に実効性のある解決法を見出してはいないことは事実だろう。効率を考え科学という利器も駆使して究極的な調和と共存を目指す、そのレベルに、人類は未だ総体として達していないのだと思う。
 自由貿易主義はそれによって有利になる企業体や個人の手によって経済界や政界を動かす手段として推奨され利用された。そして今日そのとおりの利益配分を達成しながら今もなお動き続けている。万能・明晰とは程遠い私たちではあるけれど、少なくとも過去と現在を結び付けた事例の数に目を留めて「こうすればこうなる」という経験則を自分の目と心で実証することはできると思う。
 私は地球であり、私に起こることは干し柿にも地球全体にも等しく起こっている。そんな思いで、朝のお茶を飲み終えた。




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