アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

サプリメント的思考

2007-03-27 18:26:14 | 思い
大腸洗浄というものがあるらしい。
聞いて名のとおり大腸内に溜まっている便(特に宿便)を洗い出すもので、それ専用の洗浄装置を備えた病院もあり、疾病の治療を目的としたものでない限り医療行為とは看做されないので対象が健常者であれば特に制約もなく、来院した人に対して即実施してくれるそうだ。効用としては便秘の解消はもちろんのこと、生態機能の活性化、生活習慣病の予防、ダイエット、にきび・シミ・肌荒れなどお肌のトラブルの解決、肩こりや不眠の予防、肥満対策、ストレス解消など多岐に亙る。ハリウッドの女優やスーパーモデルたちも活用。あのマドンナやダイアナ妃もやっていた。多くの女性たちの間で今話題沸騰! 月に1~2度の施用がオススメで、一回につき10,000~15,000円(税別)也・・・なそうだ。また家庭内で簡便に出来るキットも市販されている。こちらはいわゆる浣腸を大規模にしたようなもので、お手軽かつ経済的。品数豊富。ネット通販あり。ご予算1万円以内でOK。

なるほど、美容や健康産業もここまで来たか!と思わせられる。おそらくこれは従来からあった腸内洗浄技術を健康産業分野に応用したものだろうけれど、寝台に寝転びながら1時間足らずで宿便が一掃できるというのだから、お釈迦様も目を丸くするかもしれない。しかも体質改善、病気の予防、美容と健康に効果ありとまるでいいこと尽くめのこの方法、謳い文句は半分、いや10分の1に聞き流すとしても、果たして本当に体の役に立つのだろうか。
人の体には本来「胃腸が吸収しては害になる異物、毒素、または摂取過剰の食物が消化器内に入ってきた際に、嘔吐や下痢によってそれらをすみやかに体外に排出する」自己保全能力を備えている。それと気をつけていればその働きは誰しも日常的に知覚できるものだし、私自身折に触れてそういった体の反応を意識することがある。それは自然の摂理に基づいたものなのだけれど、それを器械や特殊な器具を用いて(特段緊急を要する事由があるわけでもなく)人為的に行おうとするのである。これは素直に考えれば明らかに反自然的行為である。
確かに現代は過食と薬品漬けによって人間の生体反応が著しく鈍っているか、または狂わされているのは事実だ。体に対して悪いものを悪いと感じられない、これ以上食べてはいけないと体が発する信号を充分に知覚できないゆえに多くの人が食を原因として心身の不調に喘ぎ免疫力を失くし病気に苦しんでいる。そのように劣化した体の機能を補う手段の一環として、場合によっては人為に頼るのもあながち間違った発想ではないと思うが、それもあくまで「濫用せず」の原則に立った上でのことだ。決して猫も杓子も一把ひとからげに、ましてやダイエットやストレス解消などのために供するものではないと思う。
もうひとつ見過ごすことのできない現代人の特筆すべき特長として、自らの欲に対しての抵抗力が非常に弱くなったということがある。つまり自己抑制(コントロール)に欠けるということなのだが、その傾向がこの30~40年の変化を見る限りでも伺える気がする。その原因としては日本人の教育観の変化、家庭や学校の荒廃、親世代の精神年齢の低下、経済至上主義の弊害、豊かになった一面としての過保護、環境ホルモンや有害化学物質による脳神経系の障害、社会的ストレスの増加など、実際社会的、教育的、環境的にたくさんのことが指摘されており、これは現代社会の抱えるひとつの病根とまで言われている。そしてそれは「キレる」とか凶悪・異常犯罪の増加などの社会現象が顕在化する以前から、その人自身の健康状態に端的に反映していることでもある。つまり人間にとって必要以上の(過剰な)欲は自己と周りを害する刃と化すのであり、それを理性や意志の力でコントロールして初めて人は心身ともに健全に生きられるようにできている。動物の場合欲は全体の能力や状況の中で適度なバランスを持って存在する(つまり不必要なほど強い欲を持っていない)のだけれど、人間の場合は底無しである。しかしその一方私たちは理性や知性、意思という、他の生き物には望むべくもない強力な抑制能力を持ち合わせている。つまり欲はそれをコントロールするに足る充分な能力の下に存在するのである。しかしそれがなんらかの理由でその力を失った時(例えば理性が麻痺した時など)に、過剰な欲は鎖を解かれた獣のように身近な者から始めて自他の別なくその牙を剥き出していく。現代の複雑な病理の一端はまさしくここにあると言える。
実際問題、食や腸内環境に起因する疾病や不調の大部分は、自己の欲のコントロールを主軸とした「節制」によって直截的に解決できるもなのだ。もしそれができずに対症療法に頼るとするならば、根治的な解決には程遠くそれ故いつまでも病巣を温存することになり、その状態が長く経過するほどに問題の根は徐々に深く張り拡げられていくのである。そしておそらくはその時、「反自然的療法」のツケがそれに拍車をかけることになるのではないかと思うのだが、いったいそれがどういう現れ方をするものなのかは、何分大腸洗浄自体がこのような使われ方をして間もないことでもあり、今実際に自らの肉体を人体実験に供してくれている人たちの結果をそれなりの期間観察し続けないと何とも言えない。思えば同じようにして、かつて「特効薬」や「奇跡の薬」ともてはやされた物で数十年後に致命的な有害性が発見され、結果的に使用禁止になってしまったものは枚挙にいとまがない。DDT然り。PCB然り。フロン然り。医学はそれ自体が善悪の無い中性の道具のようなものであり、それを薬にするのも毒にするのも、使う者の見識と使い方次第なのだ。

ところで大腸洗浄によって「宿便をとる」という効果だけれど、これには単に腸内環境をドラスチックに変えるという物理的な変化(これについても私は一概にプラスの効果だとは断じ切れないと思うのだが)はあるだろうけれど、その他に宿便というものから往々にして連想されるいわゆる「精神的な変革」に結び付くものはほとんど期待できないのではなかろうかと思う。例えば断食をすることによっても宿便はとれるし、その場合に付随する結果として誰しも(個々により有効期間の長短の差はあれ)以前に増した明晰さや感受性を手にするものだと思う。それは自分の意思によって課した断食という相当期間のプロセスを踏むことと決して切り離すことはできない。
断食は単に宿便を出すためのものではなく、それ自体が日常の意識から脱却して自己と向き合うという本来的な目的を持っている。それがために様々な宗教や個人によって自己修行の一環として行われているのであり、実際に取り組んでみた人にはわかると思うが、3日、5日、7日と経るにしたがって当人は目から鱗のごとく思いがけないさまざまな自己のあり方に目を留めさせられる。そのどれもが紛れもない自己の現実であり本質に関わるものなのだけれど、今までそれを見まいとし目を逸らしてきた表層的な自分という存在が一枚一枚ユリ根のように剥ぎ取られ、真実の自分に苦しみ、痛みながらそれでも対面し続けざるを得ない究極的状況の中で、人はそれまで気づかなかったたくさんのことに気づくことができ、それに伴って新しい可能性を発見していくのである。そのプロセスこそ、断食の本質であり本来的な意義と言える。それなくしてただ簡易に宿便を物理的に排除したとしても、おそらくはそれによって精神的に得られるものは無きに等しいだろう。ただ爽快感を感じるのもつかの間、数時間後には再び過食によって慣れ親しんだ体質に戻ろうとするのがオチで、これこそが内実を伴わない対症療法の象徴的な姿ではないかと思う。

だから私は仮に病院でタダで施療してくれると言われたとしても、あえて大腸洗浄などしたいとは思わない。それは夥しい宣伝文句によって煽り立てられた期待感を満足させるどころか、反自然的に腸内環境を変えてしまうことに伴う(例えば腸内には一説に500種類、100兆個と言われる細菌群の複雑微細な社会が存在すると言われているが、断食によって緩慢に変化させるならともかく、施術によっていきなり大変革をもたらすのは腸内において天変地異を起こさせるに等しい)反作用の危険性の方がかえって危惧されてしまう。実際そんな危ぶまれることに大切なお金と神経を費やさなくても、もっともっと現実的で効果のあるやり方が目の前にあるのだ。例えば断食は一日や数日の単位ですることができる(また初心者はそれから始めなければならない)ものだし、そのくらいの日数ならばどれだけ忙しい人であろうと捻出できない時間ではないし、お金もかからない(かえって節約できる)。また徐々に体質を変えていけば断食をしながら通常通り仕事をして日常生活を送るのも十分可能だと思う。もちろんそれに至るまでは相応の時間と努力の積み重ねは必要になってくるのだが、それは畢竟それを行うことによって自己の肉体の変化に見合った程度に、人は自分の精神を無理や過不足なく、ごく自然に変えることができるということでもあるのだ。

そのような然るべきステップを踏まずにいきなり魔法の薬やテクニックで即効的な効果を得ようとする風潮は、これまた堪え性のない現代人の顕著な特色だと思う。雑草が邪魔ならば除草剤を撒く。虫が目障りならば殺虫剤を振り掛ける。背が低ければ分厚い底の靴を履くし顔が気に入らなければ整形する。学歴が不満ならば詐称すればいいしお金が無ければ借りても盗んでも騙してもどんなことをしてでも手に入れる。そこには無ければ使わない、あるもので足りる、または無いなりに工夫するという発想は山の彼方に消え去ってしまっている。是が非でもみんながやっているように、テレビやコマーシャルに煽り立てられた固定観念どおりに生活しなければ気が済まない。私はそんな短絡的思考回路を「サプリメント的思考」と呼んでいる。それは長い期間をかけて有害化学物質によって麻痺し弱体化した体質を矯正するのに、それ自体化学物質の塊である液体を人体に添加するという発想である。また精神的に迷いや苦悩があるならば、オウムなどのカルトの傘の下に飛び込んで妖しげで簡便な方法により魔法のごとくひとっ飛びに解脱をしてしまおうというものである。
しかし客観的な冷静さをもって物事を見る人には自明のことなのだ。心身は日常の食べものや習慣、行為や思いの積み重ねから生じるものであり、その現実を変革するのにまるでマジックみたいな秘密の施術など到底ありはしないことを。しかし正常感覚を失った人は持てるお金を際限なく健康食品につぎ込み、体にいいという高価な食材やサプリメントを買い漁り、自然派レストランを食べ歩いてグルメを楽しみながら夢のような健康を手に入れようとする。そしてそのために更にお金、もっとお金と飢え渇くようになり、混迷の中でいつまでも本質に近づけないままに更に深くと心を蝕んでしまう。
もっともそのような大衆心理に付け込んで営利を貪る業者や医療関係者、宗教家と称する人たちにも非はあるのだろうけれど、それは見方によれば社会のニーズによって支えられている一種の生産者に過ぎない。彼らもまた本質に気づかないという点では消費者とまったく同じ土俵に立っており、その意味でどちらが加害者とも被害者とも厳密に区別することはできないかもしれない。やはり問題の根源は個々に属するものであり、私たち一人ひとりの編み出したサプリメント的思考の集積が、根も葉もない見かけ便利で小奇麗そうな「まやかし物」を、次から次へとこの世に産み出し続けるのだと思う。


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2 コメント

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お昼ですね (allie)
2007-04-03 12:13:32
アグリコさん、ネット復活してから真っ先にこのサイトへ来ました。
やはり考えさせられ落ち着き共感させられます。
私の思っていることを理論的に分析してもらえるからだと思います。
でも、これは正直何度か読み直しながら噛み砕かねばなりませんでした。

>自己抑制(コントロール)に欠けるということ

そうなのですよね。
私も断食だってします。
が、決してアグリコさんみたいなのでなく食べる気力がなくなるくらい自己中の世界からぬけ出せなくなった結果としてです。



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向き合うものはいつも自分自身 (agrico)
2007-04-03 22:31:55
人は自分に捕えられてしまう。
人である限り誰もが内に底無しの迷路を持っています。それは私たち自身が生まれてから今日までの間にたゆみなく、川辺で石ころを拾うようにして築き上げてきたものですが、その感受性、発想、思考パターン、触れたものそれぞれに抱く関心の度合いやあるものに対する渇望や欲求など、それらは全体として心の裡に複雑精緻な迷路を構成してしまうのです。それは自分で作ったものだから、その人自身には容易に抜け出せないようにできている。たぶんその陥穽に落ち込まない人はいないでしょう。そしてそこが、それに気づいた時が、私たちの新たな出発点になるのだと思います。
そこから抜け出そうとするのも自分だし、捕え続けようとするのも自分自身。それは決して相対抗するものではなくて、おそらくある種微妙なバランスの上に成り立っているそれぞれが全体の一部分なのだろうと思います。つまりそれらのバランスの中心点に自分の核がある。そこを基点にして同心円状に広がる世界が、私たち個々人の持っている現実の可能性でもあるのでしょう。
断食もひとつの振幅(対極への反動。バランスをとる行為)なのだと思います。意識的にしても結果的にせざるをえない状況においても、それは変わらない。そうやって私たちは自己のバランスをとりながら螺旋状に(どこかに)進んでいってるのでしょうね。
だから自分の中に振幅を捉えられたときに、とりあえず前に進んでいる自分を感じます。極端にマイナスのように思える状態にあっても、それは全体の中の大切な一環だと思えるようになりますよ。
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