アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

いのちの輪 3

2010-10-07 07:22:59 | 暮らし
「自給自足」

 極力殺さない暮らし。田の中を歩くにも、一歩一歩足元を見ながら歩く農業を続けるうちに、僕は「自給自足」と言ったって、本当に自分で作ってるものなんて何もないんだということに気づいた。
 今年蒔く稲の種籾は、確かに僕が去年育てたものだけど、でもそれ自体は遥か太古の昔から受け継がれてきた生物種の遺伝の産物だ。土を肥やし生態系を豊かにしてきたとはいっても、元々あった生態系に人為的な「破壊」をあまり行わないように努めただけであって、自分がその生態系を一から創ったわけじゃない。かえってなんにも手を加えず荒れ地のままにしといた方が、生態系はぐっと豊かに厚くなる。年追うごとに増えていった生物種も、その種自体を自分が作ったわけじゃない。ただ水に運ばれて来たり、または土中に埋もれていた種やら根やらが再びそこで芽吹いたり、虫が飛んできてそこで繁殖し始めただけのことだった。
 僕はただ、あったものに少しだけ手を加えて、自分に都合の良いように引っ張っていただけだった。生物の存在という観点で言えば、僕の成した行為は全体の0.0000000000001%にも当たらないだろう。犬が畑に穴を掘る行為、猫がおしっこの後土を被せる行為と本質的にはなにも変わらない。
 「自分で産み出しているものは何もない」。これが僕の新たな発見だった。今うちの田んぼには堆肥などまったく入れていない。土を肥やす、生態系を厚くする意味で僕がしていることといえば、ただ「あまり殺さない」ことと、田んぼから「持ち出さない」ことだけだ。自然界では春に植物が生え虫が生まれ、夏から秋にかけて増えて種や卵を産み、彼らの多くは冬に死んで土に還る。そうして土中のミネラル層は蓄積を重ね、年追うごとに肥沃に豊かになっていく。
 だけど農地の場合、人間はその土地から「収穫」と称して植物体を持ち去り返さない。だからその分、土のミネラルは減り地力は衰えてしまう。これが現代広く行われている「収奪型農業」だ。じゃあ、返せばいいじゃないか!土から生まれたものは土に、その場所で育ったものはその場所に返す。それが僕が田んぼに、堆肥じゃなくて稲藁と籾殻、米糠を返す行為へとつながった。それまで作っていた堆肥は畑や野原の草を材料にしていたものだったけれど、「田で育った稲体をそのまま田に返す」ことの方が肥料の質としてはずっと良かった。畑のものと田のものとでは植物体の構成要素も、また分解する微生物群も、まったく別のものだということがわかった。
 このような原理を知らないと、人間はしばしばとんでもない愚かなことをしてしまう。例えば同じ田んぼをやっている農家の中には、田から稲も藁も運び出して返さず、田の中の草は除草剤で全滅させ生きものが育たないようにして、一方畦畔の草は刈りっ放しで集めることをしない。すると年ごとに、田の中はますます痩せて貧しくなり、畦畔の方はどんどん土が肥えていくという現象が起こる。これでは全く逆だ。彼は自然の摂理の逆をすることによって、徒に労多く財減らす働きをしている。「知らない」ということはこんなものかもしれない。
 さてちょっと話を戻して、「自給自足」とは言いながら自分ではなにも供給していない。では、供給してくれるものはいったい何なんだろう?大自然か?地球か?神様か?・・・それを正確に表せば、「生きものの集合体」なんだと思う。生態系はひとつの「生きもの集合体」と言える。もちろんその基盤には分厚いミネラル層が横たわってるんだが、ここではちょっと省略させてもらおう。この「生きもの集合体」はそれ自体で生きものを生産する、いわばひとつの生物体のようなものだ。小さな集合体は小さいなりに、大きな集合体は大きいなりに多くのものを生産する。この「生きもの集合体」を育てていけば、それにともなってその中の一部である「稲」の生体量と生産力も増し、結果的に収穫量が増える。
 ただこの「生きもの集合体」には個々さまざまな性質や「あり方」が存在する。池には池の、河川には河川の、森には森、野原には野原。そして同じ野原でもその微妙な環境の相違によって数知れないほどの形態の違いがある。その差がそのまま「植生の違い」として顕れてくることが多い。だからもし稲を栽培したいのなら、稲の生育環境に適した「集合体」の構築を目指さなければならない。ただ生きものが増えればいいや、種類が多いのがいいんだろう、と安直に考えてしまうと、次第に田んぼは田んぼでなくなってしまう。

 ここで前に話した、「生物体は生きものの集合体」ということにもう一度触れよう。わかりやすく「人体」を例にとる。
 一般に体重60kgの人が持つ細胞の数はおよそ60兆個なんだそうだ。これらの細胞がそれぞれの役割分担の上で筋肉となり神経となり血管となり、内臓諸器官となりしながら全体として一個の「人間」の形を形成している。しかし人体を作っているものはこれだけではない。この他に例えば腸内には、約100種類100兆個の微生物群が住みついていると言われている。それから皮膚の表面、粘膜、呼吸器官などにもそれぞれ特有の細菌群。それら全部を合計すると、なんと人体の構成要素のおよそ3分の2は体細胞以外の微生物群で占められる。
 ここで体内外に共生する微生物が「人体」に含まれるかどうか、を疑問に感じる人がいるかもしれない。これはある意味「見方」の問題かもしれないけれど、現実的にはこれら微生物群無くして人体は生存できない。体表面の微生物群は外からの病原菌やバクテリアをシャットアウトする役目を負ってるし、腸内の細菌叢は食べものの消化機能になくてはならない役割を果たしている。その意味では、これら微生物群を含めた総体が「生きている人体」である。この意味でも、「野菜の無菌栽培」「無菌豚」は既に半分以上死んだ状態と言ってもいいかもしれない。
 


 それともうひとつ、僕たちの体を構成している細胞そのものもまた、ひとつひとつが「生きている」と見ることもできる。例えば赤血球。これはいわば消化吸収された食物と体細胞の中間に位置するもので、細胞のようでもありそうでないとも見える。ただこれらはすべて生きていて、各個がてんでばらばらに血液中を走り回り、勝手に動き回ってるわけではない。その時必要な然るべき器官に至り、落ち着くべき場所へ落ち着いて体細胞の一部へと変化する。赤血球は単に栄養素を運搬する機能しかないかのように学校では教えてるけれど、それは単なる一説であって、実際は「食物が変化し最終的に体細胞に分化する一過程にある状態」と見た方が、他の面との整合性もとれてより自然な理解のように思えて僕は好きだな。この説に従うと、食べたものは赤血球を経由してそのまま体を作る原料になる。生きものが次の生きものを作る。何を食べるかによって短期間のうちに体質がまったく異なってくるのも、そうなれば納得しやすい。
 だから一つ赤血球を見た場合にも、どこまでが「生物」でどこから先が「物質」なのかの判断が難しい。食べたものは生きものであり消化されると途端に生きてないただの「物質」になる、なんて考えるより、「生物⇒食物⇒消化された食物⇒赤血球⇒体細胞」すべてが「生きもの」と捉えた方がより自然でわかりやすい。実際人間の本来の食べものは、すべてが「生きもの」なんだ。ただ一つの例外は塩くらいじゃないかな(ただここでは「塩」が本来の食べものかどうかについては論じないことにする)。
 細胞も「生きもの」、または元々が生きものだった、という考え方は、例えばボルボックスなんかを例にとればわかりやすい。ボルボックスとは、水のきれいな田んぼに普通に見られる緑藻の一種で、たくさんの細胞(一個一個のそれは単細胞の鞭毛虫「クラミドモナス」に似ている)が集まってひとつの丸い体を構成(これを「群体」という)している。このような原初的共生関係が、何億年もの長い進化の過程を経て、今日の僕たち動物たちに見られる複雑・大型の生物体を構築したとしてもおかしいことではない。
 また更に言えば、細胞中のミトコンドリアは、元々は好気性細菌が細胞内に住み着き共生したものだと言われている。このような「細胞内共生」には現在多くのタイプが知られていて、植物細胞が含む葉緑体も藍藻の仲間だったというし、他にも藻類がいろいろな生物の細胞内に共生していることも知られている。
 このようなことを知るにつけ、僕は人体も、稲の体も、他の植物や動物の体も、みんな「生きもの集合体」と捉えるのがいいと思うようになった。僕と彼らが集まって更に大きな、地域的な集合体である「生態系」が生まれ、それらが更に集まったものとして全地球的な「大生態系」が存在する。ミネラルを含めた生きものの集合の仕方には一定のパターンがあり、それらは一つのグループ、そしてそれらが集まったより大きなグループと、上を見れば限りがないし、また下を見ても限りない。僕らが日常あくせく必死に生きている時にも、それが見方の尺度を変えれば釈迦の掌の上でもぞもぞ動いてる一匹のダニのようなものだとしてもなんら不思議ではない。

 さて「自給自足」で、人はなんにも産み出していないのならば、では実際自分にできるのはなんだろう。言うまでもなく、それは「自足」しかない。これ以外になにがあるだろうか。
 考えれば、野山の動物たちはみんな自足して生きている。好みの食べものがないから栽培しようとか、遠く向こうまで行って他のヤツから奪おうとかあまり考えない。みんな、ある物手に入る物で生きている。食べものがみんななくなれば、引越しするか死ぬだけである。それは植物にも同じことが言えて、こちらの場合は引越しできない分更に自足が徹底している。
 人間だけが、ある物だけで我慢せずに、それを得るべく「工夫する」「努力する」「もっと労働する」方向に進んできた。たぶん人類も誕生の初期のうちは他の生物並みに自足していたろうけれど、それがいつどの時点かで方針変更してしまったようだ。おそらくは「楽園追放」の頃なんだろうな。それ以来ヒトは自分の欲を達するためには「奪う・壊す・殺す」ことも厭わなくなった。これすなわち「環境破壊」。ここには自然の摂理である「共存」の精神がない。この頃から人間は動物や鳥、虫や植物の声が聞こえなくなってしまった。
 おかげで人間の暮らしぶりはここ数千年のうちにめまぐるしく変わってきた。特にここ僅か百年の変化なんて、まるで猫が自転車に乗り始めるようなものだった。それがイコール「幸せ」に結びついたかどうかは今は問わない。見逃してならないのは、その原動力が「足るを知らない」ことにあり、今じゃ社会全体が皆それを当たり前のことのように思ってしまってるってことだ。でも生態系の中で、大自然の中で見れば、それは十分に異常な状態である。
 僕の暮らしは、みんなからすれば「極貧」かもしれない。食費の中で一番大きなウエートを占めるのは犬と猫のエサだし、収入は平均的日本人の5分の1。テレビや電子レンジといったごく普通の電気製品がわが家にはなく、未だに新聞もとれない。服は靴下とパンツを除いてすべて「もらい物」で済ませている。お葬式の時に真っ黒いスーツを着ていないのは僕くらいなものだし、水道管が壊れたり家の土台が腐ったりした時に自分で修理するのも自分くらいだ。食べものは冬ともなれば、毎日ご飯と漬物、味噌汁の他にない。そんな僕を地域の住民たちは笑いものにしている。
 でも思うに、今の僕の暮らしでも、昔にすれば十分「王者」の暮らしだったに違いない。だって冷蔵庫が普及したのが戦後だろう。その前は誰もが旬の野菜や野草以外食べてはいなかった。遠くから食品を輸送するとか、肉や魚を毎日食べるなんてこともありえなかった。それからすれば僕はちゃんと冷蔵庫を持ってるし、食べようと思えば猫の魚をつまみ食いすることもできる。なによりパソコンを持ってこのように自分の考えを発信することもできる。何をどの角度から見ても、今の僕は50年前当時の大金持ちにも負けないくらい裕福なんだ。
 「発展する」「生活レベルが向上する」「モノが豊かになる」って、いったいなんだろう。どれもこれも、足るを忘れたところから生まれた、空しい「人生ゲーム」じゃなかろうか。仮想世界で大富豪になるのもいい。でもそれを現実世界でも目指してしまったら、そのために人生という時間の大部分が失われて、その反面ホントの幸せは遠のくばかり。そんな愚かなマンガみたいな状態に、今はみんなで落ち込んでしまってるんじゃなかろうか。
 「乱獲」「乱伐」、「大量消費」と「大量廃棄」が原因となってる現代の環境問題は、この「足るを知る」ことによって根本から解決できる。翻って言えば、足るを知らずに相変わらず小賢しい代替技術や代替物によって事を進めようとするならば、結果的に問題は将来僕たちの子孫に、巨大な利子付きで帰ってくるような気がする。植物を育てるにはまず殺さないこと、生態系を育てること。まがりなりにも収奪を続けたり、化学肥料やニセの堆肥を投入したりして更なる破壊を行ってはいけないことを知った、僕はそう思う。
  

(つづく)

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