アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

いのちの輪 2

2010-10-06 08:00:46 | 暮らし
「殺さない暮らし」

 自分で食べるものを自分で作る生活の中で、僕は野の草、山の草のような自然の状態で育った植物が人間のためにもっともいい食べものなんだと気づいた。また動物も、そんな植物の実や葉っぱを食べるから、過酷な自然の中で病気にも罹らないし健康に生きていける。
 その発見はそのまま、僕の日常の作物作りに反映されていった。つまり農薬や化学肥料、化学調味料や添加物の入らない「化学物質フリー」の食べものを目指すことになったのだ。
 現代の農作業体系は、すべてと言っていいくらい「農薬・化学肥料」を使うことを前提に組み立てられている。したがって皆と同じものを同じように作りながら、その部分だけ使わないで済ませるという安直な考え方では、実際のところ作物は育たない。いや、確かに育つものもあるにはある。趣味の家庭菜園のように豊富な手間と時間をかけて草取りや土作りにいそしめば、余程病虫害に弱い作物でなければ健康に育てることは可能だろう。でも、それで自分の食べるものすべてを賄うには、毎日のほとんどの時間と、それを費やすために、現金収入を得なくても暮らしていける経済力が必要になってくる。僕もすぐにそのことには気づいた。そこで、ではいかに時間をかけずに「本物の」食べものを手にすることができるかに的を絞って考えた。
 今すべての食べものや農産物について話すことはできないから、ここではとりあえず「稲」に焦点を合わせよう。稲の実つまり「米」は、玄米にして食べれば人間の必要とする栄養のかなりの部分を賄ってくれる、とても優れた食品だ。しかも植物としての生態が、温暖湿潤な日本の気候と風土によくマッチしている。つまり育てやすくて、買うにしても安い。だから僕も、今までで最も貧しい時期を「米」を手に入れることによってしのぐことができた。
 まず稲の苗を、他の農家がやっていると同じように田んぼに植えて、そのまま除草剤も薬剤も化学肥料も振らずに収穫を待ったとしよう。そうすると稲はたちまち草に覆われる。それを放置すれば収穫は限りなく「0」に近くなってしまう。よしんばそれを日々の重労働で乗り越えたとしても、今時の田はあまりに土が痩せているのでやはり稲はまともには育たない。いいところで5分の1も穫れればいい方だろう。
 そこで田植えの前に、堆肥をどっさり入れることにする。しかし堆肥は、完熟していたとしても入れ過ぎれば窒素過多による病害を引き起こしてしまうので、おのずと量をセーブすることになる。病害を誘発させないぎりぎりの堆肥の量を編み出したと仮定して、せいぜい反収5俵、近所の農家の60%がやっとというところだ。
 僕も始めはこのような発想とやり方をしていた。でも、このやり方では草取りだけで6月・7月の貴重な2ヵ月間が埋まってしまい、他の農作業や仕事に手を回せなくなる。このままでは相変わらず暮らしは厳しくいつまでも極貧生活から抜け出せない。しかし、ここで新しい道を切り開いてくれたのが、日々の「草の観察」「虫の観察」だった。なにしろ毎日泥だらけになって田んぼを歩いてるのだから、草取りをしながら自然と田の様子、生えてくる植物の様子、その上で活動している虫の姿を目にすることになる。これは僕にとって、必ずしも予期はしていなかったけれどごく自然に展開していく成り行きでもあった。
 まず草は、その生態を知ることである程度コントロールすることができる。草がみんな「強害雑草」なわけではない。中には増えると困る草もあるけれど、どっちかというとそうでない草の方が多い。全然邪魔にならない草もあれば、かえってあった方がいいようなものもある。また、種から増えるのか、根が生き残って地中で植えるのか、または塊茎で育つのかを知ることによって、草の種類に応じてポイントを押さえた効果的な除草の仕方があることもわかった。だからすべての草に一律同じようにしなくてもいい。そこが、人間と除草剤の働きの違いだと思う。草のコントロールはまず生態を知ることから。
 そして田にある植物の中で一番大切な、「稲」について見てみよう。稲も大昔は野生の状態で育っていたわけだけど、さて彼はどんな条件・環境下で生きてきた植物だったか。
 まず稲は「挺水植物」だということ。挺水植物とは、アシやガマ、マコモのように「浅水に生活し、根は水底に存在して茎や葉を高く水上に伸ばす植物」のことだ。確かにだから、稲の生える田んぼはアシやガマにも居心地いいと見えて、両者が同居してるような所もたくさんある。そして今度は逆にアシやガマの生えているところを見ると、そのほとんどは溜池や湿地、川や水路の中だ。彼らは稲のように耕した土に芽生えるわけでなく、また株元に年中水が切れることもない。誰が肥料をやるわけでもないけれど、でも年々地面は肥えて次々と株を増やしていく。他の草に負けることはない。
 僕にとってこの発見は大きなものだった。それが、後に始めた不耕起栽培、冬季湛水、無肥料栽培の発想の源となった。でもここでいきなりそれを述べるには、まだまだたくさんのことに触れなきゃならないしちょっとテーマが逸れるので、ここではあまり話さない。みんなのやってることとは違うこと、誰も教えてくれないことをするには、勇気と挑戦、たくさんの失敗と開き直ってそれらを「チャンス」にした学びが必要になる。自分の頭で考え、自分の足で立つ。そんな簡単なようでいて実は社会の中で何人もやっていないような生き方をするには、それなりのハードルを覚悟しなくちゃならない。大人になるってことは深い意味でそういうことだ。ブロイラーのように、子供のままで体だけいっぱしの大人、そしてそのまま死んでいく存在が、人間の中にもいかに多いことか。
 草や作物から発見を得て、前にも増して植物を観察するようになる。また植物から始まって、更に虫に、動物に、鳥にと着眼の範囲は広がっていく。僕がしてきたことはそんなことの繰り返しだった。始めはなんとも思わなかった草や虫たちが、自分の思考と意識がある時期ある段階に差し掛かった時に、俄然重要な意味を持つようになる。それを一言でいえば、自然界の神秘、とでも言えようか。なにしろ振り返れば、すべてはとっくの昔に目の前にあったのだから。ただそれに無関心で気づこうとしないうちは気づかない。ただそれだけのことだった。僕も存在のその不可思議な一端を、自分自身で体験することができた。

 「生態系」ってよく聞く言葉だけど、ここで僕が自分なりにまとめた生態系の模式図を掲げよう。図の中に矢印が多いけれど、もちろん実際はこの中に書き切れなくて省略した、他にもたくさんの矢印が存在する。また「植物」「虫」「動物」などと分けたのはあくまで便宜上のことで、実際はそのような単純な仕分けでは括れないさまざまな形態や存在の仕方がある。それともうひとつ、この生態系模式図はありふれたもののようでいて、中に僕なりの観察と発想がちゃんと盛り込まれてある。以下にそれについて説明しよう。
 

 ここで大きなポイントは二つある。ひとつは、あらゆる生物は死ぬことによってやがては微生物に戻ること。生の存在は死んで無に帰るのでも、腐ってミネラルに戻るのでもない。元々多数の生物の集合体だった生きものたちは、死んでその結合の糸が解け、再び元の多数の生物体が並置する状態へと戻っていくのだ(この「生きものは多数の生物の集合体」ということについては、後に詳しく説明することにする)。その過程で、あるものは有機質として他のもののエサになり、またあるものはそれらを食べて消化吸収し分解物としてのミネラルを産出する。そのようにそれぞれが固有の役割を担っている。それらの関係は一つ上層の生態系における食物連鎖に似ている。つまりマクロの世界でもミクロの世界でも、似たような「生態系模式図」が描けることになる。
 その面から捉えれば、「人間」という個体もある意味微生物の集合体であり、それら微生物は彼らの存在レベルの上で独自の生態系を作っている。つまり人間一人一人の中にもそれなりに壮大で緻密な「生態系」が構築されている。
 二つ目は、微生物が排出した「ミネラル」が、「植物」という、生態系の一番底辺にいる存在に吸収されて再び「有機体」に組み立て直されること。ここでは「太陽エネルギー」の存在を忘れてはならない。植物はミネラルをエサにするけれど、その「ミネラル」は植物を含めた全生物が死んだ後も分解、分解を重ねて、最終的に到達した生物体の最終分解物だ。言わばプラモデルのパーツ、積み木の最小単位である。星座の世界では一個一個の星のようなもの。
 このミネラルには生命が宿っていないかに見える。しかしこれは紛れもなく「生物の変化したもの」だ。人間の肉体は日々代謝すること、死んでいくことによって最終的なミネラルへと変化を続けている。そして再び環境中で形を変え、植物に、やがては虫に動物にと変遷を繰り返す。
 この図式が示すように、あらゆる生物の基礎は微生物であり、生物体はみな微生物を内包している。また生物体としての出発点は植物である。「ミネラル」という存在が光エネルギーによって「有機体」に生まれ変わった時に、存在としてのあり方がそれまでとは何かが変わる。生物と非生物との境界線はまさにここにある。ここでミネラルの名誉のために一言言っておかないとならないが、だからといって必ずしも生物がミネラルより高次元だとは言えない。なぜなら生物は例外なく、ほんの僅かな時間の果てに再びミネラルに還るのだから。生物はミネラルが形を変えたひとつの「あり方」と言ってもいい。それは赤ちゃんが少年より優っているとか、年寄りが青年より高次元の存在であるとか言うのがおかしいのと同じ理屈だ。
 「生物」としての最小単位は微生物だけれど、「存在」としての最小単位はミネラルである。だから僕たちは、木とも牛ともトンボとも同じように、石ともコンクリートとも山や煉瓦とも相互に生まれ変わりを続けている。このことについてはまた後段で触れるので、ここではこの辺で止めておこう。
 だから生態系を語るのに、この「ミネラル」を除いては語れない。とかく生態系というと生物だけで構成されるものと捉えられがちだけれど、実はこの底辺にあるミネラルがより大きく重要な役割を果たしている。上に乗っかる生物は、生命活動の中でそのミネラル層をより厚く、深みのあるものにする働きをしている。同じ田んぼでも、生きもののいない半砂漠のような田んぼと、無農薬でカエルとか蛇とかタニシなんかがわんさといる田んぼでは土中のミネラル層に明らかな違いが表れるのもここに原因がある。厚い生態系は厚いミネラル層の上に成り立っている。すべての生態系はミネラル層を土台としてるのだ。
 ここまで話せばもうわかってくれると思うが、植物は、作物は、稲は決して窒素・リン酸・カリといった栄養素で育つものではない。生態系の厚みで育つのだ。とかく人間は、自分の頭の理解力でものごとを測ってしまう過ちを犯しやすい。しかもその能力の限られた一部を使う「科学」というものを絶対視する人が、不幸にも今や社会のマジョリティを占めている、そんなところに現代数々の悲劇が生まれてるとも言える。科学は現実世界のおよそ1%程度しか証明できないし、残り99%はたとえこの先数千年経ったとしても、相変わらずヒトにとって「知るあたわず」の範疇に留められるに違いない。そんな科学は、参考にするにはいいとしても、絶対視したり盲信すべきものじゃない。多くの間違いと多くの行き届かない場所があるってことを前提に、科学を学び利用すればいい。
 稲に限らずとも、生物界に「単体」で健康に育つ生きものはまずいない。みんな数多くの同属や無数の別な生きものたちに囲まれて育っている。人間然り、植物然り、昆虫然り。かろうじて単体でも細々と生存できるのは、最も底辺にいて生命力旺盛でたくましい細菌くらいなものだろう。豚だって「無菌」で育てれば、体の根本的な生命力を失くして外界に放すとたちまち病原菌に蝕まれてしまう。彼らは試験管でバクテリアを培養するという、いかにも科学的な発想で生命力を封殺された「生物であって既に死にかけている」存在にすぎないだろう。だからそんなものを食べても人間は生命力を手に入れられない。
 だから稲も、現代科学で解明されている必須栄養素をバランスよく与えれば健康に育つというものじゃない。未だ解明されてない各種ミネラル群とそのバランス、それとその上に乗っかってる多種多様な植物・昆虫・動物相が存在して初めて「健康に育つ」のだ。窒素を与えれば見かけ上すくすく育つように見えるのは、ただ強制的に大きくされてるだけであって、無菌豚と同様生物としての力はまるっきりそがれている。その結果一雨降れば倒伏する、虫が来れば立ち直れない、病気が出ればあっという間に広まるという弱体化した生物体になっていて、農薬の力を借りないと到底生き延びれない。だから農薬と化学肥料は常にセットで使われている。
 その反面豊かな生態系で育てた稲は、茎の太さから丈から違う。慣行栽培の稲が一本が2~3本にしか分けつしないのに比べて、一本が10本かそれ以上にも分けつする。畦畔を含めた周辺の管理をしっかりすればカメムシの害にも会わない。いもち病で減収することもない。そんな「稲本来の」「健康で生命力に溢れた」稲が育つのだ。それを食べた人間は、もちろんその生命力を受け継ぐことになる。現代これほど栄養学的にしっかりしたものを食べていながら、それでも病気が増える一方なのは、もしかしてこの科学では解明できてない「生命力」というものをないがしろにしてきたからじゃなかろうか。
 だから稲を育てるには、まずそのために好適な生態系を育てる必要がある。これを難しい言葉を連ねて表せば、「好適生育環境栽培」とでも言うんだろうな。いつの日か農水省が好んで使いそうな言葉ではある。とにかくそのためには、田んぼなら田んぼにある生物をむやみに殺さない。どうしても殺さなければならない時には、そのものだけ、できれば最小限に殺すようにする。豊かな生態系に支えられてないと、一見いいように見える時があっても、生命力としては弱体化してるので外的圧力に弱く最終的には淘汰されてしまう。僕はこのような考えを持って、今も稲を育てている。


(つづく)

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