アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

いのちの輪 4

2010-10-08 04:57:13 | 暮らし
「一億年ミネラル 一日生きもの」

 生きものたちは、食べられること、死ぬことによって別な生きものの姿に生まれ変わる。生きる姿を幾つか変遷し、やがては最終的に存在の最小単位「ミネラル」にまで分解する。そのミネラルはすぐに植物に吸収されて新たな「輪廻の旅」に出ることもあれば、または土中深く埋もれ、あるいは水に流されて深海に至り、続く何千・何万年という時間をミネラルのまま、岩やマグマの形で存在し続けることもある。
 そのすべての循環が、この世にあるものたちの「存在のサイクル」だ。先の生態系模式図では「生きもの」に力点を置いて描いた面があるので、今度はそれを包括した全「存在」の視点から同じサイクルを図示してみよう。


 僕の勝手なイメージをごり押しすれば、この地球のあらゆる存在はおそらく「1億年ミネラルであり続け、その後たった1日だけ生きものとして生きる」ようなものではないだろうか。地球という存在が100%近くミネラルで成り立っていること、その中に生物の占める割合は、およそ地球表面の薄い薄い皮の部分に点在する程度であることを考えれば、この発想は一つの比喩としてあながち間違ってはいないと思う。存在は、悠久ともいえるその大部分の時間を固く意識を持たない「ミネラル」で過ごし、生きものとして「いのち」が与えられるのはその果てのほんの僅か、一瞬とも言えないほど僅かな時間でしかない。これが「生」の実相だ。僕たちは気の遠くなる時間の果てにやっと今、砂粒ほどの生きる自由を与えられてこの世界に存在している。
 だから、すべての生きものたちはみな大きな喜びをもって生まれる。例えその生が生まれてすぐ死ぬほどの微小なものであるとしても、例えその生が結果的に苦難に満ちた悲惨なものであるにしても、でもあらゆる生きものたちはこうして「生」に巡り合えた幸せに感謝しながら、溢れんばかりの喜びと感謝に包まれて与えられた生を生き抜こうとする。生まれくる子はすべて輝いている。
 だから僕はもう、生きものたちを無為に殺せない。手前勝手に苦しめることができない。そのことをみんなが教えてくれた。田や畑の、野原や山にいる、草たちが虫たちが動物たちが僕の家族たちが。
 
 長い、時間が止まってしまったような世界に住んでいたミネラルたちは、ある日ふっと陽光の下に出でてほんの束の間の「生」を受ける。その間の僅かな時間に、ミネラルは知覚を得、意識を持って自由なそして短い旅をする。僕たちはその瞬間にいる存在たちを「生きている」「生きもの」「いのちがある」などと呼ぶ。では正確なところ、「いのち」とはいったいなんなんだろう。
 答えを探すポイントはミネラルが植物に吸われて有機体に姿を変える、その瞬間にある。植物はそれ自体の力でタンパク質や炭水化物などの高分子化合物を作り上げるわけではない。そこには「太陽による光エネルギー」の介在が必須の条件となる。
 この太陽エネルギーが、ミネラルを有機体に組み立てる原動力になっている。植物体は、いうなればその働きをとても効率よく行う「仕組み」を内蔵する器にすぎない。なんとなれば植物の存在しなかった太古でも、この「有機体組み立て」の働きは太陽エネルギーによってなされていたのだから。これによって原初の単純な「生物」が地上に生まれた。つまり「太陽エネルギー」こそが、この世のすべての「いのち」を産む源である。
 この「太陽エネルギー」の働きを別の言葉に置き換えると、「凝集力」とでも言えようか。離れ離れの並置されたミネラルを材料に、ジャングルジムのような立体的な構造物を組み立てる。一度作られた構造物は、ひとつの「求心力」をもってその後容易には元の単位に分解することはない。植物以下、食物連鎖に連なる生きものたちは、この「凝集力=太陽エネルギー」をバトンリレーのように受け継ぐことによって、生存を果たしている。
 例えば動物が植物を食べる。消化器官の中で植物体は分解され、その際に解放された「凝縮力」が腸内で動物体に吸収され、そのエネルギーを使って消化物を赤血球⇒体細胞へと組み立てなおす。このように太陽エネルギーは、被食者から捕食者へと受け継がれている。食べることによって得られるのは栄養素だけじゃない。
 そして生物が死ぬ時、死骸は元の微小な生物群へと分解する。この時に放出された大きな「凝縮力」は、おそらく誰の体にも吸収されず、そのまま空間へと、それが本来あったところの宇宙空間へと放散されていく。残された僅かの凝縮力を、体細胞が分化した微生物群が受け継ぎ、「分解者」としての使命を果たしながら徐々に力を手放し続け、やがてエサが無くなるとともに自らも死に完全なミネラルへと姿を変える。この時太陽エネルギーに端を発した凝縮力は「0」になる。というかすべて空間に還ったことになる。
 「いのち」の本性は「太陽エネルギー」だ。「生きもの」とは「ミネラルに太陽エネルギーが乗り移った時の状態」と言い換えてもいい。だから地球以外の、例えば太陽から遠い惑星には生命が誕生しないし、反面太陽に近すぎる惑星では熱過ぎて、有機体自体がその形を維持できない。地球はその点、このような生命を育む場としては絶妙の位置にあるんだろう。
 
 ここでちょっと頭を転換して、もう一度「食べもの」について考えてみようか。僕たち、つまり「生きものたち」の食べる食べものは、すべて「存在の輪」の中にある。出発点の植物は、土中のミネラルと酸素、それと水を食べものとしている(この酸素や窒素のような空気中の元素と、水はすべての生きものに共通のものなので以下省略)。虫や動物、鳥や人間の食べるものはみな、この植物群と、その上に載っているすべての生きもの群に含まれている。そして最後の分解者である微生物は、生きものたちの死骸の中から生まれ同じ死骸の中の「同僚」を食べものにしてそれらがすべて元の「ミネラル」に還元するまで働きそして死ぬ。
 こうして見ると、植物以外の生物の「食べもの」は、どれもみんな「生きもの」であることに気づく。つまり僕たち(この場合植物は含まない)は、みな「生きもの」を食べて生きている。逆に言えば、生きもの以外は「食べもの」じゃない。
 さて身の回りを見回してみようか。僕らが日常食べているものは「生きもの」だろうか。
 え?当たり前だって?いやいや、もっとよく見てほしい。確かに大きなところは「生きもの」らしいよ。でもそれらが作られる過程も視野に入れてみよう。まず例えば米や野菜。今彼らを育てるのに、僕みたいに自然の方法で栽培している農家はほとんどいない。誰もがどっさりと農薬、そして化学肥料を投与している。この化学肥料、原料はなんと化石燃料と鉱物なんだ。
 窒素肥料は今は天然ガスから作るのが主流になっている。リン酸とカリはそれぞれリン鉱石とカリ鉱石。そして冒頭に述べたとおり、今の一般的な農地では、これら化学肥料を除いた状態では実際のところ、作物はまったく穫れないか穫れても数分の1の量でしかない。リン鉱石とカリ鉱石、化石燃料は、確かに「ミネラルの一部」でないとも言えない。どれも存在の輪の中で何処かに位置づけられる歴としたモノの一形態だ。しかしそれは、生きものを育む「土中のミネラル層」とはあまりに隔たりが大きい。ちょうど存在の輪の上では、「生きもの」の位置する側とは対照的な方向に近い存在だ。そのためそれらは生物が体を作るには、バランスを欠き偏り過ぎている。化石燃料と鉱物は、生きもの本来の「食べもの」とは到底言えない。
 次に家畜を見てみよう。一例として鶏を挙げる。肉鶏・採卵鶏を問わず今の鶏に食べさせてるのは、ほぼ100%配合飼料だ。その構成要素は穀物と各種ビタミン剤、抗生物質、成長促進剤など。この中で穀物は、ご想像のとおり「化学肥料」で育てられている。よく広大な牧野でトラクターが牧草を刈ったり丸めたりする光景を目にした人もいるだろうけど、あの牧草も、今や化学肥料で育てるのが当たり前になっている。堆肥なんぞ撒くのが大変だからあまり使われてない。そして定番の農薬。
 これでわかったろうか、僕たちの食べてるものは、今やその大きな部分が化石燃料、鉱石の粉末や化学物質といった「本来生きものの食べものではない」ものからできている。よってここには確かに「カロリー」はあってもタンパク、ミネラル、ビタミンといった他の栄養素が少ない。植物は、吸い取るミネラルのバランスが崩れると人間で言えば「消化不良」や「栄養不良」状態に陥って、受け取る太陽エネルギーを理想的な形で蓄積できない。ましてや農薬や化学物質なんて、「いのち」を奪う元凶でしかない。その結果植物は「凝集力」つまり「いのち」の力の弱い虚弱な体を作ってしまう。
 その力の弱さは、それを食べた家畜や人間に受け継がれる。だから今の社会で僕らが日常食べている「食べもの」の大部分は、「いのち」のエネルギーに乏しく栄養価も低い、本来の「食べもの」とは大きく離れているものなんだ。こうして見ると、体が市販の物、外食した物を食べても充足感を示さず、また現代社会に赤子からお年寄りまで病気が満ち溢れている、その原因が納得できる。みんなその根幹のところで、本来の「いのち」、本当の「食べもの」をないがしろにした結果なんだ。

 最後に少しだけ、「水」のことを付け加えよう。ミネラルのことを除けば、水はどの形態の生きものも生存のために同じように必要とする、いわば生物共通の「培地」のようなものだ。この培地に、嫌気性細菌など一部の生物を除いた生きものの場合には「空気」(正確に言うと空気中にある窒素、酸素などの元素)が加わる。これは水中に生きる生物の場合でも同じだ。水の中に窒素や酸素が溶け込んでいる必要がある。
 この「水」は、濃度の差はあれど陸上・水中問わず生物のいる周囲に必ずあるものだ。例えば陸上なら、大気中に「湿度」という形で存在する。生きものの住んでる場所で湿度100%はあっても、湿度0%は現実にはありえない。もしあるとすれば「乾燥機の中」だろうけれど、そんな所で生き続けられる生きものはいない。現実的に僕らは水の中に漂いながら生活してると言っても過言ではない。
 生きものは常に「水に囲まれて」生きている。体内も、体外も水に満たされている。植物が土からミネラルを吸い上げるにもこの「水の道」が通り道になる。水は生きものの「体の一部」であるとともに、常に発汗や捕食、排泄などによって外界と行き来している。
 こんな「水」を的確に言い表すに、「地球の体液」という言葉はどうだろう。地球を大きな「生きもの集合体」と見た時に、水はその中の全生物を横断して流れる液体のようなものだ。この水によって僕らは世界のあらゆるものとつながっている。水の流れがたゆみないからこそ、このとおり生きていけるとも言える。
 でもこのことは反面、どこか一部で水を汚すと、回りまわって終いには必ず「全体が汚れる」ことを意味する。血管のどこかに注射針で毒を注入すると、やがて全身に毒が回る。川上で毒を流せば流域一帯で穫れる農作物に毒が混じる。地球のどこかの海がダイオキシンで汚染されれば、早晩地球上全体にダイオキシンが拡散する。つまり水を汚すことは、地球を汚すこと、自分の体を汚すことなんだ。
 今回生態系の中でミネラルの変遷に的を絞って述べたけれど、実はこれの持つもう一つの側面、「水の流れ」についても、実は大きくて深い深い物語がある。

 食べものは「生きもの」であること。生きものが次の「生きもの」を作ることを考えれば、僕たちは今目の前にいる「生きものたち」を無闇に殺したり虐げたり追い払ったりすることはできないことに気づくはずだ。その行為は直截または間接に、しかし100%確実に僕らの身に還ってくる。
 生物体が「いのち」を乏しくするということは、すなわち健康を維持できないこと、生きてはいられないことを意味する。実際自然界は生命力の乏しい者を生かしてはおかない。それを薬品漬けにして形だけ「生きもの」のように見せても、それは防腐剤で固めたミイラのようなものであって、内実は半分死にかけた物体に近い。
 だから僕たちは、自分の体を大切にして、健康で今の「いのち」を精一杯生きたいなら、「いのちの乏しいものを食べない」ことが大切だ。自分の体がかつてミネラルだったことに思いを致し、生きもの本来の「生」のあり方に立ち戻るならば、やがては生まれ出た時の喜びを思い出すこともできるかもしれない。そういったことに気づきつつ、失くしたものを取り戻した後に、僕らの本当の生き方、「生きもの」としてのあるべき存在の仕方が顕れる。


(おしまい)

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