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受け取るコメントは他所のBLOGで自分が出すコメントの数だけある。・・・BLOGを始めて間もない頃、私はそう思った。
いくら自分の記事を充実させ、かつ来るコメントに懇切丁寧に応えていても、コメンテイターは更なるコミュニケーションを求めているしブロガーの多くはやはり自分のBLOGに来てコメントを残してもらうことを期待している。コメントを頂いて嬉しいのであれば、自分もまた相手が喜ぶことをしてあげたいしそれが潤滑油となってブロガー同士の意思疎通が進むことにもなる。だから私はその頃来るコメントごとにその相手を訪問しては自分のコメントを残していた。また新しいBLOGに出会うべく積極的にいろいろなBLOGを訪問して歩いてもいた。
冒頭のコメント理論は、もちろん私の場合である。世の中にはさまざまなBLOGがあるので、皆一概に同じとは言えない。
そして今から一年以上前、私のBLOGも毎日来るコメントのレスでてんてこ舞いだった時期があった。BLOGを始めて2、3ヶ月目だったろうか、コミュニケーション・ツールとしてのBLOGの面白さに目覚めた頃だったし、それはそれでとても面白かった。昼の仕事に疲れ果て、うたた寝しながら自分の記事を書いたものである。
でもそれも結局長くは続かなかった。次第に「チャット的」なコメントばかりが増えるし、何よりも睡眠時間を削るものだから、疲れてしまって御座なりの記事や散漫なレスになるのに自分なりに我慢できなくなってしまった。
私はひとつの記事、ひとつのコメントやレスを書くのに随分時間を使ってしまう。これは自分の性分なんだろうか。例え相手がチャット的な1行コメントをくれたとしても、それに対して同じような言葉を返せない。
だから結局時間的に巡回も難しくなって、出すコメントを減らす、アップする記事も減らすという「縮小均衡」をとらざるを得なかった。私もまた、暮らしの中の限られた時間の中でBLOGをしている。
今ではもう、ここはとても「静かな」BLOGになってしまった。頂くコメントも平均すれば日にひとつかふたつだろうか。でもその少ないコメントに精一杯の心を込めて答える、なんだか自分にはその方が合っているような気がする。
ところでそのように自分なりの心を込めて打ったコメントに対してがっかりするほど反応の無い場合がたまにある。レスが無かったりまたははぐらかすようないい加減なレスだったり・・・コミュニケーションを目的とするBLOGのコメントにおいてはそのような場合、当人の意識無意識に関わらず「相手は自分と会話したくない」と受け取ってまず間違いないのではないだろうか。
だからそのような時には、そのBLOGの記事がどんなに素晴らしいものであっても以後は「ロム専」になってしまう。たまに相手が落ち込んでいる時に励ます意味でコメントを出したりすることはあるけれど、もとより深いコミュニケーションを期待するものではない。実際自分としてももう相手にコメントする意欲をあまり持ち得ないのである。
またこんなBLOGとも出会ったことがある。その方は受けたコメントには丁寧にレスを返すのだけれど、まずほとんど相手のBLOGにコメントを出すことが無かった。とても素晴らしい記事を書く人で私自身今でもたびたび覗いているのではあるが、かつて多くのコメントで賑わったそのBLOGは今ではほとんどコメントが付かない。多分私と同様、誰もがロム専になってしまったのだろう。
これは深い意味で相手の気持ちを思いやれなかったのか、またはそのような結果を覚悟でして来たものなのかわからない。このようなBLOGは私の知る範囲では創作系に多かったりする。
例外はあるにせよ、総じて寄せられるコメントを大切にしないBLOGは、遅かれ早かれ皆同じ方向に行っているのではないだろうか。つまり読者が離れて行くと言うよりは「コメント離れ」するのである。だからそのようなブロガーは、もしコメントが欲しいとすれば絶えず新しい読者の確保に相当の時間を費やすことになるかもしれない。
しかしこれはBLOGの運営如何によるものではなく、そのブロガーの「人付き合い」の姿勢に拠るものが大きいのかもしれない。
恐らくはお互いの現実生活の中でも似たようなことが起こっているのだろう。ブロガーに限らず、私たちは日々こうして自分の付き合いの範囲を選んでいるのだと思う。私たちはこうして自分のBLOGを作り、自分の世界を創っている。つまりBLOGは一面自分世界の縮図である。
BLOGをしていると時々面白いことに気づかされる。自分のBLOG、自分の記事に、日頃意識しなかった意外な自分自身が投影されていることを発見する時がある。
こんなに出不精で非社交的な私のBLOGにも足跡を残してくれる人たち。私はそのことを心底ありがたく思う。
【写真は非社交的な我が家にこの頃とみに現れる近所の猫。まだ元服前のオス猫なので、遊び相手が欲しいものらしい。】
いくら自分の記事を充実させ、かつ来るコメントに懇切丁寧に応えていても、コメンテイターは更なるコミュニケーションを求めているしブロガーの多くはやはり自分のBLOGに来てコメントを残してもらうことを期待している。コメントを頂いて嬉しいのであれば、自分もまた相手が喜ぶことをしてあげたいしそれが潤滑油となってブロガー同士の意思疎通が進むことにもなる。だから私はその頃来るコメントごとにその相手を訪問しては自分のコメントを残していた。また新しいBLOGに出会うべく積極的にいろいろなBLOGを訪問して歩いてもいた。
冒頭のコメント理論は、もちろん私の場合である。世の中にはさまざまなBLOGがあるので、皆一概に同じとは言えない。
そして今から一年以上前、私のBLOGも毎日来るコメントのレスでてんてこ舞いだった時期があった。BLOGを始めて2、3ヶ月目だったろうか、コミュニケーション・ツールとしてのBLOGの面白さに目覚めた頃だったし、それはそれでとても面白かった。昼の仕事に疲れ果て、うたた寝しながら自分の記事を書いたものである。
でもそれも結局長くは続かなかった。次第に「チャット的」なコメントばかりが増えるし、何よりも睡眠時間を削るものだから、疲れてしまって御座なりの記事や散漫なレスになるのに自分なりに我慢できなくなってしまった。
私はひとつの記事、ひとつのコメントやレスを書くのに随分時間を使ってしまう。これは自分の性分なんだろうか。例え相手がチャット的な1行コメントをくれたとしても、それに対して同じような言葉を返せない。
だから結局時間的に巡回も難しくなって、出すコメントを減らす、アップする記事も減らすという「縮小均衡」をとらざるを得なかった。私もまた、暮らしの中の限られた時間の中でBLOGをしている。
今ではもう、ここはとても「静かな」BLOGになってしまった。頂くコメントも平均すれば日にひとつかふたつだろうか。でもその少ないコメントに精一杯の心を込めて答える、なんだか自分にはその方が合っているような気がする。
ところでそのように自分なりの心を込めて打ったコメントに対してがっかりするほど反応の無い場合がたまにある。レスが無かったりまたははぐらかすようないい加減なレスだったり・・・コミュニケーションを目的とするBLOGのコメントにおいてはそのような場合、当人の意識無意識に関わらず「相手は自分と会話したくない」と受け取ってまず間違いないのではないだろうか。
だからそのような時には、そのBLOGの記事がどんなに素晴らしいものであっても以後は「ロム専」になってしまう。たまに相手が落ち込んでいる時に励ます意味でコメントを出したりすることはあるけれど、もとより深いコミュニケーションを期待するものではない。実際自分としてももう相手にコメントする意欲をあまり持ち得ないのである。
またこんなBLOGとも出会ったことがある。その方は受けたコメントには丁寧にレスを返すのだけれど、まずほとんど相手のBLOGにコメントを出すことが無かった。とても素晴らしい記事を書く人で私自身今でもたびたび覗いているのではあるが、かつて多くのコメントで賑わったそのBLOGは今ではほとんどコメントが付かない。多分私と同様、誰もがロム専になってしまったのだろう。
これは深い意味で相手の気持ちを思いやれなかったのか、またはそのような結果を覚悟でして来たものなのかわからない。このようなBLOGは私の知る範囲では創作系に多かったりする。
例外はあるにせよ、総じて寄せられるコメントを大切にしないBLOGは、遅かれ早かれ皆同じ方向に行っているのではないだろうか。つまり読者が離れて行くと言うよりは「コメント離れ」するのである。だからそのようなブロガーは、もしコメントが欲しいとすれば絶えず新しい読者の確保に相当の時間を費やすことになるかもしれない。
しかしこれはBLOGの運営如何によるものではなく、そのブロガーの「人付き合い」の姿勢に拠るものが大きいのかもしれない。
恐らくはお互いの現実生活の中でも似たようなことが起こっているのだろう。ブロガーに限らず、私たちは日々こうして自分の付き合いの範囲を選んでいるのだと思う。私たちはこうして自分のBLOGを作り、自分の世界を創っている。つまりBLOGは一面自分世界の縮図である。
BLOGをしていると時々面白いことに気づかされる。自分のBLOG、自分の記事に、日頃意識しなかった意外な自分自身が投影されていることを発見する時がある。
こんなに出不精で非社交的な私のBLOGにも足跡を残してくれる人たち。私はそのことを心底ありがたく思う。
【写真は非社交的な我が家にこの頃とみに現れる近所の猫。まだ元服前のオス猫なので、遊び相手が欲しいものらしい。】
疑心暗鬼は始めると留まらなくなるのが常で、自分のコメントが (「理解してもらえるだろうか」は、もちろんのこと)長すぎないか、真面目過ぎないか、もしくはふざけ過ぎていないか、などなどなどなどドキドキしながら送信ボタンを押しています。
いただく返事に一喜一憂し、それに再びコメントをして良いものだろうか、しつこいと思われないだろうか、もしくは他の読者の方から 「こいつ、うざいよ」 と管理人に迷惑をかけていないだろうかとまた疑心暗鬼。
お返しコメントを自分のブログにいただくと嬉しいものの、義理コメじゃなかろうか、返って気を使わせてしまっているのではなかろうかとまたまた疑心暗鬼。
もう、ホントに心臓に悪いです。それでも以前に比べれば少しは外出するようにはなっているんですが、一向に慣れる気配はありませんね。
その点、弱小ではありますが自分のテリトリー内だと記事以上にコメントに頑張っている。その場合は返事をもらえるかもしれないという期待をしない。これは楽です。
それなら、馴れ合いの仲間を集めればいいのかもしれませんが、私自身が余所のブログに書きこむ時の緊張感があるからこそ、いただくコメントをよりありがたく感じるのだろうし、調子にのって時々失敗しますが、それでもセーブできているんだろうなと思い、ある意味で、実際には見知らぬ他人であるブログでの知り合いとの微妙な一線を越えないようにしています。
「いっそのこと、やめちゃえば」 と言われても、いやぁ、なかなかあの緊張感というか、スリルがたまらない。ははは、どーしよーもないですね。
と言ってる先から長くなりまして、失礼しました。
遠く離れた人が、文字を通して瞬時に繋がる。最近はPCを通した音声も使えるようになりましたよね。電話のような親密度は必要なく、気軽に、不特定多数の人と繋がってしまう時代。
手紙のように、返事をワクワクドキドキしながら待つ時間もなくなり、即応が求められる時代になったのですね!
その分、じっくりと時間がかけられなくなったのかもしれませんね。
物流の世界でも、少しでも早く、が良いことでもあり、そんな単一的な見方は、裏から見たら熟す、発酵する時間を奪っているのかもしれないです。
今日、仕事場で若い女の子が書いた、ある記録を見せてもらいました。
表面を撫でるような浅い読みで埋め尽くされ、そこには言葉の重みも、意味を求めて考慮した跡も見られませんでした。
色々な人がいて、色々な考え方があって、そんな中で自分と合う人と出会える楽しみを見いだした方がいいのかもしれませんね!
子どもの頃プール開きの日に、冷たい水になかなか浸かれなかった自分を思い出したりして・・・
年を取ると新しいものに飛び込めなくなるということ、ここら辺にあるのかもしれませんね。つまり固まった自分を手放せなくなってしまう。
私も滅多に新しいBLOGを覗かないのですが、それは時間的な理由もあるけれど、結局今の状態にそこそこ満足しているからなのかもしれません。
実際こうしていても少し、また少しと新しい人とも出会ってますしね。何も一気にたくさんの人と出会うのがいいとも限りませんよね。
私もコメントでは苦い思い出が幾つもありますよ。思い切って出したコメントが「悪く」とられてしまってレスをもらえなかったり削除されたり・・・もちろん自分の表現力不足もあるのでしょうけれど。
だけどそんな経験が、いざという時にお互いにわかり合える「深さ」になるんでしょうね。
例えがあまりよくないかもしれませんが、日々配合飼料を水を与えられ決められた時間に決められた場所を歩き回り、夜は寝るだけの畜舎の牛みたいです。今では牛も豚も鶏も、みんなインスタントな生活をしていますよ。そしてそれを食べる人間も。
いろいろな生き方がある。それでいいのだと思うしかないですね。私たちも現実を受け容れなければならない。そしてまた、いろいろなBLOGの使い方がある。
世界中の人を味方につける必要は無いし、友達の数を競う意味も無い。私たちは数少ないけれど大切なものを充分に持ってるし、こうして日々大切なものと出会っていける。
同じような時間を生きても、その密度は人によって大きく違う。かつて私は他人の2倍生きるんだ。生きれるんだ、と思って脱サラしてこのような道に入ったのですよ。実際2倍以上楽しんでいるんじゃないだろうか。
自分の心を掘り下げることによって、時間の深さは何倍にも厚くなるんだと思います。
私はタイトルどおりの感じの晩夏から秋です。
毎日繋いではいますが、HPも含め長くやっていると自分の視点も変わってきたりして力が出ない時が増えてきました。さぁ、人生これから何処に行こう、という感じのこの頃です。
書くことはエネルギー要りますね。
そしてレスひとつにしても同様です。
たかがPC、されどPC.
行間から流れてくるものはいろいろですね。
ネット上で長い付き合いになってくると軽い挨拶程度でも相手の様子がわかったりします。
Blogは付き合い密度が薄いから魅力だという人たちも多いです。
ふ~ん、そう...という感じです。
ネットも社会の縮小図みたいなところがあってかえって姿が見えないから逆に見えてくるところ、感じるところはまたいろいろですね。
都会で生きるのにはかなりなエネルギーを要します。それはそれで見えてくるものがまたそれぞれの人生であるでしょう、と思いつつそのあたりを漂っている私です。
今社会が多様化して、本当にそれぞれが自分で選択していく時代だろうと思います。
選択しないことも選択のうちで。
ちょっとずれているコメントになりましたが近況をまじえて久々の書き込みです。
私もBLOGを始めた頃から比べて、随分書くことや全体の傾向が変わって来ましたよ。元々HPにリンクさせた日記のつもりだったんです。まさか創作を書くとか、マルダヌキをアップするとか思いませんでした。
歩いてその先が見えてくる。人生って、楽しいですね。
何もしたくない時は無理してしなくていいんだと思いますよ。何かを書くためにはその何倍もの「書いていない時間」が必ず必要ですからね。何もしないように見える時間は大切だったりします。必要だから寝るのと同じように、それもまた心や体にとって必要なのかもしれません。
木は私たち人間のようには働かない。じっとそこに動かずにいて、根が届くだけのものを吸収し育ち生きている。彼らはただある物を「拒まない」のです。痩せた土には痩せたなりに、豊かな土にはそれなりに生きて死んでいく。
そんな生き方も、あるのですね。
毎日のように、コメント残さなくても、ある程度の信頼関係ができて、ポツポツと、残されるコメントに、気楽にレスをつけられる。 それも緊張感なしでね。そんなbloggerさんが、何人かいればいいかな、って思います。
コメントを残すのは、それにどんなレスがつくか、それが楽しみみたいなところがありませんか?
たとえば、agricoさんのレスやコメントは、毎日訪問しあって、コメント合戦をやってる人が5人いるとすると、その5人分もしくは、それ以上を1つのコメントやレスでやってしまってると思うのですが、そういうのが好みの人もいれば、軽い調子で、毎日、コメントしあってそれが日課みたいになって、楽しんでる人もいると思うのです。
ロムは別として、長くやってれば、コメントに関しては、自然に、性格的に、似た記事を書く人が集まってくるのかもしれませんね。
痛い言葉です。
今、自分のことしか見えてないのかもしれません。
今の自分のブログ、悲鳴にも似ています。
アグリコさんのトコに来て、人心地を取り戻します。
ふぅ・・・。
私のBLOGはその意味でも私の選んで来たコミュニケーションを如実に表わしてます。別に一方的に相手を選んで来たわけではないし、来るコメントにはすべて真摯に対応しているつもりなんですけどね、結果的にそうなってしまっている。
そんな自分でも、時には軽い話をしたい場合もありますよ。そしてちょうどいい具合にそんな相手もいるんです。
いざと言う時に胸を開いて話せる人たち、それが自分の宝だと思ってますよ。
もしかしたらこれは、女性性、男性性の差が顕著に現れるかもしれませんね。昔から井戸端会議は女性の専売みたいなところがありました。
でも現代では、少し違って来ているのかも・・・
どんな人間にもそれなりの「相手」がいる。その自分の相手を大切にするのが一番価値のあることなんでしょうね。だからたまたま私の相手はtakeさんでありここに来てくれる方々であり、そしてそれは私にとって無視したり飛び越したりできない現実です。
takeさんのBLOGは、それなりに個性があっていいじゃないですか。若くて知的な女性層に親しまれそうですね。でも最近以前ほどBLOG巡回に時間を割いていない私には、正直言って少しコメントし辛いところがあります。多分記事はほとんど読んでると思うんですが、特にお菓子や音楽の話には弱いんです。日頃接してないですからね。
悲鳴でも絶叫でも「バカやろ~~~」でも、上げれる時に上げた方がいいんでしょうよ。