以前「草刈請負業」を立ち上げたことがある。
脱サラして以来何年か実習先や就業先を求めて田舎の農村を点々として来たけれど、どこに行ってもみんな不景気と言い職が無いと言う。でも私の経験で言えば、どんな僻地でも生活するだけの仕事を見つけるのはそんなに難しいことではなかった。
出会う仕事を何でもするつもりでいれば、人の住む所仕事の無いところはない。どんなことでもやる気があるとわかれば、周りの人がいろいろな仕事の口を紹介してくれるようになる。
日本中で表面上仕事が無いように見えるのは、若者を始めとして多くの人が仕事を選り好みしているのが原因だと思う。
田舎の農村には若年層が少なく、いても辛い仕事はしたがらない。かつて働き者だった人たちは等しく高齢化して、もう半分体が動かなくなって来ている。
そこで私が目をつけたのが、「草刈請負業」だった。草刈は本気になってやれば結構辛い仕事だけど、田舎では需要があるし何より設備投資にお金がかからないので採算が取れやすい。
営業の効果もあって思ったとおり仕事は次から次へと舞い込み、終いには断らなければならないまでになった。
朝から夕方まで、刈払い機を肩にかけて草を刈る。雨の日もカッパを着て働く。
そして・・・
結果から言うと、刈払い業は1年で止めてしまった。
まず自分の体がもたなかった。仕事が立て込むと次第に手首が痺れるようになって来た。
それともうひとつ、生活のためとは言えただ大量虐殺のように草を刈るということを、私自身仕事としてする気にならなくなってしまった。
相手方は、単に荒地をきれいにしたくて草刈を頼む。こちらはそれに応えて一木一草も残さないように刈払う。
実際にそれを実行していくうちに、まるで机の上で図面を引くように「生きているもの」を頭だけで捉えて処理することに、次第に自分がやってられなくなるのを感じたのだった。
今は頼まれれば隣近所の草刈を引き受けることもあるけれど、特に自分から進んでしたいほどのものではない。幸い他にも仕事を持っている。
自分の畑、自分の敷地ならば、必要に応じて思うとおりに刈払うことができる。
残したい草は残して
虫たちが生き延びられるように一度に全部刈らず
あれ、と思う草はとりあえず刈り残して育ててみる。
そうしてみると草刈も楽しい。確かに草をバッタバッタとなぎ倒していく側面はあるけれど、同時にいろんな草や土、虫たちを観察し、自分の世界に取り入れて行く格好の機会でもある。
自分さえその気になれば草たちは、次から次へといろんなことを気づかせ、教えてくれる。
それでも今のところ、まだ草刈に不満が残っている。
どうも自分はまだまだ無駄に生き物の命を絶っているところがあるようだ。
今はどうすれば自分の暮らしのために必要最小限の草刈ができるかと、目下研究中です。
台風明けの青空。今日から今年2回目の草を刈る。
【写真は「わたしゃ草刈など知ったことじゃない・・」とのたもうタイン。下はこの春の菜の花畑。来年もまた菜の花を咲かせるよう、今年もわざと刈り残して自家採種しました。】
脱サラして以来何年か実習先や就業先を求めて田舎の農村を点々として来たけれど、どこに行ってもみんな不景気と言い職が無いと言う。でも私の経験で言えば、どんな僻地でも生活するだけの仕事を見つけるのはそんなに難しいことではなかった。
出会う仕事を何でもするつもりでいれば、人の住む所仕事の無いところはない。どんなことでもやる気があるとわかれば、周りの人がいろいろな仕事の口を紹介してくれるようになる。
日本中で表面上仕事が無いように見えるのは、若者を始めとして多くの人が仕事を選り好みしているのが原因だと思う。
田舎の農村には若年層が少なく、いても辛い仕事はしたがらない。かつて働き者だった人たちは等しく高齢化して、もう半分体が動かなくなって来ている。
そこで私が目をつけたのが、「草刈請負業」だった。草刈は本気になってやれば結構辛い仕事だけど、田舎では需要があるし何より設備投資にお金がかからないので採算が取れやすい。
営業の効果もあって思ったとおり仕事は次から次へと舞い込み、終いには断らなければならないまでになった。
朝から夕方まで、刈払い機を肩にかけて草を刈る。雨の日もカッパを着て働く。
そして・・・
結果から言うと、刈払い業は1年で止めてしまった。
まず自分の体がもたなかった。仕事が立て込むと次第に手首が痺れるようになって来た。
それともうひとつ、生活のためとは言えただ大量虐殺のように草を刈るということを、私自身仕事としてする気にならなくなってしまった。
相手方は、単に荒地をきれいにしたくて草刈を頼む。こちらはそれに応えて一木一草も残さないように刈払う。
実際にそれを実行していくうちに、まるで机の上で図面を引くように「生きているもの」を頭だけで捉えて処理することに、次第に自分がやってられなくなるのを感じたのだった。
今は頼まれれば隣近所の草刈を引き受けることもあるけれど、特に自分から進んでしたいほどのものではない。幸い他にも仕事を持っている。
自分の畑、自分の敷地ならば、必要に応じて思うとおりに刈払うことができる。
残したい草は残して
虫たちが生き延びられるように一度に全部刈らず
あれ、と思う草はとりあえず刈り残して育ててみる。
そうしてみると草刈も楽しい。確かに草をバッタバッタとなぎ倒していく側面はあるけれど、同時にいろんな草や土、虫たちを観察し、自分の世界に取り入れて行く格好の機会でもある。
自分さえその気になれば草たちは、次から次へといろんなことを気づかせ、教えてくれる。
それでも今のところ、まだ草刈に不満が残っている。
どうも自分はまだまだ無駄に生き物の命を絶っているところがあるようだ。
今はどうすれば自分の暮らしのために必要最小限の草刈ができるかと、目下研究中です。
台風明けの青空。今日から今年2回目の草を刈る。
【写真は「わたしゃ草刈など知ったことじゃない・・」とのたもうタイン。下はこの春の菜の花畑。来年もまた菜の花を咲かせるよう、今年もわざと刈り残して自家採種しました。】
山も人の手が入らないと荒れるのか・・・と不思議に感じたものです。
素人目にはどこにどう手をいれるのか、さっぱりわかりませんでしたが。
昔の人間はさぞや上手に自然との折り合いをつけていたんでしょうね。
agricoさんが目指しているのも、そういうところなんでしょうか?草との対話の中に様々な発見があるんでしょうね。
例え原子爆弾何千発爆発させたとしたって、
地球は滅びることなんかない。
表面は少しアレルかもしれないけど、
ちゃんと地球の時間の中ですぐに回復している。
だけどもし地球がその気になったら、
身震いひとつで人類はいなくなる。
だから私は、安心してるんです。
私たちは、この地球で自由に生きていれるんだって。
当時私は休みを全部使って、その活動に打ち込んでいました。ほとんど毎週のようにキャンプサイトの山の草刈をしたり朽木を燃やしたりもするのですが、幾らも経たずしてすぐ元に近い状態に戻ってしまう。
実際に自然を相手に四つに取り組めば、この自然の回復力は想像を絶することを実感できます。
思えば人間はなんと空しいことに計り知れない労力とお金とを費やしているんだろう。大規模な開発行為もまるで自然を敵視するように行われているけれど、全然適うはずがない。人間は恐らくはただお金を稼ぐ、ということのためにこんなことをしているのだろうか。
その時、そんなことを思いました。
岩手は、ちょっと車を走らせると、緑がいっぱい。
九州も飛行機から見える景色は、緑が濃いです。(植生が違うそうですが。) ところが、本州にはいった途端に、茶色の色が増えるんですよ。
一度、とてもいい天気のときに、飛行機にのって、地上をながめながら、そう思ったことがあります。
私は、今は岩手ですが、元は九州出身なので、かなり頻繁に往復してます。
九州には4年程前に勉強のために行ったことがあります。農家民宿や幾つか訪ねたいところがあったのですが、その中でとても良かったのが大分県の有機野菜農家の赤峰さん、新年の断食会に参加させてもらいました。
それと福岡県のやはり有機野菜と鶏を飼っている夢野さん。私と同じく男ひとり暮らしで、農業を営んでいます。とてもユニークな人で、大変お世話になりました。今でも親交が続いています。
今は動物たちがいるので出歩けないけれど、いつかまた出会いを求めて旅してみたいです。
そのときのことを考えると、隣の犬や、かってに散歩しにくる猫で、我慢してます(笑)
その人間の特徴としての制約の中で今一番自分にとって大切なことを選べばいいし、実際選んでるんだと思うんです。
心の働きだってそう。優先順位の高いことから心を働かしている。
今のこの状態は、自分が選んでいることなんですよね。