アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

再会

2010-04-03 08:27:06 | 
 勝手口から外に出た。昼の陽光が目に痛く木々の葉陰も物置の黒い壁も白粉をまぶしたようにほの霞んで見えた。雨に打たれた昨夜の土は乾ききり、春の日差しに小気味よく萌え出でた若草が庭をふさふさした絨毯へと変えていた。スズメノカタビラ、シロツメクサ、ニワホコリ。どれもみな厚く凍った土の下で生き延びて、雪が融けた途端にニョキニョキと首をもたげてきたのだ。土は生きており、草は地球の生命そのもののような気がする。
 庭を巡って猫たちがそこにここにと、気ままに散策したりじゃれあったりしている。今まで厳寒の隅に縮こまっていた彼らもまた春の息吹に感じたみたいだ。おおらかで優しく汲めども尽きぬ恵みを与えてくれるこの大地。猫も私も鳥たちもその上に生きるものたちはみな、常に母の懐に抱かれている。
 歩き回る猫たちのふとその中に、背と頭にこげ茶色のぶちのあるものが一匹目についた。アポロ!? いや、最近わが家には彼によく似た猫が出入りしている。それは野良ネコで去年の暮れあたりからしばしば顔を見せているのだった。耳を凍らす寒さにも牙むく吹雪にもじっと耐えて、体躯は大きく分厚い手を備え目の輪郭が太くて鋭い。まるで強靭さを絵に描いたような面構え。その猫の全体の色や模様、口元のブチなんかが総合して、どことなくアポロを思わせるのだった。あまりに寒い日に見かねて肉切れをやったのをきっかけとして、この猫は以来ちょくちょくわが家に来ては皿に一盛りの食事をいただくのを習慣としている。
 一方わが家のアポロと言えば、彼がこの家から姿を消してもう一年になる。それは彼が来たあの時と同じように突然のことだった。彼はそれから遡って3年前のとある夏の日にふらりとわが家にやって来たのだ。背中や横腹の毛が抜け落ちて病気と虫にたかられ、痩せさらばえて悲痛な声を上げていた。周りの猫たちの警戒の声をものともせず、玄米と魚の混ぜご飯を一心不乱に掻き込んだ。すさんだ外見に似ず根はおっとりして人懐こい猫のようで、やがて他の猫ともすんなりと馴染みわが家の一員となったのだった。よく畑で屈んでいる私の背中や肩に飛び乗ってきた。隣のじいさんが来るとすぐにその膝の上に乗る。きっとどこかで可愛がって育てられたのだろう。食いしん坊で寒がり屋のアポロ。その彼が去年のちょうど今時に、やはりふらりと家を出たそのまま帰って来なかった。
 とある民家の車庫に寝ている彼を見つけたのは、それから4ヶ月を経た夏の頃だった。ここから2km離れたその家の前は町へ買い物に出かける際にたびたび通る場所だったが、まさか彼がこんな所にいようとは夢にも思わなかった。助手席の窓を通して見覚えのある模様を垣間見て、もしやと思い車を停めた。彼はコンクリートの叩きに寝ていたが、私を認めると顔を上げ声を掛けると微かに返事をした。アポロが生きていた!その家を訪ねると、彼は野良ネコで近くの猫好きなおばあさんが餌をやっているという。
 あんまし可哀そうだったからやってるの。ほら、あすこの空き家になってるうちに寝泊まりしてるみたいよ。朝になるとね餌もらえると思って、ここら辺に来て戸口で待ってたり家の周りをうろついたりしてるんだよ。あたしも誰彼にってわけじゃないけど、この猫はまあ、よぼよぼみたいだし歩くのもふらついててなんだか気の毒な感じがするもんだから、特別にやってるのさ。こないだなんて一緒にあっちの方まで散歩についてきてさ。そう、アポロっていうの?この猫。こら、アポロちゃんよかったね~、やっと飼い主が現れて。もう迷子になるんじゃないよ。
 私はそのおばあさんに丁重に礼を言ってアポロを連れ帰ったのだったが、なんと彼は餌を食べ終わるなりその足で、また同じ場所に戻ってしまったのだ。こら、アポロ!おまえどうして・・・?
 え?何を食べさせてるかって?ああ、今日は唐揚げとサケ缶。昨日は豚肉を炒めて、たまにはハムや刺身なんかだったり。でもこの猫、だんだん贅沢になってきて、やっても食べなかったりすんのよ。特にキャットフードなんかね。せっかくおいしそうなの見つけて買ってきても、ぷいと横向いたりして。そのくせエビやちくわなんかは大好きなんだから。
 彼の帰って来なくなった理由は歴然であった。わが家にいるときのアポロは決して好き嫌いをしたり食べものを残したりするような猫ではなく、なにをやってもがっつくように食べ、他の猫たちに比べれば文字通り底なしの胃袋を持っていた。わが家では魚のあらか鶏のムネ肉、それらを安売りの時にしこたま買いこんでは、それに玄米やカボチャ、芋などを混ぜ合わせ来る日も来る日も同じものを食べさせている。猫たちにとっても粗食・小食がわが家のモットーである。栄養的にそれを補完するのが、日々彼らが捕えるネズミや小鳥、カエルや虫など。しかし歳をとってからわが家の一員となったアポロは狩りが苦手のようにも見えた。またその一方で、パンやお菓子おかずといういわゆる人間の食べるものを人一倍食べたがる傾向がある。きっとそれまで飼われていた家の習慣によるものなのだろう。
 その彼は今や残念ながら、いや彼自身にとっては幸いなことなのかもしれないがわが家よりも数等彼好みの食生活を保証してくれる理想の家を見つけたのだった。以来私は彼を無理に連れ帰るのを諦めて、その代わりその家の前を通る際に彼の姿を見つけては車を降りて次第にメタボさを増してくるそのお腹を撫でるだけにとどめている。おかしいねぇ、この猫は撫でたり抱いたりしようとするとすぐにかっつくんだけど、なんであんたにだけはこうして抱かれたりすんのかねえ。あたしなんて、ほらこうして、箒持ってでないと触れないんだよ。あ、ほらまたひっかいた!

 そのアポロが家に帰って来たのだった。間違いない。この頃顔を出すあの野良ネコでもない。確かに彼だ。「アポニョ!」私は叫んだ。つい猫言葉が出てしまった。彼も私に気づいてウニャウニャ言いながら駆け寄ってくる。おまえ、帰ってきてくれたんだな。嬉しさがこみ上げた。あ、おまえもしかしたら腹が空いてるかもしれない。そうか今用意してやるから。ひとまず彼を抱くのは棚上げにして、私は台所に飛び込み猫の餌鍋の蓋をとった。底に肉が何切れか残っている。一度はそれを手で掴んだが、思い直してそのままにして鍋に水を足し火にかけた。少しでも食事に近いものを食べさせてやりたい。汁が温まるのを待ちつつ、その間にまさか彼が再びいなくなりはすまいかと少しだけ不安になった。湯気が立つのを待たずに肉を汁ごと皿に盛り私は再び勝手口を出た。
 アポロは目の前で待っていた。あぁアポロ。地面に皿を置く。彼は昔と同じようにむさぼるように食べる。食え、食え。みんなおまえのものだ。ほっと気が落ち着いて背筋を伸ばした。庭を見やると相変わらず猫たちがピョンコピョンコ駆け回っている。ふとその中に一匹黄色い色のが混じっていた。わが家でこのような猫と言えばクマしかいないが。そうクマ!クマだ!一昨年いなくなったクマが、そこを歩いている。彼は猫の中では最長老で、この家に来たのもミーコに次いで古い。私と住んでかれこれ7年になるし、歳はおそらくゆうに十歳を超えているだろう。その彼が、ひと夏を境にして私の前から忽然と消えてしまっていたのだ。その頃時を同じくして彼の愛人である向こう隣りのシロチャンも一緒に姿を消していた。もしかしたら二人ともキツネに食べられたのかもしれない。クマ!おまえのこと忘れてなんかいなかったぞ。喜びが堰を切ったように体中を駆け抜けた。「クマが帰ってきたぞ。ミーコ!」私は振り返り台所に向けて叫んだ。アポロだけではなく、今日クマもまた帰ってきてくれたのだ。
 しかし、不意に浮かんだ当然の疑念を私はかわすことができなかった。アポロとクマ、一度に二匹ものいなくなった猫たちが帰ってくるなんて、こんなことあり得るだろうか。普通ではない。明らかにデキ過ぎだ!もしかしたらこれは夢ではないか!?頬を叩いた。つねってみた。周りをあらためて見渡してみた。視覚に映る像はどれも鮮明で夢と見まごうものはない。いや鮮明というか、現実以上に現実的なのだ。何匹もの猫たちが追いかけっこをして戯れている。どれもかつて見知った私の家族、愛しい家族たち。私の視覚は正常で、認識にも狂いはない。すべてが現実に間違いないと思った。しかしどこかが引っかかる。そうだ手だ!手を見るんだ!これが現実ならばもちろん自分の手を見ることになんの支障もあるわけないし、もし仮に夢の世界だったとしても、自分の手が見える時は、私はそれを夢と自覚しながら自分の意識を保ちつつその中で自在に行動することができる。私は夢の世界を歩く際の先導役として「自分の手」を使っているのだ。そうだ、手を見るんだ。すぐさま両手を目の高さに上げようとした。が、上がらない。今度は見降ろして視認しようとしたがやはり見えない。見ようとするたびに視界が暗く狭まれたようになってしまう。しかし、アポロが帰りクマが帰ったこの世界が現実であることを証明するには、なんとしても手を見なければならない。何かが胸の辺りに布のように纏わりついていて自分の努力を阻んでいる。手が重い。私は懸命にもがきながらその感触あるものを引き下げようとした。もう少し、もう少し。しかし力を入れるにしたがって、私の意識は日差しの降り注ぐ春の光景からは急速に退いていって、いつしか寝床で首元にからまった毛布を払いのけようとしている自分に気づいたのだった。

 あえて目を開けるまでもなかった。夢だったのだ。懐かしいアポロの姿が、クマの姿が記憶の隅に霞んでいく。戻らない彼らは夢の中でだけ、私の待つこの家に帰ってきたのだ。意識がはっきりするにつれて自分の置かれた時間と場所が明確になってきた。私は今日の夜中にトイレに立ち、その時についてきたミーコと一緒に寝床に入りなおし、他の猫たちはいずれも玄関と戸外とにいるはずだ。私の踝には布団の上に丸くなったミーコの体重が感じられる。今この瞬間アポロもクマも、私の知らない場所のどこかにいるのだろう。出会いは、それが同じ形で現れることは二度とない。すべてはほんの一瞬か、それより少しだけ長い時間留まり消えていく夢の世界のようなものなのである。




【冒頭の写真は痩せてた頃のアポロ。終わりの写真はクマと、それを見下ろすアポロとミーコ】


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