アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

エネルギーを拾う猫

2006-10-19 17:15:41 | 
タタタタ・・・とコマリンが後ろから駆けてきて前に回りこみ、私の足元にゴロンと横になった。
立ち止まった私の顔に折りしも朝の光が眩く突き刺さる。
見上げると山の端から幾筋もの銀の矢が降ってくる。高圧鉄塔が曙光に溶けこんで視界に入らない。今まさに陽は山頂にその上端を見せたところだった。
その時私は気づいた。
猫がゴロンと横になる時、道端に立ち止まる時、それは決してどこでもいいというわけではない。
彼らはエネルギーを集めているのだ。

わが家では毎朝スヌーピーと数匹の猫を連れて散歩をするのが習慣になっている。
みんな一緒に歩いてても、猫は決して犬のように一直線には歩かない。あっちにふらふら、こっちにふらふらとまるで酔っ払いが酒の余韻を楽しむように回り道をする。
更に言うととても気紛れである。いきなりダッシュしたかと思うと、突然座り込んでじっと動かない時もある。場合によってはそこが気に入ってしまってもう呼んでも来ない。彼らはまったく人間に歩調を合わせようとはしないのだ。
そういえば猫たちはいつもなにか「場所」を捜しているように見える。そういえばどの猫も、お気に入りのスポットを幾つか持っている。それは玄関の机だったり、軒下に積んだ薪の上だったり軽トラの運転席だったりする。
祠や神社の境内なども彼らの好みの場所だ。散歩をして祠があると必ず寄り道をする。
人が読んでいる新聞の上に乗りたがる猫、みんなが囲んでいる炬燵や机の上に座りたがる猫、いろいろな場合の猫たちの様子が次々と脳裏に浮かんでくる。
そういえば彼らが何かをじっと見つめている姿にもよく出会う。その視線の先を追ってもそこには何もない時の方が多い。彼らはいったい何に関心を向けているのだろうと常々不思議に思っていた。
そうだ、やっぱりそうなんだ。彼らが好む場所というのは、どれもある共通した性質を備えている所だ。いや、断定はできないけれどやはりこれは間違ってはいないと思う。

彼らはエネルギーに惹かれている。猫たちは確実に、それを知覚することができるのだ。

例えば神社は、人間でも感じることのできる清らかで心休まるエネルギーに満ちている。また猫たちは自分の大好きな人間のいつもいる場所、坐る場所や、何かを読むなどして意識を集中させる所にいたがる。よく観察すると猫は決して嫌いな人の指定席には寄り付かない。
だから道を歩いてる時、彼らはふらふらとまるであてども無いように歩くのだ。でも実は彼らは私たちにとってある意味得体の知れないものを見ているか、または感じている。そしてそれを探しながら歩いている。それが人間の目からは、まるで何の統率もなく歩くように見えるだけなのだ。
道端で彼らの見つけるエネルギー・スポットはその日によって違うみたいだ。もしかしたらエネルギー場というのは、常に微妙に移動してるのかもしれない。
私たちに見えないものを彼らは見るか感じることができるとすると、彼らの視覚の世界は私たちのそれとは全く違っているに相違ない。

今日も私と一緒に猫たちは散歩に出かける。通りに出るとあっちでゴロン、こっちでゴロンが始まる。特に私の前で横腹を見せる時は「撫でてくれ~」という甘えの意思表示だ。お気に入りのエネルギー・スポットにいて、その上更にお腹を撫でられると、彼らは間違いなくダブルで気持ちいいのだろう。そしてゴロン、ゴロンと右に左にと寝返りをうつ。ああシアワセ!

そうか、何気ない散歩の暇に、おまえたちはこうしてエネルギーを拾い集めていたのか。もしかしたらそれを私にも分けてくれようとして、こうしてその場でゴロンとして私を立ち止まらせてくれていたのかもしれないな。
ただ目的に向かって真っ直ぐに進むしか能のない犬や人間には考えられない楽しみだ。たぶん彼らにとっては、こうして歩くことやただ坐ることさえも喜びなのに違いない。

今日もまたひとつ、猫の幸せの秘密を見つけたような気がした。



【写真は道端で勾玉ポーズをするミーコ。
必ず私の歩く前に出てゴロリンとします。】




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4 コメント

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猫のふしぎ (菅原)
2006-10-20 17:26:23
私も娘が置いていった三毛猫と一緒です。猫の秘密にいつも興味を掻き立てられています。そのためには猫と一体になることかなあなどと考えて実行していますが、なかなかわかりません。でも猫語はいくつか憶えました。癖の意味もいくつか理解しました。聴覚の異常な発達があるから、最近は人間の通常の声ではなく、かすかな、口を開くだけに近いことばで呼んだり、話しかけたりします。どんな小さな声でも、遠い部屋からやってきます。ふしぎにも猫もまた口を動かすだけのほぼ無音のことばを返してきます。猫って、秘密だらけですね。
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ああ、菅原さんも・・・ (agrico)
2006-10-20 19:17:59
猫の世界に肉迫していましたか。本当に彼らの世界は人間のそれとは常軌を逸しています。というか、それが彼らの当たり前の世界なのですね。この世には生命の数だけ厳密には異なった世界があるのだと思います。それを理解するにはいったん私たちの尺度を取り下げないとなりません。



おっしゃった通り、言葉というものに関しても私たちとは隔絶とした使い方の違いがありますね。少し口を開けて声なき声を出すのも彼らの特徴です。はっきりと声に出して言うのは、もしかしたら彼らにとっては大声を出すのに等しいものかもしれません。



また同時に彼らの行動や習慣もかなりの部分、結構私たち飼い主の行為に影響されることは事実なようです。

うちの猫たちも私についてかなりの長い距離をトコトコついて歩くようになってます。それは彼らが私に合わせたのですね。人間特有の余裕もゆとりもない歩きに。

ペットは飼い主に似るというそのままです。とすると子どもと同様、猫を見ても飼い主が見えてくるのかもしれません。
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ミーコの毛色 (baba76)
2006-10-28 19:18:52
ミーコの毛色は今どき珍しい、私の子供の頃はちょいちょい見かけた記憶がありますが、現在は見ることはありません。

ミーコのルーツを知りたいものです。

アメリカでは、このような毛色を大切にして血統猫に指定しているようです。



当方の猫は皆天寿を全うして居なくなりました。

もうこの歳になりますと、猫の生涯の最後まで責任がもてませんので飼うことはできません。



在りし日の猫どもの写真をめくっていとおしんでおります。



81歳 松盛
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猫のいのちは儚いですね。 (agrico)
2006-10-29 18:14:47
人間の十分の一しかない猫や犬の生を目の前にすると、生きること、死ぬことについて思わされます。わが家は猫を飼い始めてまだ5年しか経ってないのですが、その間病気で死んだ猫、行きて帰らない猫に幾度涙をこぼしたことかわかりません。彼らはその短い生で身を持って私たちに「なにか」を教えてくれるのですね。

天寿を全うした猫たち、写真を眺めるその気持ちわかりますよ。babaさんに飼われて彼ら幸せだったんですね。



ミーコはある所からもらってきた猫です。そこでは工場の中で何十匹もの猫を飼っていました。飼っていたというより、ただ餌をドサッとやって繁殖するに任せていたと言った方が早いです。

だからルーツはほとんど辿れないのですが、ミーコはアメリカン・ショートヘアと何かの雑種みたいです。横腹のこの模様が珍しくて彼女を貰うことに決めたのです。

ミーコは5歳半になりました。私たちがこの家に引っ越してからちょうど5年経ちます。
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