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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

社会保障という前に、そもそも人類は貧困に勝てるのか

2010-07-28 11:57:29 | 社会
最近、ベーシックインカムとかナショナルミニマムとか、そんな言葉が大流行しているようです。
かなりの知識人たちが口を揃えてそれらに言及しています。

ただ、私はこの議論に少し違和感を感じています。
ベーシックインカムを否定しているわけではありません。
むしろ、国家のリストラのためにもやるべきです。
複雑怪奇に入り組んだ行政の仕組みをベーシックインカムで統合して効率化を図るのは非常に有意なことだと思います。

しかし、私は、そういう議論の前に、するべき議論があるだろうと考えています。

どういう議論かというと、

そもそも我々には、我々全員の生活の質を保証するだけの力があるのか?

ということです。

多くの方が、それこそ高い意識をお持ちの方ほど、生活に困窮している人々や、将来の不安で震えている人々を助けたいと考えています。

「なんとかしなければならない。」
「この国の形を変える!」
「国の仕組みを変えて、新しい国家を構築するのだ!」
と考えている志ある、それこそ坂本龍馬のような人々は大勢いらっしゃいます。

しかし!
しかしですよ。

この国の形を変えたとして、それって本当に実現できるの?

「できるかできないかではない、やるのだ!」

やろうと思えばできるはずだ。ですか。
それはそれで気高き精神だと思います。
傾聴に値する意見です。
しかし、そのロジックは民主党の政権交代すれば何でもできると同じレベルのものです。

まず、我々は、我々の力を知るべきでしょう。
当Blogでいつも使う孫氏の兵法を思い出しましょう。

彼を知り己を知れば百戦危うからず。
彼を知らずして己を知れば一勝一敗。
彼を知らず己を知らざれば戦うごとに必ず危うし。

彼が貧困だとして、己は我々です。
今、我々はようやく貧困について知り始めた程度のレベルです。
己はどうですか。
我々は己について知っているといえますか。

貧困というのは、人類が生まれる前から、生物が生まれた時からずっと解決できずにいる問題です。
人類は、ほんのここ数百年というわずな期間、少し裕福になったということでしか過ぎません。
我々には、地球上から貧困を撲滅するだけの力があるのでしょうか。
これまで成し得なかったことが、どうして今、成し得ると確信できるのですか。

信じるのは自由です。
しかし、信じるだけでは状況は変りません。
我々には、まだ貧困を撲滅できる力はありません。

ないのです。

そういう都合の悪い情報を隠し、その上で砂上の楼閣を組み立てるばかりでは何も前には進みません。
これは、神の存在を無意識に是認している状況と同じです。
人類は(今でも)ある時期において、みな神の存在を前提としてあらゆることを語っていた。
それは時として、様々な時計の針を止めてしまいました。
現実を直視せず、己を知ろうとしなかったからです。

我々は現実を直視せねばなりません。
己についてもっともっと知ろうとしなければなりません。
利益を右から左に流すだけのゼロサムゲームはやめにすることです。

我々が、己から目を反らす限り、貧困という敵には勝てないでしょう。

辻元現象を巻き起こせ

2010-07-28 10:11:14 | 政治
私の離党届提出について(辻元清美)
http://www.kiyomi.gr.jp/blog/2010/07/27-2007.html

私は、当然の帰着だと考えています。

私の意見に多くの人が理解を示してくれなかったのですが、
私は以前から権利を主張する人々を権力側に入れることについて賛同しています。

経済やら経営に見識のある多くの人達はこう言います。

そんなことしたら個別最適を指向する貪欲な人々に、貴重な資源を余すことなく貪られ、全体として損失を被ることになる。

確かにそうだと思います。
ですが、それでも私は個別最適指向な人々を権力側に取り込む努力を怠るべきではないと考えています。

理由は簡単です。

人というのは、問題を、自分の問題として認識しない限り、解決できないものなのです。
これが「責任」の本意なのです。

限定された個別最適を指向する人々は、自分達の問題しか認識していないから、全体の問題を取り扱わなければならない権力側の問題を解決することはできません。
トレードオフに気づけていないからです。

個別最適を指向する人々に、全体最適観点を持ってもらうためには、、全体最適が必要とされる立場に立たせてみるしかありません。
全体最適を自分の問題として認識してもらう以外にないのです。

ゆえに私は、全体最適論者が個別最適論者を見下して排除するのには賛成せず、むしろお互いの理解を共有する路線をとった方が近道だと思うのです。