子曰く、学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。
朋有り遠方より来る、
亦た楽しからずや。
人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。
(論語)
こちらに出張で着ている友と会った。
学生時代にいろんなことを語り合った友だ。
あの頃、自分が発していた言葉の意味を、今になって理解したりする。
まさに「学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。」である。
あの頃みた未来の自分には遠く及ばないかもしれないが、
決して退化などしていない。
進化していることには間違いない。
ただ、あの頃目指した自分とは違う自分になっているだけだ。
これは学びの本質的な問いを我々に投げかけている。
それは、人は学ぶ前に学んだ後の自分のことはわからないということだ。
だから学ぶ前に立てた計画や目標は、学んだ後にその意味を変えてしまうことが多い。
また、学んだことというのは、学んだ時に全ての結果が出るものでもない。
例えば、学校を卒業する時点で、学校で学んだことの全てを理解することは難しい。
往々にして、学校で学んだことは、卒業後、社会的生活の中で理解されることの方が多い。
理解というのもに限りはなく、何重にも繰り返し重ねられるものだからだ。
学んだことは、一度だけではなく、何度でも繰り返し我々に理解を求めてくる。
学びは決して完結しない。
そういう意味で、完結しない学びを提供できる教育こそ本来的な意味で意義深い教育といえるだろう。
教育機関が単に知識や技術を伝えるだけために存在するかのような幻想が日本を覆っている。