粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

結局「福島復興」の視点がなかった朝日新聞

2013-10-18 14:03:04 | 反原発反日メディア

朝日新聞連載「プロメテウスの罠」の「福島に福島米」シリーズが、19回の今日で終了した。この連載を読んで、当初は放射能被害を心配する母親たちのみならず、生産農家や農協あるいは学校、自治体などを取材して各々の立場を客観的に書いているとは思った。その点では朝日にしては珍しいとも感じた。しかし、最終回の記事には「がっかり」、いや「やっぱり」と嘆息せずにはいられなかった。

朝日のネット記事は本紙の一部しか掲載されなかったり、翌日には削除されたりして購読困難な記事が多いので最終回の内容だけは全文紹介しておく。


プロメテウスの罠』[給食に福島米:19 判断に時間がほしい]

今年1月に福島市の学校給食で市産米が使われるようになってから、市内の八巻美幸(やまきみゆき)(43)は小学3年の長男に毎日おにぎりを持たせている。

 原発事故で生じた行政不信は根深い。市が「安全だ」といっても、なかなか信じることができない。

 事故直後、水道水から1キロ当たり最高177ベクレルの放射性ヨウ素が検出されたが、市から使用制限はかからなかった。後になって、国は10ベクレルという基準を示してきた。

 当時は何も気にせず、水道水をそのまま子どもに飲ませてしまった。今もそのことへの悔いがある。

 県知事が県産米の安全宣言をした直後に汚染米が見つかったこともあった。そうした例を挙げればきりがない。行政は当てにはならない。自分で判断するしかない、と思う。

 学校給食で市産米が使われることになったとき、八巻は長男をこう説得した。

 「市は安全だというけど、放射能が見逃されて食べてしまうことも、絶対にないとはいえないんだよ」

 全水田、全果樹園を調べるというJA新ふくしまの取り組みを、八巻は評価している。だが、それがすぐに「食べさせてもいい」につながるわけではない。子どもに市産米を食べさせていいのかどうか、判断するにはもう少し時間がほしい。

 別の心配もある。他の子どもと違う道を選ぶことによるリスクだ。おにぎりを持っていくことで、いじめられたりはしないだろうか。

 担任の女性教諭に相談した。教諭は親身に応じてくれた。目配りをしてくれる、といってくれた。

 できる限り、八巻自身も気を使っている。

 少しでも他の子との違いが小さくなるように、おにぎりには具を入れない。こぶし大の塩おにぎりを一つだけ。給食のご飯とほぼ同量だ。給食がカレーの日だけは、おにぎりではなく弁当箱にご飯を詰める。

 長男は本来、給食が大好き。パンよりもご飯が好きだ。可能なら給食の温かいご飯を食べさせてやりたいと思う。米飯持参を続けなければならない今の状況を悲しく思う。

 持参させるようになって2カ月たったこの春。担任教諭に「様子はどうですか」と連絡帳で尋ねた。

 返ってきた連絡帳には「大丈夫ですよ」とあった。(関根慎一)


要するに学校給食の福島米を拒否し続ける母親の苦闘が描かれている。子どもにおにぎりを持参させるにも「少しでも他の子との違いが小さくなるように、おにぎりには具を入れない。こぶし大の塩おにぎりを一つだけ。給食のご飯とほぼ同量だ。給食がカレーの日だけは、おにぎりではなく弁当箱にご飯を詰める」というような涙ぐましい気苦労をしているのだ。それも子どもがいじめられたりしないようにとの配慮からだ。

それというのも原発事故での政府や自治体の発表に誤りや隠蔽があるのではないかという不信感からだ。それが「行政は当てにならない。自分で判断するしかない」という方向性へと向かったわけだ。

だが、どうも「自分で判断」という言葉が引っかかる。早い話が科学的な確信があるからではなく、相手が信用出来ないから給食米を拒否するだけのことではないか。相手を信じる、信じないといった極めて矮小な動機といったら酷な言い方であろうか。

ただ、こうした信頼関係は社会の基本であるから、一概に人の心情を批判は出来ない。子どもへの母性のなせる結果といってしまえばおしまいだ。ただ子ども本人はどう思っているのだろうか。記事の最後は母親が2ヶ月後連絡帳で担任の先生に尋ねる場面で終わっている。「返ってきた連絡には『大丈夫ですよ』とあった」、とあっさり締めくくられている。

担任教師と口頭で確かめず「連絡帳」のやりとりで済ませることに違和感が残り、後味の悪い最終回であった。本当に子どもは「大丈夫」なのか。持参のおにぎりで満足しているのか。そしていじめはないのか。結局最終的には朝日の記者は、福島米の給食に抵抗する母親の側にたった記事で連載を終わらせている。途中に自治体側から語られた「福島復興」という言葉は最後は全く登場しなかった。

これでは、朝日系の「アエラ」とスタンスはほとんど差がない。放射能に敏感な母親を「隠れキリシタン」と例えるような…。相も変わらず、事故のマイナス面ばかりを追って後ろ向きに日本を見る姿勢だ。朝日の辞書に「復興」の言葉はない?


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