粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

こんな抗議はほとんど病気

2012-05-29 00:18:40 | ガレキ広域処理問題

山本晋也監督なら、唖然として嘆くだろう。群馬県桐生市でおこった広域がれき受け入れ「抗議」行動だ。ドクター町田氏(5月24日のコラム)が究極の言葉であきれているが、自分も気持ちの上では同じだ。

町田氏の地図を見れば、桐生市の方ががれきを搬入する岩手県より、遥かに福島第一原発に近い。すでに受け入れを実施している東京都では、同じ岩手のがれきの方が放射性物質の濃度が低く、それによる健康被害など全く報告されていない。なぜ桐生市でこんなに試験焼却で反対するのか理解に苦しむ。

おそらく桐生市の一般ゴミのほうが、岩手のがれきより放射性物質の濃度が高いだろう。しかしこれまで「市民」が市内ゴミの焼却に抗議活動をしたという話を聞いたことがない。

要するに反対するグループは、放射能による健康被害をまじめに心配しているのではなく、「岩手のがれき=放射能汚染」と決めつけているのだ。これは明らかに「岩手差別」あるいは「東北差別」だ。

反対派グループはそれに全く気付いていない。気付こうとしない。自分はこういうグループはある意味、宗教的カルトと同じではないかと思う。放射性物質の濃度や放射線量の実際の数値など目にもくれず、「放射能恐い、東北は放射能に汚染されていて危険だ」というお題目を唱えている。またそれが運動の根本(教義)となっている。

こうした偏狭な考えの持ち主が集まると、余計その情念が強まって結束していく。そこにカルトが誕生する。対外的には、攻撃対象を定めてその排斥に没頭する。

こんなこと書くとまた女性差別といわれてしまうが、その「信者」は女性特に小さい子供を持つ主婦が多い。そして抗議活動には、子供を同伴でそして子供を前面に押し立てる。

もちろん放射能で悩む主婦全てを言っているのはない。母性として子供の放射能被害を心配する気持ちは理解しているつもりだ。しかしそれが度が過ぎて現実的な数値や事実を全く理解しようとせず、一方的に攻撃対象をつくり出して排斥運動に奔る行き過ぎを問題にしているのだ。がれきの受入れに反対する人間はほんの一握りであろう。おそらく、こういった人々を理屈で説得しても不可能だ。精神的、それも宗教的な対処方法が求められているのではないか。



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