粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

東京新聞と「食の安全」

2013-04-24 14:50:36 | 反原発反日メディア

3月中旬に発表された政府による食品の検査基準見直しに対して、やはりあの東京新聞が噛み付いた。国が重点検査対象の品目をこれまでの130品目から98品目に「大幅」に縮小する新指針を打ち出したからだ。削除された品目は昨年4月からの検査で、セシウム濃度が食品基準100ベクレル/キロの半分50ベクレルを下回ったものを対象にしている。国のこの指針を受けて、各都道府県が独自の重点品目を選定することになる。

しかし東京新聞の女性記者は、この縮小は「生産者に余計な検査はしなくてよいという無言の圧力を加えているような指針。だが、風評被害を防ぐには、きめ細かい検査とデータの開示は欠かせない。検査態勢の縮小こそが、風評被害を助長する」と批判している。

記者は100ベクレルを超えなければ安全という考え方は「消費者の感覚と隔たりがある」と主張している。その理由として記者は民間の市民放射能測定所(つくば市)代表の声を紹介している。その代表によれば100ベクレル/キロと基準さえ「お話しにならない」のだという。自治体の検査体制は「抜けが多いと感じた。」ためとしている。公の測定器が実際より低く出たケースがあったという。

民間の測定器が公のものよりは正確なのは事実だが、はたしてその誤差はどれほどか。微妙な差がでるのは致し方ない。しかし「話にならない」という民間の代表の証言はバイアスがかかっている感じがする。まさか100ベクレルを50ベクレルと誤判定がするわけではあるまい。またそれをもって記者が100ベクレルが「消費者の感覚と隔たりがある。」と断言するのも無理がある。

記者が公の数字がいい加減だから100ベクレルの基準が問題だとしているが、それは測定器をもっと精密なものにすればいい話だ。決して100ベクレル基準を否定する理由にはならない。

先頃発表された早野龍五東大教授らの調査でも福島での内部被爆は、99%は検出以下ということが明らかになった。特に三春町の子供は当初検出された子供もその後の検査では不検出となっている。20%が農家の子供なのに、この結果は時間の経過とともに内部被爆が確実に減少していることを証明している。

厚労省での各地家庭の食事や自治体の給食で毎日の献立から調べた内部被爆は、年間0.01ミリシーベルトのレベレベルであり、確実に食事による放射線の影響は減少している、

こうして減少傾向を踏まえた政府の新指針は当然だと思う。決して東京新聞の記者が主張するような「風評被害助長」などありえない。

福島第一原発事故の前と後で、最も変わった日常が食品選びだ。新鮮かどうかより、汚染がないかで判断しなければならない。

この東京新聞女性記者が冒頭で書いている。確かに原発事故当時はそうした感情を持つ消費者は多かっただろう。しかし、内部被爆に対する正確な情報が次々に明るみに従い、次第に食品に対する安心感も醸成されつつある。

いつまでも「汚染がないか」と問題提起し続けるのもどんなものかと思う。まして「福島のお年寄りが、「自分は食べても孫には食べさせたくない」と話していた。」などと追記のメモで情緒的に書き添えるなど記者の言葉として適当かとさえ疑問に感じる。