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粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

やさしく歌って

2014-05-22 11:07:48 | 音楽

ある年代以上の人なら、この曲ってネスカフェのCMソングだとわかるだろう。年がばれる?といっても今の若い人でも、曲を聴けば誰もが聴いたことがあるというほどポピュラーな曲だ。ただ「やさしく歌って」の原題を気にする人は意外に少ないかもしれない。

ロバータ・フラックが歌い大ヒットした1970年代半ばころ、東京新宿のパブ喫茶で店の女の子がステージで英語の原曲で歌っていて、その美声に聴き入ってしまった。以来この曲が大好きであったが、その歌詞をじっくり吟味することはなかった。数年前にカラオケスナックで酔いに任せてこの曲を原曲を歌おうとした。しかし、語学力がなくまして歌ったこともない自分にとってその結果は悲惨なものであった。

それはともかく、曲のサビとなるフレーズはこんな感じである。

Strumming my pain with his fingers, 

Singing my life with his words, 

Killing me softly with his song,

 Killing me softly with his song, 

Telling my whole life with his words, 

Killing me softly with his song ...

 

ギターを弾く彼の指で 傷ついた私の心をかき鳴らして

彼の言葉で 私の人生を歌って 

やさしく歌って 

やさしく歌って 

彼の言葉で 私の人生すべてを語って 

やさしく歌って

 

「やさしく歌って」はKilling me softly with his song となるわけで、それが歌の原題ともなる。

直訳すると「彼の歌で私を殺して」となる。Killなんて物騒な単語だが、それが日本語になると「歌う」という穏便な表現になる。まあよくできた訳といってよいだろう。ただし、歌を聴かされる方はうっとりっしてメロメロになるくらいの気分になる。それこそ「悩殺」されるほどの心地ということかもしれない。

日本でも英語のKillが日常的にそんな意味で使われることはよくある。マダムキラー、女子高生キラー、親父キラー…。そういえば昔「恋の季節」を大ヒットさせたピンキーとキラーズというグループがあったが、このキラーズもそういう意味だったのかと改めて思い出される次第だ。

ところで、この「やさしく歌って」の歌詞の中身は、あるコンサートに来ている女性が初めて聴く若い男性歌手の歌声に魅せられる心境を描いている。まるで傷ついた自分だけに向けてやさしく歌いかけている。するとさらに彼女もその歌に酔いしれ恋い焦がれていく。「彼の言葉で 私の人生すべてを語って 、やさしく歌って…」

この歌詞の中身を知るようになってさらにこの曲が好きになった。相変わらず、カラオケではうまく歌えずつっかえてしまうが。こんな年になってKilling me softiyなんてのは実生活では無縁かもしれない。せめて歌の世界だけでもというところだろうか。


モーツアルト「夕べの想い」

2014-04-16 15:09:45 | 音楽

縁起でもない話だが、自分の葬儀でこの曲「夕べの想い」を流して欲しいと思っている。モーツアルトが31歳の晩年?(享年35年)に作曲された歌曲でピアノの伴奏とともにソロで歌われるシンプルな曲だ。自分のブログのタイトルに借用するくらい大好きな曲であるが、モーツアルトの歌曲の中ではゲーテの詩による「すみれ」とともに最高傑作といってよい。

テーマは、自分の葬儀に集まった友人への旅立ちのメーセージであり、日本の歌でいえば「千の風になって」に近いといえるかもしれない。(歌詞の字幕付きの動画がある)事実、曲の中で「おお友よ、私も姿を現し天上の香りをきみに伝えよう」といった、風を連想する歌詞が出てくる。

そして、最後は「一粒の涙を捧げておくれ。そしてああ、決して恥ずかしがることなく、涙を流して欲しいのだ。おお、君の涙は私の身を飾る物の中で最も美しい真珠となるのだから」と、切々と友の胸中に訴えかけるものになっている。

やはり、「夕べの想い」もモーツアルトの曲に象徴される世俗を離れた天上の澄み切った響きで満ちている。この曲を世界的に有名なクラシックの男女の歌手が歌っているが、女性歌手の美しい歌唱が安心して聴ける。多くの女性歌手が美人だ、特にモーツアルトの場合はそうだといったら明らかに贔屓が過ぎるだろうが。

最初CDで聴いたのは日本のメゾソプラノ歌手白井光子のもので、ずっと自分にとってこの曲がベストだと思っていた。しかし、最近これをしのぐかもしれない歌手に出会った。今は本当に便利な時代で、ネットで検索すればいくらでも「夕べの想い」を歌う世界的な本格派歌手の動画を鑑賞することが出来る。

その中で自分にとって二人の女性歌手がベストだと思っている。アーリーン・オジェー(1938~1993)とバーバラ・ボニー(1956~)だ。共にアメリカの歌手だが、年代的には18年の開きがあり、既にオジョーは故人だ。

オジェーは、控え目ながら心を込めて切々と歌っている。母性で包み込むような暖かみと優しさに満ちている。一方、ボニーは透明感があって色彩が鮮明で明快な響きがある。しかし冷たさはなくセーブされた情熱がストレートに伝わってくる。いかにも現代的な響きでオジョーとの世代の違いを感じる。

この「夕べの想い」は、父親の死の直後に書かれている。神童といわれるモーツアルトだが、父親のレオポルトは、幼児の内から息子の天才性を見抜き、その才能を開花させるために自分の人生を捧げてきた。いつか息子が成長するにつれて音楽での生き方に対立が生まれて父子は決別していった。しかし、モーツアルトからは音楽の師、人生の師である父親が脳裏から離れなかった。そんな父親への鎮魂歌がこの「夕べの想い」だとされている。

しかし、この作曲を終えてそれを振り切るかのようにあの明るい名曲が誕生する。モーツアルト好きいやクラシックファンでなくても、日本人ならいや世界中で親しまれる代表曲だ。セレナード「アイネ・クライネ・ナハトムジーク(小さな夜曲)」である。名前は知らなくても聴けばなるほどというあの曲だ。鎮魂の世界からの新たな生の飛翔、二つの名曲に非常にドラマチックな変遷を感じる。

話は余談になるが、モーツアルト家の有名な肖像画がある。姉とピアノの連弾をするモーツアルト、側で父親がその演奏を聴いている。壁には数年前に他界した母親の肖像画が掛けられている。ここでかつての人気アニメを思い出す。梶原一騎の「巨人の星」だ。姉弟の父子家庭、息子への時に厳しい英才教育、父と息子の決別…。巨人の星のモデルはモーツアルト一家ではないかと密かに推測している。

家族

 

 


クラシックのジョーク

2014-04-08 14:18:49 | 音楽

とても楽しいクラシック音楽の動画に出会った。原曲を相当崩してハチャメチャな演奏になっている。モーツアルト(1756~1791)のセレナード6番「セレナータ・ノットルナ」(K.239)、小規模で軽めのオーケストラ曲である。モーツアルトが20歳の時に作曲され3楽章からなっている。原曲そのものが優雅かつ快活で、モーツアルトには珍しいティンパニーが加わって力強い行進曲風の曲になっている。同時に、曲全体がユーモアに溢れていて、おそらく彼の作品ではその筆頭とみてよいだろう。
特に最後の楽章でその魅力が全開しているが、この動画は終楽章のみの演奏だ。これを有名なドイツの指揮者カール・ベームによるもの(全楽章演奏、終楽章は動画では7分40杪辺りから)と比べて見ればその「悪のり」の度合いがよくわかる。この楽章はロンド形式といって同じ旋律が途中何回か出てくる形式であるが、その合間でいろんな楽器が我がもの顔に登場して即興風にアピールする。
最初コントラバスが、優雅な曲の流れに逆らうようにしゃしゃり出る。再び快活な旋律に戻るが、今度は3人のヴァイリンとヴィオラの奏者が癖のあるコミカルな音を奏でる。二人の女性に間に位置するリーダーと思しき親父が、いかにも何かを仕出かすようにコテコテの演奏を時々繰り返す。そして最後はティンパニーがまるで和太鼓風に悦に入ったように独演する。
その後は何もなかったようにもとの快活な旋律が戻って締めくくられる。聴衆がこのオーケストラの「仕掛け」に大満足だ。途中の悪のりに爆笑が湧くが、演奏が終わった途端に盛大な拍手、大喝采だ。
おそらく、モーツアルトがこの演奏を聴いていたならば「このヤロー、オレの曲をこんなに崩しやがって…」と舌打ちするかもしれない。しかし、目は笑っているのではないか。
当時、モーツアルトは出生地オーストリアのザルツブルグで、領主であるコロレド大司教の元で音楽活動も隷属を強いられた。融通の利かない堅物の主人の命令で作曲をする息苦しい日々、モーツアルトは後に音楽の都ウィーンに移り自由な創作活動をすることになるが、「ザルツブルグでは机や椅子に向かって演奏するようなもの」と回想している。
そんな音楽環境でもモーツアルトの天才性はいかんなく発揮され、こうした楽しくユーモア溢れる曲が作られている。当時これを聴く聴衆がまるで「机や椅子」のような存在でなかったら…。おそらく、特に気晴らしといってもよい曲だから、彼自身こんなに賑やかな演奏をしたかったにちがいない。


クラリネット五重奏曲

2014-03-07 16:52:28 | 音楽

自分で勝手に想像していることだが、クラシックでクラリネットを演奏する人のほとんどが、一番好きな作曲家にモーツアルトを挙げるのではないか。それほどにモーツアルトがクラリネットのために作曲した2曲がクラシック史上でその評価が群を抜いており、今日世界中で最も愛されて演奏されている。

クラリネット協奏曲(K.622)とクラリネット五重奏曲(K.581)だ。クラリネット奏者が誰もが最終的に望むことは、オーケストラ、あるいは弦楽四重奏団を従えて主役のクラリネットで2曲を演奏することではないかと思う。

この2曲は、モーツアルトの代表曲でともに優劣をつけがたい。自分自身もそうであり、協奏曲を聴いた後ではこの協奏曲が最高だと思うし、五重奏曲を聴けば逆にこちらの方が傑作だと思ったりする。以前、自分のブログでクラリネット協奏曲をモーツアルトの最高傑作とつい思わず口走って?しまったが、それでいえば五重奏曲も最高傑作としても間違いでない。

最近ユーチューブでこのクラリネット五重奏曲で感銘深い演奏に出合った。(第一楽章第二楽章第三楽章第四楽章)ベレスターというスペイン生まれの若手の演奏家と彼が懇意にしている弦楽四重奏団による演奏だ。この曲は4楽章からなっているが、演奏ではそれぞれ色彩が違う楽章がバランスよく見事に奏でられている。

モーツアルトの曲の多くは哀しみと喜びが複雑に交錯してそれが人間の心の奥底から響いてくるように感じる。クラリネット五重奏曲はその最たるものであるが、そこに晩年の憂いと憧れが加わってより多彩な響きを醸し出す。

第一楽章は、この曲の秀眉といえるもので次々魅力的な旋律が流れてくる。表面的には明るく軽やかだが、どこか哀しみが伝わってくる。これこそがモーツアルトの世界そのものだ。

第二楽章は、しっとりしてすごく繊細な感情が伝わってくる。哀しみはより純化してそれが憂いそして憧れに転化していく。普段は語らないモーツアルトの心の内面の吐露といってよい。だから、この楽章だけを聴くとどうにも切なくなってたまらなくなる。

第三楽章では、少し現実に戻ってメヌエットという三拍子の舞曲となる。ただ、途中でクラリネット抜きで弦楽の美しい旋律が流れて物思いに耽る部分がある。しかし、格調高い舞曲にもどり心が落ち着かされる。

第四楽章はこれまでの憂いが嘘のようにまるで鼻歌を唱う気分にさせられる。テンポもはやく快活である。聴く者に「少しは気分を変えて明るくいこうや」とモーツアルトが語りかけているようでもある。これに聴く方が救われる。途中に少し足踏みして寂しさを感じる部分もあるが、最後はそれを振り切るかのように明るくテンポ良く締めくくられる。

モーツアルトの心の起伏に振り回されかねいが、そこがこの大作曲家を聴く上での醍醐味である。したがって、やはり四楽章を続けて聴くのが一番良いのではないかと思う。一つのストーリー展開に富んだ物語を楽しむように、あるいはいろいろな甘味を備えたスイートを味あうように。


郡山二中合唱部「日本のウィーンを目指して」

2014-02-18 18:56:13 | 音楽

郡山二中合唱部について以前から特別注目していて過去2回(2011年11月7日2013年3月24日)ほどブログに書いてきた。これまで何度も大きな合唱コンクールに優勝してきて、その実力は依然トップクラスといってよいだろう。どこか他のブログで郡山をこの学校の功績により、「日本のウィーン」と呼んでいた。この中学校の長きにわたる栄光をみると、あながち大袈裟ではないと思う。

特に自分自身、彼らのクラシック曲に注目している。それを聞いているとその合唱は玄人肌といってよく、商業ベースででているCDや動画を聴いても決して見劣りしない。例えば2012年声楽アンサンブル全国大会での合唱を動画で聴いてみるとその明朗で伸びやかな声は清新さがみなぎっていて素晴らしい。

歌われている曲はモーツアルトのミサ曲で雀ミサ(K.220)という愛称で呼ばれている。作曲年代が不明だがおそらく18、19歳の頃とされている。ミサ曲などというとクラシックでも抹香臭く一番堅苦しいジャンルに見られている。厳かな教会で歌われる荘厳な曲で聴く方が肩肘張って聴くようなイメージがある。

しかし、モーツアルトの場合はこれとは真逆である。人間の生の感情が思い切り出ていて世俗的でさえある。実際モーツアルトの他のミサ曲では、その旋律の一部が世俗のオペラ曲に登場したりする。したがって、クラシックの硬い専門家はモーツアルトのミサ曲を邪道扱いしたりもする。あるいはカトリックの総本山がバチカンでも異端扱いされた時期もあった。

この雀ミサはヴァイオリンの演奏に雀の鳴き声を思わせる部分があるためだが、特にどこかというのがよくわからない。それはともかく、このミサ曲はモーツアルトが10代の若さ故に創られた青春の曲であるといってよい。堅苦しいカトリックの教義とは無縁で、若者の溢れるばかりの感情の発露がそこにある。

そして、この郡山二中の中学生たちの合唱は、まさに若きモーツアルトの心の叫びが具現化されているといってよい。ソロパートの4人の伸びやかな歌声もさることながら、全体の合唱も素晴らしい。各個人の歌唱レベルが高い。それが一つに結集して清く強く鳴り響く。

理屈などこねずに真っ正直に歌い上げる。曲全体はどこまでも明るい。生きる喜びに溢れている。曲の最後に何度も繰り返されるdona nobis pacem.(ドナ・ノビス・パチェム=われらに平安をあたえたまえ)(動画13分辺りから)は聴いていて心が弾む。まさに天使の合唱である。

音楽の都にはウィーンには、その輝かしい伝統を誇るウィーン少年合奏団がある。郡山二中合唱部もそれに負けないパワーがほとばしっている。そして名実共に郡山が「日本のウィーン」になることを希求してやまない。