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粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

石嶺聡子「花」

2014-09-21 13:26:04 | 音楽

沖縄出身の人気女優仲間由紀恵がドラマで共演した俳優と結婚した。世の男たちの多くはショックだろう。自分自身も特別ファンでもなかったが、なぜかショックだった。彼女は俗にいう「いい女」ということに尽きるだろう。

ただ、相手が同業者で真面目そうな男優なのが救いだ。これが、訳の分からないロックシンガーとか、IT長者の社長なんていうことならどうも納得がいかない。文句あっか?失礼しました。

人の幸福をこれ以上未練がましくいうのもこれくらいにして、彼女の郷里、沖縄の歌の話をしたい。

「花」…この歌すきだなあ。特に石嶺聡子の歌が最高だ。これはフォークシンガーの喜納昌吉が作詞作曲し、自身も歌っている。、彼の歌も味わいがあって素晴らしいが、やはり石嶺の女性として花のある美声、特にその透明感には強く惹かれる。

二人とも沖縄出身で、彼らの歌唱はいかにもリズムや抑揚が沖縄風のこの歌にマッチしている。背後に南海の大自然で育まれる生活空間がある。敢えていえば「沖縄時間」というのだろうか。おおらかでのんびりしている県民性がこの曲にも見られる。

やはり、この歌の神髄はサビの部分「♪泣きなさい、笑いなさい」に尽きると思う。小さいな部屋でめそめそ泣いたり、あるいはこそこそ笑うのではない。南海の大自然の中、思い切り大泣きし、心の底から大笑いしよう。それによって心が浄化していく。♪いつに日にか、いつの日にか、花を咲かそうよ。心の花を咲かせることで本当の自分を見いだしていく。

沖縄はそんな心を育むパラダイスであってほしいと思う。しかし、今沖縄は新基地騒動で騒然としている。どうも反対を騒いでいるプロ市民の姿は殺伐として酷く無機質の感じがする。とても「うちなんちゅう」のぬくもりが感じられない。「やまとんちゅう」のギスギスを持ち込んで汚してはいけない。


バッハ「ブランデンブルグ協奏曲第6番」

2014-08-26 20:53:52 | 音楽

もう10年も前のことだ。姪の結婚式に出席した時のことだった。我が家の家系はキリスト教とは全く無縁であったが、なぜかこの式は教会での式であった。したがって神父によって新郎新婦の誓いの言葉が交わされ、親族が賛美歌を合唱するという経験をした。

そして、教会に付属する披露宴会場でも最初は照明を消してロウソクを点して新郎新婦を祝福するという厳粛な雰囲気から宴は始まった。しかし、それも酒が入るとそこは世俗の喧噪に変わるのに時間がかからなかった。

そんな宴もたけなわ、そこはさすが教会の式らしく小編成のオーケストラが登場しクラシック演奏を何曲か始めた。ほとんどの出席者はこの演奏に耳を傾ける様子がなかったが、この方面に興味を持ち始めた自分自身は喧噪にかき消されそうな音色を一生懸命追っていた。

バロック音楽やモーツアルトなどの有名な曲ばかりであったが、特に自分自身バッハのお気に入りの曲があった。ブランデンブルグ協奏曲第6番、6曲ある一連の協奏曲の最後の曲である。バッハにはマタイ受難曲など声楽の傑作が多いが、管弦楽ではこの協奏曲が最高傑作といってよい。

第5番や3番が特に有名でよく演奏され素敵だが、自分にはこの6番が特別の愛着を感じる。特に中間章である第2楽章が大好きである。しみじみと歌いかけるような情感溢れた曲で、バッハの定番曲「G線上のアリア」を彷彿とさせる。この6番は二つのヴィオラが中心になって演奏される。一つのヴィオラが先に主題を演奏して間を置いて輪唱のようにもう一つのヴィオラが後を追っていき、時に同時に合奏もする。

式で聞いた当時、なぜ6番が演奏されたのか特別意識して考えなかったが、最近ある動画を見てその理由がわかった。オーケストラ団員だった者同士が結婚したようだが、その露宴の一場面がアップされている。なんと新郎新婦がヴィオラを抱えて彼らの仲間たちとともに、このブランデンブルグ第6番(第1楽章)を演奏しているのだ。

演奏前に新郎がこの曲を選んだ理由を述べている。

「夫婦としてやっていく中で価値観が完全に一致しないということは日々痛感しているます。(場内爆笑)それと同じく曲の方も追いかけっこしながら同じ方向を向いて接する思いがそうかなということで選ばさせていただきました。」まさにこの新郎のいう通りであり、この曲こそこうした結婚式にふさわしいと納得した。

姪夫婦はその後、時に違う価値観を痛感しつつ、追いかけっこしながらも寄り添い合って生きている。仲睦まじい家庭は二人の子宝に恵まれてさらに輝きが増している。夏休み帰郷した時にこの姪夫婦も来ていた。二人の子どもでも下の3歳の女児はとてもかわいい。さかんにポーズを取りながら「アナと雪の女王」を歌う。正月のときは浅田真央の格好や滝川クリステルのあのポーズを得意にしてみせた。この娘が価値観の違う相手を追いかけたり、追いかけられたりするのはいつの日だろうか。

追記:第2楽章の引用動画をライブ演奏のものに変更しました。


究極のラブソング

2014-08-02 13:59:01 | 音楽

最近、現在の政治や時事の固い話題が続いたが、たまには自分の好みの音楽についてちょっと。キリテ・カナワというソプラノ歌手が唱っている宗教曲だが、歌の意味がわからずとも、いきなり聴いてみればその曲の美しさにただ圧倒される。まるで天上の究極のラブソングのように聴き入ってしまう。

これはモーツアルト作曲「証言者の荘厳晩課K.339」第5曲『ラウダーテ・ドミヌム(主を讃えよ)」である。カトリックの聖務日課の日没時に行なわれる祈りにためにつくられた音楽で、モーツアルトが24歳の時に作曲された。特に5番目のこの曲は有名で普通のコンサートでも単独で演奏されることは多い。

普通、タイトルからしてすでにアウトになってしまいそうだ。しかし、普通いわれる宗教曲のような抹香臭さは全然なく、情感に溢れ官能的でさえある。おもわずその曲に引込まれて恍惚感に包まれる。

キリテ・カナワの独唱から始まり、途中合唱が引き継ぎ最後はまたカナワの独唱に戻って締めくくられる。曲の構成も素晴らしい。特に合唱から彼女の独唱に移る部分がなんど聴いてもゾクゾクする。キリテ・カナワはオペラ歌手として有名だが、ドラマティックなオペラの一コマのような愉悦感を味わえる。

確かに最後は「アーメン」という宗教語で終わるのを聴けばこの曲が宗教曲であることが初めてわかる。ヘブライ語で「本当に」「まことにそうです」「しかり」「そうありますように」という意味である。しかし、聴き終わった後はこの「本当に」という意味の歌詞がまるで抵抗なく自然に受け入れられる。まさに至福のひとときである。

 

イパネマの娘

2014-06-10 14:44:55 | 音楽

今週13日から始まるワールドカップ。開催国ブラジルの音楽といえばボサノヴァだ。そしてボサノヴァといえばまず思い出す曲がイパネマの娘だ。こんな連想ゲームだが、自分自身ブラジルといえばこの曲しか思い浮かばないというのが正直なところだ。実際1962年に作曲され世界中で大ヒットした。ウィキペディアによれば、ビートルズの「イエスタディ」に次いで世界で最も多くこのイパネマの娘がカバー曲として歌われているという。

この曲はリオデジャネイロの海岸イパネマが舞台だ。音楽家のトム・ジョピンが作曲し、友だちの外交官で詩人のヴィニシウス・ヂ・モライスが作詞したものだが、二人はイパネマ海岸のバーに入り浸っていた。そこへ母親の使いでタバコを買いに度々訪れる10代後半の少女の美しさに二人が魅せられて曲が創作されたという。

見てごらん なんて美しいこと
なんて優美さにあふれているんだ
彼女は少女 こちらへ来て通り過ぎていく
甘美なバランスで 海から通りに向かって

……

まるで小悪魔の色香にぞっこん悩殺されたような中年親父の純情ともいえるの思いがこの後も続く。

 

ああ なぜ私はこんなにも孤独で
ああ なぜ全てがこんなにも悲しい
ああ 目の前に存在する美しさ
美は私だけのものではなく
そして 独りで通り過ぎていくものなのだ

 

ただこんな男たちの切ない気持ちを歌った曲だが、、あまり暗さが伝わってこない。そこはブラジルの海岸に灼熱の太陽が降り注ぐ気候が影響しているのだろうか。陽気なラテン気質が反映されてある種さわやかささえ感じられる。

ところで、この曲を作詞作曲した二人は好色家でしられいるという。早い話がプレイボーイであり、作詞家のモライスに至ってはなんと9度も結婚しているという。そんな親父がこのような純情な曲をつくるのも不思議といえば不思議だ。

そして、曲のモデルになったエロイーザという美少女は50歳代になって「イパネマの娘」という名のブティックを開き、なんと曲の楽譜と歌詞が印刷されたTシャツをちゃっかり?発売したようだ。これには著作権を巡ってジョピンとモライスの著作権継承者と訴訟騒ぎになったという。

曲のイメージとはかけ離れた現実世界のドロドロした話だ。人間の欲情、虚栄、嫉妬などのエゴイズムが交錯しているが、それでもやはり、「イパネマの娘」の曲としての魅力は色あせることはない。リオの海岸のように今も輝いている。芸術というものは世俗の下世話を超越しているといえる。

ところで、あまたある「イパネマの娘」のカバーで自分が特に好きなのは小野リサの曲だ。幼少期をブラジルで過ごし原詩の歌唱も自然だが、それでいて日本人のしっとりした情感も加味されていて心地よく聞こえる。蛇足だが、彼女も離婚を2回経験している。

今度のワールドカップの決勝戦はリオのマラカナンスタジアムで7月4日行なわれる。相変わらずあの本田圭祐は日本の優勝を目指すと豪語(軽口?)している。スタジアムにはイパネマの娘たちも熱い声援を送ることだろう。そんな決勝戦のピッチに日本人選手が…。

 

「アナと雪の女王」とAKB48

2014-05-26 15:41:43 | 音楽

流行歌という言葉がもはや日常で使われなくなってどれくらいの年月が過ぎたことだろう。特定の曲が特定の世代の特定のファンによって支えらてかろうじて「ヒット曲」になる。しかし、ファン以外の人には全く認知されずいつしか市場から消えていく。

ただ、時に1年に1,2曲「話題」になって広く世間に流布する曲はある。昨年でいえばNHK朝ドラ「あまちゃん」のテーマ曲であろう。朝ドラをほとんど見ない自分のような者にとっても聴けばあの曲とわかる。

今年でいえば、間違いなく「アナと雪の女王」のテーマ曲だ。正直自分自身まだこの映画をみていない。(早く見てみたい気があるが)映画は大ヒットして今なお観客動員数を伸ばしているが、特にこのテーマ曲は素晴らしく曲自体が大人気だ。

自分自身、最初25カ国の言語でリレーして歌われるものを動画で聴いたが、松たか子が歌う数秒のサビの部分はやはり印象強く残った。この動画はオリジナルの英語版とともに爆発的に世界的で再生されているが、海外でも松たか子の部分が一番人気があるようだ。松たか子の透明感ある歌唱もさることながら、日本語歌詞の響きが魅力的であるといえる。事実、松たか子自身が日本語で曲全体を歌ったものはなんと再生回数が3500万回を超えている。(他にも同種の動画がある)

特に「ありのままの姿みせるのよ♪」というサビの部分は強く胸に迫ってくる。英語では“Let it go, let it go.Can't hold it back anymore.”となる。日本の訳詞全体が平易だが、聴く方に語りかけ励ますような強いメッセージソングになっている。これがドラマテックな曲に乗って熱く歌われる。

最近も遠隔操作ウイルス事件で、本性を暴露されて自暴自棄になった被告に、弁護士がこの曲に言及して説得した話があった。その他、いろいとメディアを通じて「アナと雪の女王」が最近の話題と絡ませて流される。キーワードはやはり「ありのままの姿みせるのよ♪」ということになるだろうか。

ところで話は全く変わるが、昨日アイドルグループAKB48のメンバーが岩手の握手会で暴漢に襲われて負傷した事件が起きた。今日はテレビのワイドショーばかりかNHKのニュースでも大きく取り上げている。襲われたメンバーは気の毒で同情するが、どうもこの「握手会」というものが気になる。

岩手でのAKB48の出演はファンにとって最終目的が歌や踊りを見聞きすることではなく、好きなメンバーと「握手」することのようだ。そのために、彼女たちとの握手券が同封されているCDを複数枚買って優先権をとろうと必至になる。それがAKB48の200万枚近くのCD売り上げに貢献する。

巷で悪評されているAKB商法の実態だ。握手券という餌を使ってCDを買わせる。釣られるのは20代の男たちが中心、はては初老のおっさんにまで及ぶ。こんなに男だけの偏ったファンとというのはこれまでにない傾向のように思う。

同じ髪型で超ミニでまるでお人形のように歌い踊る女子高生風のメンバーたち、それに群がる意図ありげな男たち。聞こえてくる歌はまるでスマホでやりとりするような絵文字がやたら飛び交う軽~い歌詞。これで大ヒットの連発といわれても寂し過ぎる。

今回の事件でこのAKB商法にも限界がきたように思う。表面的には清純さと華麗さが演出される虚飾の世界。裏ではコマーシャリズムと欲情が交錯する現実が垣間見える。「ありのままの姿みせるのよ♪」なんてのはここではあまり楽しいことではないのかもしれないが。

*表題を変更しました。