ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

ヘヴン    川上末映子

2010-02-19 01:20:45 | Book
それに第一、これはだれにだってできることだ。
目を閉じさえすればよい。
すると人生の向こう側だ。

           ――セリーヌ「夜の果てへの旅」


 この小説の扉を開けると、この言葉が記されている。それが「ヘヴン」なのだろうか?

 主人公は男子中学生の「僕」と、同じクラスの女子「コジマ」の2名。この2人はそれぞれにクラスの男子たちの、そして女子たちの非常に過酷な「いじめ」の対象となっている。この1クラスの出来事を書いた小説です。

 「僕」の家族は、あまり帰宅しない父親と、2度目の母親(専業主婦)との3人家族。実母ではないということには、ほとんど意味はないが、実母と「僕」とのたった1つの繋がりは、共に「斜視」であったことだ。この「斜視」は、人間世界とその位置関係を両眼で正確に見ることができないという比喩ともとれるだろう。差別語としての意味はなさない。

 「コジマ」の家族は、実母と、2度目の父親との3人家族。かつて実父は事業に失敗して、貧困の泥沼のなかで耐え切れなくなった母親が、かねてより交際があったらしい経済力のある2度目の父親のもとに「コジマ」を連れて再婚したのだった。好きだった実父を忘れないために「コジマ」は、実父と同じように、汚れたからだ、さらに汚れたものを身につけて、食事まで減量していた。

 「斜視の僕」と「汚れたコジマ」とは、この共通項によって、密かに友情を育てていた。この双方の「いじめ」がついに表面化するまで・・・・・・。


 この作家「川上末映子」は、ほぼわたくしの子供たちと同世代にいます。たくさんの時をかけて我が子2人は大きくなって、やがて社会人になってというわたくしの道筋がありました。彼女は1人の女の子として生まれて、わたくしの道筋と同時代的に生きて、こうして小説を書きあげる大人の女性となっているのですね。どのような日々であったのか?それは詮索しないことにしましょう。

 かつて我が子たちを、年齢とともに自動的に次々に送りださなければならなかった「学校」という世界に対して、わたくし自身が抱き続けた「危機感」を、子供の世界にいらした「川上末映子」が、きちんと言葉の世界として下さったのだという思いが深いのでした。整理しきれないほどの言葉が溢れひしめいていたことでしょう。小説としての姿になるまでに、彼女はどのような「心の仕事」をなさったのでしょうか?

 おそらく我が子はこのような「いじめ」に遭遇することなく通過できたのではないかと思いますが、それでもわたくしの「危機感」は拭えませんでした。「いじめ」があったのか?なかったのか?ということではなく、教師や大人たちがぎりぎりまで気付かない「いじめ」が潜航しているという不気味さです。


 この小説は図書館に予約を入れておきましたが、借り出せるまでにずいぶんの時間が経過していまして、なぜこの小説を読もうと思っていたのか?を忘れるほどでした。娘に話しましたら「わたしが読んで話してあげたからよ。」と言われました。

 (2009年第1刷-2010年第9刷・講談社刊)