ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット第二部・22

2010-02-25 17:16:06 | Poem




おお 運命にもかかわらず、私たちの現存在の
輝かしい充溢よ、公園に泡だちあふれ――
あるいは高い表玄関の楔石(くさびいし)のかたわらで
露台の下に、石の男たちとして屹立し!

おお 青銅の鐘よ、その舌を日毎にそれは
鈍い日常に抗して突きあげている。
あるいはカルナクの あの1本の柱、
ほとんど永遠の神殿よりも長く生き続ける円柱。

こんにちではそれと同じ過剰がただ性急に
かたわらを疾走してゆくだけだ、水平の黄色い
昼のなかから 目くるめく燈火で誇張された夜のなかへと。

だがこの疾走は 消え去って痕跡を残さない。
空中の飛行の曲線と、それをそこに描いた者たち、
いずれもおそらく無益ではない。けれども単に考案されたもののよう。

 (田口義弘訳)


おお 運命に逆らって。われらの存在の
かがやかしい充溢よ。公園に泡だちあふれるものよ――、
あるいはまたたけ高い正面の扉のかたえ、
露台の下に竿立ちに立つ石造の男らよ!

おお青銅の鐘よ、日毎鈍(おぞ)ましい
日常に抗し、撞木をふりかざす鐘よ。
あるいはまた、あの柱よ、カルナクに立つ柱よ、柱と、
久遠の寺院をすら超えて生きのこる円柱よ。

今日(こんにち)では、それと同じ力の剰余が、
ただ性急にわれわれのそばを狂奔し、水平な
黄いろい昼から、まばゆく燈火で誇張された夜へと突きすすむ。

だが狂奔はむなしく消え、なんの痕跡も残さない。
空をゆく飛行のカーヴ、地上を走せる車輛のカーブ、
おそらくどれも、よしなきことではない。だがまるで脳裡の観念ほどにむなしい。

 (生野幸吉訳)



 「カルナク」とは、エジプトのテーベにある古王朝の大神殿の遺跡のことです。

 わたくしたち地上のものたちの限りある「生」は、それでもやはり溢れるばかり。公園の花々、ほとばしる噴水と同じように。そして青銅の鐘は繰り返し繰り返し日常を突いているのでした。
 さらにリルケの現実の旅の記憶としての「石柱」が呼び出される。1911年1月にエジプトに旅をした折に見た、理解を絶した巨大な神殿に立っていた「カルナク」の石の円柱への驚嘆なのでした。この円柱の土台となっているところだけでも、人間の背丈以上のものであって、驚くべき大きさです。それは「生」を超えて聳え立っているかに見える。しかし永遠ではないのだ。神殿はすでに廃墟と化し、「カルナクの円柱」のみが屹立しているのだが、それもやがて崩壊するのだろう。

 それは「生」あるいは「無常性」への否定ではなくて、過去の人間が時をかけて築きあげたものの「充溢」に対して、現代の機械化された文明社会の過剰な空しさとの対比として呼び出されたものだ。
 その「過剰」は、黄色い昼から燈火で眠ることさえ拒まれているような夜のなかですら、走り、飛び続けているのだ。文明の速度はただ過ぎ去りやすいものとなるだろう。

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