ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット第二部・18

2010-02-07 23:53:54 | Poem
踊り子よ――おお おまえは 過ぎ去るすべてを
進行に転置するもの、なんとおまえはそれを奉献したことだろう。
そしてあの最後の旋回、運動からなる樹木、
それは昂揚しつつ果たされた一年を すっかり自分のうちに収めはしなかったか?

その静寂の梢は おまえのそれまでの振動の波がいまやそのまわりをめぐるよう、
ふと花咲いたのではなかったか? そしてその静寂の上方で、
それは太陽ではなかったか、夏ではなかったか、そこにただよう熱、
おまえの内部からあふれる無量の熱は?

だがそれは実を結んだのだ、おまえの陶酔の樹は。
あれらがその樹の静かな結実ではないのか――熟れながら
縞の模様を帯びていったあの水差しと、またそれよりも熟したあの花瓶とは?

そしてその絵のなかに――残ったのではないか、
おまえの眉の暗い弧がすばやく
みずからの転回の壁に描いた線が?

 (田口義弘訳)


踊り子よ、過ぎゆくすべてを
足どりに転位するものよ。ああ、犠(にえ)に捧げるような身ぶりで。
そして終止の旋回、運動からできた樹。
この樹は振動によって得た一年をそっくり持ちはしなかったか?

おまえの振動が、なおも恍惚と取りまくのは、
静寂の梢が、にわかに花開くためではなかったか?そしてそのしずけさの
真上にかかる太陽は、夏は、おまえの身内からのぼる
無量の熱ではなかったか?

しかもこの樹は実さえ結んだ、おまえの恍惚の樹は果実をつけた。
あれはこの樹にみのったおだやかな実ではないだろうか、豊かに熟れながら
縞を引かれた水差しや、さらに熟れさらに多くの輪をもつ花瓶は?

そしてそれらの壷絵のなかに、おまえの眉の黒い走りが
みずからの転回の壁にすばやく描いた
素描がのこってはいないだろうか?

 (生野幸吉訳)


 さてさて、なんともこのソネットは、お2人の翻訳を並べてみても、「比喩」ではなくて「飛喩?」の連続ですねぇ。これらの根幹をなしているものは「舞踏」であり、それを取りまく空間世界の変化を書いているのでせう。

 「舞踏」におけるクライマックスは「旋回」です。それが「樹」に喩えられています。踊り子の「旋回」が止まっても、その「振動」と「熱」によって、、梢の花が開く。そして実が。。。季節はまさに夏となり、その熱さえも踊り子のからだから立ちのぼるものだったのでした。


縞の模様を帯びていったあの水差しと、またそれよりも熟したあの花瓶とは?

縞を引かれた水差しや、さらに熟れさらに多くの輪をもつ花瓶は?



 そこから何故「水差し」や「花瓶」に結びついてゆくのか?「熟れる」は「ひだ(線)をつける」「たがをゆるめる」との両方の意味がかかっているとのことです。そして次には「絵画」の素描らしきものが描かれる・・・・・・。ここでリルケに思い出された絵画や彫刻があるのではないか?


  *    *    *


 1870年代、古代ギリシアのボイオティア地方にあった都市国家タナグラの街道沿いの墓所から、何千体ものテラコッタの小像が発見されました。それまで、人々の関心を引くことがなかった類似する様式のギリシアの小像も、この地名にちなみ、タナグラから出土したものでなくても、一般的に「タナグラ」と呼ばれるようになります。タナグラは19世紀末のパリを熱狂させ、多くの芸術家のインスピレーションの源ともなりました。そのうちの1点がこの画像の「ティトゥーの踊り子」です。リルケの詩集「新詩集・1907~08」のなかにはこのような詩が書かれています。


タナグラ人形   リルケ(富士川英郎訳)

偉大な太陽に焼かれでもしたような
ささやかな素焼きの土人形
それはまるで ひとりの
少女(おとめ)の手のしぐさが
ふいに永遠のものになったかのようだ
何をつかもうとするのでもなく
彼女の感情のなかからぬけだして
何かに向かってさしのべられているのでもない
下顎に触れようとする手のように
それはただ自分自身にふれているばかり

私たちは人形の一つひとつ
取り上げては 廻してみる
私たちはほとんど理解することができるのだ
なぜこれらの人形が消え失せていかないかを――
けれども私たちはただ
一層深く 一層すばらしく
「消え去ったもの」に愛着をもち
そして微笑しなければならない たぶん
去年より少しばかり明るい微笑を


 *    *    *


「オルフォイスへのソネット第二部・17」が、ポール・ヴァレリー「樹についての対話」の影響を大きく受けているように、この「18」は同じくポール・ヴァレリーの「魂と舞踏」の影響を受けています。