ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット第二部・20

2010-02-16 16:43:57 | Poem
星と星のあいだの なんという遥けさ、しかしなんとさらに遥かなことか、
ひとがこの地上の生で知ってゆくことは。
だれかあるひとり、例えばひとりの子供と・・・・・・すぐ隣りの人、もうひとり――
おお なんと捉えがたいその隔たり。

運命、それはおそらく実在の尺度で私たちを測り、
だからそれは私たちには疎ましくみえるのだろう、
そう、少女と男とのあいだにはなんと大きな隔たりがあることだろう、
少女が彼を避けしかも想うとき。

すべては遥かだ――そして円環の閉じるところはいずこにもない。
皿のなかを見るがいい、はれやかに用意された食卓のうえで
魚たちの顔が奇妙だ。

魚たちはもの言わぬ・・・・・・とかつては思われていた。そうだろうか?
だがついに、存在しないだろうか、魚の言葉かもしれぬものが
魚なしに語られるひとつの場所が?

 (田口義弘訳)


星のあいだの、なんという隔て。しかも地上で習いおぼえるものは、
さらにどれほど隔たっていることか。
たとえば、だれか、ひとりの子供・・・・・・そして次の人、さらに次の人――。
おお把握をこえたそのはるかな隔て。

運命、それはわれわれを、おそらくは存在の尺度で計る、
だから運命はしたしみがたい。
少女と男性のあいだひとつ測ってみても、なんという距離があるのだろう、
少女がかれを避け、しかも慕うときには。

すべてが遠い――、そして円弧はどこにも閉じない。
みよ、はれやかにしつらえられた卓上の皿に、
魚の表情はいぶかしい。

魚はことばをもたぬ・・・・・・、以前はそう考えられた。だが、どうなのか?
結局は、魚の言葉かもしれないものを
魚を介さずに話しあう場所がありはしないか?

 (生野幸吉訳)



 なんとか翻訳詩を1編だけにしたいのですが、たったお2人の翻訳でさえ、こうも違い(大意は同じようでも、翻訳に移される時の言葉が微妙に違います・・・)があるのでは、どうしても書かなければなりません。この違いを思う時、できることならば5人くらいの翻訳詩を読まなければならないような気がします。


嘆き リルケ・富士川英郎訳 「形象詩集・1902~1906」より。

おお なんとすべては遠く
もうとっくに過ぎ去っているこだろう
私は思う 私がいまその輝きをうけとっている
星は何千年も前に消えてしまったのだと
私は思う 過ぎ去っていった
ボートのなかで
なにか不安な言葉がささやかれるのを聞いたと
家のなかの時計が
鳴った・・・・・・
それはどこの家だったのだろう?・・・・・・
私は自分のこの心から
大きな窓の下に出ていきたい
私は祈りたい
すべての星のうちのひとつは
まだほんとうに存在するに違いない
私は思う たぶん私は知っているのだと
どの星が独りで
生きつづけてきたかを――
どの星が白い都市(まち)のように
大空の光のはてにたっているかを・・・・・・


 この作品「嘆き」はソネットの約20年前に書かれたものです。リルケの詩作には生涯にわたって、同じテーマを繰り返し書き直し、あるいは書き続けたという特徴がそこここに見られます。

 
 星と星との途方もない距離に詩人が賛嘆を送る時、それは人間存在同士のはるけさを否定的に照射することになってしまう。いささか誇張とも思えますが、これも詩人リルケの特徴とみてもいいのかもしれません。

 「少女」と「男」との間にある隔たりと愛とは、人間同士あるいは男女の仲に共通してあるもので、そのすべてを示しているのかもしれない。その隔たりゆえに「関連」は「円環」を完成させることはできない。

 そして突然に、テーブルの上の皿の「魚」に飛躍してしまうのはなぜか?「魚」は言葉を持たぬものであればこそ、遠い距離を隔てていても通信可能な「言葉ではないなにか」を持ちつづけているのではないのか?「魚の言葉ではない言葉」を、オルフォイスの歌と同一化することも間違いではあるまい。しかし、このソネットでは断定を避け、全体を疑問符でつくりあげた、その慎重性を見つめる方がいいのかもしれません。