語り部:埋蔵 その1
仕方なく、ジグメは山を下り河のほとりの村で宿を借りた。
静かな大河は、夜に大きな音を立てた。
朝起きて、ジグメは宿を貸してくれた主人に、河の水音が大きすぎる、と不平をこぼした。
囲炉裏の向こうの暗がりの中に座っている男が言った。
「河の音が大きいんじゃない。この村が静かすぎるんだ」
朝の太陽の光が窓から射し込み、ジグメの体を斜め上から照らすと、囲炉裏の向こう側は自然と暗がりになる。
その男には自分が見えるだろうが、自分には彼の姿は見えない。
これでは居心地が悪い。見知らぬ視線が自分に注がれてアリにちくちくと噛まれているような気がした。
男は気付いて、笑いながら言った。
「ライトの下で語っていると思えばいい。聞き手は君を見つめているが、君は彼らを見ることが出来ない。それと同じことだ」
「そう思うしかないようだ」
ジグメは深く考えずに答えてから、突然話しかけた。
「あんたのその言い方は意味ありげだが…」
だが、向かい側からの声はなかった。その男は消えていた。
近頃、ジグメは奇妙なことに遭遇しても驚かなくなっていた。
今自分と話していたのは誰かと宿の主人に尋ねた。
主人は、クンタ・ラマと会うのを待っている人だ、と答えた。
「クンタラマに会いたがっている人は多いのかね」
「多くはないけど少なくもない。村では、遠くから来た客人が泊まっている家が何軒かある。あんたみたいに有名じゃない“仲肯”も来てるよ」
「どうしてオレが仲肯だと知ってるんだい」
「あんたが来る前からみんな知ってるよ。有名な仲肯が村に来るって。あんたはクンタラマが新しく書く物語をすぐ語れるよう待っているんだって、みんなで言ってるのさ」
根も葉もない話を聞いて、ジグメは不機嫌に言った。
「オレは物語を待ってるんじゃない。オレが語るのは、神様がオレに語らせたいものだけだ」
この村の住人は遠くから伝わって来るジグメの名前を聞いていた。
ここは静かな村だった。
ある家では家畜の柵を手入れにいそしみ、ある家では風で歪んだ太陽電池の板を修理に余念がない。
村の入り口の粉ひき小屋の石臼がガラガラと音を立てている。
この村の静けさは、巣の中の卵が間もなく殻を破ろうとする時の静けさである。
木の葉が風に向かって「そっと、そっと、そっと」と囁くと、風は空中で止まり、木の葉に向かって話しかける。
「お聞き、お聞き、お聞き」
この村の静けさはもっともらしい静けさである。
話しかけようとしてふと言葉を飲み込んだ時の静けさである。
そのためか、ジグメの話す言葉も皮肉っぽくなった。
屋根でソーラー電池を修理している男にこう言った。
「テレビが大事なニュースを伝え漏らすんじゃないかと心配しているのかね」
粉ひき小屋の前でひき臼に新しい溝を掘っている老人に向かってこう言った。
「そっとやってくれ。そんなに音を立てると、殻を出ようとしている雛が驚いて戻っちゃうじゃないか」
村人たちは笑って相手にしなかった。
彼らはジグメが誰か知っていたが、語りを頼もうとはせず、話しかけようともしなかった。
ジグメは自分がのけ者にされているような気がした。
そこで、がっしりとした杭の前に立ち、言った。
「もしかしてこの村では、口のきける者は話そうとせず、お前のように口の聞けない物がしゃべるのかもしれないな」
杭は黙っていた。
が、巨大な手でふいに弾かれたように、ぐらっと揺れたかと思うと、ゆっくりと倒れた。
びっくりしたジグメは宿に飛んで帰り、外に出ようとしなかった。
夜寝る前、ジグメはケサルに祈った。夢の中で必ず会えるように、と。
だが、そのまま暗く深い眠りに落ち、夢の世界のあのぼんやりとした灰色の光さえも見なかった。
朝飯の時、窓から斜めに射し込む太陽の光は、依然として彼と部屋の半分を照らし、囲炉裏の向こう側、部屋の半分は暗いままだった。
座るとすぐ、視線を遮る光の帯の向こうから手が伸びて来て言った。
「よろしく」
ジグメは一瞬戸惑い、挙げかけた手をひっこめ、言った。
「顔が見えなくちゃ、よろしくも何も…」
光の帯の向こうで笑い声が起きた。
一人ではなく三人の笑い声だった。二人の男性と一人の若い女性だった。
男性は太陽の光が射す方へやって来てジグメの隣に座った。
「私だ、忘れたか」
なんと、それは彼をラジオ局に連れて行った学者だった。
「さあ、握手だ。何年ぶりかな」
ジグメは言った。
「会いたいと思った時には会えなかったのに。どこに住んでるんですか」
「私は君のことをよく耳にしたよ。今じゃ有名人だからな」
学者は彼の学生を紹介した。
女性は修士で、男性は博士だった。
村を歩き回る時には、修士がテープレコーダを持ち、博士がテレビ局の記者のようにビデオカメラを担いだ。
彼らもまたケサルの物語を書くラマに会いに来たのである。
修士はテープレコーダーのスイッチを入れ、この件についてジグメの考えを尋ねた。
ジグメは少しむっとして答えた。
「物語はケサル王がずっと昔に作ったものです。一人のラマが書くものじゃありません」
学者は笑って言った。
「その考えは間違っている」
博士は言った
「“書くの”ではなく掘り出すんです。それは“掘蔵”と呼ばれています」
仕方なく、ジグメは山を下り河のほとりの村で宿を借りた。
静かな大河は、夜に大きな音を立てた。
朝起きて、ジグメは宿を貸してくれた主人に、河の水音が大きすぎる、と不平をこぼした。
囲炉裏の向こうの暗がりの中に座っている男が言った。
「河の音が大きいんじゃない。この村が静かすぎるんだ」
朝の太陽の光が窓から射し込み、ジグメの体を斜め上から照らすと、囲炉裏の向こう側は自然と暗がりになる。
その男には自分が見えるだろうが、自分には彼の姿は見えない。
これでは居心地が悪い。見知らぬ視線が自分に注がれてアリにちくちくと噛まれているような気がした。
男は気付いて、笑いながら言った。
「ライトの下で語っていると思えばいい。聞き手は君を見つめているが、君は彼らを見ることが出来ない。それと同じことだ」
「そう思うしかないようだ」
ジグメは深く考えずに答えてから、突然話しかけた。
「あんたのその言い方は意味ありげだが…」
だが、向かい側からの声はなかった。その男は消えていた。
近頃、ジグメは奇妙なことに遭遇しても驚かなくなっていた。
今自分と話していたのは誰かと宿の主人に尋ねた。
主人は、クンタ・ラマと会うのを待っている人だ、と答えた。
「クンタラマに会いたがっている人は多いのかね」
「多くはないけど少なくもない。村では、遠くから来た客人が泊まっている家が何軒かある。あんたみたいに有名じゃない“仲肯”も来てるよ」
「どうしてオレが仲肯だと知ってるんだい」
「あんたが来る前からみんな知ってるよ。有名な仲肯が村に来るって。あんたはクンタラマが新しく書く物語をすぐ語れるよう待っているんだって、みんなで言ってるのさ」
根も葉もない話を聞いて、ジグメは不機嫌に言った。
「オレは物語を待ってるんじゃない。オレが語るのは、神様がオレに語らせたいものだけだ」
この村の住人は遠くから伝わって来るジグメの名前を聞いていた。
ここは静かな村だった。
ある家では家畜の柵を手入れにいそしみ、ある家では風で歪んだ太陽電池の板を修理に余念がない。
村の入り口の粉ひき小屋の石臼がガラガラと音を立てている。
この村の静けさは、巣の中の卵が間もなく殻を破ろうとする時の静けさである。
木の葉が風に向かって「そっと、そっと、そっと」と囁くと、風は空中で止まり、木の葉に向かって話しかける。
「お聞き、お聞き、お聞き」
この村の静けさはもっともらしい静けさである。
話しかけようとしてふと言葉を飲み込んだ時の静けさである。
そのためか、ジグメの話す言葉も皮肉っぽくなった。
屋根でソーラー電池を修理している男にこう言った。
「テレビが大事なニュースを伝え漏らすんじゃないかと心配しているのかね」
粉ひき小屋の前でひき臼に新しい溝を掘っている老人に向かってこう言った。
「そっとやってくれ。そんなに音を立てると、殻を出ようとしている雛が驚いて戻っちゃうじゃないか」
村人たちは笑って相手にしなかった。
彼らはジグメが誰か知っていたが、語りを頼もうとはせず、話しかけようともしなかった。
ジグメは自分がのけ者にされているような気がした。
そこで、がっしりとした杭の前に立ち、言った。
「もしかしてこの村では、口のきける者は話そうとせず、お前のように口の聞けない物がしゃべるのかもしれないな」
杭は黙っていた。
が、巨大な手でふいに弾かれたように、ぐらっと揺れたかと思うと、ゆっくりと倒れた。
びっくりしたジグメは宿に飛んで帰り、外に出ようとしなかった。
夜寝る前、ジグメはケサルに祈った。夢の中で必ず会えるように、と。
だが、そのまま暗く深い眠りに落ち、夢の世界のあのぼんやりとした灰色の光さえも見なかった。
朝飯の時、窓から斜めに射し込む太陽の光は、依然として彼と部屋の半分を照らし、囲炉裏の向こう側、部屋の半分は暗いままだった。
座るとすぐ、視線を遮る光の帯の向こうから手が伸びて来て言った。
「よろしく」
ジグメは一瞬戸惑い、挙げかけた手をひっこめ、言った。
「顔が見えなくちゃ、よろしくも何も…」
光の帯の向こうで笑い声が起きた。
一人ではなく三人の笑い声だった。二人の男性と一人の若い女性だった。
男性は太陽の光が射す方へやって来てジグメの隣に座った。
「私だ、忘れたか」
なんと、それは彼をラジオ局に連れて行った学者だった。
「さあ、握手だ。何年ぶりかな」
ジグメは言った。
「会いたいと思った時には会えなかったのに。どこに住んでるんですか」
「私は君のことをよく耳にしたよ。今じゃ有名人だからな」
学者は彼の学生を紹介した。
女性は修士で、男性は博士だった。
村を歩き回る時には、修士がテープレコーダを持ち、博士がテレビ局の記者のようにビデオカメラを担いだ。
彼らもまたケサルの物語を書くラマに会いに来たのである。
修士はテープレコーダーのスイッチを入れ、この件についてジグメの考えを尋ねた。
ジグメは少しむっとして答えた。
「物語はケサル王がずっと昔に作ったものです。一人のラマが書くものじゃありません」
学者は笑って言った。
「その考えは間違っている」
博士は言った
「“書くの”ではなく掘り出すんです。それは“掘蔵”と呼ばれています」