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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 129  語り部 埋蔵

2015-11-14 02:13:56 | ケサル
語り部:埋蔵 その1



 仕方なく、ジグメは山を下り河のほとりの村で宿を借りた。

 静かな大河は、夜に大きな音を立てた。
 朝起きて、ジグメは宿を貸してくれた主人に、河の水音が大きすぎる、と不平をこぼした。

 囲炉裏の向こうの暗がりの中に座っている男が言った。
 「河の音が大きいんじゃない。この村が静かすぎるんだ」

 朝の太陽の光が窓から射し込み、ジグメの体を斜め上から照らすと、囲炉裏の向こう側は自然と暗がりになる。
 その男には自分が見えるだろうが、自分には彼の姿は見えない。
 これでは居心地が悪い。見知らぬ視線が自分に注がれてアリにちくちくと噛まれているような気がした。

 男は気付いて、笑いながら言った。
 「ライトの下で語っていると思えばいい。聞き手は君を見つめているが、君は彼らを見ることが出来ない。それと同じことだ」

 「そう思うしかないようだ」
 ジグメは深く考えずに答えてから、突然話しかけた。
 「あんたのその言い方は意味ありげだが…」

 だが、向かい側からの声はなかった。その男は消えていた。

 近頃、ジグメは奇妙なことに遭遇しても驚かなくなっていた。
 今自分と話していたのは誰かと宿の主人に尋ねた。
 主人は、クンタ・ラマと会うのを待っている人だ、と答えた。

 「クンタラマに会いたがっている人は多いのかね」

 「多くはないけど少なくもない。村では、遠くから来た客人が泊まっている家が何軒かある。あんたみたいに有名じゃない“仲肯”も来てるよ」

 「どうしてオレが仲肯だと知ってるんだい」

 「あんたが来る前からみんな知ってるよ。有名な仲肯が村に来るって。あんたはクンタラマが新しく書く物語をすぐ語れるよう待っているんだって、みんなで言ってるのさ」

 根も葉もない話を聞いて、ジグメは不機嫌に言った。
 「オレは物語を待ってるんじゃない。オレが語るのは、神様がオレに語らせたいものだけだ」

 この村の住人は遠くから伝わって来るジグメの名前を聞いていた。
 ここは静かな村だった。

 ある家では家畜の柵を手入れにいそしみ、ある家では風で歪んだ太陽電池の板を修理に余念がない。
 村の入り口の粉ひき小屋の石臼がガラガラと音を立てている。

 この村の静けさは、巣の中の卵が間もなく殻を破ろうとする時の静けさである。
 木の葉が風に向かって「そっと、そっと、そっと」と囁くと、風は空中で止まり、木の葉に向かって話しかける。
 「お聞き、お聞き、お聞き」

 この村の静けさはもっともらしい静けさである。
 話しかけようとしてふと言葉を飲み込んだ時の静けさである。

 そのためか、ジグメの話す言葉も皮肉っぽくなった。

 屋根でソーラー電池を修理している男にこう言った。
 「テレビが大事なニュースを伝え漏らすんじゃないかと心配しているのかね」 

 粉ひき小屋の前でひき臼に新しい溝を掘っている老人に向かってこう言った。
 「そっとやってくれ。そんなに音を立てると、殻を出ようとしている雛が驚いて戻っちゃうじゃないか」

 村人たちは笑って相手にしなかった。
 彼らはジグメが誰か知っていたが、語りを頼もうとはせず、話しかけようともしなかった。

 ジグメは自分がのけ者にされているような気がした。
 そこで、がっしりとした杭の前に立ち、言った。
 「もしかしてこの村では、口のきける者は話そうとせず、お前のように口の聞けない物がしゃべるのかもしれないな」

 杭は黙っていた。
 が、巨大な手でふいに弾かれたように、ぐらっと揺れたかと思うと、ゆっくりと倒れた。
 びっくりしたジグメは宿に飛んで帰り、外に出ようとしなかった。

 夜寝る前、ジグメはケサルに祈った。夢の中で必ず会えるように、と。
 だが、そのまま暗く深い眠りに落ち、夢の世界のあのぼんやりとした灰色の光さえも見なかった。

 朝飯の時、窓から斜めに射し込む太陽の光は、依然として彼と部屋の半分を照らし、囲炉裏の向こう側、部屋の半分は暗いままだった。
 座るとすぐ、視線を遮る光の帯の向こうから手が伸びて来て言った。
 「よろしく」

 ジグメは一瞬戸惑い、挙げかけた手をひっこめ、言った。
 「顔が見えなくちゃ、よろしくも何も…」

 光の帯の向こうで笑い声が起きた。
 一人ではなく三人の笑い声だった。二人の男性と一人の若い女性だった。

 男性は太陽の光が射す方へやって来てジグメの隣に座った。
 「私だ、忘れたか」
なんと、それは彼をラジオ局に連れて行った学者だった。

 「さあ、握手だ。何年ぶりかな」

 ジグメは言った。
 「会いたいと思った時には会えなかったのに。どこに住んでるんですか」

 「私は君のことをよく耳にしたよ。今じゃ有名人だからな」

 学者は彼の学生を紹介した。
 女性は修士で、男性は博士だった。

 村を歩き回る時には、修士がテープレコーダを持ち、博士がテレビ局の記者のようにビデオカメラを担いだ。
 彼らもまたケサルの物語を書くラマに会いに来たのである。

 修士はテープレコーダーのスイッチを入れ、この件についてジグメの考えを尋ねた。
 ジグメは少しむっとして答えた。
 「物語はケサル王がずっと昔に作ったものです。一人のラマが書くものじゃありません」

 学者は笑って言った。
 「その考えは間違っている」

 博士は言った
 「“書くの”ではなく掘り出すんです。それは“掘蔵”と呼ばれています」








阿来『ケサル王』 128  語り部:サクランボ祭り

2015-11-05 01:27:47 | ケサル
語り部:サクランボ祭り その2



 「書く」だけで語らない語り部が現われた。
 それはクンタという名のラマだった。

 クンタ・ラマの寺と縁のある周りの村や牧場はみなそれを誇りにしていた。
 村人たちは誇に思うあまり、今この時最も有名な「仲肯」ジグメをこの地で語るよう招かなかったのである。

 ジグメは言った。
 「オレはただの通りがかりだ。だが今、その人を見たくなった」

 自分たちのラマがケサルの物語を「書く」と知ってから、この寺と縁のある村々の村人たちは話す言葉一つ一つにこだわるようになっていた。

 村人たちは言った。
 「見る、ではだめだ。お訪ねする、と言ったほうがいい」

 「お訪ねする、ではなくて、教えて頂く、と言うべきだ」と言う者もいた。

 「それでは、その人をお訪ねすることにしよう」

 すると、また意見された。
 「その人、ではない。クンタ・ラマ様だ。尊師様だ」

 「ほう、ラマ様か。呼び名はなんだっけ。あ、クンタ・ラマか」

 ジグメは、言葉遣いにこだわりたい村人のためにわざと修正の余地を残しておいて、意見されるのを待った。
 彼らに「呼び名は何か」ではなく「法号は何か」と聞くべきだ、と言わせようとした。

 だが、彼らの言葉へのこだわりはまだ始まったばかりのようで、語句にも限りがあり、その違いを見つけられなかった。
 ジグメは大人物のように口ぶりで言った。
 「そこまでにしよう。案内できる人を寄越してくれないか」

 村人は本当に案内人を探して来た。
 案内人はジグメを連れて村を抜け、広々と開けた牧場に着いた。
 そこでヨーグルトを飲み、焼いたピンを食べて昼飯とし、それから谷間の村へと降りて行った。

 森で覆われた谷を大きな河がゆったりと流れていた。
 谷は平らに開け、河の中心に大きな波は立っていなかった。
 ただ、いくつもの渦巻きが現われては消え、消えては現われた。

 ぼろ服を纏ったかかしが、麦畑で風を受けて揺れていた。

 ジグメは河のほとりまで降りて、静かな河の流れが凶悪な波を絶えず岸辺に打ちつけているのを見ていた。
 波はジグメの靴を濡らした。

 村はずれで腰を下ろし、靴を脱ぎ、中に敷いておいた湿った草を取り出し、村人から干し草を分けてもらい、また中に押し込んだ。

 河にはつり橋が懸かっていた。
 寺はつり橋の向こう側の坂を登ったところだ、と案内人に教えられ、顔を上げて探したが、寺らしいものは見えなかった。
 目に入ったのは傾きかけた日の光の中に聳える柏とエゾ松ばかりだった。

 橋を渡り、険しい山道を登ると、突然、曲がり角の柏と杉の木の間から瀟洒でこぢんまりとした寺が現れた。
 寺の前の空き地では色鮮やかな野生のミツバチが盛りの牛蒡の花から飛び立ち、巣へ帰ろうとしていた。

 寺は静かで、誰もいないかのようだった。
 すべての窓に黄色い絹のカーテンが静かにかかっている。

 その時七、八歳の小坊主が入り口の隙間から姿を現し、裸足でジグメの前に立った。
 ジグメたちが口を開くより早く、小坊主は唇の前で指を立てた。
 それから彼らを僧坊と正殿からそう遠くない木の下へ連れて行き、やはり何もしゃべらない年老いた僧が茶を運んで来た。

 小坊主は小声で言った。
 「十日後にまた来てください。クンタ・ラマ様は今おこもりしています。十日後に期が明けます」

 「おこもり?」

 「ラマ様は新しいケサルの物語を書いています」

 「本当に書いているのか」

 「長い間書いていなかったのですが、ラマ様の空行母様から啓示を得て、今、新しい物語が次々と頭の中に湧き出しているのです」

 「空行母?」

 小坊主は大人びた笑いを浮かべながら、僧坊の一つの窓を指さした。
 カーテンが開いていて、顔の大きな女性が彼らの方を見ていた。

 「あの人か」

 小坊主はうなずいて言った。
 「そうです」

 ジグメが振り向いてもう一度見上げた時、顔の大きな女性は窓の中に消えていた。








阿来『ケサル王』 127  語り部:サクランボ祭り

2015-10-27 22:22:37 | ケサル
語り部:サクランボ祭り その1



 ジグメの中には二人のケサルがいる。

 一人は、自分が語る英雄物語の主人公。

 もう一人は、ジグメ自身もその夢の中に入ったことのある、リン国の王としてのケサル、人間の世に降って務めを成し遂げたケサルである。

 その夢はあまり鮮明ではなかった。
 思い出せばそれは、色なしで薄暗く、絶えずチカチカと震えているぼんやりとした映像のようだった。
 ジグメはこの夢の中のケサルのほうが好きだった。

 夢の中のケサルと別れたその時から、ジグメは再び夢の中に入れる日を待ちわびた。
 あの日、夢から覚めた後まず思い出したのは、二人で交わした言葉ではなく、自分の背に確かに矢が刺さっていることだった。
 それは神人がジグメを探索の旅から連れ戻すために放った矢だった。
 だが、服を全部脱いで体の隅々まで触ってみても、その矢の痕跡さえなかった。

 もしまたあの夢に戻る機会があったら、必ずケサルに抜いてもらい、記念にとっておこう、とジグメは考えていた。
 だが、またあの夢に戻れると信じているわけでもなかった。

 幸いにもジグメは結果にこだわる人間ではなく、心の中でこうつぶやいた。
 まあいいさ、矢は残しておいて、背骨の一部分としよう、と。
 そう考えて気持ちが軽くなった。

 この思いを胸に、ある町で語った。

 町では、役所の企画のもと新しい祭り―当地で生産される果物の名前を被せたサクランボ祭りが開かれていた。
 もともとこの町ではサクランボを作っていなかったのだが、ある果樹の専門家がこの地の独特の気候、特別な土壌に目をつけ、役所に提案して、小麦にとってはあまりに痩せた谷の斜面にサクランボを植えさせた。すると、質の良いサクランボが採れた。

 役所がこの祭りを開いたのは、山の外へとサクランボを売り出すためだったのである。

 ジグメは招かれてこの町で語った。
 小さな町に多くの人が集まっていた。
 サクランボを売る商人、記者、町の役人よりもっと地位の高い役人たち。

 ジグメにも旅館の一部屋が与えられ、部屋に置かれた宣伝用の品々には、彼が語り部の衣装に身を包んだカラー写真が載せられていて、彼を喜ばせた。

 昼間、開幕式の後の出し物の中で、ジグメは短い一節を語った。
 調子が出る前に拍手が起こって、それまでとなった。

 舞台を降りないうちに、真っ赤なサクランボに扮したサクランボ娘たちが陽気な音楽と共に上がって来た。
 ジグメは体を舞台の端に貼り付け、ころころとしたサクランボ娘の一群が掛け上がって行くのをやり過ごしてから、やっと舞台を降りることが出来た。

 夜には、河のほとりの果樹園に組まれた宴会用の大きなテントの中で語った。
 町長は言った。「今回は少し長く語ってかまいませんよ。ところで、何を語って下さるのかな」


 「ケサル、クチェを助けてジュグを降す、を語ります」

 町長は喜んだ。
 「それはいい。この戦いで、ケサルは山の中のジュグの蔵を開き、勝利を収めて国に帰るのだからな。我々のサクランボ祭りにも、良い成果があるように。乾杯」

 幸いにも、町長と遠くからやって来た果物商を除き、ほとんどの人が聞きたいのは物語であって、物語のそのような結果ではなかった。

 祭りが終わる前に、ジグメは町を出た。
 途中人に会うごとにどこから来たのか、どこへ行くのかと尋ねられた。

 ジグメは答えた。
 サクランボ祭りから来たが、どこへ行くかはわからない。

 相手は笑って言った。
 サクランボ祭りが終わったら、アンズ祭りやスモモ祭りに行けばいい。

 その言葉の中にわずかなからかいがあるのが聞き取れた。
 だがそれが、新しい祭りが多すぎるのをからかっているのか、ジグメがそのような祭りで語るべきではないとからかっているのかは分からなかった。

 だが彼はもはや旅を始めたばかりの時のように怒りっぽい人間ではなかった。
 そこで、歩みを止めずに言った。
 「もしオレの語りを聞きたくないんなら、その後の、リンゴ祭りで語らせれてくれればいいさ」

 彼らは尋ねた。
 「新しい物語を語るのかね」

 古くからあるこの物語に新しく加わる物語などない。
 ただ、ある「仲肯」は語る段落が多く、ある「仲肯」は語る段落が少ないというだけである。
 そして、ジグメは、自分はすべての段落を語ることが出来ると信じている。

 どの時代にも、一人か二人、すべての物語を語る力を持った語り部がいる。そして自分はこの時代で唯一人のそのような語り部だと信じている。

 もし普通の「仲肯」だったら、自分の語る物語をより揺るがぬものにするために塩の湖や、かつてのジャンとモンの地を訪ねたりはしないだろう。

 今、道の傍らに立っている人たちが、新しい物語が出来た、などと言っているのが耳に入り、ジグメは足を止めずにいられなかった。
 それから、丁寧な口調で彼らに伝えた。

 より多く物語を語れる語り部はいるが、新しい物語が他にあるはずはないのだ、と。

 道端の人々は言った。
 今まで自分たちもそう思っていた。昔だったら、とっくにあんたを引き留め、語らせようとしただろう、と。

 彼らはジグメが有名な人物だと知っていた。
 語れる段落が一番多い語り部だと知っていた。
 なぜなら彼こそがケサル王が自ら選んだ語り部なのだから。

 だが今、新しい物語を書く人物が現われたのである。

 彼らは「書く」と言い、「語る」とは言っていないのにジグメは気付いた。








阿来『ケサル王』 126 物語:夢

2015-10-21 01:00:55 | ケサル
物語:夢 その2




 国王ケサルさえもまだ知らない物語を知っているのだと思うと、ジグメは微かな優越感を抱いた。
 だがそれは誇らしさとは違っていた。

 物語をすべて知りながら、その先に待ち受けているのは、様々な場所を巡って語り、施しを、良く言えば聞き手からの報酬を受けることだけだ。
 そう思うと、やるせない気がした。

 ケサルも自分の夢から戻った。
 最後に耳にしたのは、千年後に自分の物語を語ることになる人物が言った言葉だった。
 「すみません、帽子をかぶっているのを忘れてました」

 こうして、ケサルは奇妙な夢から離れた。

 誰もが夢の中で千年後に行けるわけではなく、そこで自分の物語を語る者に会えるわけでもない。
 その人物は自分が望んでいた者によく似てはいたが、何事にもこだわらない、もっと正確に言えば、何をすべきか分からないといった表情をしていた。

 遥かな未来に自分の物語を語る者が確かにいるのだと考えると、ケサルは満足した表情を浮かべて眠りに着いた。
 だが、朝目覚めた時、心はより沈んでいた。

 物語を語るあの人物が、久しい後にはリン国は存在しないと言ったのを思い出したからである。

 朝の朝議では、大臣たちはいつも通り良い知らせを伝えた。

 新しいが帰属に参りました。
 リン国に属さぬ小国の王が使者に貢物を持たせ友好を求めて参りました。
 学者が新しい文を著し、リン国の偉大な未来について述べました。
 道理に背いたラマが心を入れ替え、リン国に忠誠な護法を行うと誓いを立てました。等々。

 すべてが、気候は温順、民は安寧、王は英明、四方は鎮められた、といった、同じ言葉の繰り返しだった。
 国王は聞くほどに心がふさぎ、声はくぐもり、力なく言った。
 「それはいつまで続くのだろうか」

 下の者は声をそろえて答えた。
 「幾久しく続きましょう」

 議事の終わりを告げることなく国王は黄金の座を立ち、一人宮殿の外へ出た。
 臣下たちは遠巻きに着き従い、共に宮殿を出て、最も高い丘の上に登った。

 国王は思った。
 次にまた夢の中へ行ったら、この王宮がどのようになっているか見なくてはならない、と。
 この川がその時もまだ、西南に向って流れて大きな河と合流し、さらに多くの流れとともに東南に折れ、山々を切り裂き、自らが切り取った深い峡谷の中で水音を響かせているかどうか、見なくてはならない、と。

 取り巻く者たちはケサルが小声でつぶやいているのを聞いた。
 「もしすべてが消えてしまうのなら、今この時にどんな意味があるのだろう」

 このような問いは、河が谷の奥で立てる響きと同じで何の意味もなかった。
 もちろん、頭の良すぎるある種の人々はこのような響きにも特別な意味があると思いがちである。
 彼らはそう考えて心穏やかではない。自分を不安にさせているのである。

 国王は長い間ぼんやりと時をやり過ごすと、山を降りた。
 出迎えた大臣、将軍、妃、護衛、侍女、教師らの群れを通り抜ける時、国王の目線は彼らの一人一人の上を掠めたが、実在である彼らの体がその目線を遮ることはなかった。

 集まって来た人々の群れを通り抜ける様子は、まるで無人の広野を行くようだった。
 国王のこのような振る舞いは国中を不安にした。

 だが、そう考えない者もいた。
 それは僧たちだった。

 彼らは言った。
 国王は悟りを開かれたのだ。国王は俗人が有ると見なすものを「空」と捉えられた。これは仏法の勝利である。

 もちろん、多くの人はこの考えに賛同しなかった。

 幸いにも、国王はこのような心境に長く浸ってはいなかった。
 一国の王として、いつまでも根拠のない想念に囚われているわけにはいかなかった。

 間もなく事件が起こった。
 ケサルは兵を率いて四方を征服したが、高く険しい山に隔たれたリン国の土地の中にも、まだいくつかの小国があった。
 これらの小国は毎年リン国に貢物をし、礼を尽くしていたので、ケサルはわざわざ討伐に行こうとは考えていなかった。
 ただこれらの小国の間では、常に諍いが起こり、一年中戦雲が立ち込めて、リン国の太平の気を乱していた。

 ケサルにとって、それは許せないことだった。

 さて、ある日、ケサルは高い山々が集まる東南の方角から殺気が立ち昇っているのを見て、とらえどころのない思考から抜け出し、王子ザラに密かに兵馬の用意をするよう命じ、出征に備えた。

 果たして、数日もたたずにグチェという小国から救援を求める使者が到着した。
 彼らはジュグというもう一つの小国から攻撃を受けていた。

 ケサルは言った。
 「ジュグがそなたたちグチェを征服しようというのは何故なのか。お前たちの美しい姫を娶るためか、それとも、珍しい宝を所有するためか」

 使者は跪いた。
 「もし美しい姫がおりましたなら、すでにリン国に差し上げていたでしょう。もし、珍しい宝があれば、我々のような小国には相応しくなく、すでに大王様のお前に捧げていたでしょう」

 ケサルはうなずき
 「されば、ジュグは故なく兵を起こしたのだな。帰って国王に伝えなさい。我がリン国が正しい道を示すだろう、と」







阿来『ケサル王』 125 物語:夢

2015-10-12 11:53:43 | ケサル
物語:夢 その1



 ケサルは本当に夢を見た。

 夢の中で一千年後のリン国の草原を見た。

 草原の地形は彼のよく知っているそのままだった。山脈の位置、河の流れ。
 だが、そこに新たに木々が現われていた。実を結ぶ木と結ばない木と。

 実を結ぶ木は果樹園の中に一塊に集められ、実を結ばない木は新しい道を挟んで向き合い、兵士のようにずっと先まで列をなしていた。
 道には不思議な力で動く乗り物が、晴れ渡った空の下に埃の煙幕を長く引きずっていた。
 建物も以前とは異なり、家の中には見慣れない物がたくさん置かれていた。

 それでも、建物から姿を現した草原の民が、空を見上げ何やらつぶやいた時、その表情は千年前と少しも変わらなかった。

 不思議な乗り物を走らせて来た者がそこから降り、小川の淵まで水を飲みに来た時、まず両手で水を掬い取り、口いっぱいに含んで空に向かって吹き出すと、強烈な光の下に小さな虹がほんの束の間現れる。こんな遊びも、一千年前の兵士たちが馬を降りて水辺でしていた楽しみとまるで同じだった。

 なによりも驚いたのは、草原を気の向くままに歩き回っている語り部ジグメが彼の想像そのままだったことだ。
 物語の中に消えたあのアク・トンバそっくりだったのである。
 その姿は時折りチカチカと明滅し、いまにも消えてしまいそうで、ケサルは慌て声をかけた。

 「そこの者、入ってこい」

 その男は言った。
 「建物もなく、テントもなく、門もないのに、どこへ入ればいいんですか」

 「私の夢の中だ」

 「オレの夢に、あなたは自由に出入りして来たけど、オレがあなたの夢に入るなんて思ってもみなかった。そんなこと出来ません」

 ケサルは釈明した。
 「これからは何度も来ることになるだろう。だが、私はまだ来たことはない。つい先ほど思いついたのだから」そう言ってから、笑った。「そうだ、きっとそれは私が天に帰ってからのことなのだ。教えてくれ、お前の夢の中で私は何をした?」

 「その方は、リン国の物語をオレの腹の中に詰め込んだんです」

 「どうやって入れたのだ」

  ジグメが、金の鎧を着た神がどのように自分の腹を裂き、物語を書いた本を一冊また一冊と詰め込んでいったのかを話すと、ケサルは笑った。
 「そうか。それは、寺のラマが菩薩の像に収めるのと同じだ。だが、お前は生きている人間ではないか」

 「ところが、少しも痛くなかったんです。眼が覚めると、リン国の獅子王ケサルの物語を語れるようになっていました」

 「怖いか」

 「怖くありません。それは初めてのことではないのです。その方は他にも語る人を探していました」

 「今怖くないかと聞いているのだ」

 「何が」

 「今お前は私の夢の中にいる。私がお前を帰さなかったらどうする」

 ジグメは度胸のある人間ではない、だが今回は不思議なことに少しも怖くなかった。

 「オレはあなたを怒らせたんです。物語の中のジャンやモンの国が本当にあるか知りたくて、あちこち訪ね歩いてしまいました。あの方は怒って矢でオレを遠くに飛ばし、探し廻れないようにしたんです」

 腰の辺りをさすると、鉄の矢が腰から入り、背骨に沿って首の後ろまで突き刺さっているのが分かった。
 体の向きを変えて、夢の主に矢を見せた。見せながら考えた。
 夢はこの方の頭の中にある、だからこの方は夢の中の物を見ることは出来ないかもしれない、と。

 だが、この人物は神の力を持っていて、自分の夢の中へも自由に出入り出来た。
 この人物は弓を触って言った。

 「おお、本当に私の矢だ。だがこれまで私はお前の言ったようなことは何もしていないのだ」

 「では、何をしてるんですか」

 「タジクまで遠征し、リンの西の境界を確定したところだ。戦いがなければ、何もすることがない。そこで考えた。これらの事を伝えていく人物がいなくてはならない、と。ある者の姿をもとに、その者を探しに来たのだ」

 「オレがその人に似てるんですね」

 「そうだ、そっくりだ」

 「誰に」

 「アク・トンバだ」

 「アク・トンバ!その頃アク・トンバはもういたんですか」

 「この男はまだいるのか」

 「います」

 「会ったことはあるのか」

 「誰も会ったことなんかありません。物語の中にいるんです」

 これを聞いて、夢の中の国王は失望した。だがすぐに気持ちを切り替えて、言った。
 「物語の中で生きているのだな。ならば、誰かに自分の物語を語らせようという私の考えは正しいようだ」

 「オレはもう語りました。あなたがまだしていない事も語ってますよ。あなたがリン国から天へと帰るまでの物語を」

 ケサルはジグメの腕をつかんで引き寄せた。
 「言ってくれ、天に帰るまでに、私はどんな業績を残すのか。王子ザラは新しい国王となるのか」

 「天の秘密を漏らすことは出来ません」

 「言えと言っているのだ」

 「出来ません」

 「お前をここから出さないと言ったら」

 ジグメは目を伏せ、ゆったりと腰を下ろし、言った。
 「だったら、出て行きません。そのほうが寒い中をあちこち歩き回らないで済む」

 「では、やはり出て行きなさい」

 ジグメは片方の足を夢の外へ踏み出した。
 外の世界は大きな音を立て、雲さえも空を駆け巡り、すべてがひゅうひゅうと激しく鳴っていた。ジグメは振り向いた。
 「これでいいんですね」

 ケサルは怒っていた。
 「私をあなたと呼ぶな。私は国王だ。首席大臣がいたらお前の口を捩じ上げるだろう」

 「あなたはリン国の王です。俺の王様じゃない」

 「お前はリン国の民ではないのか」

 「この土地はまだあります。でもリンという国はありません」

 「何だと。リン国が無いだと」

 「今はもうありません」

 国王のあまりの失望の表情を見て、語り部は思った。
 どの国王も皆自分が作り上げた業績は永遠に存在すると信じているものなのだ、と。

 ジグメはそれ以上何も言わないことにした。

 カムという高原の大地に本当にリンと呼ばれる国があったのかどうか、ケサルを研究する学者たちは意見を戦わせている。
 それはまた、歴史上にケサルと言う英明で神でもあり人でもある国王がいたかどうかはっきりしないということだ。

 そう思って、ジグメは心の中に同情と呼ばれる感情が湧き上がって来るのを抑えられなくなった。

 ジグメは軽く礼をして夢から去って行った。

 最後に国王が夢の中で言っているのを聞いた。
 「それでお前は、私の夢の中に来ておきながら、帽子さえ脱がなかったのか」

 体全体が夢から離れると、すさまじい速さで疾走していた世界は、そこだけ静止した。
 周りは空っぽで、一部の鳥は木に止まり、一部の鳥は風の中で体を斜めにしながら翼を広げていた。

 ジグメは帽子を脱ぎ、胸の前に置き、言った。
 「すみません、帽子をかぶっているのを忘れてました」

 こう言い終ると、ジグメはまた旅を続けた。







阿来『ケサル王』 124 物語:アク・トンバ

2015-10-05 23:11:09 | ケサル
物語:アク・トンバ その4



 「では、王様はいつかはこの世を去るのですか…」


 国王ケサルはザラに目をやった。眼差しは冷たく鋭かった。
 ザラは数日の間、自分がこの問いを口にしたのを後悔した。

 国王も自分の目がどのような光を発していたのかが気になっていた。

 亡くなった兄ギャツァの息子、リン国の王位の継承者をこのように不安にさせてしまったのは、もしかして自分も人間界の国王と同じように誉れ高い王位を捨てるのが惜しいからだろうか。
 もし人々がそれを知ったら、物語を一つ創り出し、アク・トンバに自分を風刺させるのだろう。

 幸いなことに、国王もまたユーモアの持ち主であり、こう考えて自分を笑い種にしたのである。

 それから、自らを揶揄するような口調で言った。
 「この問題はアク・トンバのところへ行って尋ねたほうが良いかもしれぬ」

 「物語の中の人物に?」

 「私は一度だけ彼と会った。だがその後、彼は姿を隠してしまった。私の何かが彼に嫌われたのだろう。お前は愛すべき若者だ。彼はお前を避けることはないだろう。もしお前が彼の物語の中に現れ、彼から風刺されたり弄ばれたりされなかったら、それは、お前が良い国王ということだ。だから、お前は私のことを心配しなくてよい。ただ、彼を恐れなくてはならない」

 「王様も物語の中へ入って行くのですか」

 「多くの者が私の物語を語るだろう。だがアク・トンバの話と一緒にされることはない。多くの者が私の物語を語る。千年を超えて語られるだろう。お前は私の言ったことを信じるか」

 「信じます。王様は神です。神は未来を予知することが出来るのですから」

 「物語を語る者すべてを私が選ぶわけではない。だが、自分でも幾人かは選ぶことが出来る。私はアク・トンバに似た者を選ぶだろう」

 ここまで言って国王は笑った。
 目の前にひょろひょろと痩せた人物の姿が浮かんだからである。

 「その者は、この世に何か借りがあるような姿をしている。仕打ちを受けているようなのだが、何の仕打ちなのか分からない様子をしている」

  こう考えて、国王は気持ちが高ぶって来た。
 「戻りなさい。眠らねばならない。夢で彼に会えるような気がしてならないのだ」

 「それは、アク・トンバですか?」

 「違う、千年後の人間だ。アク・トンバによく似た人物だ」







阿来『ケサル王』 123 物語:アク・トンバ

2015-10-03 03:54:35 | ケサル
物語:アク・トンバ その3



 領地に帰る途中、トトンはリンへ交易に向かうタジクの商人に出会った。
 彼らは優れた馬、夜光真珠、安息香、山の中の宝の蔵を空ける鍵と秘密の呪文を携えていた。

 長い時間歩いて来た彼らは、二つの夜光真珠を灯りとして夜の食事を作り酒を飲み、来た方向に向かって夜の祈りを捧げた。
 それが終わると、疲れた体で深い眠りに入って行った。夜光真珠をしまうことさえしなかった。

 その宝物の輝きの元で、トトンは兵と共に彼らを一気に叩き殺した。
 二人の首領をぐるぐる巻きに縛り上げた時も、この二人はまだ夢の中だった。

 揺れる馬の背で、二人のタジク人はまた眠りに落ち、空が明るくなってやっと目を覚ました。
 この時彼らは初めて自分が宝と地位と自由を失ったのを知り、遥かに遠いリンの国へ来るのではなかったと恨んだ。

 「リン国への道は長すぎる」
 あごひげを半月の形に整えている人物はこう言って、道のりがあまりにも長く、単調で疲れ果て警戒心をなくしてしまったことを嘆いた。

 トトンはあの手この手でタジクの商人から宝の蔵の呪文を聞き出そうとしながら、密かに精鋭の兵を西に送りタジクの宝の蔵を掘り当てようとしていた。

 ケサルはすでに、西の辺境に多くの軍隊が現われて、交易の商人を守るためだと公言している、という知らせを受けていた。

 四大魔王を倒した後、平和がリンに訪れて長い年月が経っていた。
 長い間何もすることがなかったのでなければ、アク・トンバという物語の中に逃げ去った人物に思いをはせることもなかったかもしれない。

 大軍襲来の知らせを聞くや、ケサルはたちどころに気力が漲り、自らいくつもの命令を発し、各の兵を集めて戦いに備えた。

 王子ザラが進言した。
 この度の戦いはトトンの強欲さが起こしたことです。タジクの大軍の前でトトンを縛り上げ、ダロン部の財宝の中から十倍にしてタジクの商人へ償わせましょう、と。

 「そのようなことをして何か利益があるのか」
 大王はわざと問いかけた。

 首席大臣が前に進み出て意見を述べた。
 「王子のお考えは最上の策でしょう。一つには、あのよこしまな大臣を追い払い、一つには、戦いを避けることが出来ます。民も安らかでいられましょう」

 ケサルは言った。
 「我がリンの国を考えてみるがよい。東は伽の地(中国)と接しているが、山と河によってすでに境界が出来ている。北と南の境は、四大魔国に勝利した後明らかになった。ただ西側の地は、私にも明確ではない。大軍が押し寄せて来たこの時に境をはっきりさせようではないか。それでリン国の領土は完成するのだ。話はこれまでだ。号令を待って出発せよ」


 戦いが始まると、幾度かの交戦はもとより、大軍が往復するだけで1年かかった。

 ケサルは連勝しながら、一路西に向かって進軍して行くと、そこには、これまでになく高い雪山が横たわっていた。
 生き残ったタジクの軍は峠を越え、深い谷の中に消えた。

 ケサルは将軍たちに囲まれながら峠に馬を繋ぎ、夥しい山々が波のように西の方向に靡いているのを見た。

 ある者が言った。
 多くの山神たちもリンの大軍の勢いに恐れをなして西へ逃げて行くのでしょう、と。

 ケサルは背から一本の神の矢を抜き取り、足元の岩の中に深く差し込んだ。
 すると、走り去ろうとしていた山々は立ち止まり、西へ傾いた姿勢からゆっくりと体を起こし始めた。

 タジクの兵の黒い影が峰々の間を走っていた。

 トトンは追撃の命を下すよう願った。
 秘密の呪文を手に入れた宝の蔵がこの峰のどこかにあるはずだから、と。

 ケサルは言った。
 「戦いはこれまでだ。東西南北どの方向も、リン国は高く聳える雪山をもって、周囲との境とする」

 伴の者が、作られたばかりの文字で詩を書いた。詩の中で、リンの周囲の雪山を柵に喩えた。

 ケサルは暫く吟じてから言った。
 「柵。まさに柵のようである。だが、これからはリン国の民は柵の中に閉じ込められてはならない」

 王子ザラには分からなかった。

 トトンはまた追撃しようとしていた。
 国王はそれを制止しながら、リンの民は柵を超えられるのだろうかと案じているようでもあった。

 国王は言った。
 「なぜ、雄の獅子のように壮大な雪山を柵になぞらえるのだろう。そうすることで、我々自らがその中に閉じ込められてしまうのだ」

  王子ザラは言った。
 「私たちは閉じ込められることはありません。もし願えば、私たちの駿馬はいつでも疾風のようにこの峠を通り抜けて行くでしょう」

 「今ならばそれは間違いない。だが、後の世ではどうだろうか」

 王子ザラは笑った。
 「リンの大軍は無敵です。王様が未来を心配される必要はありません」

 「お前が国王になれば、私と同じように考えるだろう」

 王子ザラは言った。
 「滅相もない。王様は永遠に我々の国王です」

 「永遠の国王などいない」

 「王様は永遠です」

 「何故だ」

 「王様は神です。神は天地と共にいます」
 
 ケサルは言った。
 「神は永遠に人の世には住まない」

 「では、王様はいつか…」






阿来『ケサル王』 122 物語:アク・トンバ

2015-09-28 01:36:54 | ケサル
物語:アク・トンバ その2



 アク・トンバの物語の中の貴族とは誰か、と国王がと問い詰めるのを、王子ザラは待っていた。
 だが、国王は物語に笑っただけだった。
 貴族を困らせた民の知恵と機知に大笑いしたが、ザラが問い質して欲しいと望んでいたことは尋ねなかった。

 この物語の中の貴族とはトトンだったのである。
 そして、このようなことをするのは、これまでになく領土を広げたリン国で、トトン一人だけではなかった。

 国王が笑った時、王子ザラは笑わなかった。大臣たちはそれ以上に厳しい表情のまま、だれ一人として笑みさえ見せなかった。

 国王は言った。
 「私はその人物に会いたい」

 トトンはすぐさま忠告した。
 「身分の低い民に会ってどうされるのじゃな。国王には心を砕かなくてはならない重要なことがおありではないのか」

 「いや、今はすべきことが何もないのだ」

 その後、北へ巡行した時、ジンバメルツの領地で、国王はアク・トンバに会った。
 その痩せた人物が歩く様は、風の中の小さな木のようで、ふらふらと揺れ動いていた。

 国王は驚いた。
 「なぜそのように痩せているのか」

 「飯を食べず、乳を飲まない訓練をしているのです」

 「なぜだ」

 「そうすれば、民であっても、神のように食べることに煩わされず、幸福な国で暮らしている気分になれるのでございます」

 ケサルは軽妙でユーモアにあふれた人物に会えるものと思っていたが、一目で、彼が世に憤り悪世を恨んでいるのを見抜いた。
 このような人物を好むかどうか自分でもわからなかった。
 そこで言った。
 「歩き疲れただろう。いつかまた語り合おう」

 アク・トンバは特別な表情も見せず、礼をすると去って行った。

 シンバメルツは、アク・トンバに宮殿に残り、国王のお召しを待つように言った。
 「お前のように機知に富み、ユーモアがある者を国王は喜ばれる」

 アク・トンバは言った。
 「家に帰るといたしましょう。帽子をここに残しておきます。もし国王のお呼びがあればこの帽子に声をおかけくだされ。お声はすぐに私に届きます」

 シンバメルツは宮殿の門まで送って行き、言った。
 「お前も神の力を備えているのだな」

 アク・トンバは言った。
 「神の力を持つ一人でございます」

 だが彼は神の力など持っていなかった。ただ、国王は頭を働かせて自分と話すのを望まず、二度と自分を呼ぶことはないと分かっていた。

 その通り、国王が帰った後、廊下に掛けてあった帽子は少しずつ埃にまみれていった。
 ある日、その帽子も姿を消した。ネズミが床下まで運んで行き、住処にしたのだった。

 その時やっと、建物の主はアク・トンバに長いこと会っていないのを思い出した。
 国王はアク・トンバが姿を消したという知らせを聞くと、すぐさま命を下した。
 「アク・トンバを宮廷に迎え入れ、風刺大臣とする」

 だがその時、アク・トンバは物語の中にしか存在しないものになっていて、誰も会うことは出来なかった。

 だが、彼は確かに存在していた。
 絶えず新しい物語を創り出し、物語の中で生きていた。

 トトンと、その同調者たちは、国王に上奏した。
 権力があり富があり学問がある者と対をなすこのような人物は、捕らえて審判し、牢に繋いでしまいましょう、と。

 国王は言った。
 「彼はすでに死なない者となった。物語の中だけで生きている者を捕らえようがない」

 トトンは国王の意見に同意できず、木の鳶に乗ってアク・トンバを探し回ったが、見つけられなかった。
 代わりに、伝わり始めたばかりの新しい物語を聞いた。

 トトンは言った。
 「憎らしいヤツめ。本当に物語の中に隠れおった」

 彼は一人山の上に座り、邪魔するものを遠ざけた。
 物語の中の人物を捕らえる方法を必ず見つけ出す、と公言していた。

 国王は言った。
 「アク・トンバを捕らえて審判しようというそなたの考えには同意しない。だが、物語の中から連れ出す方法があるというのなら、それは素晴らしい思い付きだ。山へ行ってゆっくり考えるがよい」

 トトンは一つ一つ山を探したが、すべてふさわしくなかった。
 一つの考えが浮かんだと思うと、ヒューという風の音と共に吹き去られた。

 彼はまた宮殿に戻り、国王に要求した。
 「国王の神の力で、考え事のできる環境を、風のない山を与えてくだされ」

 国王はすでにこのような戯れに飽きていた。考えれば分かることだ。
 「物語は一人一人の口と頭の中にある。ならば、アク・トンバも物語を語る者の口と頭の中にある。そのような者は捕らえようがないだろう」

 国王は一言付け加えた。
 「無駄に力を使うことはない」
 国王はこの言葉でトトンに対する嫌悪感を表わした。

 アク・トンバという、金持ち、貴族、僧に対して尊敬の念を持たない者を捕らえることで国王に近づくことが出来る、とトトンは企んでいた。
 だが、このずるがしこいアク・トンバは物語という便利な隠れ場所を見つけ出し、自分の脚を使わずに世界中を歩き回っている。
 誰にも彼を捕まえる方法などない。

 そこで、トトンは仕方なくこの企みを諦め、自分の領地へ帰って行った。








阿来『ケサル王』 121 物語:アク・トンバ

2015-09-22 19:48:29 | ケサル
物語:アク・トンバ  その1



  
 モンとの戦いに勝利し、ケサルのリン国の内と外での名声は頂点に達した。

 ケサルはあらゆる栄華を楽しんだ。宴で舞い踊り、狩で各地を巡った。
 リン国の領地であればどこでも、巡幸の馬の列が空高く埃を舞い上げるやいなや、そこではすでに料理が整えられ、盛大な宴が催された。

 首席大臣ロンツァ・タゲンは、国王が毎日馬を操って体を痛めてはと配慮し、職人に命じて輿を作らせた。
 壮健な男たちが順に担ぎ、傍らでは美しい侍従が大きな宝傘を差し掛けていた。

 この華麗な行列が通り過ぎる間、民は皆地に跪いた。
 彼らは顔をあげて国王を拝しようとはせず、宝傘が落とす影に何度も口づけした。
 本当は輿とその上の王の影に口づけしたいのだが、宝傘の影がそのすべてを遮っていた。
 そこで、仕方なくより大きな影に口づけするしかなかったのである。

 ケサルは不思議に思い尋ねた。
 「民たちはどうして私を見ようとしないのだろう。自らの王を見ようとしないのだろう。私だったら必ず見ずにはいられないが」

 「民たちは自分の下賎な眼差しで尊い大王を穢すのを恐れているのです」

 ケサルは知らなかった。
 このような決まりを民に対して定めたのは臣下たちであり、民たちは王を目にしたいという思いを無理やり抑え、顔を上げないようにしているのだということを。

 ケサルは言った。
 「もし私だったら、王がどのような姿をしているか必ず見るだろう」。

 「誰もが王様の勇ましいお姿を知っております」

 「どうやって知るのだ」

 「絵に描かれ、歌で歌われ、物語の中で語られています」

 「本当にそうなのか」

 「王様、よくお考えください。王様は偉大なリン国を作られ、四大魔王を平らげました。それからは、民たちは幸せに心安らかに暮らしています。人々が褒め称えないことがありましょうか」

 ケサルは思った。
 自分がこの世に降ってなしたことは偉大と言えるだろう。褒め称えられてしかるべきかもしれない。

 そこで、好奇心に駆られ言った。
 「では、物語を語る者を探して来てくれ。今宵は歌も舞もいらぬ。人々が私の物語をどのように語るか聞いてみたくなった」

 「そのような者も、王様の前では語れなくなってしまうでしょう」

 その通りだった。
 その夜、家臣たちは十人を下らない人物を王の前に連れて来たが、彼らはおずおずと入って来ると、そのまま身をかがめ、額を王の履物にそっと打ち付けるのだった。
 ケサルは出来る限り穏やかな表情で言った。
 「私が為してきた様々な行いをお前たちがどう語るのか、聞かせてくれ」

 あらゆる地に伝わっている王の物語を語り始めようとする者はいなかった。
 王の境遇、王の愛情、王の名馬、王の弓矢、王の智慧、王の勇気…もちろん、王のかつての迷走。

 王子ザラが進言した。「王様、彼らを困らせてはいけません。天上の神が王様を下界に遣わしたのですから、神が王様の物語を語らせるでしょう」

 大臣たちの考えは二派に分かれていた。

 一つは首席大臣を頭とするもので、民たちが伝える王の業績を王が耳にするのを望まなかった。
 民たちが密かに国王の物語を語ることにはもとより不満を抱いていた。
 「凡人の口から出た言葉は、国王の偉大な業績を歪曲し汚すものだ」

 別の一派は老将軍シンバメルツを頭とするもので、不幸なことにトトンも同じ考えを持っていた。
 「英明な大王が民のために為したことを、民は知るべきだ。民たちに国王の業績を知らせないとは、どのような考えあってのことだろうか」 後に、シンバメルツは、民の間で国王の業績が誤って伝えらえているのを聞き、自らの主張を放棄した。

 ケサルはこれらのことが理解できず、心の思いを王子ザラに伝えた。
 「民は私を愛しているはいても、恐れてはいないはずだが」

 王子ははっきりと肯定はしなかった。
 「王様、民たちを困らせてはなりません。王様を地に遣わしたのは天上の神です。神が人を選んであなたの物語を語らせるでしょう」

 「ならば、民が私を恐れるとしたら、私が普通の人間ではなく、天から来たからなのだろうか」

 王子ザラはそうではないと知っていた。だがこう答えた。
 「たぶん……そうでしょう」

 ケサルは言った。
 「では、お前が聞いて来てくれ。聞いた物語を私に聞かせてくれ」

 王子ザラは出掛けて行った。
 数日後帰って来ると、国王は尋ねた。
 「私が申し付けたことはどうであったか」

 王子ザラは言った。
 「王様の物語は聞くことが出来ませんでしたが、別の物語を聞きました」

 「他の者にも物語があるのか」

 「アク・トンバという者です。どこへ行ってもみな彼の物語をしていました」

 王子ザラはアク・トンバの物語を語った。

 金も権力もある貴族がいた。倉庫にはリンで最も多くの裸麦の種があった。
 その知らせが広まると、リンにいる多くの路頭に迷った民たちは、みなこの貴族に服従した。
 リン国の民だけでなく、戦いのため行き場を失ったジャン国やモン国の民もこの貴族の元に集まって来た。種を借りることが出来たからである。
 秋になると貴族は人を使って執拗に返済を迫った。しかも十倍にして返せというのである。
 悲しいことに、アクトゥンバも種を借りていた。
 その年、新しく開墾した荒地は収穫が悪く、十倍にして返すと、手元にはいくらも残らなかった。
 怒り、やり場のないアク・トンバもまたこうした民の一人だった。
 彼は裸麦を良く炒ってから貴族に返した。
 次の年の春、これらの裸麦はまた種として貸し出された。
 その結果はお分かりだろう。炒った種は当然芽を出すことはなかった。
 そこで、アク・トンバはこれらの民を連れて貴族の元を去った。
 慈悲の心を持った他の貴族の元へと身を寄せたのである。

 国王は笑った。「何と頭の良い人物だ!」







阿来『ケサル王』 120 語り部:非難

2015-09-15 01:29:10 | ケサル
語り部:非難 その2




 ジグメは落ち着かない気持ちのまま旅を続け、途中で二人の苦行僧と出会った。
 老若二人の僧は小さな湖のほとりで休んでいた。彼らはジグメにどこへ行くのかと尋ねた。

 ジグメは答えた。
 「どこかへ行こうとしてるんだが、忘れてしまった」

 若い僧は言った。
 「冗談がうまいですね」

 ジグメは大まじめに言った
 「オレは冗談を言ったことなどない。どこかへ行かなきゃならないんだが、思い出せないんだ」
 ジグメは真面目に天を指した。
 「あのお方が怒って、忘れさせたんだ」

 「冗談がうまい人は誰も自分は冗談は言わないというものです。人を笑わせておいて、自分は笑わない」

 年を取り厳格そうな僧も笑顔を見せた。
 「どこへ行くか分からないというが、それならどこから来たのかね」

 ジグメは僧の耳元に屈み、言った。
 「ちゃんと覚えてたんです…昨日の夜、そこで寝たんですから。でも今は思い出せない」

 そう言うと、ジグメはやっと何かに気付き、怯えたような表情を浮かべた。
 「どうしよう、何も思い出せなくなった」

 老僧はハハハと笑って言った。
 「お前は本当にユーモアがある。アク・トンバのようだ」

 アク・トンバ!

 ジグメは数え切れないほどの人たちがこの名前を口にするのを聞いた。
 この人物は特別な力を持っていて、多くの人々に語り伝えられた物語のユーモアと機知に富んだ主人公である。
 だがその物語からは、彼の出身も姿かたちも、それほどの機知とユーモアがあるようには思えない。

 機知を持たない者は人より優れることは出来ず、優れていない者はユーモアを身に着けることは出来ない。
 だがなんと、アク・トンバは誰よりも劣っているのに―地位もなく財産もなく学問もない―却って多くの物語の中で機知とユーモアのある主人公になったのである。

 ジグメは老僧の手を掴み言った。
 「アク・トンバを知っているんですね。なら、オレを連れて行ってください」

 老僧は立ち上がり、ジグメの手を振り払って言った。
 「アク・トンバに会った者はいない」

 雲が空中を飛ぶように流れ、泉の水がさらさらと音をたてた。
 すべてが、これから何かが起こりそうな気配を見せた。
 だが、何も起こらなかった。

 若い僧は慣れた動作で、茶を沸かす鍋と茶を飲む碗を片づけ、背嚢に入れた。

 ジグメは言った。
 「オレはアク・トンバを知りたい」

 若い僧は背嚢を肩にかけた。
 「もう一度言ったらそれはユーモアではなくなります。それは、うわごとと同じです。さて、師匠は行ってしまわれた。これ以上付き合っていたら、追いつけなくなってしまう」

 老僧は軽い足取りで、あっという間に道が曲がる辺りのアズキナシの茂みの先に姿を消した。
 若い僧もいつの間にか去って行き、アズキナシの茂みは人も道も覆い隠した。

 ジグメにもやっと分かって来た。
 アク・トンバには会うことはできないのだ、と。

 アク・トンバはただ物語の中でのみ生きているごく普通の人間で、ジグメが語る物語の中の神のようではないのだ。

 アク・トンバは人が自分の物語を語るのを求めない。
 みなと同じ人間で、神でもなく、かつての国王でもなく、特別な資格もない。
 だがほとんどすべての人たちはみな彼の物語を語りたがる。

 ジグメは湖の岸辺で水に映る自分の姿を見た。
 羊飼いをしていた頃は、雪の峰の麓の湖で自分の顔をしげしげと見たことはなかった。

 その頃の自分の顔はふっくらとして浅黒く、穏やかな表情だったのを思い出した。
 今、水に映った顔は痩せて気難しく、下顎にはまばらな髭が伸びていた。

 自分は温和な性格のはずだ。
 今そこにあるこの世への憤りと恨みの表情が信じられない。
 水の中の人物は自分が知っている自分、自分が考えていた自分とは違っていた。

 かなり長い時間彼はこの小さな湖のほとりに座り、湖の水が出口から水草を浸して用水路に流れて行く音を聞いていた。
 そうしているうちにやっと、憂鬱そうな目の中に微かな笑みのかけらが浮かんだのが見えた。
 彼はそれで満足した。

 太陽が山に落ち、あたりが冷え始めると、昨日どこから来て明日どこへ行けばよいのか、思い出せないまま、歩き始めた。

 その夜、一軒の家で宿を借りた。
 彼らはすぐにジグメが語り部だと分かり、一段歌って欲しいとねだった。
 断わるわけにはいかなかった。
 だが、みなの失望した表情を見るまでもなく、自分がうまく語れていないのが分かった。

 神が怒っている。

 一部の語り部はある日突然語れなくなるが、それは神が物語を取り上げてしまうからである。
 だが彼はまだ語ることが出来る。
 だが、力ははっきりと落ちている。
 神はジグメに物語を残したが、その豊かな表現、心を揺さぶる調べを取り上げ、物語の骨組みだけを残したのだ。

 主人はそのことで彼を見下げているようだった。
 それは用意された料理や寝床を見れば分かった。
 ジグメは心苦しく、自分から進んでアク・トンバの物語を語りたいと申し出た。

 主人は言った。
 「疲れただろう。早く休みなされ。アク・トンバの物語は誰でも語れる。ケサルの物語はそうはいかん。決められた者が語らなくてはならない」

 ジグメは急いで立ち上がり、女主人について自分の寝床を見に行った。
 その時、この家の子どもが突然言った。

 「ねえ、この人、アク・トンバみたいだね」

 「いい加減なこと言うな!物語はたくさんあるが、アク・トンバがどんな格好をしてるか、どこにも書いていないはずだ」

 「でも、きっとアク・トンバはこのおじさんみたいだと思うよ」

 ジグメは寝床に入って考えた。
 アク・トンバは、痩せて貧相で、下顎にまばらなひげをたなびかせているのだろうか。

 眠りに落ちる前に、ジグメは自分が立てる自嘲の笑い声を聞いた。









阿来『ケサル王』 119 語り部:非難

2015-09-08 02:05:45 | ケサル
語り部:非難


 ジグメは一人、高原に広がる窪地を通り抜け、南の雪山に入った。
 この雪山の連なりの中が昔のジャン国、もしくはモン国の地に違いない。

 北の牧人たちと別れた後、ジグメは彼らがくれた小さな袋に入った塩を腰にぶら下げて歩いた。

 ジグメは自分が非難されるとは思ってもいなかった――神の非難を。

 彼はただ疲れて眠かった。
 歩き疲れ、泉の水を思う存分飲むと、顔を上げて地平線の上にいよいよ高くなっていく雪山を見た。
 それは北の雪の峰より更に険しく、更に高く切り立ち、更に輝いていた。

 この山々を見た時、袋から塩を少し取り出し、舌に乗せた。
 口の中にかすかな苦味が広がり、自分が何か考えているような気がした。
 物語の奥にある真実を追い求めているような気がした。
 自分を放送局に連れて行ったあの学者になったような気がした。

 昨日、大きな木の上で眠った時、あの学者を夢に見た。

 ここに来るまでずっと、畑を耕す村では、農夫たちは刈った草を木の上に集めておき、来年の春種まきする時の役牛の餌にする。
 ジグメは木に登り、干草に体を埋めて夜を過ごした。

 それは山へ入る前の最後の夜だった。

 学者の夢を見た。
 だが、一言も話が出来ず、自分がこの雪山に来たのはジャン国かモン国に辿りついたということなのかと尋ねることも出来なかった。

 尋ねる前に目が覚めてしまった。

 自分が放送局を出た後、学者は世界中を尋ね歩き、あらゆる場所で自分の消息を探していたのだろうか。
 ジグメは長い時間をかけてこの問題を考え、金星が地平線から昇ってきた時、再び眠りに着いた。

 目が覚めてからは、学者は自分を探していないだろうと思った。
 この高原で、あちこちでケサルを語る語り部を探すのはそれほど困難ではないのだから。

 ジグメには分かっていた。これは自分があの学者を懐かしんでいるのではなく、自分が本当のジャン国をみつけられるかどうか疑問を感じ、こんなふうに歩き回るのに少し飽きて来たからだ、と。

 人が沢山いる場所へ帰りたくなった。

 だが次の日、彼はやはり山に入って行った。

 流れの急な谷川が現われ、白い波頭を翻しながら、昨夜眠ったあの巨大なエゾ松からそう遠くない場所で、一切の音を呑み込んだ大きな流れと合流する。

 この谷川の源へ着くのに二日かかった。
 その後、半日ほどで峠を越えると、高低不ぞろいな山々が以前に増して目の前に現れた。
 ジグメはまだ雪線より上にいたが、雪線の下の渓谷には森林の緑が溢れていた。

 山の洞穴で一夜を過ごした。

 ジグメはその洞穴の中で神の罰を受けた。

 夜半に目が覚め、虚ろになった心を埋めるため、舌の上に塩を乗せた。
 その時やっと自分が氷の洞穴にいるのに気付いた。

 月の光が上方の隙間から差し込み、凍った雪の結晶がほのかにキラめいていた。
 その光の中に神が現れた。
 真っ直ぐに立ちはだかる堂々とした姿に、甲冑と刀が冷たく光っている。

 ジグメは起き上がろうと思ったが、神の目から発せられる光に体を押さえつけられ、動くことが出来なかった。

 ジグメは言った。
 「あなたはあのお方ですか」

 神は何も言わなかった。

 「あのお方ですね」

 神は言った。
 「仲肯は衆人の仲いなければならない、聴衆の中に」

 「オレの聴衆も、ジャンが攻めた塩の湖がどこにあるか知りたいんです。ジャンとモンの城はどこにあるんですか。それを見つければ、みんなはオレの物語をもっと信じるようになります」

 「彼らはみな信じている」

 「この物語はみんな本当のことですか」

 ジグメを見下ろす口ぶりは少しいらついていた。
 「聴衆は、信じたいと思えば、真偽を問うことはしない。お前は何故そのようなことを聞くのだ」

 「でも、オレはこんなに遠くへ来てしまいました」

 「だが、お前はこんなに遠くへ来る必要はなかったのだ」

 神は言った。
 「お前が選ばれたのはお前が世の中に疎かったからだ。すべてを知る者になろうと思っているのか」

 「神さまは、オレがばかであって欲しいんですか」

 神は冷たく笑った。
 「神を怒らせたいのか」

 この言葉にジグメは怖くなった。
 自分がひどく震えているのが分かり、
 腰につけた塩がさらさらと地面に流れた。

 神の聴覚は敏感だった。
 「何の音だ」

  彼は神に言いたかった。これは塩です、小便を漏らしたのではありません。

 だが彼が口を開く前に、神は体中から光を発し、弓を引き、ジグメを持ち上げて矢に乗せ、その矢を放った。

 飛んで行く間、強張った彼の体は廻りの氷の結晶を砕き、折り重なる雲を引き裂いた。
 星に近い空をヒューヒューと飛んで行きながら、彼は気を失った。

 気を失う前に辺りに響き渡る神の声を聞いた。

 気付いた時、その音はまだ周りにこだましていた。
 「その物語と詩は口を開けば出てくるのだ。それ以上考える必要はない」

 ジグメは目を閉じて言った。
 「もう何も考えません。責めないでください。本当にもう何もしません」

 彼は何度も言い続けたが、神の答えはなかった。

 一匹のハエが顔にとまり、羽根が震えてぶんぶんと音を立てた。
 目を開けると、自分が家畜の檻の中にいるのに気付いた。
 豚が数匹、糞尿の中を歩き回っていた。

 檻からから遠く離れた時も、体についた臭いは消えなかった。
 風でさえも体の臭いと心の中の怒りを吹き払ってはいなかった。

 ジグメは顔を上げ、天に向かって叫んだ。
 
 「こんな目に会わせないでくれ」

 天は空っぽで、ただ、風にちぎれた雲が掠めて飛んで行くだけだった。











阿来『ケサル王』 118 語り部:塩の道

2015-08-30 03:45:00 | ケサル
語り部:塩の道 その4



 初めの頃、ジグメは自分の歩みが物語りに遅れてしまうのではないかと心配だった。
 今は更に、自分の行き過ぎた好奇心のために天の神々は物語を取り上げてしまうのではないかと心配になった。

 ラマにしっかりと尋ねようと考えた。
 だが、朝起きるとラマは別れも告げず去っていた。
 彼の傍らの草地にうっすらとした人の形が残っているだけだった。
 それはラマが眠っている間に残したものだ。

 朝飯の時間になると、押し倒された草は起き上がり、ラマが残した跡は消えていた。

 ジグメは塩採り人の隊列に付いて山の麓の村へ入った。
 村の入り口で最初に会った村人が言った。
 「あんたたち、今年は来るのが五日遅かったね」

 「で、あんたは何と交換したいのかね」

 「今じゃどの村も塩は足りている。だが、家には鉄の鍋が一つ余っている。これと交換しよう」

 笛を吹く少年は言った。
 「鉄の鍋なら買うことが出来るよ。食べ物と替えたいんだ」

 農夫はユーモアたっぷりに言った。
 「そうだよな。ワシの家の近くの店には上等な塩だって売ってるぞ。ワシらは役に立たないものと役に立たないものを交換してるだけさ」

 この村の農民たちはみな、千里の道を塩を運んで来る牧人たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 そこで、二、三個の不要な物を持って来て、すでに必要のない純粋とはいえない湖の塩と替えた。
 陶器の甕、麦、干した野菜、灯油(村には電気があった)、麻の糸…実際にはこれらのものは今、草原で簡単に手に入る。

 もし数十里歩いて村に行き、県城に行けば、商店で買うことが出来る。
 もし、村まで物見遊山に行きたくないなら、店は、三日に一度くらい小さなトラックを雇って、放牧しているテントの前まで品物を運んでくれる。

 それでも、塩採り人たちはそのまま南へ向かい、一日に三つの村を訪ねた。

 彼らは農夫たちがすでに不要になった塩で、彼らが今では家の前で手に入れられる物と交換した。
 クルミ、干した果物、粉、ウイキョウ、自家製の青稞酒、工場で作られたビール。
 彼らは買った酒を飲み尽くすつもりだった。

 どの家でも、何代にも渡って交換し合って来た牧人たちに、食事して行きな、泊まって行きな、と誘いの声をかけた。
 村人たちは言った。
 「来年はあんたたちのうち、半分も来ないんだろうな」

 「今年も来るはずじゃなかったんだが」
 老人は笛を吹く少年を前に押し出し、
 「この若者に道を覚えさせた。もしいつかまた必要になったら、知らせてくれ。こいつがすぐに塩を運んでくるから」

 夜、塩採り人たちはやはり村の外で野宿した。
 村からはたくさんの食べ物が届けられ、その後の数日で彼らが手に入れた物は塩の価値をはるかに超えていた。

 だが、このようにたくさんは持って帰れない。
 朝、去る時、彼らはそれらをきちんと並べて村の入り口の胡桃の木の下に置いた。

 村は薄い霧に覆われ、まだ目覚めていなかった。

 こうして南へ向かうと、土地はだんだんと低くなり、谷は開け、村も密集して来た。
 ジグメは何日も口を開かずにいたのでついに我慢できなくなり、塩と交換に来た農夫を捕まえて尋ねた。
 「ここは昔のジャン国なのか」

 農夫はジグメのあまりに真剣な表情に少したじろぎ、塩売りの老人の方を向いて尋ねた。
 「こいつはどうしてこんなこと聞くんだ」

 老人は言った。
 「ここは、これまでずっと、北から運ばれる湖の塩に頼って来たのかと聞いてるんだ」

 「前はそうだった。今は違うがな」

 羊の群れが担いで来た塩の交換はこの日すべて終わるだろう。
 そこで、ジグメは心の中に閉じ込めて来た問いを抑えきれなくなった。

 彼は老人に尋ねた。
 「これまでずっと、ここにしか来なかったのか」

 老人は答えた。
 これまではもっと遠い場所へ行くこともあった。平らに広がっていた谷が消え、地面がまた昇りはじめ、地平線にまちまちな高さの雪の峰が立ち現われる場所まで来て、やっと方向を変えた。だが、今回は別れの旅だ。だから、今までのように沢山の塩を持ってこなかった、と。

 「昔のジャン国へも行ったことがあったんだろう」

 「ワシはこの年になるまで、多くの仲肯の語りを聞いて来た。
  だが、ワシらのような物語を聞く人間にそんなことを聞く仲肯はいなかったぞ。
  
  物語は物語だ。ここが物語の中のどこかなんて、誰も考えたことなどなかった。

  ワシらはここから草原に戻る。ここでお別れだ」

 塩を採り、塩を売る牧人が目の前から少しずつ遠ざかって行くのを見ながら、ジグメの心の中に突然はっきりとした感覚が沸き上がった。
 この感覚は彼の心臓に噛みつき、すべての筋肉にまで噛みついた。

 彼は続けて南へ向かい、まだ辿るべき跡のある塩の道を行こうと思った。

 彼はもう少し早く歩こうと思った。なぜなら物語は確実に彼の前までやって来ているのだから。










阿来『ケサル王』 117 語り部:塩の道

2015-08-05 02:04:20 | ケサル
語り部:塩の道 その3



 道は下へ向かって延び、深い谷へ入って行く。谷間に畑と村が現われた。
 だが、隊列が村へ入る前に、空は暗くなった。
 ジグメたちは、村の灯りが眺められる山の中腹で野宿した。

 笛を吹く少年が物語を最後まで語ってくれとせがんだ。
 ジグメは、何故今晩なんだ、と尋ねた。

 少年は言った。
 明日村に入ったら、塩はすべて村人たちと交換してしまう。そうなれば自分たちは草原に戻らなくてはならない、と。

 ラマの前ではジグメは語るのをためらわれた。
 実は、少年も彼の語る物語を聞きたいと心から思っているわけでもなかった。
 少年はただ物語の結末を知りたかっただけだ。

 「王子が投降してから、魔王サタンも投降したのか?」
 
 「サタン王とロザン王、ホルのクルカル王、モンの国王は四大魔王だ。
  ケサルが人の世に降ったのはやつらを滅ぼすためだ。だから、ケサルはサタン王を投降させないし、サタン王も投降はしない」

 「では、王子ユラトジは父親のために敵討ちはしないのか」

 ラマは言った。
 「そうしたら、この世界は正義の力を示せない」

 「サタン王はどのように死んだのか」

 ジグメは袋から琴を取り出し、たき火を囲む塩採り人を前に語り始めた
 
   ジャンの王サタンの話をお聞かせしよう

   世を騒がせた魔王は怪力で
   一声吠えれば雷のよう
   巨大な体は天を突く
   頭のてっぺんから毒の火を吹き
   髪は毒蛇のようにとぐろを巻く

   千の大軍でも打ち倒せず
   ケサルは鎧をまとって自ら戦いに臨んだ

   神馬を白檀の木に変身させ
   三百本の鷲の矢羽を
   十万本の樹木に変え
   甲冑と宝の弓を木の葉に変え
   森林となして谷を覆った

   抵抗するサタンもこの美景を目にし
   駿馬を湖畔へと走らせ
   武器を置いて沐浴した

   ケサルは金の目の魚に変身し
   魔王の五臓から入り込むと
   千輻の車輪に変身し
   法力を用い風のように転がった

   哀れ、サタン王
   体の中はドロドロの粥のよう


 語り終っても、皆、黙ったままだった。
 ただし、この沈黙は語り部が期待していたような、余韻に浸っている沈黙ではなかった。
 この沈黙には失望が含まれていた。

 少年が口を開いた。
 「サタン王はそれで死んだのか」

 「そう、死んだ」

 「ケサルはどうしてサタン王と戦わなかったのか」

 ジグメは少し腹が立った。
 「今まで仲肯にそんなことを聞いた者はいないぞ」

 笛を吹く少年はつぶやいた。
 「二人は天へ駆け上ったり、地に潜ったり、いろんな武器を使って思う存分戦ったんじゃなかったのか」

 ジグメは琴を袋にしまいながらやはりつぶやいた。
 「今まで誰も、そんなことを聞かなかった」

 「あなたも聞いてはいけないことを尋ねたではないか」

 敬虔に修業を積んで痩せ細ったラマは言った。
 「あなたこそ、これがリンからジャンへ向かう塩の道かどうかなどと追及すべきではないのだ。
  そうしたから、神があなたを罰したのかもしれない」

 ジグメは責められて怖くなった。
 だが、強い口調で言った。
 「どんな罰だ」

 「どんな罰かって。物語を取り上げるのだ。あなたは以前は何をしていた」

 「羊の世話だ」

 「では、すぐに戻って羊の世話をしなさい」

 「オレは自分が語った物語が本物だと思いたいんだ」

 「と言うことは、この物語は偽物だと疑っているのか」

 ジグメは答えられなかった。
 そんな風に思ったことすらなかった。

 ただ好奇心を抱いただけだ。
 まず塩の湖を見たかった。塩の湖を見てからは塩の道を見たくなった。
 その道を歩いた時、ジャン、モンと呼ばれる古い王国を訪ねたくなった。

 今、彼は少し怖くなった。
 この日眠る前、彼は思った。神は夢に現れて警告するかもしれない。
 だがこの夜ジグメに夢は訪れなかった。







阿来『ケサル王』 116 語り部:塩の道

2015-07-29 21:12:56 | ケサル
語り部:塩の道 その2



 ジグメもまた、あのようにおかしな活佛は少ないと言おうと思ったのだが、ラマを怒らせるのが怖かった。
 ジグメは自分が慎重すぎて、臆病なのは分かっていた。

 話題を変えてラマに尋ねた。
 「お坊様は学問がある。この道はずっと前から塩を運ぶ道だったんだろうか」

 ラマは、塩採り人に敬われている老人にこの問いを譲った。

 老人はため息をついて言った。
 「たぶんこれが最後の一回だろう」

 「と言うことはやはり、これはリンからジャンまで塩を運んだ道ということか」

 老人は言った。
 彼らは南の少し低いところにある草原から来た牧人である。
 先祖代々、毎年塩を採りに来て、さらに南の畑作の地に売りに行く。そこで塩を、放牧地では手に入りにくい食料や陶器に換える。
 だが、そういった場所には国家が飛行機や汽車を使ってもっと遠くからもっと良い塩を運んで来る。雪の様に白く、粉のように細かい塩を。
 そこで暮らす人々はだんだんと、牧人が羊に負わせて届けに来る湖の塩を必要としなくなった。

 老人は言った。
 物語の中のジャンは我々が行った畑作の村のさらに南だろう。
 畑が尽きるあたりには、聳え立って雲にまで届く雪山が連なっていて、ジャン国はその雪山の向こうにあるはずだ。

 「モン国ものその雪山の向こうにあると聞いたことがある」

 老人は心を痛めていた。
 「ワシには分からん。分かっているのは、これからはもうここへ塩を採りに来ることはない、ということだ。
  ワシらが塩を運ぶ道を最後に踏みしめるのじゃ。
  神はワシらに塩を下されたが、今のワシらにはもう必要ない。あの時戦って奪ったものを、ワシらは必要としなくなったのじゃ」

 「いいことじゃないか」

 「もしかして神は、もうワシらに物を与えては下さらないかもしれない」

 ラマは微かに顔をしかめた。
 「あなたたちはそんなふうに勝手に神のご意志を推し量ってはいけない」

 老人は少し怖くなり、素早く両手の指を胸の前で合わせ、仏の名を唱えた。
 「神が湖の塩を天に戻してしまい、ワシらが必要になった時には何もない、ということにはならないだろうか」

 ラマはいたく悲しげだった。
 「愚かな人たちよ。自分を疑うならまだしも、なんと、神のご意志を疑うとは」

 責められた老人の足取りは重くなり、隊列の後方へと遅れていった。
 ラマは颯爽と前を歩いていた。
 ジグメは言った。
 「みんなは塩と離れがたいんだ」

 「あの人たちのために言い訳するのか」

 「塩を採る人に神の意志は分かりはしない」

 「では」ラマは歩みを止め、振り向いた「自分には分かると言いたいのか」

 「オレには無理だ…」

 「あなたにも分かるはずはない」

 ラマは訳もなく憤った。
 「あなたはケサルを語れる者は天の意志が分かると思っているようだ。
  いいか、あなたには分からない。あなたは物語さえ分かっていないのだ。
  神はあなたに語らせるだけで、物語の意味を知らせようとはしない。
  もし神が望まれれば、オウムでも語るだろう」

 ラマは憤りながら、歩みは更に早くなった。
 塩を運ぶ長い隊列はずっと後ろに置き去りにされた。

 ラマは腰を下ろし、口調を和らげた。
 「“仲肯”は、人が集まっているところへ行くべきではないか」

 語りを生業としているジグメはやっと悟った。

 物語、即ち“仲”は、仏法がまだこの地で人々に功徳を与える前からあったのだ。
 では、神はなぜ新しい“仲”を降して人々に聞かせるのだろうか。

 ラマは言った。
 あなたは『柱間史』という本のことを聞いたことはあるか。当然ないはずだ。『柱間史』はこう言っている。

 「教義を悟らせるために“仲”を作った、なぜならその時仏教の教えはまだこの雪の地に伝わらず、顔を赤く塗り肉を食らう者たちを調伏していなかったからである」

 聞いてもジグメには分からなかった。
 自分はケサルを語るべきではないのかと尋ねた。

 ラマは天に向けて手をあげ、悲しそうな表情で言った。
 「いや、そういう意味ではない。
  私が言いたいのは、あなたはただ物語を語るだけでいいということだ。
  神はあなたにこの物語を語らせる、だが、その意味を追及させようとはしていない」

 「オレはただ、あらゆる場所へ行って、この物語が本当に起こったのか、本当に塩の湖があったのか、本当に塩の路があったのか知りたいだけだ」

 「何だって。物語は事実であるべきなのか。物語は本当にあったことでなくてはいけないのか」

 「オレは間違ってるんだろうか」

 「そんなことを考えていたら、神はあなたをおしにしてしまうかもしれない。神はそのような語り部を必要としていないのだから」

 ジグメはもっと話し合いたかったが、ラマは隊列から離れ、前方の赤い岩上にある聖地を参拝しようとしていた。
 山の上で数日過ごすつもりだと言った。

 ジグメは言った。
 「ではお坊様に教えてもらえなくなってしまう」

 「いつでも追い付ける」
 ラマはこう言って、自分がある種の法力を持っていると暗示した。
 「もし追いつこうと思ったら追いつくだろう」

 幾日も経たずに、ラマは本当に追いついた。
 ラマは言った。
 聖なる僧がかつて壁に向かって修業した洞窟で五日ほど過ごした、と。

 ジグメは思わず叫んだ。
 「俺たちは、三日歩いたばかりだ」







阿来『ケサル王』 115 語り部:塩の道

2015-07-24 01:55:07 | ケサル
語り部:塩の道  その1



 塩の湖のほとりでの最後の夜、語り部ジグメはジャン国が塩の湖を襲う物語を語った。
 物語を語り終えない内に夜は更けた。

 先ほどまで中空にあった星座は、すでに水の際まで降りて来て、波の煌めく湖面に近づいた。   

 若者たちはまだ眠りたくなくて、話しかけた。
 「サタン王は降伏するんだろうか」

 ジグメは焚き火の傍で横になり、毛布を顎まで引き上げた。
 なにがあろうと、もう語らないという合図だった。

 年寄りは言った。「寝よう、明日は出発だ」

 若者もみな横になったが、疑問が自然と口を突いた。
 「ヤツらが奪おうとしたのはこの湖なんだろうか」

 焚き火は消え、被せておいた柏の枝から微かな香気が立ち昇った。
 幾つかの星座は地平線に沈み、新しい星座が大地の別の方向から現われて、天の頂に昇った。

 夜が明けると、塩を採る人々は出発した。

 この道を、彼らはすでに何年も歩いて来た。
 若者は老人の後に付いて歩いた。老人が若かった頃は、すでに世を去った老人の後に付いて歩いた。
 だが、今日は歩きながらもどこか違っていた。

 誰もが新鮮な気持ちでいた。
 ジグメが語った物語のために気持ちが新鮮だった。

 黒い頭のチベット人でケサルを聞いたことがない者はいない。
 だが、塩の湖の傍らで、本物の「仲肯」の語りを聞き、しかも、それが塩の湖の物語だった者はいない。

 不思議なことに、願いもしないのに、この「仲肯」は現われたのである。
 彼は広い無人の場所を一人で歩き通し、まるで天から降りて来たように突然湖の岸に現れ、子供のように天真な表情で水の中の塩をすくい上げた。

 語り部自身も新鮮な気持ちでいた。
 彼はこれまで、物語の中で語った物がこんなふうにはっきりと目の前に現われるとは想像したこともなかった。

 彼の故郷では塩の湖で塩を採ることはすでになくなり、遠くから塩を運ぶこともなかった。
 国が塩を運び、国は誰かが塩を生業とするのを許さなかった。
 国の塩は味がよく、湖の塩のような苦味がない。

 国の塩は地下から採れて雪の様に白く、塩の湖の塩のように、味だけでなく、その薄汚れた灰色によってもがっかりさせられるといったことはなかった。

 塩を採る人と「仲肯」は再び歩き始めた。
 誰もが不思議な感覚を味わっていた。
 ここがあの物語にあった塩の路なのか。

 広い荒れた草原を貫くこの道はあきれるほどに長く、異なった天気の間を通り抜けることさえあった。

 一面の日の光を通り抜けると、次には雷を含んだ激しい雨が待ち受けている。
 そこを抜けると、焼けつくような太陽が姿を現す。
 続けて待ち構えているのは、あられを抱え込む空の高みから吹き降ろしてくる旋風である。

 これら様々な天気は、大きな道の一つの端からすべてを眺めることが出来た。

 雷に襲撃された場所に着くと、そこではすでに雲は晴れ、霧は消えている。
 するとまた疾風が起こり雨を含んだ重たい雲の塊が次の場所に吹き集められるのである。

 塩を乗せた羊の群れは、短い草で覆われた原野にくねくねした長い曲線を描いていく。
 羊たちは塩を満たした袋を両側にぶら下げている。
 袋は大きくはないが、重さに耐えられないといったその様子は、憐みを誘った。

 ジグメは言った。
 「羊がかわいそうだ」
 だが誰も彼の言葉に構わなかった。

 三日後、あちこちで神の山や湖を巡礼しているラマが彼らの列に加わった。

 ジグメは言った。
 「羊とはかわいそうなものだ」

 「羊たちの重荷を気にしているのかね」
 ラマは言った。
 「その重荷とは、心で負うことは出来ても、すべてを自分の体で背追うことは出来ないものだ」

 ラマたちはいつもこのように、言わないのと変わりないが、深い道理のありそうな話をすることが出来る。

 ラマが言いたかったのは、これ以上心を痛める必要はないということなのだろう。
 だがジグメには、湖の塩を負ってよろよろと歩く羊たちがかわいそうでならなかった。

 ラマはそれを察し、話すことで彼の気持ちを他へ逸らそうとした。

 「あなたは仲肯ということだが…」

 「前は違ったが、今はそうだ」

 ラマは笑った。
 「私も前はラマではなかった」

  「活佛が行先を教えてくれて、ラマになったのか」

 痩せて長身のラマはまた笑った。
 「あなたも活佛に導かれたのだね」

 ジグメも笑った。
 「ひどい熱で頭がぼーっとしていた時、活佛が女を呼んで、俺の目の前で羊の毛を引っ張って糸にさせたんだ」

 ラマは言った。
 「今、そのようにおかしなことをする活佛はほとんどいないだろう」