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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 114 語り部:塩の湖

2015-07-14 01:46:03 | ケサル
語り部:塩の湖  その5




 法術師は笑った。
 「王子よ、怖いのですか」

 王子は言った。
 「お前は常に神のご意志にはすべて道理があると言っていたではないか。それなのに、今になって盾突く言葉を述べるとは」

 「私がそのようなことを申しましたか?」

 「これは天の意だ、それも天の意だと、いつも言っていたではないか。」

 「天はすべてのものに道理があるとお考えですが、地上の人間はそうは受け取りません。そうでなければ、一つの国には塩を与え、もう一つの国には何も与えない、などということはあり得ないでしょう」

 「それはお前の言葉ではないようだ」

 「それは偉大な国王サタン、あなたの父君の言葉です」

 「お前は父上を諌めるべきだった。そのようなことを言ってはならぬ、と」

 「私はお諌めしませんでした。なぜなら、国王の考えは正しかったからです」

 「神が聞いたらお喜びにならないだろう」

 「それなら、喜ばない者がいることを神に知らせるべきでしょう」

 神を怒らせてはならないことは、法術師は王子より良く分かっていた。
 だが、塩の湖に積み上げられた、この地の人にとって使い道のない、だが、ジャン国の民には手に入れる術のない塩を見た時、怒りを覚えたのだ。

 彼は王子に背を向け、意志も、特別な配慮も示そうとしない神に向かって再び叫んだ。
 「あなたは不公平です、天よ」

 叫び声がまだ湖面を揺蕩っているうちに、雲一つない空から激しい雷鳴が響き、湖畔にいるこの狂った者に稲妻が突き刺さった。

 倒れた瞬間、彼の開かれたままの口は塩で一杯になった。
 岸に打ち寄せる波はひたひたと音を立て、まるで得意げな笑い声のようだった。

 雷に焼かれた死体は耐え難いほどに焦げた匂いを発した。
 死体は塩の山に横たわっていたが、それでも強い腐臭を漂わせた。

 王子は心から恐れた。
 神とは一部の人を助けるが、それ以外の人は助けないのだろうか。

 彼はこれ以上考え続けたくなかった。
 不可能を知らぬ神が自分の考えを見通すのではないかと恐れた。
 だがこの疑問は頭から離れることはなかった。

 頭の中はまるで暗い沼地のようで、そこから湧き上がる泡は破裂したかと思うと、また他の場所からボコっという音と共に湧き出してくる。
 眠れぬ夜、王子は絶えず頭をもたげようとするこの疑問と戦った。
 次の日、鎧兜に身を包んでも、この疑問は頭の中に居座っていて、いくら追い払っても消えなかった。
 そのため、剣を交えながらも、無意識のうちに天を見上げた。

 戦いを挑んで来たシンバメルツは言った。
 「天を仰ぐ必要はない。神はそなたを助けはしない。神はリンと共にある」

 この言葉を聞くや否や、王子の心に怒りが燃え上がった。
 刀を揚げ、馬に鞭うち、真っ直ぐにシンバメルツを倒すべく向かって行った。
 だが、年老いた英雄は馬を牽いて王子を避けた。

 古くからの英雄は言った。
 「それがしはケサル大王の命を受け、おぬしと話をしに参ったのだ」

 「ケサルはお前の王ではないだろう」

 「今は私の王だ」

 「この裏切り者!天は許しはしないぞ」
 言いながら王子は馬を鞭打って向かって行った。

 この時、シンバメルツは避けもせず、言った。
 「世の流れを御存じないのか。天がそなたを助けるか、我々を助けるか、見るがよい」

 二人が馬上で戦い始めて間もなく、神はもうそこに現れていた。

 神々はシンバメルツがユラトジに敵わないと見て取り、そこで、石を積む山神が山を運んで来たが、ユラトジを押さえつけることは出来なかった。
 背の高い山神もやって来たがユラトジを鎮めることは出来なかった。
 最後に近くや遠くから三人の山神も加わり、五つの山の重さによって、やっとユラトジの動きを封じ込めた。

 シンバメルツは心苦しくも、腕ほども太く羊の腸のように長い綱で、右から左からしっかりと縛り上げた。

 「若い英雄よ、そなたを殺すつもりはない。ケサル大王の元へ連れて行く。だが恐れなくともよい。そなたのような若い英雄を、ケサル王は傷つけたりはしない」

 王子は顔を上げて叫んだ。
 「空を飛ぶ雄の鷹よ、南へ飛んで行き、父王に告げよ。息子ユラトジはジャンの民のために塩の海を奪えず、リンの手によって命を落とした、と」

 道すがら、シンバメルツは恥入りながらも王子を慰めた。
 「英明な国王は絶対にそなたを殺すことはないぞ」

 果たして、ケサルはユラトジを一目見るなり、心の真っ直ぐな人物だと知り、喜んだ。
 だがやはり彼が充分に勇敢かどうか試さなくてはならない。

 「そなたは王子でありながら、国に留まらず、我が国の塩の湖を盗みに来た。そなたを神の前に差し出さなくてはならない」

 「王子として、この体と命は私だけのものではない。ジャンの民のためなら死んでも憂いはない」

 ケサルはこの言葉を聞くと、即座に表情を輝かせた。
 「このように英明な王が子いることは、ジャン国の幸せだ。このケサルが魔物を降すのは、民の苦しみを除くためであり、心から愛するのは、お前のような勇敢で心の真っ直ぐな者だ。そなたのような王子がいれば、ジャンの民はより多くの幸せを手にするだろう」

 言い終ると、王座から降りて自ら王子の縄を解いた。

 王子は尋ねた。
 「ジャンの民に塩を下さるおつもりですか」

 「そなたが軍を率いて北上した道は、これからは塩の路となるだろう」

 ケサルは言った。
 「それだけではない、英明で正直な王子を彼らの総統としよう」

 王子は尋ねた。
 「では父は」

 「彼は退位して天に詫びなくてはならない」







阿来『ケサル王』 113 語り部:塩の湖

2015-07-08 15:11:34 | ケサル
語り部:塩の湖  その4




 塩を採る人々が充分に塩を採り終え、出発しようという夜、少年は笛を奏でて湖の神への感謝を表した。
 彼らはまた、ジグメの語るジャン・リンの戦いを聞いた。

 リンの南方のジャンは、気候が温順で、産物も豊かだが、食べると力が湧き、賢く勇敢になれる塩だけが欠けていた。
 ジャンの国王は兵を北へ送り、リン国には星の数ほどもある塩の湖の一つを奪おうとした。

 もしリンに天上から降されたケサルがいなかったら、ジャンの国王は成功したにちがいない。
 だがその時、天はすでにリンを助けようと大梵天王の子を降していた。
 天は御心を顕して、リンを強大な国にしようとしていたのである。

 強大な国は、自らのものを誰にも奪われてはならない。たとえそれがいかにあり余っているものであったとしても。

 ジャンの国王は、天の御心を受ける国との戦いに勝利できないとは信じたくなかった。
 そこで、息子に大軍を率いて戦わせ塩の湖を攻め取ろうとした。

 王子ユラトジの大軍は湖の縁まで来て、あり余るほどの塩を目にした。
 ここへ来るまでに軍の法術師から、そこには塩はたくさんあると聞いていた。
 湖の水が自然に塩を生み出す様は、進軍の途中で夜露が霜となるように、湖の水が絶えず塩に変わっていくのだという。

 王子ユラトジはこれまでこのようなことに興味がなかった。
 王子にとって大切なのは、優れた乗馬の技と、優れた弓と刀の術だった。
 彼は懸命に技を磨いて来たが、人が何を食べるのか、塩はどうして他の土地では採れるのか、考えたことはなかった。
 だが、大軍を率いて北上する日々に、これらのことを考え始めた。

 夜、眠れない時は、衣を羽織って塩を生まない湖の岸を歩いた。
 歩き始めると、草の上で星の光に照り映える露が靴を濡らした。
 彼は岸辺に座った。だが、この湖やジャン国の同じような湖がなぜ塩を生まないのか、分からなかった。

 空の星は露と同じように煌めき、気ままに散らばっているだけで、答えを与えてはくれなかった。

 王子は暫く湖岸に座っていた。帰ろうとすると、草の上の露は霜を結んでいた。
 彼は草を一本手折り、テントへ持ち帰り、獣の脂の灯りの下で、水が凝縮されて生まれた美しい結晶を見ていた。
 あまりに透き通り、突き刺さるほどに鋭利なその煌めきは、何ものかの繰り言のようだった。

 軍の法術師を呼んで、この神秘の言葉を読み取れるか知りたかった。
 だが霜の花は灯りのもとで融け、一滴の澄んだ水になり、細い葉の上を滑り落ちて、消えた。

 ジャンの大軍が塩の海を占領したその日、大量の兵士が一斉に塩の湖に駆け寄り、塩を直接口に詰め込んだ。
 次の日リン国の大軍と交戦した時、すべての兵士がまともに鬨の声を上げられなくなるほどに。

 王子ユラトジは鎧を着たままずっと湖畔に座わり、湖に風が起き、波が結晶した塩を岸に積み上げるのを見ていた。
 塩は、太陽のもとでの色があり、夕映えのもとでの色があり、そして月の光のもとではまた違った色へと変わった。
 深夜、風が止み、水音が静まると、聞こえて来るのは塩の結晶する音だった。

 夜が明けた時、ユラトジは初めて湖岸に降り、湖の水に触れた。
 昇りはじめた太陽の光線を受けながら、水は指の間を滴り落ちていった。
 そのほんのわずかの間にも、水は塩の結晶を生み、手のひらに残した。

 舌を伸ばし、王子は塩の味を確かめた。その中に苦味を感じた。
 その苦味は彼が想像していなかったものだった。

 王子はその感覚を法述師に告げた。法術師は父王が彼のために派遣した軍師でもあった。

 法述師は言った。
 「そのお言葉を私は好みません」

 「どうであれ、私はジャンの民のために塩を手に入れなくてはならない」

 法述師は更に表情を曇らせた。
 「王子よ、あなたは、父王のために、とおっしゃらなくてはなりません」

 「それは同じことではないか」

 「同じではありません。父王が塩を手に入れれば、ジャン国の民すべてを思う通りすることが出来るのです」

 王子はまた言った。
 「私はジャンの民に塩を食べさせたいのだ」

 法述師は言った。
 「敬愛する王子よ、私は憂います。残酷な戦いの中では、あなたは優しすぎます」

 「敵に対しては、私は容赦はしない」

 果たして、次の戦いでは、王子がシンバメルツをもう少しで馬から落しそうになる場面が幾度かあった。
 いや、王子は何度もシンバメルツの命を奪えたのだが、そのたびに神が現われてこの老将を助けた、と言うべきだろう。

 ユラトジは心の中でつぶやかずにはいられなかった。
 ジャンは戦いによって塩の湖を奪うべきではないのではないか、と。

 彼はその疑問を父に尋ねたかった。
 だが父は目の前にいない。

 そこで仕方なく軍師に尋ねた。
 「戦い以外に塩を手に入れる方法はないのだろうか」

 「貿易です」
 軍師は言いながら感情を高ぶらせた。

 「だがそれは不公平です。塩はここでは一銭にも値しません。それでも我々はたくさんの宝と交換しなくてはならないのです。山の中には稀な宝石、女たちが辛い労働で紡ぐ布、何年もかかって伸びた象牙。我々はこういったもので、水が砂のように岸辺に積み上げたものと交換しなくてはならないのです」

 ここまで言って軍師は激昂のあまり、両手を高く挙げて空に向かって叫んだ。
 「神よ。あなたは不公平だ」

 それを聞いて、王子は恐れた。
 空が震えたように感じられた。

 だが、辺りを見回しても何の変化も起こってはいなかった。






『ケサル大王』上映会のお知らせ 第二弾

2015-07-06 10:33:08 | ケサル
『ケサル大王』の監督発進の通信を転載します。

  * * * * *


今日7月6日はダライ・ラマ14世の80歳の誕生日。お元気にも英国のロックフェスに登場され10万人を前に「愛と許しの大切さ」を訴え、観衆は「ハッピーバースデートゥユー」と大合唱したそうです。

日本では朝日が6月26日朝刊で写真入り、毎日が昨日4日朝刊に記載しました。毎日はさらに法王は親しかった故習仲勲の息子、習近平に政策転換の期待をしていること、9月のチベット自治区50周年記念行事の後に開催される「チベット工作座談会」で重要な政策が決定される見通しだと述べています。

あらためて法王のご長寿を祈願してチベットに平和が訪れることを願います。


◎「ケサル大王伝」という、いわば「古事記」(創世神話)と「源氏物語」(恋愛)を合わせたダイナミックで壮大な口承文学はチベットにもう一つの豊かで魅力的な世界があること教えてくれました。
その魅力に取り憑かれ、東チベットの高地奥深く7年間、秘かに通いました。

取材は「ケサル大王」文化から次第に「ケサル大王」を通して見えて来た東チベットの現実社会に向かいました。
取材を終えた直後、焼身抗議が次々と起り、再び現地に入ることも難しくなるのですが、取材テープには焼身抗議者たちが訴えたダライ・ラマを拝めない現況から生態移民、学校でのチベット語不許可、環境破壊などを予兆のように捉えていました。

焼身抗議が激減した今、法王が述べられたように「我々に希望と不屈の精神を与えた物語(ケサル大王伝)」はチベットの人々に「したたかに生きる」力を与えているのではないでしょうか


    「知らないことだらけ/知った喜び/突きつけられる現実」
「東チベット」の ドキュメンタリー『ケサル大王』&『天空の大巡礼を行く』
          トークゲスト宮本神酒男+監督大谷寿一
     7月9日18時 なかのzero視聴覚ホール(本館地下1階)にて上映!
            詳細 http://www.gesar.jp
        (次回の予定は全く未定ですのでこの機会をご利用ください)




◎7月11日(土)主催「能海寛研究会」チベットセミナー13時半『ケサル大王』上映

  島根県立大学コンベンションホール(浜田市野原町)入場無料(定員200名)
12日(日)15時 島根県浜田市金城町波佐 ときわ会館『天空の大巡礼を行く』
        詳細 http://hazaway.com/docs/hazanettsushin22.pdf


◎7月19日 15時 山の神に祈る「サン」開催のお知らせ
 
 大阪府堺市南区岩室213 観音院 (南海高野線金剛駅下車バス地区線22)
  主催:大西龍心(堺市観音院)・あぼともこ 参加お申込先 abohoken☆gmail.com    

  『ケサル大王』をご覧になった有志が「サン」の儀式をなんと実現してしまいました!
  「山の神様に「サン」を捧げ、自然に生かされている自分たちを再確認し、
   自然に感謝し、世界の平和を皆で祈ろうという趣旨で開催します」
  http://www.facebook.com/events/1632097250410221/permalink/1634474250172521/ 


◎高価な本ですが大推薦!川田進著「「東チベットの宗教空間:中国共産党の宗教政策と社会変容」
20年以上に及ぶカム地域でのフィールドワークの集大成。
多くの示唆に富んだ内容ですが、ラルン・ゴンバ編は東チベットの仏教の今が良く理解出来ます。

          *   *   *
発信人 大谷寿一 ootani11☆gmail.com  http://www.gesar  FB「ケサル大王」











『ケサル大王』7月9日上映会のお知らせ

2015-07-06 01:08:21 | ケサル

塩の湖をめぐる語り部ジグメの彷徨はまだまだ続きますが、
今回は、ドキュメンタリー『ケサル大王』上映会のお知らせです。

ケサルに浸る貴重なひとときとなることでしょう。




*

『ケサル大王』上映会

今回は夜に開催です。
宮本神酒男さんとのトーク、たっぷりお話を聞けそうです。



7月9日(木) なかのZERO

 18:00 開場

 18:15   『ケサル大王』
 20:00   『天空の大巡礼を行く』
 
 21:00   トーク 宮本神酒男+監督大谷寿一
       「ケサル大王伝の謎をめぐって」
 
 21:40 終了


詳細は http://www.gesar.jp
Facebook ケサル大王






阿来『ケサル王』 112 語り部:塩の湖

2015-07-04 22:01:57 | ケサル
語り部:塩の湖 その3



 靴の底がまた敗れそうになった頃、ジグメはもう一度雪山の麓に着き、雪山からほとばしる渓流に育まれた草原を踏んだ。

 途中に大きな村はなく、ときたま、谷間に二、三のぽつんとした遊牧民の家を目にするだけだった。
 宿を借りると、たっぷりの牛乳と、丸々一本の羊のもも肉を勧められる。

 彼らは尋ねた。
 「あんたは流れ歩く語り部のようだが、ケサルは歌えるか」

 ジグメは口いっぱいに羊肉を詰め込んで、答えなかった。
 今、物語は彼の胸の中に蓄えられていて、これまでのような焦りはなかった。
 自分にはかつて無いほどの落ち着きと風格がある、と感じている。このことにジグメはひどく満足していた。

 今彼は物語をしっかりと手に入れ、これまでのように物語を語りたいという衝動に苛まれることはなかった。
 これからは物語をしっかりと繋ぎ止め、遥か先へと駆けて行かないようにしなければならない。
 そうなったら物語はそこで消えてしまい、どんなに努力しても追いつけなくなるのではないかと恐れていた。

 もし物語を一気に語り終えたら、物語は自分から離れてしまうのではないか。彼は密かにそう感じていた。
 なぜなら、物語は初めて語られる時が最も色鮮やかで生き生きとしていて、二回、三回と語られると、活気ある情景が色褪せていくことに気付いていたからである。

 だから、一番良いのは何も言わないことなのだ。
 こうして遊牧民の家を幾つか尋ね歩くうちに、彼の体はまた力で満たされた。

 彼はまた草原を歩き始めた。
 草は低くまばらだったが、それでも安らぎを感じた。
 少なくとも、目線を遠くへ移せば、これらの草は連なって薄い霧のような一面の緑へと変わる。

 ある日、その緑の色が深くなったと感じた。
 終に草原の名にふさわしい草原と出会ったのかと思えた。
 だが、近くまで行くと、それは大きな湖だった。

 湖畔に着こうとする頃、疎らな草は消え、砂と石だけ平らに広がっていた。

 東西に狭く南北に長い湖だった。
 夜、揺らめく火が見え、南の岸から伝わって来る微かな笛の音が聞こえた。
 そこで、彼は南岸に向かって歩き始めた。

 それは不思議な湖だった。
 なぜ不思議かと言えば、風が常に北から南にだけ吹くのである。
 波は当然風と同じ方向に打ち寄せる。
 そのため、北岸は積み重なった石ころばかりだが、南岸では水がどこまでも青々としていた。

 その青い水が、波を寄せるごとにきらきらと光る塩を岸辺に積み上げていった。

 ジグメは岸に沿って二日歩いて南側に着き、そこで塩を採る人々と出会った。

 彼らに尋ねた。
 「あんたたちの故郷はジャンか」

 塩を採る人々は彼を見つめまま、尋ねられた意味が分からずにいた。
 「どの国だって?」

 「ジャン、南の国だ」

 「南の国?それならインドとネパールだ。南には他に国はないからな」

 暫くして、塩を採る人々の中から老人が現われた。老人は言った。
 「もしかして、ワシなら分かるかもしれん」

 ジグメはもう一度同じことを尋ねた。
 老人は笑った。
 「違う、ワシらはそうではない」

 老人は言った。彼らはジャンの国人ではなく、また、リンの国人かどうかも分からない、と。

 老人は言った。
 「ワシらのような牧人は、あちこちを行き来している。千年前の先祖がどこにいたかなど、誰も知りはしない」

 「では、その頃、このあたりはリンの国だったんだろうか」

 老人は笑って、言った。
 「ワシらが知っているのは、ここに塩があるということだけだ」

 彼らは湖の更に南の牧民で、毎年この季節に湖に来て塩を採っている。
 老人は逆に尋ねた。

 「お前も塩を採りに来たのか」

 ジグメは首を振った。
 「オレにはこんなにたくさんの塩は食べられない」

 「では、何をしに来たのかね」

 「ジャンの国がリンの国のから奪い取ろうとした塩の湖を探してるんだ」

 「ワシらもそんな言い伝えを聞いたことがある。だが、ここがそうかどうかは知らない」

 「たぶん、ここのはずなんだが。
  向こうの岸で笛の音を聞いて、聞きたくなってきたんだ」

 彼らは内気そうな若者を呼んで、こいつが笛を吹いた、と言った。
 だが、あんたのために吹くことは出来ない。その調べは塩を採る前の夜、神様に捧げるんだ。神様は喜んで、塩を採る人々に気前良くなるんだ、と。

 彼らが話している間、波が塩を岸辺に積み上げるシャリ、シャリと言う音が、風が原野をゆする時の草のつぶやきのように続いていた。

 ジグメは彼らと一緒に三日間塩を採った。
 塩を水の中からすくい上げ、日に干し、牛の毛で編んだ袋に入れる。
 彼が不思議に思ったのは、塩を担ぐのは馬でもヤクでもなく、百を超える羊だったことだ。

 塩を採る時、彼らの朝は遅い。
 夜、彼らはきわどい冗談を語り合う。
 塩の神様はひどく好色で、このような話で喜ばせるのだという。

 だが、ジグメはそんな話は聞きたくなかった。
 放送局でのことが思い出されるからだ。それは辛い思い出だった。

 彼は新しい人に会うごとに尋ねた。
 この湖はジャン・リンの戦いを起こした湖なのか、と。

 あの老人がまた言った。
 黒い頭のチベット人がいる所はどこも、誰もがケサルの物語を聞いたことがあり、誰もがここはケサルにゆかりの場所だと言うだろう。だが、この湖の周り百キロにあまりは誰も住んでいない。
 だから、その問いには誰も答えないだろう、と。






阿来『ケサル王』 111 語り部:塩の湖

2015-07-02 00:39:05 | ケサル
語り部:塩の湖 その2



 湖を囲むように暮らしている人々はみな、塩を採る村を良く思っていなかった。
 湖の塩を採り尽くすとともに、湖の持つ精気を使い果たしたからである。

 彼らは言った。
 ケサル王はリンを深く愛していた。もしあの時今日のあり様を知っていたら、ジャン国の王子ユラトジを慰めるために、ジャン国の民にここで塩を採らせたりはしなかっただろう。

 だがケサルは、今のような結果になるとは知らなかったし、自分の興したリン国が他人に征服されるなどとは、なおさら知る由もなかった。
 リン国が消滅して千年、湖も消えた。
 かつて妖魔が横行していた草原は、ケサルの時代に人間の草原へと変わった。
 だが今、人々はここから去り、新しい棲息の地を探さなくてはならない。

 風が吹いて行った。
 辺り一面に砂埃を舞い上げ、村を通り過ぎ、ひゅうひゅうと音を響かせて去った。

 塩を採る村の人たちは灰色の目に涙を流し、言った。
 「俺たちの行ける場所はどこなんだ」

 語り部は言った。
 「元のジャン国に戻ればいい」

 「千年以上も前の場所に戻れっていうのか」

 語り部は、これは答えようのない問題だと分かった。
 そして、自分が愚かなことを言ったのを恥じた。

 一人の若者が怒りを顕にして、ジグメを追いかけて来て、後ろから怒鳴った。
 「千年前の故郷に戻るだと。戻った人間を見たことがあるのか」

 ジグメは振り向かなかった。
 その問に向き合うことが出来なかったからだ。

 ジグメはこの村を去った。干上がった湖を去った。

 北へ行くほどに、正面から吹いてくる風の中の息が詰まるような埃の匂いが強くなった。
 草は消えた。
 更に行くと、草の根と、草の根が掴んでいた土も消えた。

 強い風に、あちこちに散らばった石は激流に押し流されているかのように転げまわった。
 このような場所で、ジグメは第二の湖に出会った

 その日、ジグメは大きな岩の後ろに隠れて激しい風を避けていた。
 唸る風が砂塵を巻き上げながら去った後、目の前に光に満ちた湖が現われた。

 ジグメは、自分の心の声を聞いた。
 「ケサルよ、今オレはあなたの仕掛けた妖術にかかっているのだろうか」

 だが、それは本当の湖だった。
 どこか不自然な緑色をして目の前に揺蕩っていた。

 湖には重そうな鉄の船が浮かび、据え付けられた牛のように大きな鉄の升を動かし、湖の中央で水中の塩を掴み取っていた。

 ジグメは塩の屑まみれになった岸辺のヨモギの茂みの傍や、深くえぐれた轍の間に座って、船が岸辺に着くまで待った。

 彼は失望した。
 塩は薄汚れ、まだらにさびの跡が付いた甲板の上に積まれていた。
 塩から漂って来るのは塩の匂いではなく、今まさに腐って行く水中の生き物の生臭い匂いだった。

 船から飛び降りて来た人々は彼の問いかけには取り合わず、昔二つの国がこの湖の塩を争ったことがあるかと聞くと、手を振って追い払った。

 ジグメは塩を積むトラックの通り道を遮った。
 「聞いてくれ…」

 彼らの答えはきっぱりしていた。
 「早くどけ」

 ジグメは追い払われ、追われてかなり遠くまで来た。
 湖を振り返ると、そこにはまだたくさんの船が泊っていて、車の数は更に多かった。

 湖畔には草木は生えず、湖にはまだたくさんの塩があった。

 彼は思った。
 それはあの時この湖にはまだ人がいなかったからではないだろうか。
 では、草は。

 彼はすぐに結論を出した。
 草は大風でみな抜かれてしまったのだ。

 ケサルはきっとここに来たことがないに違いない。
 そうでなければ風がこれほど狂ったようには吹くはずがない。

 彼は西南へと向きを変えた。
 彼が行こうとしているのはケサルがかつて来たことのある場所である。
 より正確に言えば、ケサルがかつてそこに来たと人々が信じている場所である。

 彼が西南に向かったのはその方向に雪山の輝きが見え隠れしていたからだ。
 その輝きは、暫く味わえなかった潤いと清々しさがあった。

 ここ数日、荒涼とした原野に人の姿は無く、一度も物語を語らなかった。
 もう少し進めば、もしかして、また物語に追いつくかもしれない。








阿来『ケサル王』 110 語り部:塩の湖

2015-06-27 15:55:16 | ケサル
語り部:塩の湖  その1




 語り部ジグメは旅の途中にいた。

 当初歩き始めた時、彼は物語が来るのを待ち、物語を探し求めていた。
 暫くして、物語は彼のすぐ前にやって来た。
 彼が行った所、それは総て物語がすでに起こった場所だった。

 放送局を去った時、彼は、ジャンの国がどのように北上してリン国の塩の湖を奪おうとしたか、まで語っていた。

 まだ何も知らない牧民だったころ、塩の湖について聞いたことがあった。
 その湖では、塩の結晶が自然に生まれていた。

 高原に戻り、起伏する草の間に牛や羊が現われた時、ジグメは車を降り、歩き始めた。
 彼は再び物語を語り始め、すべて初めから語った。

 金沙江の辺りでリン国の兵器の末裔と称する人々と別れた時、物語はまた前に進んで行った。
 ジグメはすでにジャン・リンの戦いを語り終えたが、その時、塩の湖を見たことはなかった。

 彼の故郷、彼の行ったことのある場所では、雪山のふもとの湖の水はどれも飲むことが出来た。
 彼には湖の水が涙のように苦くしょっぱいとは信じられなかった。

 だが、その物語を語った時、この世にそのような湖があるのだと信じた。

 ジグメはジャン・リンの戦いを語りながら北に向かって進んで行った。

 最初に着いた塩の湖はすでに涸れていた。
 牧人たちは言った。もう十年になる。
 湖は少しずつ縮んで行き、今年の夏ついに完全に消えた。最後のわずかな水も太陽に完全に吸い取られ涸れてしまった、と。

 ジグメは湖底に降り、灰色のかさぶたのようなものを手に取って舌先に当てた。
 確かにほろ苦くしょっぱかった。

 これが塩の味だ。
 だが、完全に塩だけの味ではなかった。

 ジグメは、もとの湖岸に住んでいる人、裸麦と菜の花を栽培している人、牛や羊を放牧している人に尋ねた。
 この湖はかつてジャンが奪おうとして襲って来た湖か、と。

 彼らは「そうだ」と答えた。

 彼らは、湖の中のかつては半島だった岩で出来た岬を指さして、あそこにリン国の英雄の馬の蹄の跡や、鋭利な長い刀が切りつけた大きな石がある、と言った。

 彼らはジグメにその跡を見るように勧めた。
 そうすれば自分たちが言ったことが嘘ではないと証明されるだろう。

 ジグメは湖の中へと進んで行った。だがその岬に着く前に、汗が塩と混ざり合い、靴底がボロボロになった。
 それでも暫く進んで行ったが、足の裏が塩に噛みつかれたように痛み、すぐ近くの場所からもとの湖岸に上がった。

 そこはちょうど湖がまだ涸れる前、採塩する人々が住んでいた村だった。

 一人の村人が新しい靴をくれた。
 村人は、足の裏に塗る動物の脂を混ぜて作った軟膏もくれた。
 すぐに、焼け付くようだった足の裏の熱は引いていった。

 ジグメは尋ねた。
 「ここにジャンの子孫はいるかね」

 村人はみな首を振った。

 「ジャンの子孫は、きっといるはずだ。王子ユラトジが降参したんだから」

 ジグメは他所の村人から、この村人はすべて降伏したジャンの兵士の子孫である、と聞いていた。
 ケサルは寛大で、ジャンは塩のためにここに来たのであり、ジャンは国王が戦いで死んだ後、王子と共に帰順しているのだからと、投降して故郷ジャン国に恥じるユラトジに向かってこう言った。

 「兵たちをここに留め、塩を採らせなさい。採った塩はみなジャン国に運べばよい。そうすればお前の民は塩を食べることが出来、お前に感謝するだろう。武力では、私の手から一粒の塩も盗むことは出来ないぞ」

 ユラトジの頭は低く垂れ下がった。心は乱れ、沈黙したままだった。

 ケサルは続けて温かい言葉をかけた。
 「お前の民はお前に感謝するだろう。これからは塩が食べられないと心配しなくてよいのだから」

 ユラトジは塩の含まれていない涙を流し、終に顔を上げた。
 「大王のご恩に感謝いたします」

 こここそ、湖の畔に留まり塩を採ったその兵の子孫の村だったのである。

 彼らは湖の南岸、東岸の耕作地を持った人々とは異なり、また北岸と西岸の広い牧場を持った人々とも異なっていた。
 彼らは世世代々湖の西岸の片隅で塩を採り、南へと運んだ。

 彼らは世世代々水の中で働いた。
 他所の村の人々は、彼らの手と足には鴨のような水搔きがある、と言い伝えてきた。
 また、こうも言った。
 塩を採る人たちの目は黒くない、昼も夜も続く悲しみによって虚ろな灰色に変わってしまった、と。

 この村に本当に水搔きのある人はいない。
 だが、目は確かに灰色だった。
 その灰色は村人の言葉通り、悲しみの色だった。

 今、湖の周りと草原は砂漠化が進行し、湖が涸れてしまったのである。







阿来『ケサル王』 109 物語:モン・リンの戦い

2015-06-20 19:16:56 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その7



 シンバメルツが馬を鞭打ちグラトジエに走り寄った。
 「大王の言葉を伝える。大王はそなたの凛々しい英雄ぶりを目にし、なによりもそなたの武芸を愛でられた。そなたに我々に帰順する気があれば…」

 「なんと!」
 グラトジエは罵声を浴びせた。
 「お前は主を捨てた裏切者だ。どのツラ下げてその二の舞を演じよというのか。この弓を受けろ!」

 弓は放たれた。だがこれまでのような力はなかった。

 シンバメルツはグラトジエの言葉に胸をえぐられ、怒りのあまり一層手に力がこもり、返礼の矢を放つと、グラトジエの胸当てを粉々に砕いた。

 グラトジエにとってこの陣形は何匹もの巨大な蛇のようだった。
 纏わり付き、体を締め付けられ、終には天を仰いで長く息をつくと、一声叫んだ。

 「もはやこれまで!」
 そう言うと剣を高く挙げ切っ先を自らに向けた。

 だが、盾を持って取り囲んでいた兵が長槍で彼の馬を突き刺したので、そのまま地に落ちた。

 シンバメルツは再び叫んだ。
 「降るのか、降らないのか!」

 グラトジエは最後の力を込めて叫んだ。
 「降らぬ!」

 言葉が終わるのを待たず、十数本の長槍が迫って来て、もはや抵抗の余地なく、冷たく光る刃が胸に刺さるに任せた。

 シンチ王は王宮からグラトジエと残りの兵がリンの軍隊に取り囲まれ、リン軍が渦巻きのように彼らを飲みこんでいくのを見ていた。
 その凄まじい旋回が収まった時、彼らの姿は消えていた。
 シンチ王は自分が完膚なきまでに敗れたことを知った。

 だが、彼より先に敗れた三人の魔王に比べ、慰めを感じていた。
 重臣が自分を裏切らなかったからである。

 グラトジエの魂が近づいて来るのを感じた。
 シンチ王はこの微かに息づくものを身に着けている袋に収めた。

 「我らは長い年月ともに修練して来た。だがすべては泡となって消え去った。今お前を連れて別の世界へ行き、新たに修練を積もう。そうすれば、再び共に戻って来られるのだ」

 言い終わると、王宮は瞬く間に青い炎に包まれた。
 火の海の中から梯子が立ち上がり、高く伸びて行った。
 魔王は梯子のてっぺんにいた。

 もし、この炎が、彼がこの世界にいた痕跡をきれいに焼きつくし、この梯子がある高さに昇りつめたなら、彼は別の世界へと跳び越えられるのである。

 そして、長い時が経った後、恨みと野心を伴って再び戻って来るのである。

 ケサルは近くの湖の水を丸ごと王宮へと注いだが、その炎は消えなかった。

 シンチ王はハハハと大声で笑った。
 「そなたの力も大したことはないようだな。暇を持て余している神という輩が、自分の気に入った国を手に入れようと、そなたを助けたに過ぎないようだ」

 空一面に雷の音が轟いた。
 まるで「我らはケサルを助けに来た!」と告げているようだった。

 だが、空から降って来たのは雨ではなく、赤い炎だった。
 赤い炎は青い炎を掻き消した。

 それを目にしたシンチ王は、すぐさま梯子を登り始めた。

 この時、ケサルは日と月の力を持った神の矢を抜き出し、梯子に向かって放った。
 矢が三本飛んで行くと、シンチ王は王宮の頂上に降りて来た。

 ケサルがまた一本抜き取ると、シンチ王は叫んだ。
 「そなたの矢のもとでは死なぬ」

 シンチ王は飛び上がった。
 上にではなく下に向かって。

 身に着けた術をすべて封印し、並の人間のように固い石板の上にその体を叩きつけると、その肉は微塵に砕けた。







阿来『ケサル王』 108 物語:モン・リンの戦い

2015-06-17 02:57:12 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その6



 その美しさを人々から伝え聞いただけでトトンが涎を流さんばかりに恋い焦がれた公主メド・ドルマも夢を見た。

 南方の空に四つの太陽が現われ、総ての雪山がまるでヨーグルトのように融け始め、女たちは鉄の鎧を着た大軍に北方へ連れ去られて行った。

 モン国の中心の平原では、野草たちがヒューヒューと声を挙げた。それはまるで戦いに敗れた英雄に向かって浴びせられる罵りの声のようだった。

 その後、野草たちはまるで生き物のように体を起こし、立ち去った。

 これらはきっと良からぬ兆候だろうと、公主が不安に感じているその時、一羽のカラスが公主の頭の上を三度旋回し、蜜蝋で封をされた手紙を落として行った。
 それは求愛の手紙だった。
 求婚してきたのはリン国ダロン部の長官トトンだった。

 メド・ドルマは手紙を持って父王に会いに行った。

 「もし私が嫁ぐことで、モン国の危機を救うことが出来るのなら、私は喜んで…」

 シンチ王は、ケサルに修練の洞窟を破壊され、暫く静養してやっと精気を回復したところへ、魂の拠り所である毒の蠍を殺され、体がひどく衰えたのを感じていた。
 だが娘の前では気力を奮い起して言った。

 「国のことは心配しなくてよい。お前をリンに嫁にやったりはしない」

 メド・ドルマは父親の様子にいつものような気概が感じられず、モン国の命運もすでに尽きたと悟った。
 だがその言付けには背けず、ただ一人思い悩むばかりだった。

 まさしくその時、リンの大軍はモンの都城へと押し寄せ、最後の攻撃を仕掛けようとしていた。

 シンチ王はグラトジエに尋ねた。
 「奴らは兵士の戦法を用いようとしているのか、それとも、将軍の戦法を用いようとしているのか」

 グラトジエは力を込めて言った。
 「ヤツらがどのような戦法を仕掛けて来ても、我が軍の戦法は変わりません」

 シンチ王は言った。
 「そなたはここ数日良く戦ってくれた。今こそわしが戦うべき時だ」

 シンチ王は幻術を使って、晴れ渡った空に重く黒い霧を発生させた。
 前進中のリンの大軍は方向を失った。

 ケサルが法力を使って黒い霧を追い散らすと、リン軍の前に現れたのはモン国の軍勢だった。
 この軍勢はザラが以前指揮した布陣を真似ていたが、規模はリン国の数倍にも及んでいた。

 整然と隊列を組んだ兵士が、目に入る限りの平地と丘、更には河の上をも覆い尽くしていた。
 この陣勢を目にした誰もが、モン国のすべての地面が深い呼吸によって起伏していると感じただろう。
 すべての峰が走り回り、総ての湖が寄り集まろうとしているかのようだった。

 だが地上には鎧と武器に身を固めた軍勢以外何も見えなかった。
 村も見えず、牛の群れも見えず、鉱山も見えず、雪の峰も見えず、雨も見えなかった。
 灰色の空から蛇のようにくねって電光が閃いた。

 モン国はこの陣形にすべてを懸け、数十万のリンの大軍をその中に閉じ込めた。
 陣の中へと突入した兵馬はみな姿を消した。

 ケサルはみなに告げた。
 これは魔王の幻術である。慌てることはない。

 ケサルが風を呼び、強く吹きかけると、その布陣は布に描かれた絵のように揺らめき始めた。
 軍の中から一斉に声が挙がった。
 「風だ。もっと強く吹け!」

 だが風は吹かなかった。
 ケサルは言った。
 「哀れなシンチ王よ。最早力尽きたことだろう」

 果たして、この際限なく広がる軍団はほんの束の間姿を見せただけで、昇りはじめた太陽の輝きに晒されると、少しずつ色褪せていき、最後には霧となって消滅した。
 陣の中へと突入して行ったリンの英雄たちはいささかも傷つくことなく再び元の原野に現れた。

 リンの大軍は洪水のように襲撃を繰り返したが、高く聳える王城が姿を消したことに気付かなかった。
 大軍が勢いに乗じて南へと追撃に向かった後、王城は再び彼らの背後に現れた。

 シンチ王は得たりとばかりグラトジエに言った。
 「今こそ、勇士たちを率いて彼らの退路を断つ時だ」

 シンチ王は知らなかったが、ケサルはすでにこの作戦を防ぐ策を講じていた。
 リンの英雄たちが部隊を率いて追撃に向かった後、ケサルはザラを呼んだ。
 「おまえたち先鋒を後衛にまわしたことを恨んではいまいな。今、後衛は再び先鋒となるのだ」
 そう言うと、ユラトジ、英雄タンマ、シンバメルツにザラの陣を援護させた。

 グラトジエは兵を率いて突撃して来たが、待ち構えていたザラの陣に巻き込まれた。
 その陣形は見た所形を成さず、いくつにも分かれた兵の塊が、長い蛇のようにくねくねと並んで、ただ原野を駆け回っているだけのようだった。

 グラトジエが兵を率いて出撃した時、この長い隊列は逃げている様にさえ見えた。
 逃げる速度がどんどん遅くなったので、モンの軍はうっかり長い連なりの隙間に入り込んだ。

 するとその時、リンの兵たちは向きを変え、長槍を振りかざし、盾を構えた。一つ一つの長い縦列が揺れ動き、曲線をつくり、重なり合い、終には旋回を始めた。

 モンの軍隊はその陣の中に囲い込まれた。
 まるで大きな旋風の目に呑み込まれたようだった。

 刃を打ち合う光が収まると、陣中に残ったのは馬に跨ったグラトジエと数人の従者だけだった。








阿来『ケサル王』 107 物語:モン・リンの戦い

2015-06-09 00:18:58 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その5




 恥ずかしさのあまり逆上したトトンは目を閉じた。
 人々のあざけりの視線を避けるためではなく、呪文を唱えて妖術を行うためだった。

 だが燃え上がらせた炎はグラトジエによって軍隊の駐留していない山林へと移され、空から降らせた猛烈な霰もまた、グラトジエによって場所を移され、リンの軍営の上で降り始めた。

 「もうよい。英雄たちよ、意地の張り合いは止めにしよう。このところ戦いが難航しているのは、モン国を消滅させる時がまだ来ていないからだ。だが、魔物を倒すべき時が間もなく来ることは、私には分かっている」

 ケサルがこう言ったのは、夢の中で再び天の母のお告げを受けたからである。

 まもなく、魔物を倒すその日がやって来た。

 その日、ケサルは南方の玉の山の麓、グニ平原の最も高い場所に来た。

 天の母の夢のお告げの通り、駿馬の形をした巨岩の上に、天から降りて来たヤクの形の固い石があった。
 上には凶悪などくろが飾られ、新しい人間の腸が絡み付いていた。

 天から降った固い石を軽く叩くと、その音に応えるように秘密の部屋に通じる小さな扉が開いた。
 そこはどのような漆黒の夜よりも更に暗く、じっと目を凝らしているうちに、やっと様子が分かってきた。

 右には九つの頭を持った毒の蠍がいて、それはシンチ王の魂の拠り所であり、左にいる九つの頭を持った怪物はグラトジエの魂の拠り所だった。

 ケサルは蠍を弓で射殺し、怪物の九つの頭を叩き割ると、それらに背を向けて走り去った。
 天の母の言いつけ通り、一度も振り返らなかった。

 天の母はこう告げたのである。
 魔物を殺した者がひとたび振り返ると、毒の蠍と九つ頭の怪物は生き返り、そうなれば、もはや誰も押さえつけることが出来なくなる、と。

 少し前、赤い岩の上の修練の洞窟をケサルの神の矢によって打ち砕かれたため、シンチ王は精気をひどく損ない、宮中の奥深くで暫く療養し、その間、グラトジエがただ一人で応戦していた。

 今、モン国を治める二人の魔物の魂の拠り所が息絶えて、モン国の領土には様々な異常現象が現われた。

 まず、谷間や崖の上に咲いていた人の顔をした花々が姿を消した。
 その花々とは妖魔に喰われ邪神への生贄にされた若い女性の魂が化身したものだった。

 彼女たちは輪廻することが出来なくなり、昼間、崖の上で花開き、夜、その魂は妖魔への生贄として捧げられた。
 今、妖魔の魔力が衰え、彼女たちはみな解脱出来たのである。

 咲き疲れた花たちは長いため息をつき、そのまま頭を垂れるとあっという間に枯れ果て、花の中に宿っていた魂がふわふわと輪廻の道へと旅立って行った。
 その他のやはり輪廻できなかった多くの魂もみな解脱した。

 広い天空はその時、ひしめき合うほどの魂で満たされ、黎明近くになってやっと、輪廻の道はいつもの流れを取り戻した。


 実は、輪廻出来なかった多くの魂の力が二人の魔王の力となっていたのである。
 その夜一晩中、シンチ王とグラトジエは夢を見た。力が自分の体から抜けていく夢である。

 シンチ王は自分が虫に食われて穴の空いたふいごになった夢を見た。
 どんなに力を込めても、充分な風を集めることが出来ず、命の火を吹き上げることが出来なかった。

 グラトジエが見たのも袋の夢だった。
 食糧がいっぱいに詰まった袋の、どうやっても塞ぐことの出来ない小さなほつれ目から、中身が雨のようにさらさらと一晩中漏れ続け、心は逆に絶望で満たされていった。

 朝目覚めると、モン国の領土に様々な不吉な現象が表れ始めた。

 フクロウが白昼にハハハと大笑いした。

 山林がわけもなく燃えあがった。

 竈の上の銅の釜が微塵に砕けた。

 寺の中心の柱に大蛇が巻き着いた。

 深い神の湖が大きな氷の塊になった。












阿来『ケサル王』 106 物語:モン・リンの戦い

2015-06-05 03:35:26 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その4 



 グラトジエに再び矢を放たせまいと、タンマに付き従う四英雄の四本の矢が一斉にグラトジエの顔面目がけて飛んで行った。
 その隙に数人の兵がタンマを支えてケサルのテントへと戻った。

 ケサルは毒気に当たって意識が朦朧となったタンマに神丹を飲ませた。
 タンマはすぐさま士気が漲り、グラトジエとの戦いに取って返そうとしたが、ケサルはそれを押し止めた。

 陣営からは幾人かの大将が戦場へと向かった。だが、何日もの間、双方は対峙して譲らず、勝負はつかなかった。

 この状況を見てトトンはザラを訪ねた。
 「幼長の輩行から言えば、ザラよ、おぬしはワシの孫と同じだ。そこで一つご意見申し上げよう。聞くか聞かぬかはおぬし次第だがな」

 トトンは思った。
 この若僧が勝てば自分は未来の国王と血のつながった者となる。
 だがそれよりも、この若僧が負けて、ケサルがこやつをリンの王子にしようという考えを断つ方が望ましいかもしれない、と。

 ザラは、輩行の高いトトンに対して恭しく答えた。
 「年長の方の智慧は大海より深いと言われます。ダロン部の力ある長官にお教えいただけるとは、光栄です」

 「ここ数日、おぬしの率いる部隊は着々と進撃して来た。だが、多くの将校が大王の耳に不満の声を漏らしているという。
  大王がお前たち先鋒を後衛に移したのはそのためだ。
  今、将校たちは代わる代わる戦いに赴き、その結果はおぬしが目にした通りだ。
  おぬしたち若い英雄が功名を立てるのは今だ。すぐさま大王の元へ行き、戦いを願い出でるがよかろう」

 「私の兵は今とても疲れています。それよりも、父が世にある間は、平坦な草原での戦法しか演習しませんでした。山地での演習をしようと準備を始めた時に、ホルの軍に陥れられてしまったからです」

 父の死について語るうちに、ザラの目には、目の前にいる人物に対する嫌悪の色が浮かび上がった。
 ザラは言った。
 「私は国王の命令に従います。父が世にある時、今生の国王の英明を信じるようにと繰り返し聞かされました」

 トトンは地団駄を踏んだ。
 「おぬしは父親と同じで頭が固いようだな。もしおぬしがあと二度の戦いに勝利し、モン国の城を落としたら、それは何を意味するか分かるかな」

 ザラは首を振って言った。
 「いいえ、分かりません」

 「おぬしこそがリン国の王位を継ぐべき人物だということだ」

 ザラは立ち上がって手下の者に言い付けた。

 「トトン長官を陣営までお送りしろ」

 トトンはテントに戻ると、暫く腹の虫が収まらなかった。
 怒りの鎮まらないトトンは戦いの装いに身を正し、ケサルに向かって戦わせて欲しいと願い出た。

 「ここ数日、リンの英雄たちが代わる代わる出陣していながら、グラトジエ一人に手こずっているではないか。見たところ、ヤツに目にもの見せられるのは、リン国の栄誉をこよなく重んじる老人―このワシだけのようだ」

 タンマはそれを聞くと、腹の底から怒りがこみ上げ、トトンを黙らせようと近づいて行ったが、激昂のあまり、まだ抜けきらない毒気がまた体中に広がり、目が眩んで立っていられず、シンバメルツに支えられて、なんとか倒れずに済んだ。
 この時もまたケサルの安神還魂丹を一粒口に入れた。

 ケサルは動じる様子もなく皆に尋ねた。
 「誰かトトン長官と共に敵を迎え討つ者はいるか」

 どこからも声が挙がらなかった。
 誰もがトトンに恥をかかせようとしたのである。

 ただタンマだけはトトンの戦法を確かめようと、後ろからついて行った。
 トトンは意気揚々と陣の前面に進み出て、押し黙ったまま、冷たく光る剣を取り出すと、グラトジエの目の前に突きつけた。

 二人が三回ほど剣を戦わせたころ、グラトジエが剣を振るうと、大きな山を覆さんばかりの力によって、トトンの手の宝剣は遠くへ飛んで行き、護身の鎧はずたずたになっていた。

 トトンは剣の切っ先が向って来るのを感じて、骨の髄まで寒気が沁み渡り、大慌てで手綱を牽き、命からがら陣営へと駆け戻った。

 グラトジエは追いかけようとしたがタンマが続けざまに放った二本の矢に阻まれた。

 トトンがテントに戻ると、彼を迎えたのは英雄たちの割れんばかりの笑い声だった。






阿来『ケサル王』 105 物語:モン・リンの戦い

2015-06-01 20:09:55 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その3



 次の日の朝、雲を突き抜けて聳える雪の峰に、太陽が眩い金色の輝き纏わせるとすぐに、ケサルは将校たちを自分のテントの中に集め、雪山を指して言った。

 「太陽がまだ昇りきらなくとも、我々は高く聳える雪山の上に光がきらめいているのを感じることが出来る。
  モン国に入ってこの方、ザラとユラトジはリンの最も忠実な英雄ギャツァが訓練を重ねて来た戦法を用い、先鋒を率いて次々と勝利を収めた。
  これはリンの未来がより栄え、雪山のように屹立するという吉兆である」

 将校たちは思った。
 「ケサル王と十人を超える妃にはお子が生まれなかった。この若い英雄こそが将来リンの国王になるのだろう」

 シンバメルツは前に進み出て申し上げた。
 「大王様。リン国の大業を継ぐ方が現われたこと、お喜び申し上げます」

 この様子を見て、トトンは面白くなかった。
 「いくらか地盤を占領し、多くの敵兵を殺しはしたが、まだモン国の城を攻め落としていないのだぞ。
  強い魔力を持った王も将軍もまだ傷さえ負っていない。
  ワシは伴の兵卒はいらぬ。一人でヤツらのところへ乗り込み、二人の魔物の頭を大王に捧げよう」

 ケサルは心を鎮めて言った。

 「黒く妖しい霧はまだ晴れず、正しい行いを助ける太陽はまだ現われていない。
  我々がモン国を完全に叩き潰せないのは、まだ時期が至らないだけだ。
  今日、皆を集めたのは、軽率な行動を慎んでもらいたいからである。
  太陽が草の露を乾かしたら、モン国は戦いを挑んでくるだろう。
  その時我々は容赦なく戦おう。
  ここ数日、私は戦いの様子を見ながら、この暑い国に流れる水の中から熱と湿気の毒に打ち勝つ聖水を作り上げた。
  また、天の母から護身の守り紐を頂いた。これで再び戦場に立てば、誰もが向かうところ敵なしとなるだろう」

 聖水と守り紐がみなに配られるとすぐ、外から戦いの声が伝わって来た。

 大将タンマは聖水を飲み干すと、にわかに体中がすがすがしく、力が漲って、すぐに馬に跨って陣営を飛び出した。
 そこに見えたのは、敵国の大臣グラトジエが一人馬に乗って戦いを挑んで来る姿だった。

 グラトジエは威厳に満ち堂々とした快男児で、身に着けている兜や護身用の甲冑は黄金で作られ、背中の弓壺には鉄の弓一束と数十本の毒矢、手には血を吸う宝剣を振りかざしている。

 タンマが馬に鞭打って行くのを目にしたケサルは、グラトジエと互角に戦うのは難しいだろうと、四人の副将に、タンマの周りにぴったりと付いて彼を守るよう命じた。

 タンマはグラトジエに向かって叫んだ。
 「モンには将兵が多いと聞くが、どうして一人でやって来たのだ。寂しくはないのか」

 グラトジエは皮肉たっぷりに返答した。
 「力のないヤツこそ、群れを成さないと怖くてたまらないようだな」

 「今日、我らは戦法を変えたのだ。一対一で戦おうではないか」

 タンマは手に持った鷹の羽根の矢をすでに弓につがえ言った。
 「今からは、お前の足元の地を“死の平原”と名付けよう。お前が目の前にしている五人こそ“地獄の閻魔王”だ」

 言葉が終わった時には、弦を離れた矢はすでにグラトジエの目の前にあった。

 グラトジエは少しも慌てず、呪文を唱えて矢の速さを緩め、わずかに頭を下げると、矢は彼の金の兜の上で金属的な音を立てただけで、腰を伸ばした時の彼は少しも傷ついていなかった。

 同時に彼は後ろ手に矢を放ち、タンマの兜の上の赤い房を射止めた。矢の力は衰えず、タンマの房を付けたまま飛んで行き、彼らの後方の、数本が抱き合った大木を真ん中から真っ二つに断ち割って、真っ赤な炎を上げた。

 タンマは毒の矢に直接傷ついてはいなかったが、強い毒気に当てられ、じっと座っていられず、落馬した。

 グラトジエはその様を見て、得意げに笑った。

 「お前たちは兵の数を集めた戦いしか出来ないのだろう。
  英雄と讃えられているそなたも名前ばかりのようだな。
  もう一本お見舞いしよう。もはやこれまでだ」






阿来『ケサル王』 104 物語:モン・リンの戦い

2015-05-26 23:21:56 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その2



 次の日も同じ戦法で戦った。

 シンチ王は自ら出馬して法術を用い、リンの陣中に向けて続けざまに雷を落とした。
 リン軍の数百の兵士が命を失い、陣形は混乱し始めた。

 シンチ王は高い丘の上に立ち、自軍の将校たちに言った。

 「誰もがケサルは強い神通力を持っているという。
  だがヤツは、アリのようにうじゃうじゃ集まった兵の後ろに隠れているばかりだ。
  ヤツは兵同士を戦わせているだけだ。
  衆生を大切にすると聞いていたから、ワシはヤツを尊敬していた。
  だが、お前たちも見ただろう。
  ヤツが多くの国を征服したのは、自らの力と神通力ではなく、兵たちの流した血の海にそれらの国々を沈めただけのだ。
  ワシがあといくつか雷を落とせば、アリのような兵たちはお互いに踏み潰し合い、山から落ちて来る雪崩のように自らを埋めてしまうだろう。
  その時こそ、我が英雄たちよ、思う存分戦ってくれ」

 言い終ると、呪いの言葉を唱え、黒い雲を呼んで、その上に飛び乗った。
 だがそこでは、シンチ王は雷を落とせなかった。ケサルが神の馬ジャンガペルポに乗って、すでに雲の上で待ち構えていたのである。

 シンチ王は雲を呼んだが、雲の中の稲妻はすでにケサルに抜き取られていた。
 ケサルはその稲妻を鞭のように振り回し、面白そうに笑って言った。

 「お前の皮肉たっぷりな話を、風が私の耳に運んで来たぞ」

 「さぞ恥ずかしかったことだろうな」

 ケサルが思いきり稲妻を振ると、モンの陣営に次々と雷が落ち、はためいていた大きな旗は燃え盛る炎へと変わった。
 その瞬間、混乱しかかっていたリン軍は秩序を取り戻した。

 ケサルは言った。
 「他にどんな術があるのか見せていただこう」

 シンチ王が弓を引き絞り矢をつがえ、リン軍に向かって射ようとした。
 ケサルはそれを押しとどめた。
 「兵たちは兵たち自身で解決させよう。我ら二人矢の術を競おうではないか。遠くのあの赤い岩の峰を目標にしよう。」

 赤い岩の山のほら穴こそ魔王シンチが魔法を修練している地であることを、ケサルはすでに知っていた。
 矢の競い合いに乗じてまず彼の修業の場を打ち砕こうとしたのである。

 シンチ王は何も答えず、弓の弦を放すと、地に旋風が起こり、矢は雷光を帯び雷鳴を轟かせてリン軍の陣地へと飛んで行った。

 ザラの周りを守っていた大将タンマが馬を躍らせて陣の前に進み出、神の法力を使ってシンチ王の矢に向かって続けて三本矢を放つと、雷光を帯び雷鳴を轟かせる矢とぶつかり合い、シンチ王の矢はそのまま地に落ちた。
 リンの陣に歓声が沸き起こったが、英雄は馬の背からドスンと落ち、その場で鮮血を吐いた。

 タンマは多くの兵に守られてテントに入り、戦いの前にケサルから教えられた護心金呪を密かに念じるたので、気持ちが落ち着き、徐々に息を吹き返した。


 雲の上ではケサルが大声で笑った。
 「我が軍の大将は死を恐れる輩だとあざけっていたようだが」

 シンチ王の笑いは引きつっていた。
 それでも明らかに皮肉を込めて言った。
 「お前は多くの兵たちの弱々しい体で鋭い刀や槍を食い止めようというのか」

 ケサルは言った。
 「人間は自らを救わなくてはならないのだ」

 「奴らは神の法力を持っていない。自分を救うことなど出来はしないぞ」

 「誰かがそう考えれば、自分を救うことは出来るのだ」

 シンチ王はハハと笑って
 「ワシには分からん。奴らはどうやって自分を救おうというのか」
 
 ケサルは何も答えなかった。
 
 その時、雲の下では陣形を整えたリンの隊分が、ザラの軍旗の指揮の下、更に前へと進んで行った。

 その中の誰一人として単独では魔軍の兵士や将軍と同等には戦えないだろう。
 だが、これらのか弱い肉体が共に進み共に退くことで、鉄のように堅固な集団となり、前へと進んで行けば、どのような力もそれを阻むことは出来ないのである。

 彼らはまるで洪水のようにモン国軍が守る山や岡を覆い尽くしていった。

 ケサルは言った。
 「見たか。彼らは水のようだ。だが水は低いところから高いところへ流れることは出来ない。これこそ彼らの力なのだ」

 話している間に、ケサルは弓を手に取り、弦を放すと三本の矢が同時に放たれ、そのまま遥か遠くの魔王が法を修める洞窟へと飛んで行き、山の峰を一瞬で崩壊させた。

 見る間にシンチ王の厳めしさが色褪せていった。
 ケサルはハハと笑った。

 「帰って少し休むがいい。我らはまた戦おう。暫くはお前が言う弱々しい兵たちがどのように戦うか見ようではないか」

 この日ザラは先に訓練された戦陣を存分に発揮させ、かなりの距離を進んだ。

 空が暗くなれば野営し、明るくなれば陣を立て直して進撃する。
 何日もそうしているうちに、大軍はすでにモン国の要地のかなり奥深くまで進んでいた。

 戦いが始まったばかりの頃渡った河はみな西から東に流れていたが、その後河と山脈は方向を変え、北から南へと変わり、河は滔滔と流れた。

 山の形は複雑になっていった。
 初めは、すべての山は獅子の姿に似て、うずくまって四方を睨めつけているようだったり、首を挙げて疾走しているようだったが、今はその形を変えていた。

 この蒸し暑い地では、山は象の形になった。

 兵士たちは恐れ始めた。
 象が怖いからではなく、故郷から遥かに遠く来てしまったことを恐れたのである。

 もし戦死したら魂が故郷を探し出せなくなるのではないかと心配になった。
 なぜなら、山々が方向をぐるりと変えてしまったからである。

 さらに重要なのは、モン国に深く入れば入るほど、広々とした場所は少なくなり、千万人が一人の如く、同時に進退し左右に旋回出来る場所が徐々に少なくなったことだった。
 モン国の軍は夜の隙に反撃し、勝利は僅かだったが、リン国は十数里後退せざるをえず、開けた地まで戻ってやっと休むことが出来た。

 リン軍の中で力を発揮出来なかった英雄たちが、これを機に次々と現れて戦いたいと願った。
 そこでケサルは、ザラの指揮する大軍を先鋒から後衛に移し、自らが英雄たちを率いて戦いの場に現れた。








阿来『ケサル王』 103 物語:モン・リンの戦い

2015-05-19 10:20:50 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その1



 次の日の朝、グラトジエは国王と馬を並べて丘へ登り、リンの大軍の陣勢を見渡しながら、思わずあざけりの笑みを漏らした。

 シンチ王はわざとらしく尋ねた。
 「勝つ自信があるようだな」

 「大王様、リンの陣勢を見れば彼らが必ず敗れること、火を見るより明らかです」
 
 シンチ王はその根拠を尋ねた。グラトジエは答えた。

 「リンには英雄が多いと聞き及びますが、思うにそれはみな、肝っ玉の小さい輩が、大げさに伝えただけでしょう。あの時、我々がダロン部を略奪しても、リンのヤツらは反撃する力がなかったではありませんか。そして今、ヤツらの陣勢をご覧ください。数えきれないほどの兵が押しくら饅頭しているだけです。寄り集まっては強くなった気でいるものとは何でしょう。羊です。勇敢なトラや豹なら、ただ一匹で山に向かい、堂々と周りを圧倒するはずです」

 だがシンチ王は不吉な予感に捉えられていた。
 「ヤツらは整然と列をなし、進むも退くも千万の兵がまるで一人のようにまとまっているではないか。なんとかして防がなくてはならぬ」

 この時、ザラの陣営から軍令の旗が挙がり、牛の角笛がたからかに鳴り渡った。
 歩兵は方陣を組み、騎兵は蛇の陣、鷹の陣を組み、そのまま橋の袂の砦を離れ、両軍の間にある開かれた場所へと進んで行った。

 二人の若い英雄ザラとユラトジは、一人は矛を、一人は弓矢を手に、先頭に立った。

 先鋒を務めるザラは背に色とりどりの軍令の旗を挿していた。
 緑の旗を振ると、兜に緑の房を付けた方陣が盾と長矛を構え、あっという間に両軍の間の開けた場所にある丘を占領した。

 全員が弓を張り矢をつがえ、援護の態勢を整えると、ザラは次に黄色と白の旗を振った。
 兜に黄色と白の房を付けた両翼の騎兵が、大きな鷹の羽根のように広がって、猛烈な勢いで突進し、緑軍の両側のわずか後方で止まった。

 ザラが赤い旗を振り、自ら馬を駆って前へ進むと、中央に陣取っていた赤軍が移動を始めた。

 千万の軍靴が同時に地を踏みしめ、千万の軍馬の蹄鉄が同時に大地を蹴った。
 その日、戦いの火ぶたが切られる前に、モンの大地はこれまでにない力によって一斉に揺れ動いた。

 中軍がザラの統率で動き出すのと同時に、緑軍もまた一糸乱れず前へと移動を始めた。
 隊列の先頭では、刀と槍が冷たい光を放っている。

 赤い中軍が開けた場所にある丘まで進んだ時、緑軍はすでにモン軍の兵営の囲いの前にいた。

 整然と列を組んだ大軍は、行進すれば大地が震え、静止すれば山も河も兵も息をひそめ、これまでない威嚇が感じられた。

 シンチ王は言った。
 「見ろ!ヤツらは羊ではないようだ」

 グラトジエが矢を放つよう大声で命令を下すと、矢は群れとなって飛んで行った。
 リンの緑軍は一斉に盾を構えた。

 矢の雨が過ぎた後、兵たちは盾を降ろし刀と槍を振りかざした。
 陣中の兵は誰一人傷ついていなかった。

 心の底から怒りを漲らせたグラトジエは、弓を引いて矢を放った。
 矢は電光を閃かせ、激しい雷鳴を轟かせながら、リンの緑軍に向かって飛んで行った。

 グラトジエの一本の矢は十三の盾を破り、十三のリンの兵士が同時に命を落とした。
 まるで耕地を鋤き起こすように、緑軍に血なまぐさい一本の裂け目を作った。

 いつもの戦いなら、彼の矢が放たれただけで寄せ集めである相手の兵たちは胆をつぶし、大将の馬のまたぐらに隠れてしまっただろう。
 ところが、リン軍は暫くざわついたものの、すぐに陣の前列を盾で守り、盾の間からは鋭刃を覘かせ、方陣はそのままに静かに前へと進んで行った。

 進むに従って、矢によって開けられた裂け目はすぐに元通りふさがっていった。

 グラトジエは一声雄叫びをあげると敵陣まで突進し、術を用いて小さな突破口を開けたが、後続の兵が彼について入って行こうとした時には、隙間なく連なった盾によって陣の外へとはじき返された。

 その時、ザラは背に挿した軍令の旗を順に振り動かした。歩兵が一斉に丘から前進し、両翼からは騎兵が襲って来た。
 まるで波が岸に押し寄せるかのように。

 この戦いでは、これまではただ矢を放っては雄叫びをあげ、単独で戦うことしか知らなかった兵が、堤防に押し寄せる洪水のように隊列となって襲い掛かって来たので、モンの大将たちはこの奔流に呑み込まれ、個人の武功を世に知らしめる隙が無かった。

 モンの第一陣は訳が分からぬうちに敗れ、大陣営は突破された。

 この日、リンの軍は神の威力を大いに見せつけた。
 
 モン軍の死者は数え切れず、戦っては敗れを繰り返し、三、四十里も後退した。
 黄昏時になってやっと、平らな広野に突き出た丘の後ろで足並みを停め、後退を免れることが出来た。

 リン軍も攻撃を収め、野営の準備を始めた。






阿来『ケサル王』 102 物語:少年ザラ

2015-05-04 22:36:44 | ケサル
ユラトジが報告した。モン国の領地は広大で十三の河があり数百万の民がいる。天の恵みを受けて、雨が多く空気は潤い、冬は短く夏が長い。土地は肥沃で花や果実が山を満たしている。だが、このように豊穣な地でありながら、人々の生活は幸せとは言えない。国王も首席大臣グラトジエも魔物の化身であり、日がな一日国を治めることを考えず、人肉を食らい、その血を飲み、常に周りの国々を脅かし、その民をさらっていく。妖術の修練に耽り、隣国を脅かす暇がない時は、自国の民を自らの刀の犠牲とする。そのため人々は何時自分が国王に料理され皿に盛られるのかと、心配でびくびくしている。
ケサルは言った「シンチ王は、魔国のロザン、ホルのクルカル、ジャンのサタンと共に四大魔王と呼ばれ、天下に害を及ぼした。三人の魔王はすでにリンによって滅ぼされたが、モンの国は遠くにあり、また魔王は長い間姿を見せず波風を立てなかったので、これまで命を長らえて来たのである」
ユラトジは続けて報告した。「シンチ魔王は、今ちょうど修練の最後の段階を迎えたところで、部下を厳しく戒め、小さなことにも慎重になっています。今年を何事もなく過ごせば、大願が成就するからです。それは思うがままに天下に覇を唱えるためです。我が軍が国境深くに進んだ時でさえ、応戦しませんでした。今二つの河を超えれば彼の王宮です。その時には敵は陣を敷き、我が大軍と大いに戦うでしょう」
ケサルはザラを前に呼び、若い英雄の肩を抱いて言った「明日、総ての軍を思い通り動かしてくれ。兄の戦法をしっかりと示すのだ」
次の日、ザラは威厳を持ち勇壮に陣を敷いた。モンの兵営は吊り橋を挙げたまま静まり返り、正午を待ってやっと一頭の馬が兵営から出て、ザラの前に停まった。やって来たのは魔の大臣グラトジエ。危険を冒して姿を見せたのは、リンの内実を探るためだった。「馬上の若い司令官よ。我れはモンの首席大臣グラトジエと申すものだ」
グラトジエは言った。河のほとりの美しい原野は国王の遊ばれる地、王妃が野の花を摘まれ美し風景を楽しまれる地、大臣たちが法力と馬術を試す広野、花が咲き誇りカッコウが歌い、自然の音すべてが心地よい歌を奏でる祝福された地である。このように多くの異国の兵馬が隊列を組み殺気を振り撒くとは、もっての外だ」
ザラは笑った「我がリンの大軍が向かうところ、それはまさにすべての妖魔が横行する地を、今そなたが言ったように真のめでたい地にするためだ。分別をわきまえているなら早く馬を降りて降服されよ」
グラトジエは慌てることなく、言った。「我れグラトジエは、友に穏やかなること絹の如く、また一方で、敵の矢と雷を制圧せずにはおかれぬ者だ。今、そなたに警告しておこう。明日日の出る前に、大軍すべて河の両側から消えるがよいぞ」言い終ると手綱を繰って馬の向きを変え、悠然と去って行った。
グラトジエが去って行く後ろ姿は悠然としていたが、林を曲がやいなや馬を鞭打ち狂ったように走り出した。王宮に着いた時は全身が汗まみれになっていた。国王が天下無敵となる功法を成就するにはまだ数カ月かかる。これがリンの大軍が境界を超えた時もモンの大軍が抵抗しなかった原因だった。今。リンの大軍はすでに国の中央に近づき、このままでは激しい戦いは免れない。グラトジエは宮殿に入って報告した。「リン国は今どこよりも強大です。今は時を稼ぎ、ダロン部から略奪した民と牛、羊を倍にして戻し、雲錦宝衣を返上するのが良いでしょう。国王の功法が成就したら、その時は兵を出してリンを叩き潰し、払った代価を百倍にして償わせましょう」
シンチ王は無表情に言った「ケサルがお前に談判するとでもいうのか。もしや、兵を引く代価まで話をつけてあるのではないだろうな」
グラトジエはあれこれと言い訳した「とんでもないこと。私めはただリンの兵を偵察した後、大王にご注意も申し上げたまで。ましてケサルは勝つことのみを考え、私と談判するなどありえません」
「ではどうしろというのだ」
「当時、私めはダロン部の長官トトンと通じておりました。ヤツは我々の力を知っており、今はリンの国王の叔父の身分です。彼に恩恵を約束したら、もしや…」
「あの老いぼれはまだ我が国の愛しい公主に未練たらたらというぞ。まさか、それで奴を釣ろうというのではないだろうな」
グラトジエは慌てて跪いた「戻ってすぐさま兵を出し陣を敷きましょう。明日、リンの軍と思う存分戦います」

シンチ王はやっと顔をほころばせ、立ち上がってグラトジエを助け起こした。「談判するのは敵に重い一撃をくらわしてからだ。それでこそ思い通りの結果が出せる。まず大いに戦おう。奴らを血の海に沈めるのだ。そうすればお前の舌を煩わせずに済むからな」
国王シンチも夜を継いで前線に赴き、中軍のテントの中にどっかりと陣取った。