塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 125 物語:夢

2015-10-12 11:53:43 | ケサル
物語:夢 その1



 ケサルは本当に夢を見た。

 夢の中で一千年後のリン国の草原を見た。

 草原の地形は彼のよく知っているそのままだった。山脈の位置、河の流れ。
 だが、そこに新たに木々が現われていた。実を結ぶ木と結ばない木と。

 実を結ぶ木は果樹園の中に一塊に集められ、実を結ばない木は新しい道を挟んで向き合い、兵士のようにずっと先まで列をなしていた。
 道には不思議な力で動く乗り物が、晴れ渡った空の下に埃の煙幕を長く引きずっていた。
 建物も以前とは異なり、家の中には見慣れない物がたくさん置かれていた。

 それでも、建物から姿を現した草原の民が、空を見上げ何やらつぶやいた時、その表情は千年前と少しも変わらなかった。

 不思議な乗り物を走らせて来た者がそこから降り、小川の淵まで水を飲みに来た時、まず両手で水を掬い取り、口いっぱいに含んで空に向かって吹き出すと、強烈な光の下に小さな虹がほんの束の間現れる。こんな遊びも、一千年前の兵士たちが馬を降りて水辺でしていた楽しみとまるで同じだった。

 なによりも驚いたのは、草原を気の向くままに歩き回っている語り部ジグメが彼の想像そのままだったことだ。
 物語の中に消えたあのアク・トンバそっくりだったのである。
 その姿は時折りチカチカと明滅し、いまにも消えてしまいそうで、ケサルは慌て声をかけた。

 「そこの者、入ってこい」

 その男は言った。
 「建物もなく、テントもなく、門もないのに、どこへ入ればいいんですか」

 「私の夢の中だ」

 「オレの夢に、あなたは自由に出入りして来たけど、オレがあなたの夢に入るなんて思ってもみなかった。そんなこと出来ません」

 ケサルは釈明した。
 「これからは何度も来ることになるだろう。だが、私はまだ来たことはない。つい先ほど思いついたのだから」そう言ってから、笑った。「そうだ、きっとそれは私が天に帰ってからのことなのだ。教えてくれ、お前の夢の中で私は何をした?」

 「その方は、リン国の物語をオレの腹の中に詰め込んだんです」

 「どうやって入れたのだ」

  ジグメが、金の鎧を着た神がどのように自分の腹を裂き、物語を書いた本を一冊また一冊と詰め込んでいったのかを話すと、ケサルは笑った。
 「そうか。それは、寺のラマが菩薩の像に収めるのと同じだ。だが、お前は生きている人間ではないか」

 「ところが、少しも痛くなかったんです。眼が覚めると、リン国の獅子王ケサルの物語を語れるようになっていました」

 「怖いか」

 「怖くありません。それは初めてのことではないのです。その方は他にも語る人を探していました」

 「今怖くないかと聞いているのだ」

 「何が」

 「今お前は私の夢の中にいる。私がお前を帰さなかったらどうする」

 ジグメは度胸のある人間ではない、だが今回は不思議なことに少しも怖くなかった。

 「オレはあなたを怒らせたんです。物語の中のジャンやモンの国が本当にあるか知りたくて、あちこち訪ね歩いてしまいました。あの方は怒って矢でオレを遠くに飛ばし、探し廻れないようにしたんです」

 腰の辺りをさすると、鉄の矢が腰から入り、背骨に沿って首の後ろまで突き刺さっているのが分かった。
 体の向きを変えて、夢の主に矢を見せた。見せながら考えた。
 夢はこの方の頭の中にある、だからこの方は夢の中の物を見ることは出来ないかもしれない、と。

 だが、この人物は神の力を持っていて、自分の夢の中へも自由に出入り出来た。
 この人物は弓を触って言った。

 「おお、本当に私の矢だ。だがこれまで私はお前の言ったようなことは何もしていないのだ」

 「では、何をしてるんですか」

 「タジクまで遠征し、リンの西の境界を確定したところだ。戦いがなければ、何もすることがない。そこで考えた。これらの事を伝えていく人物がいなくてはならない、と。ある者の姿をもとに、その者を探しに来たのだ」

 「オレがその人に似てるんですね」

 「そうだ、そっくりだ」

 「誰に」

 「アク・トンバだ」

 「アク・トンバ!その頃アク・トンバはもういたんですか」

 「この男はまだいるのか」

 「います」

 「会ったことはあるのか」

 「誰も会ったことなんかありません。物語の中にいるんです」

 これを聞いて、夢の中の国王は失望した。だがすぐに気持ちを切り替えて、言った。
 「物語の中で生きているのだな。ならば、誰かに自分の物語を語らせようという私の考えは正しいようだ」

 「オレはもう語りました。あなたがまだしていない事も語ってますよ。あなたがリン国から天へと帰るまでの物語を」

 ケサルはジグメの腕をつかんで引き寄せた。
 「言ってくれ、天に帰るまでに、私はどんな業績を残すのか。王子ザラは新しい国王となるのか」

 「天の秘密を漏らすことは出来ません」

 「言えと言っているのだ」

 「出来ません」

 「お前をここから出さないと言ったら」

 ジグメは目を伏せ、ゆったりと腰を下ろし、言った。
 「だったら、出て行きません。そのほうが寒い中をあちこち歩き回らないで済む」

 「では、やはり出て行きなさい」

 ジグメは片方の足を夢の外へ踏み出した。
 外の世界は大きな音を立て、雲さえも空を駆け巡り、すべてがひゅうひゅうと激しく鳴っていた。ジグメは振り向いた。
 「これでいいんですね」

 ケサルは怒っていた。
 「私をあなたと呼ぶな。私は国王だ。首席大臣がいたらお前の口を捩じ上げるだろう」

 「あなたはリン国の王です。俺の王様じゃない」

 「お前はリン国の民ではないのか」

 「この土地はまだあります。でもリンという国はありません」

 「何だと。リン国が無いだと」

 「今はもうありません」

 国王のあまりの失望の表情を見て、語り部は思った。
 どの国王も皆自分が作り上げた業績は永遠に存在すると信じているものなのだ、と。

 ジグメはそれ以上何も言わないことにした。

 カムという高原の大地に本当にリンと呼ばれる国があったのかどうか、ケサルを研究する学者たちは意見を戦わせている。
 それはまた、歴史上にケサルと言う英明で神でもあり人でもある国王がいたかどうかはっきりしないということだ。

 そう思って、ジグメは心の中に同情と呼ばれる感情が湧き上がって来るのを抑えられなくなった。

 ジグメは軽く礼をして夢から去って行った。

 最後に国王が夢の中で言っているのを聞いた。
 「それでお前は、私の夢の中に来ておきながら、帽子さえ脱がなかったのか」

 体全体が夢から離れると、すさまじい速さで疾走していた世界は、そこだけ静止した。
 周りは空っぽで、一部の鳥は木に止まり、一部の鳥は風の中で体を斜めにしながら翼を広げていた。

 ジグメは帽子を脱ぎ、胸の前に置き、言った。
 「すみません、帽子をかぶっているのを忘れてました」

 こう言い終ると、ジグメはまた旅を続けた。







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