★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304
物語 巡幸あるいは別れ
国王が目覚めると、傍らで眠っていたジュクモも目を覚ました。
「夢を見た」
喉も口元も完全に目覚めてはいなかったが、ジュクモの笑い声はくぐもることなく、いつもと変わらず谷川の流れのように爽やかだった。
「王様、寝ぼけているのですか。夢を見るのが不思議なことだとでも」
「夢の中で他の者の夢に入ってしまった」
国王の頭の中は常に戦いや国の大事が駆け巡っているので、このような身近な話題に触れることは少なかった。
「早く聞かせてください。他人の夢とはどんなものなのですか」
ジュクモは体を起こし、興奮気味に尋ねた。寝乱れた体は暗がりの中で真珠のように淡い光を発していた。
「それがはっきりしないのだ。まるで霧に覆われた谷にいるようだった」
ジュクモはか細い指で国王の胸をなぞり、すねたように言った。
「では、何を見たのか言えないのですね」
「不思議な男だった。私がリンでなしたすべて知っているようなのだ。すでになしたことを知り、まだなしてないことも知っていた」
ジュクモはしなやかな腕をケサルの首に回して言った。
「早く教えてください。王様と私はこんなに仲睦まじいのですよ」
ジュクモがあまりに近く引き寄せたので、国王は少し体を離した。
「まだ征服していない国がいくつあるのか。どうして雨後の筍のように、ここに一つ、あそこに一つと国が現われ、そのどれもが悪人が治め、私が征服しなくてはならないのか。聞いたのはそれだけだ」
ジュクモは期待した答えが返って来なかったので、背を向けて怒ったふりをした。国王はそれとは気づかず、話し続けた。
「その男は、知ってはいるが教えられないと言った。天に帰った私が、今の私に知らせてはならないと言ったそうだ」
ジュクモはそれを聞くと、またケサルの方に向き直った。
「では、私は。王様と一緒に天に戻るのですか」
ケサルは妃が何を言いたいのか分かった。
「そなたも一緒に帰ると、その男は言っていた」
「では、もう他に心配事はないでありませんか」
「まだやらねばならぬことがどれほどあるのか、やはり知りたいのだ」
その時ジュクモは母親のような気持ちになった。
「リン国のことで王様がどれほど悩んでいらっしゃるのかを思うと、ジュクモの心も痛みます」
そう言いながら、彼女はケサルをきつく抱きしめた。女性の熱い体、この世で最も美しく、成長したその日から衰えを知らない体は、これから現われるがまだ現われてない敵国のことを忘れさせた。
ジュクモは言った。
「王子ザラに英雄を率いて戦わせなさいませ。私はいつも王様のお側にいたいのです」
体を熱くたぎらせた男は何も言わなかった。
空が明るくなるころ、狂おしく燃えた世界もいつもの姿を取り戻し、ジュクモはまた昨夜の願いを繰り返した。
ケサルは侍女に助けられながら衣冠を整え、窓の前に立って言った。
「しばらく遠出しなくてはならない。兵器へ行き、カチェの職人の鉄を作る技が確かに伝わっているか見てみたいのだ。
ギャツァは虹と共に姿を現し、自分を殺したシンバメルツを救った。シンバも自分は戦いの犠牲になるだろうと知っていて、戦場に倒れるのを良しとしている。だが、可愛そうに、領地に戻ると病に倒れてしまった。
そして、ダロン部にも行って、息子を失ったトトンを慰めよう。トングォの死がトトンの心を変えたかもしれない」
ジュクモは国王に同行したいと願ったが、国王は言った。
「やはりメイサと供に行こう。メイサは人々の心を落ち着かせるが、そなたは男を燃えさえるから」
ジュクモは不満だったが、国王は見ぬふりをし、ただ静かに命じた。
「母上がご病気だ。私が不在の間良く見舞ってくれ」
国王は領地巡行に出発した。
ケサルは、何事もなければ、自ら作り上げ広大な領地を巡行することはなかった。そのため、彼の通った多くの場所で、民は国王を知らなかった。彼らはケサルを身分の高い貴族としか見なかった。
色とりどりの旗を翻す一団が地平線に現れた時、民たちは慌てて牛や羊を遠くへと追い立てた。貴族の一団が、おいしそうに肥えた羊や牛を見てその場で宴を開くのではないかと恐れたのである。そこで、老いて弱った者、病人やけが人だけを道に残し、高貴な一団に向かって親指を立て物乞いをさせた。
ケサルは供の者に馬の上から食べ物を投げ与えさせた。時にはその中にサンゴや電気石、トルコ石などの宝石を混ぜた。
ぼろをまとった子供たちは、地面から宝石を拾い上げては狂喜し、仔馬のように跳ねまわり走りまわった。深いしわを刻んだ老人たちもその顔に喜びを堪え、天にひれ伏した。
ある者は駆け寄って慈愛に満ちた役人の脚に泣きながら口づけした。
物語 巡幸あるいは別れ
国王が目覚めると、傍らで眠っていたジュクモも目を覚ました。
「夢を見た」
喉も口元も完全に目覚めてはいなかったが、ジュクモの笑い声はくぐもることなく、いつもと変わらず谷川の流れのように爽やかだった。
「王様、寝ぼけているのですか。夢を見るのが不思議なことだとでも」
「夢の中で他の者の夢に入ってしまった」
国王の頭の中は常に戦いや国の大事が駆け巡っているので、このような身近な話題に触れることは少なかった。
「早く聞かせてください。他人の夢とはどんなものなのですか」
ジュクモは体を起こし、興奮気味に尋ねた。寝乱れた体は暗がりの中で真珠のように淡い光を発していた。
「それがはっきりしないのだ。まるで霧に覆われた谷にいるようだった」
ジュクモはか細い指で国王の胸をなぞり、すねたように言った。
「では、何を見たのか言えないのですね」
「不思議な男だった。私がリンでなしたすべて知っているようなのだ。すでになしたことを知り、まだなしてないことも知っていた」
ジュクモはしなやかな腕をケサルの首に回して言った。
「早く教えてください。王様と私はこんなに仲睦まじいのですよ」
ジュクモがあまりに近く引き寄せたので、国王は少し体を離した。
「まだ征服していない国がいくつあるのか。どうして雨後の筍のように、ここに一つ、あそこに一つと国が現われ、そのどれもが悪人が治め、私が征服しなくてはならないのか。聞いたのはそれだけだ」
ジュクモは期待した答えが返って来なかったので、背を向けて怒ったふりをした。国王はそれとは気づかず、話し続けた。
「その男は、知ってはいるが教えられないと言った。天に帰った私が、今の私に知らせてはならないと言ったそうだ」
ジュクモはそれを聞くと、またケサルの方に向き直った。
「では、私は。王様と一緒に天に戻るのですか」
ケサルは妃が何を言いたいのか分かった。
「そなたも一緒に帰ると、その男は言っていた」
「では、もう他に心配事はないでありませんか」
「まだやらねばならぬことがどれほどあるのか、やはり知りたいのだ」
その時ジュクモは母親のような気持ちになった。
「リン国のことで王様がどれほど悩んでいらっしゃるのかを思うと、ジュクモの心も痛みます」
そう言いながら、彼女はケサルをきつく抱きしめた。女性の熱い体、この世で最も美しく、成長したその日から衰えを知らない体は、これから現われるがまだ現われてない敵国のことを忘れさせた。
ジュクモは言った。
「王子ザラに英雄を率いて戦わせなさいませ。私はいつも王様のお側にいたいのです」
体を熱くたぎらせた男は何も言わなかった。
空が明るくなるころ、狂おしく燃えた世界もいつもの姿を取り戻し、ジュクモはまた昨夜の願いを繰り返した。
ケサルは侍女に助けられながら衣冠を整え、窓の前に立って言った。
「しばらく遠出しなくてはならない。兵器へ行き、カチェの職人の鉄を作る技が確かに伝わっているか見てみたいのだ。
ギャツァは虹と共に姿を現し、自分を殺したシンバメルツを救った。シンバも自分は戦いの犠牲になるだろうと知っていて、戦場に倒れるのを良しとしている。だが、可愛そうに、領地に戻ると病に倒れてしまった。
そして、ダロン部にも行って、息子を失ったトトンを慰めよう。トングォの死がトトンの心を変えたかもしれない」
ジュクモは国王に同行したいと願ったが、国王は言った。
「やはりメイサと供に行こう。メイサは人々の心を落ち着かせるが、そなたは男を燃えさえるから」
ジュクモは不満だったが、国王は見ぬふりをし、ただ静かに命じた。
「母上がご病気だ。私が不在の間良く見舞ってくれ」
国王は領地巡行に出発した。
ケサルは、何事もなければ、自ら作り上げ広大な領地を巡行することはなかった。そのため、彼の通った多くの場所で、民は国王を知らなかった。彼らはケサルを身分の高い貴族としか見なかった。
色とりどりの旗を翻す一団が地平線に現れた時、民たちは慌てて牛や羊を遠くへと追い立てた。貴族の一団が、おいしそうに肥えた羊や牛を見てその場で宴を開くのではないかと恐れたのである。そこで、老いて弱った者、病人やけが人だけを道に残し、高貴な一団に向かって親指を立て物乞いをさせた。
ケサルは供の者に馬の上から食べ物を投げ与えさせた。時にはその中にサンゴや電気石、トルコ石などの宝石を混ぜた。
ぼろをまとった子供たちは、地面から宝石を拾い上げては狂喜し、仔馬のように跳ねまわり走りまわった。深いしわを刻んだ老人たちもその顔に喜びを堪え、天にひれ伏した。
ある者は駆け寄って慈愛に満ちた役人の脚に泣きながら口づけした。