goo blog サービス終了のお知らせ 

塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 143 物語 巡幸あるいは別れ

2016-03-09 11:47:43 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304




物語 巡幸あるいは別れ



 国王が目覚めると、傍らで眠っていたジュクモも目を覚ました。

 「夢を見た」

 喉も口元も完全に目覚めてはいなかったが、ジュクモの笑い声はくぐもることなく、いつもと変わらず谷川の流れのように爽やかだった。

 「王様、寝ぼけているのですか。夢を見るのが不思議なことだとでも」

 「夢の中で他の者の夢に入ってしまった」

 国王の頭の中は常に戦いや国の大事が駆け巡っているので、このような身近な話題に触れることは少なかった。

 「早く聞かせてください。他人の夢とはどんなものなのですか」

 ジュクモは体を起こし、興奮気味に尋ねた。寝乱れた体は暗がりの中で真珠のように淡い光を発していた。

 「それがはっきりしないのだ。まるで霧に覆われた谷にいるようだった」

 ジュクモはか細い指で国王の胸をなぞり、すねたように言った。
 「では、何を見たのか言えないのですね」

 「不思議な男だった。私がリンでなしたすべて知っているようなのだ。すでになしたことを知り、まだなしてないことも知っていた」

 ジュクモはしなやかな腕をケサルの首に回して言った。

 「早く教えてください。王様と私はこんなに仲睦まじいのですよ」

 ジュクモがあまりに近く引き寄せたので、国王は少し体を離した。

 「まだ征服していない国がいくつあるのか。どうして雨後の筍のように、ここに一つ、あそこに一つと国が現われ、そのどれもが悪人が治め、私が征服しなくてはならないのか。聞いたのはそれだけだ」

 ジュクモは期待した答えが返って来なかったので、背を向けて怒ったふりをした。国王はそれとは気づかず、話し続けた。

 「その男は、知ってはいるが教えられないと言った。天に帰った私が、今の私に知らせてはならないと言ったそうだ」

 ジュクモはそれを聞くと、またケサルの方に向き直った。
 「では、私は。王様と一緒に天に戻るのですか」

 ケサルは妃が何を言いたいのか分かった。
 「そなたも一緒に帰ると、その男は言っていた」

 「では、もう他に心配事はないでありませんか」

 「まだやらねばならぬことがどれほどあるのか、やはり知りたいのだ」

 その時ジュクモは母親のような気持ちになった。
 「リン国のことで王様がどれほど悩んでいらっしゃるのかを思うと、ジュクモの心も痛みます」

 そう言いながら、彼女はケサルをきつく抱きしめた。女性の熱い体、この世で最も美しく、成長したその日から衰えを知らない体は、これから現われるがまだ現われてない敵国のことを忘れさせた。


 ジュクモは言った。
 「王子ザラに英雄を率いて戦わせなさいませ。私はいつも王様のお側にいたいのです」

 体を熱くたぎらせた男は何も言わなかった。

 空が明るくなるころ、狂おしく燃えた世界もいつもの姿を取り戻し、ジュクモはまた昨夜の願いを繰り返した。
 ケサルは侍女に助けられながら衣冠を整え、窓の前に立って言った。

 「しばらく遠出しなくてはならない。兵器へ行き、カチェの職人の鉄を作る技が確かに伝わっているか見てみたいのだ。
  ギャツァは虹と共に姿を現し、自分を殺したシンバメルツを救った。シンバも自分は戦いの犠牲になるだろうと知っていて、戦場に倒れるのを良しとしている。だが、可愛そうに、領地に戻ると病に倒れてしまった。
  そして、ダロン部にも行って、息子を失ったトトンを慰めよう。トングォの死がトトンの心を変えたかもしれない」

 ジュクモは国王に同行したいと願ったが、国王は言った。
 「やはりメイサと供に行こう。メイサは人々の心を落ち着かせるが、そなたは男を燃えさえるから」

 ジュクモは不満だったが、国王は見ぬふりをし、ただ静かに命じた。
 「母上がご病気だ。私が不在の間良く見舞ってくれ」

 国王は領地巡行に出発した。

 ケサルは、何事もなければ、自ら作り上げ広大な領地を巡行することはなかった。そのため、彼の通った多くの場所で、民は国王を知らなかった。彼らはケサルを身分の高い貴族としか見なかった。

 色とりどりの旗を翻す一団が地平線に現れた時、民たちは慌てて牛や羊を遠くへと追い立てた。貴族の一団が、おいしそうに肥えた羊や牛を見てその場で宴を開くのではないかと恐れたのである。そこで、老いて弱った者、病人やけが人だけを道に残し、高貴な一団に向かって親指を立て物乞いをさせた。

 ケサルは供の者に馬の上から食べ物を投げ与えさせた。時にはその中にサンゴや電気石、トルコ石などの宝石を混ぜた。
 ぼろをまとった子供たちは、地面から宝石を拾い上げては狂喜し、仔馬のように跳ねまわり走りまわった。深いしわを刻んだ老人たちもその顔に喜びを堪え、天にひれ伏した。
 ある者は駆け寄って慈愛に満ちた役人の脚に泣きながら口づけした。






阿来『ケサル王』 142 語り部 塑像

2016-03-03 01:55:14 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304





語り部:塑像 その2




 ジグメは晴れやかな気持ちで山を下りた。良い親戚と出会えたからである。

 宿に戻った。報酬以外にも、二日間の宿泊と食事が提供されていた。彼がこれまで寝た中で、一番清潔で一番柔らかいベッドだった。

 このベッドで、リンの国王ケサルが彼の夢に現れた。そのケサルは、少し困惑しているようだった。
 「妖魔の国はきれいさっぱり滅ぼしたはずだ。それなのに、なぜカチェなどという国が現われたのだろう」

 ジグメには答えようがなかった。

 ケサルは、誰かの夢に入り込んだと気付いているようでもあり、迷いのあまり独り呟いているだけだと思っているようでもあった。
 「この後、どのような国が現われて、私の敵となるのだろう」

 ジグメは言った。
 「オレはただの語り部です。あなたが自分のしたことを教えてくれるから語るんです。だから、それはオレに尋ねることじゃありません」

 「私には、これからどれだけのことが起こるのかは分からない。お前は私の物語をすべて知っていると言ったではないか。だったら教えてくれ。私が次に何をするのか」

 「オレが教えたら、天上界のあなたはオレを責めるでしょう。でももしかして、ある人を尋ねるのなら構わないかもしれない。その人は今あなたの新しい物語を書いてるんです」

 ケサルは尋ねた。
 「お前の夢でさえ、どうやって来たのか分からないのだ。その人物を訪ねるなど私には出来はしまい。やはりお前が行ってくれ。私はまた夢に入って来る。その時に伝えてくれればいい」

 このようなやり取りはまだ続くはずだった。だがその時、枕もとの電話が驚いたように鋭い音で鳴り始め、ジグメは夢を見ているのだと気づいた。
 リンの国王が子供のように好奇心いっぱいの表情で尋ねている。
 「何の音だ」

 だが、答えようがなかった。ジグメはすでに目を覚ましていた。

 ジグメは言った。
 「まだ近くにいますか。オレの声が聞こえますか。教えてください。いつ背中の矢を抜いてくれるのか」

 答えはなかった。
 壁に掛った額縁の中の美女の写真が、窓から射し込んでくる光線をチカチカと反射していた。

 ジグメは目を閉じて、また尋ねた。
 「まだ近くにいますか」

 答えはなかった。
 ケサルは夢に潜っていることしか出来ないのだ。そう考えると可笑しかった。
 「これからどんなことをするのか知りたかったんですね。では言いましょう。これからまだまだたくさんの国を征服し、リン国のために一つ一つ宝の蔵を開いていくのです。ケサル大王。あなたはこう言いたかったんですね。“宝馬もいつかは衰える。なのに、一人敵を倒せば、また別の敵が現われて、戦いはいつまでも終わらない”って」

 ジグメは柔らかいベッドに横になり、これから征服される国の名前を一つずつ挙げていった。

 ラダック、ソンバ・牛の国、ミヌプ・絹の国、メイリン・金の国、シャンシュン・真珠の国、ミュクグ・ラバの国、パーラ国、そしてカ国。
 ジグメは言った。
 「今のはオレが知っている物語から並べただけです。問題なのは、今新しい物語を書く人がいて、あなたに新しい国を征服させ、リン国に新しい宝をもたらせようとしていることです」

 「聞いてますか」

 声はしなかった。
 目を開けると、ベッドの向かいに掛かっている美女の写真が窓から斜めに差し込んで来る光にチカチカ光っているのが目に入った。
 写真の中の美女はもの言いたげな視線を投げかけている。もし話しかけて来たらきっと、昔出会った放送局の司会者のように柔らかく魅惑的なもの言いをするのだろう。

 不愉快な記憶が呼び起こされて、ジグメはベッドから起き上がり、服を羽織ると、美女に向かって言った。
 「くそくらえ!」

 二日間使える気持ち良い部屋に一泊しかせず、ジグメはまた先へと歩き始めた。
 一気に二つの峠を越え、風景は美しく、だが暮らしは辛く貧しい谷へと入った。

 ジグメはそこで、これまで誰も考えなかった問題に突き当り、その思い、というよりは疑問を口に出した。
 彼の疑問とは、もしケサルが次の夢の中で、征服された国からリンに集めた宝は今どこにあるのか、と尋ねたら何と答えればいいのか、ということだった。

 彼は会う人ごとに腕を掴んで尋ねた。
 「ケサルの宝はどこへ行ったんだろう」
 「ケサルの宝を見たことはあるか」

 ジグメは行く先々で尋ね続けた。そのためジグメが通った後で人々はため息をつきながらこう言い合った。

 「残念なことだ。あの仲肯は頭がおかしくなったようだ」

 「どんな風におかしいんだい」

 「リン国の宝はどこへ行ったかと聞いて回っている」

 「そりゃ、本当に変だ」

 ジグメは本当はこう言いたかったのだ。
 元のリンを名乗るこの地で、何故まだこれほどたくさんの人がこんなに貧しい暮らしに耐えているんだろうか、と。

 だが人からは、ジグメはケサルの宝を見つけたいのだとしか理解されなかった。






阿来『ケサル王』 141 語り部 塑像

2016-02-23 01:01:48 | ケサル
         ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304






説語り部 塑像




 ケサルはもう一度語り部の夢を訪れた。天に戻った後の神としてではなく、少なくとも外見だけは生身の人間であるリン国の国王として。

 語り部ジグメは、多くの場所を訪ね通り過ぎたが、どこへ行っても、ほとんどの人が天界のツイバガワがどんな姿だったかには関心を持っていなかった。たまに一、二枚の絵の中にその天界での姿が描かれていたが、他の多くの神々とほとんど見分けがつかなかった。

 誰もが心に刻みつけているケサルとは、人の世で戦馬に乗り鎧をつけ武器を手にしている姿なのである。

 ケサルが昔戦った場所では、役所が予算をつけて彫刻家を雇い、土、石、黒い鉄、ピカピカのステンレス、銅で似たような像を作っていた。博物館、町の広場、そして新しく開店したホテルのロビーで、ケサルは永遠に宝刀を持ち、腰に弓を下げ、悠然と馬に跨っている。

 当時のリン国は今ではいくつかの自治州になった。
 ジグメはその内の一つに招かれ、開店したホテルにケサル像を安置するための儀式で語ることになった。ホテルの経営者は浅黒い顔にケサル像と同じ八字ひげを油で光らせ、言った。
 「参列のお偉方たちはみな忙しい。だがら、短く語ればいい。一番面白い場面を選んでくれ」

 ジグメは聞きたかった。あなたの考えではどこが一番面白いですか、と。
 たが、彼は尋ねなかった。彼は気立ての良い語り部である。

 役人たちが塑像に掛けてあった赤い絹の布を捲り上げた後で、ジグメは思いつくままに語った。
 その日、彼はいつもの調子が出せなかった。このような場で出し物として語るのに慣れていなかったし、全身を金色に輝かせている像を好きにはなれなかったからだ。
 ただ、経営者が彼の手に押し込んだ封筒に厚みがあったのは嬉しかった。

 式典が終わった後、高原の賑わう町を歩いてみた。

 本屋で、ケサルを語る自分のCDがカウンターに並んでいるのを見つけた。ジャケットに使われているのは、語り部の帽子をかぶり六弦琴を手に、草原の草の上に座って語りに埋没している写真だった。
 ジグメはわざと若い女の店員にあれこれ話しかけた。自分だと気付いて欲しかった。うしろめたさを隠し、店員にどうでもよいことをいくつも尋ねたが、絶えず頬を動かしている娘は、彼が誰なのか分からなかった。
 ジグメは最後にこう尋ねた。
 「ずっと口を動かしてるけど、おいしいものでも食べてるのかい」

 娘はガムを大きく膨らませ、ジグメの目の前で破裂させると、振り向いて向こうへ行ってしまった。
 近くで本を読んでいた老人がジグメの問いの一つに答えた。
 この道を突きあたりまで行くと、何とか言うビルの二階に絵を描く作業場がある。若い画師たちが毎日そこで絵を書いている。その中の一人はあまりに描きすぎてもうじき目が見えなくなるらしい、と。

 ジグメはそこを探し当てた。
 二階が作業場で一階は旅行用品店だった。絵が出来上がると、店に並べられる。ケサルの絵はあるかと尋ねると、店員は二階へ行く階段を指さし、前の一枚は売れてしまい、新しいのはまだ描き上がっていない、と答えた。

 ジグメは二階へ上がった。数人の画師が明るく広々とした部屋で絵を描いていた。その中の一人の若者は絨毯の上に屈み、画布に向かって丁寧に筆を走らせていた。遠くからでも、描かれているのが自分の物語の主役だと分かった。彼の馬、彼の鎧兜、彼の刀と矢。
 近寄っていくと、画師は宝刀に色を付けていた。顔はまだ円のままで、円の中は下地を塗っただけだった。画布の繊維がまだはっきりと見えた。

 本屋でうまく話せなかったので、今回は恐る恐る尋ねた。
 「どうして顔を書かないんですか」

 若者はやはり答えようとせず、宝刀の刃の輝きを慎重に描き上げ、長く息を吐いてから面倒くさそうに言った。
 「明日、顔を書く前に祈祷するんだよ」

 言い終ると若者は筆を変え、他の色を含ませ、矢羽根を描き始めた。ジグメはまた尋ねた。
 「ケサル物語は知ってますか」
 画師は振り向きジグメをじっと見つめたが、何も答えなかった。

 ジグメは下に降り、店の中をもう一回りして、違うケサル像を見付けた。石に刻まれたケサルだった。青い石板、浅く刻まれた線、やはり馬に跨り剣を振るっている。ジグメはこの石板に描かれた姿の方が好きだった。
 店員にこの石像について尋ねた。

 「これも二階で作っているのかね」
 「山の上だよ」
 「山の上に誰かいるのかね」
 「山の上にはたくさん積まれてる。誰が彫ったのかは分からないがね」

 店を出て、ジグメは町のはずれでトラクターを雇った。ケサルの像がある山の上に行って欲しいと言うと、トラクターの持ち主は断った。
 
 「あんたも石像を盗むつもりなんだろう」
 「オレは石を彫る人に会いたいだけだ」

 いつの頃からか、ジグメはケサルと関係ある人すべてが自分とも関係している気がして、心の中では自分の親戚のように思っていた。
 当然、良い親戚もいれば悪い親戚もいる。CDを売る娘は悪い親戚で、若い画師は真面目に働いていたが少し偉そうだった。山の上で石を刻む人はきっと良い親戚だろう。
 思った通り失望はなかった。

 草地の縁に真っ直ぐに聳える樅の木が一列に並んでいる丘の上で、遠くから岩を叩くカンカンという音が聞こえて来た。
 風に吹かれ髪を乱した男が石に鑿を打ちつけていた。彫っているのはケサルの像だった。彫られた像は尾根道に積まれ長い壁を作っていた。

 ジグメは一つだけ尋ねた。
 「町で売るために彫っているのかね」

 風に吹かれて頬を赤くした男は積み重ねられた像を指さして言った。
 「オレたちは何代も何代もリンの英雄の像を刻んで来た。オレもその内の一人だ」

 次に石工がジグメに尋ねた。
 「あんたは石の像を売って金を稼ぐ奴らとは違うようだな」







阿来『ケサル王』 140 物語 ギャツァの霊 姿を現す

2016-02-15 01:23:48 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です http://blog.goo.ne.jp/abhttp://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:ギャツァの霊 姿を現す その4




 カチェ国の兄王ルヤもまた猛将で、この時まさにシンバと剣を交えていた。心に迷いがあったためか、シンバの動きは徐々に乱れ、押しつ戻りつしながら、心の中でこうつぶやいた。

 「英雄ギャツァよ、もし我が罪が償えたなら、天上で兄弟の契りを結ばせてはくれまいか」

 言葉が終わると、まるで時が動きを止めたかのように、果てしない大地が四方で旋回し、晴れ渡った空に虹が懸かった。

 そこに現われたのは戦神ウェルマではなく、はるか前に戦場で倒れたギャツァだった。

 シンバはカチェの兄王ルヤとの戦いを忘れ、すぐさま馬から降り、空の上のギャツァに頭を垂れ手を合わせた。
 ギャツァは腕を挙げ掌から稲妻を光らせると、シンバ目掛け刀を振り降ろそうとしているルヤへ向かって投げつけた。

 稲妻が止み、シンバはもはや命を取られたかと目を開けた。だがなんと、自分の体は無傷なまま、傍らでルヤが雷に打たれて焼け死んでいた。鎧と頭髪から黒い煙がいく筋も立ち昇っていた。
 天を見上げると、ギャツァが静かに微笑んで、虹と共に青く澄んだ空へと消えて行くのが見えた。

 王子ザラはといえば、剣を交えていた敵の大将を馬もろとも切り倒したその時、兵たちが喜びに湧き上がり、父の名前を呼んでいるのを聞きつけた。顔を上げると、虹に包まれた父の体が青い空に消えて行くところだった。
 思わず涙があふれ、大声で偉大な父の名前を叫びながら、馬をせかせて山頂へと駆け昇った。

 ザラが三回叫ぶと、消えかかった虹は色を戻し、ギャツァの姿が再び現れた。
 「こちらへ来なさい」

 王子ザラは馬に乗ったまま天へ昇って行った。そこにいた誰もが、息子が父の胸に顔を寄せ、父の手が息子の兜の赤い房を整えているのを目にした。

 ギャツァは息子の耳元で三つのことを伝えた。

  一 シンバメルツはリン国の英雄の列に加えられるべきである。

  二 弟ケサルはリン国を栄えさせた。感謝している。

  三 我が息子は英雄にして心正しい。天上の我が霊は慰められた。

 伝え終ると少しずつ姿を消していった。

 ギャツァの霊が現われて、リンの軍隊は勇気百倍、王子ザラはより一層力を漲らせ涙を流しながら叫んだ。
 「父が、私に力を与えた! ギャツァシエガの息子の行く手を阻むものに死を!」

 自らを天下無敵とみなし、英雄と呼ばれることを願ったカチェ王チタンは、雷鳴のような叫び声に一瞬隙が生じたのか、ザラに胸を一突きされ、口と首から同時に血の泉を噴き出し、天を仰いで馬から落ちた。

 チタンが最後に目にしたのは自らの夢が実現した姿ではなく、どこまでも澄み渡った青空が目の前を旋回し、徐々に暗くなり、そして永遠の闇に覆われて行くのを、ただ見ているだけだった。

 カチェの軍は国王と兄王が先を争うように命を落としたのを見て、戦意を失い、次々と投降した。

 勝利したリン国の英雄たちは中軍のテントへ押しかけた。ケサルはちょうどトングォの傷口を見ているところだったが、ため息をつき、トンザンの肩を抱き言った。
 「父親の縄を解いてやれ」

 タンマは怒りを爆発させた。
 「大王様、またこの裏切り者を許すのですか」

 ケサルの表情は厳めしかった。
 「トトン叔父は息子を亡くしたばかりだ。これを重い罰とは思わぬか」

 束縛から放たれたトトンはケサルに駆け寄った。
 「息子を救ってくれ!」

 ケサルは首を振り、テントを出て、後に従ってきた将軍たちに言った。
 「みなは兄ギャツァの霊を見たか」

 そこにいる者は同時に答えた。
 「ギャツァ殿は力に溢れ、戦神のようでした」

 「私は見ることが出来なかった。臨終のトングォを得度していたのだ。彼は罪深い父の代わりに死んでいった」国王は言った「兄が恋しい。天での再会を待ってはいられないほどに」

 この時トトンは体を折り曲げ地に伏し声をあげて泣いていた。

 ケサルは王子ザラに命じ、精兵を率いてカチェ国の王城に向かわせた。三月も経たずに、王子ザラは勝利して戻って来た。

 カチェにはすでにリン国の役人を送り、鉄の山の宝庫を開き、鍛冶師を連れ帰り、兵器で技術を伝えさせ、鉄を錬成する技術を高めていることを報告した。
 そこで作られた兵器と農夫のための鋤や鍬や鎌は、ただ強固なだけでなく、成熟した男のように、何に当たっても割れ砕けることのない柔軟さを持ったという。

 ケサルは大勢を引き連れ、寺で双方の戦死した魂を超度し、ギャツァシエガを改めてリンの戦神に封じた。









阿来『ケサル王』 139 物語 ギャツァの霊 姿を現す

2016-02-11 11:50:15 | ケサル
★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です http://blog.goo.ne.jp/abhttp://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304




物語 ギャツァの霊 姿を現す


呪術師の小隊がチタン王の軍団を追跡して五日目。

夜になると、東方の空に赤黒い戦雲が柱のように天を突いるのが見えた。そこで、疲れ果てた小隊をせき立て、大王に急を知らせようと前進を続けた。

ケサルはすでにそのすべてを見通していた。
「そろそろ、もう一度変幻の術を使う時が来たようだ」

その夜呪術師が率いる、急を知らせる小隊は、対岸も望めないほどに洋々とした湖に行きあたり、渡るに渡れず迂回して進むと、夜半も過ぎた頃、湖は月の光を浴びながら見る間に消えて行った。

さらに進んで明けの明星が昇る頃、眼前に亡者の巣食う断崖が現われた。兵士たちは地面に座り込み、それ以上進もうとはしなかった。
呪術師にもこの幻術を解く法がなく、崖に体を打ち付けて自害しようとしたが、死んでは大王に報告する者がいなくなると、地面にくずおれ声を挙げて泣き始めた。

「我が大王よ、あなたの傲慢と無知がカチェ国を葬ろうとしています!」

兵を率いる将校は呪術師が国王を誹謗しているのを聞いて、剣を振り降ろし、崖下で呪術師を切り殺した。
まさにその時、断崖は黎明の光の中で揺れ始め、がらがらと崩れ落ちた。

幻影の岩は誰も傷つけてはいないのだが、兵の大半は驚きのあまり命を失い、残ったものはカチェへと落ち延びて行った。
一人残された将校は、太陽が昇り、辺りには風が揺らしていく草と、鳥の鋭い鳴き声と共に足の上に落ちて来る露の他に何もないのを目にすると、絶望の内に剣を取り上げ国王の名を叫びながら自刃した。

その時、カチェの大軍はすでに姿を現し、昇り始めた太陽の下、宿営した地から出発していた。

朝目覚めた時からカチェの国王は心が落ち着かず、トトンに尋ねた。
「王宮のあるダズの街は間近いのか」

トトンは答えた。
「ここは我が領土、ダロン部です。国王は安心して前進なされ。あと二日馬で行けば王宮の金の頂が見えましょう」

だが、カチェ王はすでに戦の匂いを嗅ぎつけ、大声で命じた。
「この者を縛り上げろ!」

何本もの縄が一斉に投げられ、トトンを馬から引きずり下ろし、何重にも縛り上げた。

カチェ王は言った。
もし貴殿の計略が真なら、貴殿をリン国の王としよう。もし罠であったら、その証の矢が飛んで来た時、一番に命を落とすのは貴殿という悪党だ。

一刻も進まないうちに、目の前に低い山が現れた。山一面、野獣にも似た岩が荒れ草の陰にうずくまっていた。
カチェの軍は西から東へと進んでいた。山の頂から射しかかる強烈な太陽の光に山の上の形勢が掴めず、一列に並んで矢を放った。岩の砕ける音が止むと、周囲は再び静まり返り、ただ草の上を吹きすぎる風のサワサワという音だけが残った。

国王が手を振ると、大軍は矢のように襲いかかる太陽の光を真っ向から受けながら山を越えようと進み始めた。中腹まで来た時、真正面から暴風を思わせる轟音が起こり、矢がまるでイナゴのように群れを成して飛んで来た。カチェ国の兵も大将も鋭い叫び声と共に次々と倒れて行った。

カチェ王に二本の矢が襲い掛かった。一本は心臓を守る鏡を粉々にし、一本は首に刺さり、矢羽は蜂の羽音のようにぶんぶんと音を立てて揺れた。
カチェ王が唸り声をあげ自ら弓を抜くと、首筋から血が噴き出した。
王は続けて叫んだ。
「罠にはまった!トトンを殺してやる!」

だが、トトンは強運にも、矢に当たって倒れた馬の下敷きになっていた。
カチェ王が血眼で探しているところへ、束になった矢が再び唸りながら飛んで来た。カチェ軍は山の下まで退却するしかなかった。

戦いは続き、リン国の旗が立ち並ぶにつれ、待ち伏せにあったカチェ国の兵は大半が戦死していった。
リン国の大軍は山の上から堰を切った洪水のように襲撃した。

トトンの二人の息子、トンザンとトングォはここ数日父親の裏切りの知らせに屈辱を忍んできたが、この機に恥を濯ごうと、号令の旗が振られるやいなや、前面へと躍り出ようと馬に鞭を当てた。

駆けつける途中、トンザンは父の叫び声を聞きつけ、馬を降りて馬の下から救い出した。
なんと、父トトンは慌てて叫んだ。
「縄をほどいたらワシの命はなくなる。このままケサルの所へ連れて行ってくれ」

トンザンは仕方なく、兵たちが入り乱れて戦う中、父を助け起こすと、弟トングォが剣を振りあげながら山道を駆け下り、見るからに猛々しいチタンに向かって突進しているのが目に入った。

トングォはまだ若く血気にあふれ、雪辱の熱い思いに、健気にもひたすら剣を振って突き進んでいた。
チタンに三回打ちつけたがすべて空を突き、チタンが素早く腰から短刀を抜くと、トングォは前のめりのまま避けようがなく、一声上げると刺されて地に倒れた。

老将軍タンマと王子ザラが駆けつけてチタンの剣を受け、その矛先がトングォの胸を貫かないよう守った。

老将軍シンバメルツ、王妃アダナム、ジャンの王子ユラ等、英雄たちもそれぞれに敵の大将と懸命に戦った。
まず、魔国の娘アダナムがケサルから贈られた幻影の縄を相手に投げつけた。縄が手を離れると、九本の幻影が同時に飛んで行き、相手の鋭い剣は次々と幻影に切りかかり、九回切り付けてもすべて虚しく、馬に鞭打って逃げて行った。

今回、出征に臨んで、シンバメルツは占いをすると凶と出た。戦では凶多く吉が少ないと自らも知り、ケサルも信書をことづけて、出征しなくともよいと伝えたが、シンバは忠告を聞き入れなかった。

ホルの将軍だった時、リン国の大英雄ギャツァの命を奪ったシンバは、その罪を償うためには、リン国の大業のために戦場で死ぬべきだと考えていたのである。








阿来『ケサル王』 138 物語 ギャツァの霊 姿を現す

2016-02-06 02:36:47 | ケサル

★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 ですhttp://blog.goo.ne.jp/abhttp://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304




物語:ギャツァの霊 姿を現す



首席大臣は地団太を踏んだ。
「王様、トトンがチタンを殺しに行くなどと、本当に信じられたのですか」

ケサルは言った.
「トトンはチタンに取り入ろうとカチェへ向かったのだ。その計略を逆手に取ろうではないか」

「やつを殺すべきです」

「私が世に降ったのは妖魔を除くためだ。人から生まれ命に限りある者を殺せとの命は受けてはいない」

「では、我々はトトンのような輩に何も出来ないのでしょうか」

「出来るかもしれないし、出来ないかもしれない。それは、そなたたち人間の問題だ」

天から降った神の子がこう告げた時、いつもの暖かく穏やかな表情が一瞬にして冷酷に変わったのを、首席大臣は驚きと共に目にした。

「妖魔は倒せても、やつのような裏切り者とは共に過ごせということですな」

ケサルは首を振った.
「それは私に尋ねるべきことではない。そなた、具合が良くなったばかりなのにまた病の色が出ているではないか。もうこれ以上頭を悩ませてはならぬぞ」

ロンツァタゲンは独りつぶやいた。
「世の中とは真にそういうものなら、体の具合が良かろうと悪かろうと何の意味もない。長く生きれば、それだけ辛くなるだけだ」

首席大臣は再び病に倒れた。彼は国王に言った。
「もしそれを英雄たちに告げたら、一致団結して敵を倒そうという気概を失うかもしれません」

「だからそなただけに話したのだ」

冷厳だったケサルはまた暖かな表情に戻った。
「すぐにでも敵を誘き出す法を話し合おう。トトンがいなければ、このように早く勝利を収める機会は訪れなかっただろう」

首席大臣は死力を注いで国王と協議し、その夜のうちに、大軍は新しい戦場へと向かった。次の日、ケサルは幻術を用いてそこに戦陣を敷いた。

一方、トトンの木の鳶が地に降りるや否や、チタン王は出迎えに現れ、言った.
「夢で見た方とやっとお目にかかれた」

「国王よ、あなたが勝利した後、ワシをリンの王にして下さるなら、策を授けましょう。もしそのおつもりがないのなら、今すぐ殺してくだされ」

「あの日夢で貴殿を見てから、周囲からは、貴殿は勇敢な人物ではないと聞いておった。ところが、死の危険を冒してまで来られるとは。国王になるためなら何事でもなさるおつもりですな。よろしい、承知しよう」

「尊い国王よ、では天に誓って下され」

「我こそ天である。ならば、誓う必要はあるまい。トトン殿、事ここに至れば、貴殿の計略をお聞きしたい」

「国王よ、明日は、陣の前に敵の目を欺くためのわずかな兵のみ残せばよろしい。優れた兵たちは隠れ身の術で隠したまま、ワシが別の道を行かせましょう。そのままリンの王宮を陥れるのです」

「隠れ身の術?だが、千万の軍が通れば、食事や大小便の跡など、どうしても形跡が残るだろう。その隠れ身の術はどれくらい持ちこたえられるのか」

「ご安心を。この術は二日間効を表します。二日目には我がダロン部の領地を踏んでいるはず。その後は、どんな動きをしても、何も言う者はおりません」

「貴殿の幻術がリン国が仕掛けた周到な罠ではないと、どうしたら信じられるのか」

「国王は信じるしかありますまい。この策の他に勝利の可能性はおありですかな。何よりも、ワシがリン国の王となるのを渇望しているのと同じように、国王は勝利を渇望しておられるのでしょうから」

次の日、双方はどちらも出陣しなかった。
カチェの精鋭の兵たちはトトンの隠れ身の術に隠されて、密かに出発した。残された兵たちは旗を降ろし、陣を敷いたまま戦わなかった。
リン国の大陣営では色とりどりの旗が翻えり、兵馬の幻影が陣の中を盛んに動き回っていた。

正午ごろ、太陽の光と蒸気のため猛烈な熱気が立ち昇り、兵馬の幻影もそれに連れて揺れながら空へと登り始めた。
カチェの軍はそれを見て震えあがった。ケサルの兵はみな神兵、神将で、空に昇って戦うことが出来ると恐れたのである。

そこに留まっていたカチェの呪術師たちだけは幻術だと見破り、これはまずいと大声で叫んだ。
「そこにいるのは本当の兵ではない!大王様は策にかかったのだ!」

こうして、すぐに兵営を放棄し、兵たちをいくつかの隊に分けて様々な方向から追いかけたが、草原は果てしなく、先に行った大軍はトトンの隠れ身の術にしっかりと隠されていて、追跡の手立てがなかった。

分けられた小隊は、ある隊は沼に嵌まって溺死し、ある隊は野牛の群れに迷い込み行ったまま帰って来なかった。

呪術師は自分の小隊を引き連れ、力を振り絞ってチタン王の軍団を探し続けた。







阿来『ケサル王』 137 物語 ギャツァの霊 姿を現す

2016-02-02 03:14:46 | ケサル
        ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 ですhttp://blog.goo.ne.jp/abhttp://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:ギャツァの霊 姿を現す その2



 ジュクモは詩に通じたラマの元で音律について学んでいた。彼女が手ほどきした若い娘たちが捧げる歌や舞はこれまでにないほど細やかで優雅だった。

 彼女たちの舞い姿は、戦や、愛情や、労働の模倣を超えていた。
 風がそよ吹く様、水が流れる姿と調和して、聞く者それぞれがかつて感じたことのある温もりとなり、頭の頂から背に沿い体の奥まで注がれていった。ジュクモが自ら歌えば、それはなおさらだった。

 彼女が歌う時、ある者は雪山が腰をかがめるのを見たと言い、ある者は河の水が逆に流れるのを感じたと言った。

 流れ去った時は誰にでもその足跡を残していく。天から下ったケサルも例外ではなかった。
 だが、ジュクモはいつまでも、リン国の妃になった時のしなやかで麗しい姿のままだった。リン国の波乱に富んだ歴史をみなと共に経てはいないかのようだった。

 彼女の表情は天真で深い情愛に満ち、妃になる前にケサルが変身したインドの王子に心を動かしたことなどなかったようであり、ホルにさらわれてクルカル王の子供を生んだことなどなかったかのようだった。

 衰えを知らぬ青春と美しい歌声は聞く者一人一人の心を震わせた。生まれながらの麗しさに、目の前にいるのは仙女か、もしくは妖怪かとさえ思われた。
 彼女のために、純潔なものは更に純潔に、卑劣なものは更に卑劣になっていった。

 トトンが国王になる夢を見ていた時、国王の黄金の位の他に、最も多く夢の中に現れたのはジュクモだった。
 トトンにすれば、皆から奉られる栄誉は少なくとも自分が領有するダロン部で十分に味わうことが出来た。
 自分の心に蠢く野心をなだめる時は、ダロンは一つの国である、と自分に信じさせた。リンというさらに大きな国に統括されてはいるが、それはケサルもまた天上の更に高貴な神に統括されているのと同じようなのだと言い聞かせていた。

 それは、常に不満を残していたが、周りといざこざを起こさない最も良い方法でもあった。

 だが、王妃ジュクモの妖艶な様を目の当たりにして、真の国王のみが彼女を手に入れることが出来、彼女を所有出来るのだとはっきりと分かった。
 この世界には国王が座る黄金の王座は無数にあるが、ジュクモは一人しかいない。

 心の中でくすぶっていた野心の火種が燃え上がり、心の中のざわめきを抑えることが出来なかった。

 トトンは自分のテントに戻り、祭壇を設けて祈った。
 カチェの国王よ、無敵の魔力を顕して、その大軍が早く来させたまえ。
 彼はまたこうも祈った。
 もしその魔力が真に巨大なら、我が心からの願いを受けたまえ。

 リン国ではケサルを除けば、トトンだけが天から魔力を持つことを許された最後の一人だった。
 神は、人の世の妖魔を除くのと同時に、これから生まれるこの世の人間には神の力を与えなかった。妖魔がすべて除かれれば、神はもはや人を直接助けることはなく、それ以降は、人が自分で自分を助ける時代となるのである。

 トトンの祈りは真剣で、衰えることなく強力だった。

 大雪で黒い鉄の山に閉じ込められていたチタン王は夢の中でそれを受け取った。

 チタンは従軍の占い師に、山羊ひげを生やした老人が私の夢の中に入って来た、と伝えた。
 占い師は言った。王様は呪術師の夢をご覧になったのでしょう。
 チタン王は言った。その男は身なりも振る舞いも国王のようだった、と。
 その目をご覧になりましたか。
 その男の目は機知に富み狡猾だった。
 王様、お喜び申し上げます。この戦いは幸先よく勝利を収めましょう。もしケサルが天から降りて来なければ、その男がリンの国王になっていたのです。

 トトンは夢の中でチタンに告げた。
 大雪は半月ほどで止むでしょう。なぜなら、天には凍って雪になるための水がそれほど多くないからです。両軍が陣を組んで向き合った時、勝利の策を献上しましょう。

 果たして十五日間雪が降り続いた後、天は晴れ渡った。
 カチェの大軍は山を駆け降り、洪水のようにリンの草原に満ち溢れた。

 リンの大軍はすでに小さな山を背に陣を組んでいた。
 前に並ぶのは当然王子ザラ、トトンの息子トンザンとトングォの若い英雄たちである。シンバメルツ、タンマ等老将軍と共に陣の前線で敵を迎え撃った。

 攻めては引き、激しい戦いが三日間続いたが、勝敗はつかなかった。

 ケサルはテントの中にゆったりと座り、首席大臣と賽を振って遊んでいた。一方チタン王は、夢の中に現れたトトンがなぜまだ策を献上に来ないのかと焦りに苛まれていた。

 トトンも手をこまねいているわけではなかった。大きなテントに籠り、強い法力で隠れ身の木に念を送っていたのである。

 そろそろ加持の効果を試す頃だと考えたトトンがダロン部の陣へやって来ると、二人の息子トンザンとトングォが一丸となって相手の大将と戦っている様が目に入った。攻めては戻り、戻っては攻め、何度も渡り合い、どこも勝敗がつきそうになかった。

 トトンは二人の兄弟に何かあってはと、すぐさま呪文を唱え、鳥の翼のように広げた隠れ身の木を空中に放つと、二人の息子は背後で声を挙げている兵もろとも影も形もなくなった。相手の大将は大太刀を円盤のようにグルグルと振り回し、他のの陣へと向かって行った。
 その太刀の下、二人の千戸長が次々と切り殺され馬から落ちた。
 老将タンマが大将の行く手を遮って、陣はやっと元の形を取り戻した。

 トトンはしてやったりとほくそ笑み、名馬ユジアに跨ると中軍のテントへと走った。

 ケサルは笑いながら言った。
 「叔父上は、英雄たちが前線を塞ぎ切れないと恐れ、変幻の術で私も隠そうとやって来たのですね」

 「ワシは、隠れ身の術を使って敵の陣へ殴り込もうと、許しを得に参ったのだ。チタン王を殺せば、カチェの大軍は先頭を失い、自ずとリンから引き下がるだろうからな」
 
 「カチェの国王は無知で、身の程知らずにも兵を起こして世を乱しました。必ず滅ぼさなくてはなりません。無傷で帰らせるなどもってのほか」

 トトンは我が意を得たりとのぼせ上がった。
 「ここ数日、英雄どもは苦戦しながら勝利できずにいるようじゃ。国王よ、勝利を収めて城に帰りたいのなら、ワシに行かせてくれ」

 首席大臣は聞き入れてはいけないと合図を送ったが、ケサルは言った。
 「では、ご苦労だが行ってくれますか」

 こうして、トトンは意気揚々と木の鳶に乗って敵の陣営へと飛んで行った。







阿来『ケサル王』 136 物語 ギャツァの霊 姿を現す

2016-01-23 10:36:07 | ケサル
       ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 ですhttp://blog.goo.ne.jp/abhttp://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304                                        





物語:ギャツァの霊、姿を現す。

 近頃ケサルは毎夜のように夢を見た。夜夢の世界にいると、朝目覚めた時ひどく疲れていた。妃たちは、自分がもう国王の歓心を惹くことは出来ないのだと悲しんだ。

 ジュクモは言った。
 「私たちの王様は人の世の暮らしに飽きられたのです」ジュクモは言葉を補った。
 「何もすることのない日々に」

 妃たちは重い心のまま、人の世での意義ある行いを並べてみた。

 「狩をするのはどうでしょう」

 「無上の教えを修められたらいいのでは」

 「薬草について学ぶ」

 「病の老人を見舞う」

 「地下にある宝物や鉱脈を探す」

 「絵を学ぶ」

 「王子ザラに変化の術を伝授する」

 「陶工に新しい文様を伝える」

 「兵器により硬い鉄を錬成させる」

 この時、重い御簾の後ろから国王の笑い声が響いた。ずっと耳を傾けていたようだった。

 ケサルは言った。
 「夢で疲れ果てている私に、そなたたちはまだそのようなことをさせようというのだな」

 「では、夢を解く法を学ばれてはいかがですか」

 国王は言った。
 「このわずかな午睡の間にも夢を見たのだ。どんな夢か当ててみなさい。いや、当てられはすまい。沢山の鉄を見た。鋭利な鉄だった。兵器で錬成される鉄より、はるかに鋭かった」

 こう話しているうちに、報告に来た首席大臣が入って来た。国王は首席大臣がこんなにも矍鑠としていることに驚かなかった。

 国王は言った。
 「座って話そう。今、妃たちに言ったところだ。なぜ鉄の夢ばかり見るのだろうか、と」

 「それは夢ではありません。国王が英明にも見通されたのです」

 「どういうことだ」

 「斥候たちが調べて参りました」

 首席大臣は国王に、リン国の西にチタンという国王がいて、彼が治める国がカチェである、と伝えた。

 なぜ、これまでこの国のことを聞いたことがなかったのか、と国王が尋ねた。

 大臣は答えた。リン国との間を隔てているのは、黒い鉄の山で、その先にもう一つ赤い鉄の山があるのです。半日かからずに行かれる距離なのですが、その間に馬のヒズメがすべて擦り減ってしまいます。雷が落ちればその威力は十倍百倍となり、兵たちが進軍して行っても生還は望めません。

 国王は疑問を持った。そうであるなら、国王チタンはどうして兵を率いてこちらに攻め込もうとするのか。

 答えは、カチェ国では、この山の鉄でヒズメを作るので、山を上り下りしてもすり減らないのです。また、チタン王は羅刹の生まれ変わりで神通力があり、法術を使って雷を別の場所に落とせば、カチェの軍隊は何事もなく山を超えられます。

 ケサルは笑った。
 「私の夢の中の鉄には訳があったのか。ならばカチェという小国を倒せば、その鉄と鍛冶師は我々のものとなり、リン国は更に無敵となるということだな」

 そこで、すぐさま命を降し、各地の兵を集めた。幾日もせずに各の軍が到着した。

 英雄たちは我勝ちに進み出て、チタンの国をねじ伏せ、氷河の下の宝庫を開いて水晶を取り出し、湖の中の宝庫を開いてサンゴを取り出そうと、戦いへの思いを募らせた。

 トトンが、それは間違いである、カチェ国には他の国のような宝庫はなく、強くて盛んなのは鉄の山があるからだ、と皆を押し留めた。

 ケサルは言った。
 「今回英雄たちと各の兵に集まってもらったのは、遠征のためだけではない。今リン国は領土を広げ、皆とは遥かに隔たってしまった。そなたたちのことが懐かしく、チタンが乱を起こしたのを機に、合まみえようと思ったのだ」

 英雄たちは、国王がこれほど心のままに親しみの情を表わすのは、リンでの時間がもはや残り少ないからではないかと憶測した。
 シンバメルツたちは涙を隠さなかった。
 それとは逆に、ザラをはじめとする若い英雄たちは戦いへの決意を漲らせた。

 ケサルは神の力で、英雄たち一人一人の盃を酒で満たした。
 ケサルはみなに告げた。心置きなく飲み、ともに楽しもう。

 カチェ国の恐れを知らぬ大軍がリンに向かって出発していたが、神々の力を借りて大雪を降らせ、カチェの兵馬を山の中に閉じ込めておき、楽しみの日々を過ごしてから決戦に向かうこととした。

 こうして君臣共に心おきなく楽しみを尽くした。







阿来『ケサル王』 135 第三部 物語 困惑

2016-01-17 01:38:11 | ケサル
        ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です。http://blog.goo.ne.jp/abhttp://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304                                        


物語:困惑 その3




 国王は首席大臣に向かって言った。
 「出来るだけ早く敵を撃退するための協議しよう。その前にチタンという国王の国がどこにあるか調べるのだ」

 首席大臣の体に精気が漲り、砦の頂上に赤い旗を上げるよう命じた。四方へ送り込んだ斥候たちがすぐさま戻って来た。
 彼らは異口同音に報告した。
 「カチェ国のチタン王がリン国を攻撃しようとしています」

 「カチェ?以前、西の小国だと聞いたが」

 側の者が首席大臣に伝えた。

 チタンと呼ばれる国王が政を行うようになってから、カチェ国は大きく変わりました。
 チタンは羅刹の生まれ変わりで、位に着くとすぐネパーラ国を征服し、十八歳になったばかりでウェカ国を降伏させました。
 続いてムカ国に勝利し、その後各地で戦いを繰り返し、周りの小国を支配下に収めたのです。
 今まさに壮年期を迎え、民と財宝が増すに従いその野心も日ごとに増長しています。
 チタンは常にこう言っています。
 自分より地位が高いのは日と月だけであり、自分より勢力が強いのは閻魔王だけである、と。
 自らを天下無二の帝王と思い込み、そのため、世にもう一人ケサルという王が名を轟かせていると聞いてからは、兵を向かわせてリン国を倒し、正真正銘の天下第一の王になるのだと公言して憚りません。

 報告を聞き終ると、老英雄は大声で命じた。
 「よかろう!リン国の英雄たちは久しく戦っておらず、さぞ関節が錆び付いていることだろう。誰か、服を着替えさせてくれ。すぐに国王に報告に行くぞ」

 黒い裏地の赤い外套を纏うと、首席大臣の青白かった顔に赤みが差し、昂った想いで王宮へと向かった。
 残された僧たちは互いに顔を見合わせた。自分たちの祈祷が天に届いたのではないとことは、分かっていたからである。

 だが、首席大臣の病が癒えたことを伝える後の世の伝説の中では、僧たちの法術が世にまれな効験を現したとされている。
 しかも、老英雄ロンツァタゲン本人がこの言い伝えを否定してはいないのである。







阿来『ケサル王』 134 第三部 物語 困惑

2016-01-13 00:03:09 | ケサル
                                 
                                             ★ 物語の第一回は 
                                             阿来『ケサル王』① 縁起-1 です。
                                             http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語 困惑 その2



 ジュクモとケサルは哀しみを胸に城に帰って来た。
 その夜、国王と妃たちは心が沈み、だがこの憂鬱のために互いの想いが深く繋がっていった。妃たちの嫋やかさが、より一層去りゆく若さを思わせた。

 ケサルは一人重い心を大きな寝床に運んだ。長い間夢の中で天の母に会っていないのを思い出した。その時、天の母を思って発した自分の声を聞いた。
 「ランマダム、私の母よ」

 その時彼はすでに夢の中にいた。
 夢の中の寝屋の天井は透明な水晶で、見上げていると、自分の声に応えて、天の母ランマダムが宝石のようにきらきらと瞬く星の中から現われた。
 楽の音が哀しみとも喜びともつかぬ美しい旋律となり、漂うように降りて来る天の母の周りで五色の薄絹の帯ように舞っていた。

 暫くして、天の母の冷たい指が彼の額に軽く触れた。ケサルは、天から地に降りた神の、人の世での生死について尋ねようとした。だが、その冷たい指は滑るようにして彼の唇に触れた。何も言ってはならないという意味だと分かった。

 天の母が口を開いた。
 「みだりに生死について尋ねてはいけません。それは人間の問題です。あなたは人の世の国王となった神です、リンの幸と不幸についてのみ尋ねるべきです」

 「いつ天に帰るべきか尋ねようとしたのです」

 「リンを天国と同じような国に造り上げた時です」

 「天国がどんなところか覚えていないのに、どうして造り上げられるでしょう」

 母は尋ねた。
 「息子よ、今日はどうしたのですか。どこか悪いのですか」

 「天に帰る時、彼らを捨てていかなくてはならないのですか」

 「彼ら?」

 「首席大臣、人間界の父と母、ジュクモと妃たちです」

 「息子よ。なぜそんな考えで頭を満たすのですか。母はそのようなことに関わることは出来ません。母はただ大神の命を受けてリン国の先行きを伝えに来ただけです。また戦いが始まります。気を付けなさい」

 「私の向かうところに敵はいません。ご心配なさらずに」

 天の母に時が来た。いつまでも夢の中に留まってはいられない。
 話したいことはいくつもあったが、衣はすでに風をはらみ、なよやかな体は地上を離れ天へと漂い始めた。
 天へ漂い着いた母は最後の一言を彼の耳へと送り届けた。
 「敵に通じて謀叛を起こそうとする者がいます」

 誰が攻めて来るのか。誰が敵と通じているのか。誰が謀叛を起こそうとしているのか。
 夢の中にありながら、このような現実的な考えが、人の生死や美の衰えといった感傷をすっかり押しのけてしまった。

 これらの課題を抱えて、ケサルは再び病の中にある首席大臣を見舞った。
 僧たちが病で弱った大臣に祈祷を行っていた。国王の到着を知り、僧たちは下がった。

 ケサルは少し興奮気味に首席大臣に伝えた。
 「間もなく戦いが始まるようだ」

 「そのように昂っておられるのは、為すべきことが出来たからですね」

 ケサルには首席大臣の言葉の中の皮肉を聞き取った。人は平安を望むものだが、下界の神は功績を建てることを考える。

 ケサルは言った。
 「戦いに勝利し、敵を完全に滅ぼせば、その後は、リン国の民は安らかで平和になれるのだ」

 「そうでしょうか」
 首席大臣の言葉はやはり揶揄するかのようだった。
 「王様、あなたが平和を信じていらっしゃるのは分かっています。だが、王様のおっしゃるような世は実現しないのです」

 病のため、首席大臣は感傷的になっている。そう考えて、ケサルは彼の無礼を許した。

 それでも、首席大臣は言った。
 「王様、お許し下さらなくてもかまいません。ただし、私が病のために女々しくなっているとは思われますな。王様は神です。人間の苦しみを真から理解されることは出来ないのです」

 ケサルは言った。
 「私が世に降りたのは、そなたたちが魔物と魔物の国を亡ぼすのを助けるためだ」

  数人の僧が厚い御簾の後ろから現われ、国王に向かって低頭して言った。
 「王様がおっしゃったのは魔物のうちの一つです。もう一つの魔物とは人の心から生まれて来るものです。だとしたら、どのように対処されますか」

 この問いには答えようがなかった。そこで逆に尋ねた。
 「お前たちには方法はあるのか」

 「仏が伝えているのは、人が自ら心の魔と戦う無上の方法なのです」

 ケサルは笑った。
 「私は人の心の外の魔物をたくさん滅ぼして来た。天に帰る前にすべてを亡ぼすだろう。お前たちはいつ心の中の魔物を亡ぼすことが出来るのか」

 「人は次々と生まれ止むことはありません」

 「ならば、人の心の中の魔物は尽きることがないということか」

 「私たちはそのようには語りません。人々に希望を与えなくてはならないからです」
 
 ケサルは、この数人の僧のうちの一人が初めてリン国に来た僧だと気づいた。
 だが、この話はこれまでと、首席大臣の方を向いた。
 「各の兵を集めて戦いの準備をしなくてはならない」

 首席大臣はすぐに体を起こした。
 「どの国が攻めて来ようというのでしょう」
 
 「私もまだ分からない。だがすぐに攻めて来ることは分かっている。そして内部の裏切り者の助けを受けていることも」

 首席大臣は口を開き、その裏切り者の名を言いかけた。だが、ケサルは手をあげ、その名を呑みこませた。
 ケサルは言った。
 「敵に通じ謀叛を起こそうとするのは心の中に魔物を生んだためだろう。高僧の方々なら見分けることが出来るはずだ」

 「もしそれが姿を現せば…」

 「つまり、敵と通じる前は見ることが出来ないということか」

 僧は抗議した。
 「国王であっても無上の仏法を伝える僧にこのようなことをさせてはなりません。更に申し上げれば、人にとって、この世のすべては重要ではないのです」

 ケサルはまるで雪崩のように上から下へと表情を変え、あざけりから厳粛な面持ちへと変わった。

 抗議した僧はすぐさま口を閉じた。







阿来『ケサル王』 133 第三部 物語 困惑

2016-01-07 02:51:33 | ケサル
第三部



物語:困惑 その1



 リンでは、ケサルはまた長い間何もするべきことがなかった。
 あまりに長い間暇を弄んだ国王は妃に尋ねた。
 「一国の王として私は何をなすべきだろう」

 妃たちはみなジュクモを見つめ、彼女の言葉を待った。
 ジュクモは言った。
 「国王とは臣下を思いやるものです。首席大臣がここ数日参上していません。病気で臥せっているのではと心配です。見舞いにいらしていただけますか」

 国王はすぐに首席大臣を訪ねた。
 珍しい品々を携え、更に宮廷医を伴って具合を尋ねさせた。
 首席大臣は見舞いの品は受け取ったが、医者が脈を診るのは断り、体液を集める瓶を差し出されても受け取らなかった。
 首席大臣は言った。
 「これは病気ではありません、年老いて一日一日と弱っているだけです」

 「その後はどうなるのだ」国王は尋ねた。

 「尊敬する王様。永遠に王様をお助けし、輝かしい業績を残すのがこの老総督の夢でした。でも、私は間もなく死を迎えます。いつか、この寝床で眠ったまま目覚めなくなる時が来るのです」

 首席大臣は腕をまくった。
 「私の手は木の根のように干乾びてしまいました」
 首席大臣は目を見開いた。
 「私の目はもう二度と澄んだ泉のようには輝きません」

 国王は聞くほどに悲しくなった。
 「どうしてなのだ」

 「私たちは人間です、神ではありません。人間とは死ぬものなのです。この国でも毎日人が死んでいきます。国王もご覧になられたでしょう」

 国王は言った。
 「そなたは英雄だ。英雄は普通の人間とは違う。英雄はギャツァのように戦場で死ぬものではないのか」

 「戦場で死ぬのは英雄として最も望ましい姿です。だからといって、誰もがそのような機縁を持てるとは限りません。王様の大切なお妃様たちも同じです。少しずつ老いてゆき、死を迎える前に、美しい姿は失われるのです」

 この言葉を聞いてジュクモの目から涙がぽろぽろとこぼれた。ジュクモ悲しみのあまり、顔を覆って出て行った。

 首席大臣は言った。
 「みな下がってくれ。わしのこの体はいつまでもつか分からぬ。今国王にお伝えしたいことがあるのでな」
 仕えの者たちはみな下がった。首席大臣は姿勢を正した。

 「王様が天から降られたことはリンにとって何よりの幸せでした。ただし、この後、多くの英雄が目の前で命を落とし、愛するお妃様たちが老いさらばえて行くのをご覧になるのです。それは王様にとって耐え難いことでしょう。リン国の礎はすでに堅固に築かれました。王様もいつか天にお帰りになられましょう」

 「もう私にはなすべきことがないのかもしれない」

 「もう一つ、申し上げて良いのかどうか…」

 「言いなさい」

 「天に戻られる前に、トトンを亡き者にしてください。そうしてこそリン国の幾久しい繁栄は確かなものとなるのです。もしトトンを除かなければ、王様が去られた後、リン国は必ず乱れるでしょう」

 「トトンは邪な心から立ち返ったはずだが」

 「王様は神の慈しみの心で人を推し量られるので、奴の心に巣食う邪悪などお分かりにならないのでしょうな。ならば、約束して下され。何があっても奴が死んだ後で天に帰る、と。ただし、そのために、多くの英雄と大切な女性を失う哀しみを味わうことになるかも知れません。」

 「そなたは、先ほどは早く天に帰そうとし、今は引き延ばそうというのだな」

 「天に逆らおうとしているのではありません。ただ、王様以外にはトトンを抑えることは出来ないのです」

 「私は叔父トトンが何をしでかすのかは知らない。だがそなたの言葉を聞いて、私はひどく悲しい。人の世で生きる無常を痛いほどに感じた」

 馬に乗って帰りの道を踏み出した時、ケサルの心はどうしようもない哀しさに捕らわれていた。
 ケサルは、天蓋を差し掛ける者、茶を捧げ持つ者、服を整える者を遥か後ろに置き去りにした。

 ジュクモはずっと泣いていた。首席大臣が、彼女も死ぬこと、死ぬ前に美しさが衰えることをはっきりと明かしたからである。
 彼女は悲痛な面持ちで言った。
 「王様は天へ帰ることをお考えになるべきです。さもないと、英雄が一人一人老いてゆき、女たちが美貌を失った時、辛い思いをされるでしょう」

 この言葉に、ケサルは心の底から哀しみを覚えた。だが、口から出たのは冷酷を装った言葉だった。
 「もしこれらすべてが天の意志であるなら、悲しむことなどないではないか」

 ジュクモは言った。
 「王様は神様の知恵と力をお持ちです。でも、人の世に居れば人の心になるのが理でしょう。人の世の生老病死に哀しみを感じることもあるはずです」

 ジュクモの言葉が呪文でもあるかのように、ケサルは自分の心を意識した。
 それが胸の中で休むことなくどくどくと蠢き、ジュクモの言葉につれてひくひくと引き攣るのを感じて、確かで救いようのない苦しみに捕らえられ、微かな声で言った。

 「ジュクモよ、心が痛い」






阿来「ケサル王」第二部終了

2015-12-06 23:45:17 | ケサル
阿来「ケサル王」第二部を訳し終えました。
まとめてみたいと思います。


天から下った神の子ジョルは、競馬大会に優勝して妃ジュクモを娶り、リンの国王ケサルとなります。
ある日、妃が魔王にさらわれますが、そこから始まる二つの長い戦いに勝利し、その後も小さな国々を次々と配下に治めていきます。
地上をほとんど平定した時、ケサルは自分の物語を後の世に語り継いで欲しいという思いに捕らわれます。
ケサルが思い描いたのは、チベットで知らぬ者のない滑稽譚の主人公アク・トンバに似た人物でした。

一方の現代の語り部ジグメもまた、旅をしながら師に出会い、語り部としての力をつけ、その時代では並ぶもののない名声を得ます。
哀しいながら恋もします。
さらに自分の語りを確かなものにしようと、何かに導かれるように物語の起こった場所―塩の湖を探し求め、そのことで天から罰を受けてしまうのです。
そんな彼に子供が言います。
「このおじさんアク・トンバにそっくりだね」

これは二つの存在の成長の過程を描いた物語といえるでしょう。

ケサルが自分の物語を語って欲しいという思いを抱いた時、ケサルとジグメは夢の中で出会います。
ジグメが千年の後も自分の物語を語っていることにケサルは満足しますが、ジグメは逆に、現在ではリンの国がなくなっていることをケサルに告げると、ケサルへの同情のあまり夢から逃げ出してしまいます。
夢から覚めて、千年後リンの国が存在しないことを知ったケサルは、自分の行いの意義について悩みます。
その頃、語り部ジグメは、書く語り部が新しい物語を著わす場に行き会います。新しい物語にケサルが戸惑うのではないかと心を痛めると同時に、神はすべての物語を自分に授けたのではなかったのかと悩むのです。

壮大な「ケサル」叙事詩の世界の中で、二つの存在が人の世の哀しみに出会い、ぞれぞれに向き合い,それぞれを思いやっていく様を阿来は美しく描いています。

第三部では、ケサルは漢の国と戦い、ジグメはもう一つの物語の場を訪ねて行くことになります。

阿来『ケサル王』 132 語り部 埋蔵

2015-11-30 18:09:56 | ケサル
語り部:埋蔵 その4



 ジグメは跪き、新しいケサルの物語が書かれた原稿に額を触れた。

 ラマはかすれた声で尋ねた。
 「この物語を語りたいかね」

 「でも、オレは字を知りません」

 皆は声を漏らさずに笑った。

 ラマも笑った。
 「あなたがこの物語と縁があるかどうか、私には分わからない。それは神のお示しがあってからのことだ。あなたが遠くから来たのは、この物語と確かな縁があるのだろう。だが、神のお示しがあるまでは、教える訳にはいかないのだ」

 ジグメは言った。
 「オレの物語は神様から授かったんです。誰かに教わるのではありません」

 ラマは機嫌を損ねる風もなく、首をかしげてじっと耳をそばだて、言った。
 「そのまま、動かないで。あなたの体の中に何か奇妙なものがあるようだ」

 「何ですか」

 「分からない。ゆっくりと感じ取ってみよう。あなたはやはり普通の人間ではないのかもしれない」

 ラマは閉じた目を、光が降り注ぐ天窓へ向けた。
 かなりの時が経ったが、何も起こらなかった。
 学者、学者の学生、県から来た幹部たちはみな、ラマがわざと玄妙に振る舞っているのだろうと、組んでいた足を伸ばし、小声で囁き合ったり、低く咳き込んで喉にたまった痰を壁の隅に吐き出したりした。

 ラマは目を開けて言った。
 「信じられないなら終わりにしよう」

 皆は笑った。
 「信じていますとも」
 だがその笑い方から、信じていないのは明らかだった。

 学者と彼の学生、当地の役人たちはラマと話し始め、ジグメは一人部屋を出て、山の斜面へとやって来た。
 草の上に寝転がると、周りにはたくさんの花が揺れていた。枯れ始めた花や、今が盛りの花や。

 口ではずっと仏の名を唱えていたが、頭の中ではラマが空行母の体を通して神秘の啓示を受ける時の光景ばかりが浮かんでいた。
 啓示が降りて来るのは見えず、男と女が交わる画面だけが見えた。
 想像すると心が悶えた。

 そんな自分に怒りを感じたジグメは立ち上がり、新しいケサルの物語が生まれた場所を去って行った。

 途中、思いが屈折したジグメは天に向かって言った。
 「神様、まだオレに教えていない物語が本当にあるのですか」

 この時、ラマは座禅用の椅子の上で姿勢を正し、撮影を続けているカメラに向かって言った。
 「私とあの仲肯はまた会うことになるだろう」

 学者は言った。
 「彼はすぐに帰って来ると思います」

 「いや、彼はもう行ってしまった」






阿来『ケサル王』 131 語り部 埋蔵

2015-11-26 22:39:28 | ケサル
語り部:埋蔵 その3




 ジグメが村に戻った時、クンタラマの修行はすでに終わっていた。
 ジグメはラマに会うよう連れて行かれた。

 ラマが住んでいるのは小さな建物だった。下に三つ部屋があり、その中の一つは階段で三分の一を占められていた。上には部屋が一つだけあった。
 ジグメが下で立っていると、上の小さな部屋に向かって誰かが声をかけた。

 「去って行った仲肯が戻って来ました」
 上から声がした。
 「入ってもらいなさい」

 ジグメは階段の前に積み重なった靴の隙間で靴を脱ぎ、上の部屋に入った。
 天井が低く、自然と体をかがめることになった。沢山の人が膝をすり合わせるように座っていた。
 学者とその学生の姿も見えた。

 学者はノートを広げ、修士はテープレコーダーを持ち、博士のビデオカメラは三脚に備え付けられていた。
 前回は見かけなかった幹部らしい人も大勢いた。
 学者は体をずらして彼に場所を空けた。

 その時ジグメを呼ぶ声がした。
 「その方に前へ来てもらいなさい」
 皆は立ち上がって彼を前へと進めさせた。
 やっとクンタラマの顔が見えた。

 この部屋には頭の上の小さな天窓しかなかった。
 高原の強烈な光が天窓から直接射し込んで、彼とクンタラマの上に落ちた。
 彼とラマの間の小さな机に落ちた。

 ラマの顔は痩せこけ、蒼白く、胡坐を書いて机の後ろの座禅用の席に座っていた。
 彼はジグメに向かってほほ笑んだが、その笑みを一瞬で消し、続けて問いかけた。
 「外は春のようだな」
 その声はか弱くかすれていた。

 ジグメは言った。
 「もうじき夏が終わります。牛蒡の花も終わりです」

 ラマは言った。
 「そうか、そんなに経ってしまったか。こもった時は冬になったばかりで、夜、河の氷が裂ける音を聞いた。やっと春になったのかと思っていたが、本当に夏が終わってしまうのか」

 「夏はもう終わります」

 「そうか…」

 ラマは長くため息をつき、目を閉じ、黙り込んだ。
 疲れているようでもあり、心の中の想いに浸っているようでもあった。
 誰もが息を呑み、部屋の中にはビデオカメラの回る音しかなかった。

 ラマが再び目を開けるのを待って、ジグメは言った。
 「あなたの寺へ行きました。新しい修行堂はもうすぐ完成します。オレはあの部屋に入って、戦神ケサルの鎧に触りたいたいんです。でも鍵が一つ足りなかった。あの部屋の鍵を持っていますか」

 クンタ・ラマは彼の話が耳に入らないようだった。
 ラマは小指を伸ばし、長い爪を仏に供えた灯りの油にほんの少し浸し、ひび割れた唇に塗ると、言った。

 「菩薩が空行母を通し示してくださったので、私の心の中の知の蔵が開かれた。昨晩夢を見て、縁のある者が開かれた宝蔵を四方に伝えて行くだろう、と告げられた。縁のある者とはあなたではないだろうか」

 神から授かった語りを勝手に増やすことは出来ない、と言おうと思っているうちに、ラマは指を唇の前に当てて、ジグメの口をつぐませた。

 ラマは後ろ向きに座り直し仏壇に香を焚いてから、仏壇の下から黄色い布で包まれたものを取り出し、机の上に置いた。
 黄色い布を一層また一層と開いていくと、経典と同じ作りの細長い原稿が現れた。
 フラッシュが焚かれ、シャッター音が次々に響いた。

 ジグメは尋ねた。
 「それはどんな物語ですか」

 「ケサル大王が新しい国を倒して、魔物が守っていた宝の蔵を開き、リンに新しい宝と幸せをもたらすのだ」

 クンタラマは原稿の一番上の一枚を取り挙げ、ジグメの手に渡そうとした。
 「あなたのことを夢に見た。それは菩薩が、掘り出した宝蔵をあなたに渡して四方に伝えるようにと告げているように思えたのだ」

 ジグメは指先で紙をぽんぽんと弾き、すぐにひっこめた。

 クンタ・ラマは驚き、動きを止めた。

 学者が声をたてて笑い、気まずい空気がほぐれた。

 「ラマ殿、彼は字を知らないのです。あなたの書かれた物語を読めません。私にお見せください」

 ラマが素早く手を引っ込めたので、学者の伸ばした手は宙に浮いた。
 今回は彼が気まずくなる番だった。

 ラマは言った。
 「悪いことをした。もしこの仲肯が縁のある者でなかったら、やはり菩薩のお示しを待とう」

 ユーモアには縁のないクンタ・ラマが一つ冗談を言った。
 「もし、菩薩が自分で語れとおっしゃったら、その時は私が語ろう」

 こう言った時、彼はわざと、もともとかすれていた声を更にかすれさせた。
 「いつかもし、ラマの姿の仲肯が新しい物語を語っているという噂を耳にしたら、それは私だ」

 誰も笑わなかった。

 ラマは軽い笑みを浮かべ
 「これは本当だ。菩薩がもし私に語らせようとおっしゃれば、私は語ろう」

 部屋の薄暗い隅から女性のすすり泣きが伝わって来た。皆の視線の中に現われたのは、浅黒い顔の中年の女性だった。

 ラマは言った。
 「私の妻だ」

 学者が女の学生にそっと教えているのがジグメの耳に入った。
 クンタ・ラマはニンマ派に属している、ニンマ派の僧は妻を持つことが出来るのだ、と。

 博士は女性に向けていたビデオカメラをラマに向けた。
 「彼女がラマの空行母ですか」

 ラマはきっぱりと答えた。
 「私が物語りに入る時、天の菩薩が私を導いて下さる時、彼女は私の空行母である。彼女は私が本当に仲肯のように四方を彷徨うのを恐れている。だから泣いているのだ。私は彼女に言った。私は仲肯ではない。私は掘蔵のラマだ、と。だが彼女はどうしても信じないのだ」

 ラマの真面目な話しぶりが、却ってその場の笑いを誘った。

 厳粛だった雰囲気が和らいだ。






阿来『ケサル王』 130語り部 埋蔵

2015-11-22 20:34:40 | ケサル
語り部:埋蔵  その3



 ジグメも掘蔵とはどういう意味か知っていた。

 昔偉いラマが伏蔵、即ち地下に埋めておいた経典を掘り出し、人々の前に現して世に伝えていくことである。

 博士は、ラマがケサルを書くのは掘蔵の一種なのだ、と言った。
 土の中から掘り出すのではなく、人の心の中、自分の頭の中から掘り出すのであって、掘りだされたものは心の中に仕舞われていた「心蔵」であり、意識の中に仕舞われていた「意蔵」なのである、と。

 ジグメは学者に尋ねた。
 「それでは、あなたの本も、書くいたのではなく掘り出された“心蔵”なんですか」

 「私の本は書いたものだ」

 「それなら、クンタラマはどうして違うんですか」

 「ラマは自分でも掘蔵人だと思っているし、人々も、掘り出しているのであって、書いているのではないと考えているからだ」

 「と言うことは、これまでの語り部はケサルの物語をすべて語り終ってはいなくて、だから、ある人の頭の中にまだ語られていない物語が詰め込まれということなんですか」

 博士は自分の教官を見ながら、おずおずと言った。
 「ラマが語ったこところによると、そのように理解できますね」

 学者は答えず、ジグメを見ていた。ジグメに話させようとしたのである。
 ジグメは、それは間違っていると言いたかった。
 なぜならケサルの物語は千年以上語られてきて、人々はとっくにすべての物語を知っているのだから。

 だが彼の口から出たのはこんな言葉だった。
 「では、新しい物語とは何ですか。ケサルが倒した国にまた新しい国が生まれるんですか」

 学者もためらいながら言った。
 「もし、本当にそうだったら?」

 「一つの国が生まれて来るのは草原のキノコが伸びるように簡単だと思ってるんですか。オレの物語の中では、リン国と敵対した国はきれいさっぱり消されてしまったままです」

 三人の学者はみな笑い出した。
 そのいい加減な態度にジグメは怒りだした。怒って、大股に村を去って行った。
 一気に二つの山を越え、一日で二日分の道を歩いた。

 二つ目の峰の中腹に、大掛かりに建設中の寺が現われた。
 ジグメはそこで、クンタラマはもともとこの寺の住職の一人であり、他のラマと共にそれぞれ一つの修業堂を主催しているのだと知った。

 一つ気付いたのは、この寺ではクンタラマはあの村でのようには尊敬されていないことだった。
 僧たちが彼を話題にする時は、遠慮のない口ぶりだったのだ。

 「クンタ・ラマはちょっと変わってますね」

 「クンタ・ラマですか。自分では深い修業したようです、でも、彼のもとにいても何も得られません。ここじゃ話にくいですが」

 こう話したラマは近視眼鏡をかけた、いかにも真面目な若者のように見えた。
 彼は恥じらうような笑みを浮かべて言った。
 「少しして、私は今のラマの下に移りました」 

 現在の彼の師はかなりの名声があり、信徒は国内外に及び、国を出れば一度に多くの金を集めて帰って来る。
 間もなく出来上がるこの修行堂には、一千万を超える金が使われていた。
 それより以前にも,別の住職は集めた金で自分が住職となる修行堂を建てていた。

 「では、クンタ・ラマは」

 「彼は辛かったでしょう。心を無にして修業し、表立って法術を行わず、知る人は少なく、金も集められませんでした。その後、ラマはここはうるさすぎると去って行き、他に小さな修行場を作ったのです」

 「ラマは戻ってこないのか」

 「ラマはずっと鍵を返すと言っていましたが、まだ戻って来ません」

 「彼の修行堂の鍵か」

 「彼の修行堂には鍵はありません。寺を守る宝の部屋の鍵です」

 この寺の宝とは古代の鎧で、ケサルがこの世に残したものだと言われている。
 
 ジグメは宝を見たいと頼んだ。
 それでも、扉に空いた小さな窓から部屋の中に鎧がぼんやりと浮かび上がるのを見ただけだった。

 扉にはたくさんの鍵がかかっていた。
 鍵は修行堂の主であるラマたちが一つずつ持ち、全員が集まって初めて開けることが出来る。
 だが、ラマたちはここ何年も集まったことがなかった。

 伝説のケサルの鎧を見てもジグメは感動しなかった。
 廊下の奥の薄暗い部屋から離れ、ジグメは空に向かって願った。

 「ケサルよ、もしこの鎧を着たことがあったなら、戦いの時、あなたの体の上で威光を放っていたのなら、どうかオレに知らせて下さい」

 すぐに夕焼けが空を染め、その後、星が一つ一つ天に瞬いた。
 だが、何の奇跡も現れなかった。
 夜に夢をみることもなかった。

 新しい一日の太陽が昇った時、ジグメが足に任せて寺の向かいの山へと歩いて行くと、職人たちが落成の近づいた修行堂に大きくてまばゆい金の頂を据え付けているところだった。
 だが、ジグメはその金の頂がどれほど美しいのか気にかけて見ようとしなかった。

 彼は心の中でクンタ・ラマのことを、自分の頭の中からケサルの物語という宝蔵を掘り出すクンタ・ラマのことを思っていた。
 思っているうちに、ジグメは突然向きを変え、もとの道を引き返した。

 ラマが書く新しい物語を手に入れられるかは分からないが、日増しにきらびやかになって行く寺院にいくらかの失意を抱くラマと会わなくてはならない、と自分に言い聞かせて。