塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 118 語り部:塩の道

2015-08-30 03:45:00 | ケサル
語り部:塩の道 その4



 初めの頃、ジグメは自分の歩みが物語りに遅れてしまうのではないかと心配だった。
 今は更に、自分の行き過ぎた好奇心のために天の神々は物語を取り上げてしまうのではないかと心配になった。

 ラマにしっかりと尋ねようと考えた。
 だが、朝起きるとラマは別れも告げず去っていた。
 彼の傍らの草地にうっすらとした人の形が残っているだけだった。
 それはラマが眠っている間に残したものだ。

 朝飯の時間になると、押し倒された草は起き上がり、ラマが残した跡は消えていた。

 ジグメは塩採り人の隊列に付いて山の麓の村へ入った。
 村の入り口で最初に会った村人が言った。
 「あんたたち、今年は来るのが五日遅かったね」

 「で、あんたは何と交換したいのかね」

 「今じゃどの村も塩は足りている。だが、家には鉄の鍋が一つ余っている。これと交換しよう」

 笛を吹く少年は言った。
 「鉄の鍋なら買うことが出来るよ。食べ物と替えたいんだ」

 農夫はユーモアたっぷりに言った。
 「そうだよな。ワシの家の近くの店には上等な塩だって売ってるぞ。ワシらは役に立たないものと役に立たないものを交換してるだけさ」

 この村の農民たちはみな、千里の道を塩を運んで来る牧人たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 そこで、二、三個の不要な物を持って来て、すでに必要のない純粋とはいえない湖の塩と替えた。
 陶器の甕、麦、干した野菜、灯油(村には電気があった)、麻の糸…実際にはこれらのものは今、草原で簡単に手に入る。

 もし数十里歩いて村に行き、県城に行けば、商店で買うことが出来る。
 もし、村まで物見遊山に行きたくないなら、店は、三日に一度くらい小さなトラックを雇って、放牧しているテントの前まで品物を運んでくれる。

 それでも、塩採り人たちはそのまま南へ向かい、一日に三つの村を訪ねた。

 彼らは農夫たちがすでに不要になった塩で、彼らが今では家の前で手に入れられる物と交換した。
 クルミ、干した果物、粉、ウイキョウ、自家製の青稞酒、工場で作られたビール。
 彼らは買った酒を飲み尽くすつもりだった。

 どの家でも、何代にも渡って交換し合って来た牧人たちに、食事して行きな、泊まって行きな、と誘いの声をかけた。
 村人たちは言った。
 「来年はあんたたちのうち、半分も来ないんだろうな」

 「今年も来るはずじゃなかったんだが」
 老人は笛を吹く少年を前に押し出し、
 「この若者に道を覚えさせた。もしいつかまた必要になったら、知らせてくれ。こいつがすぐに塩を運んでくるから」

 夜、塩採り人たちはやはり村の外で野宿した。
 村からはたくさんの食べ物が届けられ、その後の数日で彼らが手に入れた物は塩の価値をはるかに超えていた。

 だが、このようにたくさんは持って帰れない。
 朝、去る時、彼らはそれらをきちんと並べて村の入り口の胡桃の木の下に置いた。

 村は薄い霧に覆われ、まだ目覚めていなかった。

 こうして南へ向かうと、土地はだんだんと低くなり、谷は開け、村も密集して来た。
 ジグメは何日も口を開かずにいたのでついに我慢できなくなり、塩と交換に来た農夫を捕まえて尋ねた。
 「ここは昔のジャン国なのか」

 農夫はジグメのあまりに真剣な表情に少したじろぎ、塩売りの老人の方を向いて尋ねた。
 「こいつはどうしてこんなこと聞くんだ」

 老人は言った。
 「ここは、これまでずっと、北から運ばれる湖の塩に頼って来たのかと聞いてるんだ」

 「前はそうだった。今は違うがな」

 羊の群れが担いで来た塩の交換はこの日すべて終わるだろう。
 そこで、ジグメは心の中に閉じ込めて来た問いを抑えきれなくなった。

 彼は老人に尋ねた。
 「これまでずっと、ここにしか来なかったのか」

 老人は答えた。
 これまではもっと遠い場所へ行くこともあった。平らに広がっていた谷が消え、地面がまた昇りはじめ、地平線にまちまちな高さの雪の峰が立ち現われる場所まで来て、やっと方向を変えた。だが、今回は別れの旅だ。だから、今までのように沢山の塩を持ってこなかった、と。

 「昔のジャン国へも行ったことがあったんだろう」

 「ワシはこの年になるまで、多くの仲肯の語りを聞いて来た。
  だが、ワシらのような物語を聞く人間にそんなことを聞く仲肯はいなかったぞ。
  
  物語は物語だ。ここが物語の中のどこかなんて、誰も考えたことなどなかった。

  ワシらはここから草原に戻る。ここでお別れだ」

 塩を採り、塩を売る牧人が目の前から少しずつ遠ざかって行くのを見ながら、ジグメの心の中に突然はっきりとした感覚が沸き上がった。
 この感覚は彼の心臓に噛みつき、すべての筋肉にまで噛みついた。

 彼は続けて南へ向かい、まだ辿るべき跡のある塩の道を行こうと思った。

 彼はもう少し早く歩こうと思った。なぜなら物語は確実に彼の前までやって来ているのだから。










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