語り部:サクランボ祭り その1
ジグメの中には二人のケサルがいる。
一人は、自分が語る英雄物語の主人公。
もう一人は、ジグメ自身もその夢の中に入ったことのある、リン国の王としてのケサル、人間の世に降って務めを成し遂げたケサルである。
その夢はあまり鮮明ではなかった。
思い出せばそれは、色なしで薄暗く、絶えずチカチカと震えているぼんやりとした映像のようだった。
ジグメはこの夢の中のケサルのほうが好きだった。
夢の中のケサルと別れたその時から、ジグメは再び夢の中に入れる日を待ちわびた。
あの日、夢から覚めた後まず思い出したのは、二人で交わした言葉ではなく、自分の背に確かに矢が刺さっていることだった。
それは神人がジグメを探索の旅から連れ戻すために放った矢だった。
だが、服を全部脱いで体の隅々まで触ってみても、その矢の痕跡さえなかった。
もしまたあの夢に戻る機会があったら、必ずケサルに抜いてもらい、記念にとっておこう、とジグメは考えていた。
だが、またあの夢に戻れると信じているわけでもなかった。
幸いにもジグメは結果にこだわる人間ではなく、心の中でこうつぶやいた。
まあいいさ、矢は残しておいて、背骨の一部分としよう、と。
そう考えて気持ちが軽くなった。
この思いを胸に、ある町で語った。
町では、役所の企画のもと新しい祭り―当地で生産される果物の名前を被せたサクランボ祭りが開かれていた。
もともとこの町ではサクランボを作っていなかったのだが、ある果樹の専門家がこの地の独特の気候、特別な土壌に目をつけ、役所に提案して、小麦にとってはあまりに痩せた谷の斜面にサクランボを植えさせた。すると、質の良いサクランボが採れた。
役所がこの祭りを開いたのは、山の外へとサクランボを売り出すためだったのである。
ジグメは招かれてこの町で語った。
小さな町に多くの人が集まっていた。
サクランボを売る商人、記者、町の役人よりもっと地位の高い役人たち。
ジグメにも旅館の一部屋が与えられ、部屋に置かれた宣伝用の品々には、彼が語り部の衣装に身を包んだカラー写真が載せられていて、彼を喜ばせた。
昼間、開幕式の後の出し物の中で、ジグメは短い一節を語った。
調子が出る前に拍手が起こって、それまでとなった。
舞台を降りないうちに、真っ赤なサクランボに扮したサクランボ娘たちが陽気な音楽と共に上がって来た。
ジグメは体を舞台の端に貼り付け、ころころとしたサクランボ娘の一群が掛け上がって行くのをやり過ごしてから、やっと舞台を降りることが出来た。
夜には、河のほとりの果樹園に組まれた宴会用の大きなテントの中で語った。
町長は言った。「今回は少し長く語ってかまいませんよ。ところで、何を語って下さるのかな」
「ケサル、クチェを助けてジュグを降す、を語ります」
町長は喜んだ。
「それはいい。この戦いで、ケサルは山の中のジュグの蔵を開き、勝利を収めて国に帰るのだからな。我々のサクランボ祭りにも、良い成果があるように。乾杯」
幸いにも、町長と遠くからやって来た果物商を除き、ほとんどの人が聞きたいのは物語であって、物語のそのような結果ではなかった。
祭りが終わる前に、ジグメは町を出た。
途中人に会うごとにどこから来たのか、どこへ行くのかと尋ねられた。
ジグメは答えた。
サクランボ祭りから来たが、どこへ行くかはわからない。
相手は笑って言った。
サクランボ祭りが終わったら、アンズ祭りやスモモ祭りに行けばいい。
その言葉の中にわずかなからかいがあるのが聞き取れた。
だがそれが、新しい祭りが多すぎるのをからかっているのか、ジグメがそのような祭りで語るべきではないとからかっているのかは分からなかった。
だが彼はもはや旅を始めたばかりの時のように怒りっぽい人間ではなかった。
そこで、歩みを止めずに言った。
「もしオレの語りを聞きたくないんなら、その後の、リンゴ祭りで語らせれてくれればいいさ」
彼らは尋ねた。
「新しい物語を語るのかね」
古くからあるこの物語に新しく加わる物語などない。
ただ、ある「仲肯」は語る段落が多く、ある「仲肯」は語る段落が少ないというだけである。
そして、ジグメは、自分はすべての段落を語ることが出来ると信じている。
どの時代にも、一人か二人、すべての物語を語る力を持った語り部がいる。そして自分はこの時代で唯一人のそのような語り部だと信じている。
もし普通の「仲肯」だったら、自分の語る物語をより揺るがぬものにするために塩の湖や、かつてのジャンとモンの地を訪ねたりはしないだろう。
今、道の傍らに立っている人たちが、新しい物語が出来た、などと言っているのが耳に入り、ジグメは足を止めずにいられなかった。
それから、丁寧な口調で彼らに伝えた。
より多く物語を語れる語り部はいるが、新しい物語が他にあるはずはないのだ、と。
道端の人々は言った。
今まで自分たちもそう思っていた。昔だったら、とっくにあんたを引き留め、語らせようとしただろう、と。
彼らはジグメが有名な人物だと知っていた。
語れる段落が一番多い語り部だと知っていた。
なぜなら彼こそがケサル王が自ら選んだ語り部なのだから。
だが今、新しい物語を書く人物が現われたのである。
彼らは「書く」と言い、「語る」とは言っていないのにジグメは気付いた。
ジグメの中には二人のケサルがいる。
一人は、自分が語る英雄物語の主人公。
もう一人は、ジグメ自身もその夢の中に入ったことのある、リン国の王としてのケサル、人間の世に降って務めを成し遂げたケサルである。
その夢はあまり鮮明ではなかった。
思い出せばそれは、色なしで薄暗く、絶えずチカチカと震えているぼんやりとした映像のようだった。
ジグメはこの夢の中のケサルのほうが好きだった。
夢の中のケサルと別れたその時から、ジグメは再び夢の中に入れる日を待ちわびた。
あの日、夢から覚めた後まず思い出したのは、二人で交わした言葉ではなく、自分の背に確かに矢が刺さっていることだった。
それは神人がジグメを探索の旅から連れ戻すために放った矢だった。
だが、服を全部脱いで体の隅々まで触ってみても、その矢の痕跡さえなかった。
もしまたあの夢に戻る機会があったら、必ずケサルに抜いてもらい、記念にとっておこう、とジグメは考えていた。
だが、またあの夢に戻れると信じているわけでもなかった。
幸いにもジグメは結果にこだわる人間ではなく、心の中でこうつぶやいた。
まあいいさ、矢は残しておいて、背骨の一部分としよう、と。
そう考えて気持ちが軽くなった。
この思いを胸に、ある町で語った。
町では、役所の企画のもと新しい祭り―当地で生産される果物の名前を被せたサクランボ祭りが開かれていた。
もともとこの町ではサクランボを作っていなかったのだが、ある果樹の専門家がこの地の独特の気候、特別な土壌に目をつけ、役所に提案して、小麦にとってはあまりに痩せた谷の斜面にサクランボを植えさせた。すると、質の良いサクランボが採れた。
役所がこの祭りを開いたのは、山の外へとサクランボを売り出すためだったのである。
ジグメは招かれてこの町で語った。
小さな町に多くの人が集まっていた。
サクランボを売る商人、記者、町の役人よりもっと地位の高い役人たち。
ジグメにも旅館の一部屋が与えられ、部屋に置かれた宣伝用の品々には、彼が語り部の衣装に身を包んだカラー写真が載せられていて、彼を喜ばせた。
昼間、開幕式の後の出し物の中で、ジグメは短い一節を語った。
調子が出る前に拍手が起こって、それまでとなった。
舞台を降りないうちに、真っ赤なサクランボに扮したサクランボ娘たちが陽気な音楽と共に上がって来た。
ジグメは体を舞台の端に貼り付け、ころころとしたサクランボ娘の一群が掛け上がって行くのをやり過ごしてから、やっと舞台を降りることが出来た。
夜には、河のほとりの果樹園に組まれた宴会用の大きなテントの中で語った。
町長は言った。「今回は少し長く語ってかまいませんよ。ところで、何を語って下さるのかな」
「ケサル、クチェを助けてジュグを降す、を語ります」
町長は喜んだ。
「それはいい。この戦いで、ケサルは山の中のジュグの蔵を開き、勝利を収めて国に帰るのだからな。我々のサクランボ祭りにも、良い成果があるように。乾杯」
幸いにも、町長と遠くからやって来た果物商を除き、ほとんどの人が聞きたいのは物語であって、物語のそのような結果ではなかった。
祭りが終わる前に、ジグメは町を出た。
途中人に会うごとにどこから来たのか、どこへ行くのかと尋ねられた。
ジグメは答えた。
サクランボ祭りから来たが、どこへ行くかはわからない。
相手は笑って言った。
サクランボ祭りが終わったら、アンズ祭りやスモモ祭りに行けばいい。
その言葉の中にわずかなからかいがあるのが聞き取れた。
だがそれが、新しい祭りが多すぎるのをからかっているのか、ジグメがそのような祭りで語るべきではないとからかっているのかは分からなかった。
だが彼はもはや旅を始めたばかりの時のように怒りっぽい人間ではなかった。
そこで、歩みを止めずに言った。
「もしオレの語りを聞きたくないんなら、その後の、リンゴ祭りで語らせれてくれればいいさ」
彼らは尋ねた。
「新しい物語を語るのかね」
古くからあるこの物語に新しく加わる物語などない。
ただ、ある「仲肯」は語る段落が多く、ある「仲肯」は語る段落が少ないというだけである。
そして、ジグメは、自分はすべての段落を語ることが出来ると信じている。
どの時代にも、一人か二人、すべての物語を語る力を持った語り部がいる。そして自分はこの時代で唯一人のそのような語り部だと信じている。
もし普通の「仲肯」だったら、自分の語る物語をより揺るがぬものにするために塩の湖や、かつてのジャンとモンの地を訪ねたりはしないだろう。
今、道の傍らに立っている人たちが、新しい物語が出来た、などと言っているのが耳に入り、ジグメは足を止めずにいられなかった。
それから、丁寧な口調で彼らに伝えた。
より多く物語を語れる語り部はいるが、新しい物語が他にあるはずはないのだ、と。
道端の人々は言った。
今まで自分たちもそう思っていた。昔だったら、とっくにあんたを引き留め、語らせようとしただろう、と。
彼らはジグメが有名な人物だと知っていた。
語れる段落が一番多い語り部だと知っていた。
なぜなら彼こそがケサル王が自ら選んだ語り部なのだから。
だが今、新しい物語を書く人物が現われたのである。
彼らは「書く」と言い、「語る」とは言っていないのにジグメは気付いた。
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