石鼓文 臨書2種
書を始めて20年位になるけれど、行草、楷書の道はあまり通ってこなかった。
書を始めたいと思う人の多くは、キレイな文字が書きたい・・から始まるようだけど
私の場合 中川一政の書 を見て「こんなのが書きたい」だったわけで。
それでも一番最初に臨書したのは蘭亭叙。
その間に私の個性を感じ取って下さった師は、その後敢えてきちんとした楷書や行書を
選ばず、龍門造像記、隷書、木簡、甲骨と時代をさかのぼり。
師は時々「本物とは、きちんとした書も書けた上で、遊びのある書が書けることだ」と
本筋からずれようとする私を戒めて下さっていたけれど、
本能的にというか、どこかできちんとした書が書けるようになったら遊べなくなると
避けて通ってきたところもあり
けれど今頃になって、きちんとした楷書が書けたらなぁ・・と反省も含めて思う日もある。
それでもあれもこれも完璧になんて、怠け者の私には無理だから
せめてこれだ!と思ったものだけでも、探し続けたいって言い訳混じりに思ったり
それにしてもつくづく私は、師に恵まれたなぁ・・と有難い思いが日々募る。
感謝感謝の一念なり
今日の臨書は、石鼓文。
教室にいらしてるKさん、初めは強くてシャープな印象で書かれていたけれど、
私は逆にのんびりあったかい線で書きたくて、こんな感じに。
右のはちょっと遊びすぎだけど
臨書と言っても、表現は様々。
書を学ぶということは、ただ形を似せて書くことだけではなくて
まずは形、そしてその先の自分らしい表現を探すことこそ、書の魅力かなって思う。
それは最初に書きたいって感じた時と、今も全然変わっていないかな。
↑臨書の場所とは違うけど原本はこんな感じ
書を始めて20年位になるけれど、行草、楷書の道はあまり通ってこなかった。
書を始めたいと思う人の多くは、キレイな文字が書きたい・・から始まるようだけど
私の場合 中川一政の書 を見て「こんなのが書きたい」だったわけで。
それでも一番最初に臨書したのは蘭亭叙。
その間に私の個性を感じ取って下さった師は、その後敢えてきちんとした楷書や行書を
選ばず、龍門造像記、隷書、木簡、甲骨と時代をさかのぼり。
師は時々「本物とは、きちんとした書も書けた上で、遊びのある書が書けることだ」と
本筋からずれようとする私を戒めて下さっていたけれど、
本能的にというか、どこかできちんとした書が書けるようになったら遊べなくなると
避けて通ってきたところもあり
けれど今頃になって、きちんとした楷書が書けたらなぁ・・と反省も含めて思う日もある。
それでもあれもこれも完璧になんて、怠け者の私には無理だから
せめてこれだ!と思ったものだけでも、探し続けたいって言い訳混じりに思ったり
それにしてもつくづく私は、師に恵まれたなぁ・・と有難い思いが日々募る。
感謝感謝の一念なり
今日の臨書は、石鼓文。
教室にいらしてるKさん、初めは強くてシャープな印象で書かれていたけれど、
私は逆にのんびりあったかい線で書きたくて、こんな感じに。
右のはちょっと遊びすぎだけど
臨書と言っても、表現は様々。
書を学ぶということは、ただ形を似せて書くことだけではなくて
まずは形、そしてその先の自分らしい表現を探すことこそ、書の魅力かなって思う。
それは最初に書きたいって感じた時と、今も全然変わっていないかな。
↑臨書の場所とは違うけど原本はこんな感じ
石鼓文を習いたかったのに、
行草をしっかりやってから、
と言われ、行草の就業中です。
実年齢は私の方が上ですが、
書道年齢はあなたが上、
そのうち、石鼓文も木簡も勉強できるようになると思います。
ゆっくり、世の中を眺めて生きます。
徐渭も一度通った道ですが、あの側筆はとうとう体得できずに途中で断念。
師も実は無理だな・・って途中で思われたかも・・です。
nisibundoさんのブログで、徐渭の人柄を伺い、なんとなく書にも滲み出ているような気がしました。
そんな風にいいなと思った書を書かれた人を知ると言うのは、大事なことだな・・と改めて感じました。
実年齢・・実は結構?いってます
書道年齢は、まだまだひよっこです
もっと勉強しなきゃ・・って気持ちは焦ってばかりです