帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百二十一と二百二十二)

2012-07-25 00:10:43 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首
(二百二十一と二百二十二)


 住の江の波にあらねど夜とゝもに 心をきみに寄せわたるかな 
                                  
(二百二十一)

(住の江の波ではないけれど、夜と共に、心をあなたに寄せて、行くことよ……澄みのえの汝身ではないけれど、夜と共に、心、を、あなたに寄せ続けるなあ)。


 言の戯れと言の心

 「すみのえ…住の江…江の名…名は戯れる、澄みの江、心の澄んだ女、清らかな女」「江…女」「なみ…波…汝身…あなたの身…我がこの身」「な…汝…親しいものの称」「心を…心、お…心とおとこを」「きみ…君…あなた…男女に用いる親愛の呼び名」「わたる…のもとへ行く…し続ける」「かな…だなあ…感嘆、感動の意を表す」。


 後撰和歌集 恋歌二。


 歌の清げな姿は、心澄んだ女でも男でもないけれど、夜は共に心を寄せる、普通の夫婦のありさま。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、お互い清らかな身ではないけれど、夜になれば心も、おも、寄せ合い続けている。


 

 わたの原よせくる波の立ちかヘリ 見まくのほしき玉津島かな
                                  
(二百二十二)

(海原、寄せくる波が繰り返し 見物していたい玉津島だなあ……わたの腹、寄せくる汝身が立ち返り、見たいと欲する玉つし間かな)。


 言の戯れと言の心

 「わた…海…綿…柔らかい…和多…和合多い」「原…海原…腹…をうな腹」「なみ…海波…心波…汝身…あなたの身…わがおとこ」「な…汝…親しみある者の称」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「玉津島…島の名…名は戯れる。玉の女、玉津肢間、玉の女の肢間」「玉…美称」「津…女」「しま…島…肢間…洲…す…女」「かな…感嘆、感動を表す」。


 さて、「玉津島」の言の心が美女などということを、論理で実証することはできない。むかしから、美女という意味を孕みながら用いられてきたからだと言うしかない。使用のされ方、それが言葉の意味である。玉津島神社の祭神は、稚日女命(わかひるめのみこと)、神功皇后、衣通姫(そとおりひめ)の三柱。いずれも美しい女性であられたのでしょう。故に玉津島明神と称されたのかも。玉津島と称されていた土地なので美女が祀られたのかも。いずれにしても、昔むかしから、玉津島の言の心は、美女、玉のしま。


 古今和歌集 雑歌上。題しらず、よみ人しらず。第三句「しばしばも」。


 歌の清げな姿は、白波うちよせる和歌浦の玉津島の「見れど飽かぬ」景色。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、「見れど飽かぬ」玉つしまの気色。


 古今和歌集は一般向けの歌集。新撰和歌集はおとなの男たちの為の歌集。「しばしばも」を「立ち返り」に、変えたのはその為でしょう。


 

 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百十九と二百二十)

2012-07-24 00:01:12 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首
(二百十九と二百二十)


 川の瀬になびく玉藻のみがくれて人に知られぬ恋もするかな
                                   
(二百十九)

 (川の浅瀬で靡く玉藻のように、水に隠れて、人に知られない恋を、することよ……ひとが背の君に、しなだれる玉ものよう、見かくれて、他人に知られない、乞いも媚びもすることよ)。


 言の戯れと言の心

 「川…女」「せ…瀬…浅せ…背…男…夫」「に…で…場所を示す」「なびく…靡く…よりかかる…しなだれる」「玉藻…玉の水草…美しい女…美しい髪」「玉…美称」「も…藻…水草…女…毛…毛髪」「の…のように…比喩を表す」「みがくれて…水隠れて…身隠れて…見かくれて…見なくなって」「見…覯…媾…まぐあい」「こひ…恋…乞ひ…求め…こび…媚び…艶めかしい態度」「かな…感動・詠嘆を表す」。


 古今和歌集 恋歌二。寛平御時きさいの宮の歌合いの歌。


 歌の清げな姿は、心ゆらめき靡く、忍ぶ恋
のありさま。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、見しなくなった背の君に、媚び乞い求めるひとのありさま。


 

 いくばくもあらじ我身をなぞもかく海人の刈る藻に思ひみだるゝ
                            
(二百二十)

(どれほどもないだろう我身の命よ、どうしてこう、海人の刈る藻のように、思い乱れるか……どれほども在れないだろう我身を、どうしてこうも吾女が駆るのか、藻のように、思い身垂るる)。


 言の戯れと言の心

 「あらじ…健在であり得ないだろう…存続しないだろう」「我が身…我が身の命…我が身のものの命…おとこの命」「を…感嘆、強調を表す…動作の対象を表す…おとこ」「あま…海士…海女…吾ま…吾間…吾が女」「かる…刈る…猟る…あさる…駆る…追い立てる…強いる」「に…のように…比喩を表す」「みだるる…乱れる…みたるる…身を垂れる」。


 古今和歌集 雑歌下。題しらず、よみ人しらず。初句「いく世しも」。


 歌の清げな姿は、先は長くないだろう我が身が、なぜ色々な欲に思い乱れるのかという男の思い。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、一過性のおとこのさがに、かりたてる吾女、思いみだれ、お垂れるところ。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百十七と二百十八)

2012-07-23 00:06:20 | 古典

   

           帯とけの新撰和歌集


 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。

 紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首
(二百十七と二百十八)

 たち返りあはれとぞ思ふよそにても 人に心をおきつしらなみ 
                                   
(二百十七)(寄せては返し、愛しいとぞ思う、他所にても、人に心を寄せる、沖の白波よ・我は……立ち返り、愛しいと思う、他所に居ても、ひとに心を置きつ、お、起きつ、白ら汝身よ)。

 
言の戯れと言の心
 
「たちかへり…繰り返し…寄せては返り…また立ち返り」「あはれ…かわいい…いとしい…愛情を感じる」「人…女」「心を…心、を…心、おとこ」「おきつ…沖つ…沖の…起きつ…置つ…心を置いた(気にかけた・執着した)…露などおりた…おとこ白つゆ贈り置いつ…起きた」「しらなみ…白波よ(体言止めは余情を含む)…白汝身よ…白つゆの我が身の端よ…白つゆのあなたの身よ」「しら…白…おとこのものの色」「なみ…波…汝身…わがおとこ…あなたの身」「な…汝…親しい者の称」。

 古今和歌集 恋歌一、題しらず。

 歌の清げな姿は、女は高嶺の花か、遠くで思いだけが寄せては返す、沖の白波のような片恋。歌は唯それだけではない。
 歌の心におかしきところは、ひとを愛しいと思えば、立ち返り起き、よそにても、白つゆおくり置く、「あはれ」なおとこのさが。
 


 こきちらす滝の白玉ひろひおきて 世の憂きときの涙にぞかる 
                                  
(二百十八)(放ち散らす滝の白玉、拾い置いて、世の中が辛い時の、涙にぞ借りる……こき散らす、ひとの多気の白玉、拾い置いて、夜のわずらわしい時の、おとこ涙に借用する)。

 
言の戯れと言の心
 
「こき…こく…放つ…体外に出す」「滝…女…多気…多情」「白玉…たきの飛沫…真珠…つゆ」「世…夜」「憂き…憂し…ゆうつだ…つらい…気が進まない…わずらわしい」「涙…目の涙…ものの流す涙」。

 古今和歌集 雑歌上。「布引の滝にて詠める」とある歌。

 歌の清げな姿は、仲間との滝見物のとき、時勢批判、憂さ晴らし。歌は唯それだけではない。
 
歌の心におかしきところは、滝の多情な女に比して、おとこのさがのはかなさが顕れるところ。


 
伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
 
聞書 かき人しらず

  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百十五と二百十六)

2012-07-21 00:07:34 | 古典

  



        帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首
(二百十五と二百十六)


 夕されば雲のはたてにものぞ思ふ 天津空なる人を恋ふとて 
                                                  (二百十五)
 (夕方になれば、雲の果てしないように、ものを思うよ、天女のような人を恋うといって……ものの果て方になれば、心雲の限りに、ものぞ思う、あまの空成るひと、おを乞うとて)。

 言の戯れと言の心

 「ゆうされば…夕方になれば…ものの暮れ方になれば」「雲…空の雲…心の雲…心に煩わしくもわき立つもの…情欲など…広くは煩悩」「はたて…果たて…果て…限り」「もの…男と女の言い難い諸々のこと…物体…身の端」「天津空なる人…天女のような人…身分などのはるかに高い人…あまの空成りのひと」「あま…天…女」「津…女」「空なる…むなしい成り…実のない達成」「人…女」「を…対象を示す…男…おとこ」「恋う…乞う」。


 古今和歌集 恋歌一、題しらず、よみ人しらず。初句「夕暮れは」。


 歌の清げな姿は、夕暮れのもやもやした妄想か、天女のような人を恋うという男。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、ものの果て方、心雲のなせる業か、おを乞う空成りの女。

 


 天津風雲のかよひぢ吹きとぢよ をとめの姿しばしとゞめむ  
                                   
(二百十六)

(天津風、雲間の通い路吹き閉じよ、舞い降りた天女のような、乙女たちの姿、いましばらくここに留めておきたい……天津風、心雲の通い路吹き閉じよ、無垢なをとめの姿、いましばらく留めておきたい)。 


 言の戯れと言の心

 「雲…天の雲…心に煩わしくもわき立つもの…情欲など、ひいては煩悩」「をとめ…乙女…五節の舞姫…若い未婚の女性」。


 古今和歌集 雑歌上に、「五節の舞姫を見てよめる」とある。

五節の舞は、四、五人の少女による競演、お披露目でもある。この時より、少女たちは世の諸々の垢にまみれることになる。おを乞う大人の女にもなる。


 歌の清げな姿は、舞姫たちを天女に見立て舞いぶりを褒め讃えた。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、心に雲のない乙女であり続けることはできないが、いましばらくはという男どもの思いの表れたところ。



伝授 清原のおうな


鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

聞書 かき人しらず


新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百十三と二百十四)

2012-07-20 00:05:04 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首
(二百十三と二百十四)

 

 津の国の室の早わせひでずとも 綱を早はく守るとしるべく

                                    (二百十三)

 (津の国の温室の早稲、穂出なくとも、標綱を早や着ける、守ると知れるだろう……津のくにのむろの早我背、濡れなくとも、つなを、早やはめる、盛ると汁だろう)。


 言の戯れと言の心

 「津の国…国の名…津のくに…女のくに」「津…浦などとともに、女」「むろ…室…女…温室…生暖かいところ…無漏…漏れていない」「早わせ…早早稲…早我背…早い我がおとこ」「ひでず…秀でず…穂出ず…漬でず…濡れず」「綱を…おとこを」「綱…緒、紐などとともに、男」「はく…履く…着ける…はめる」「もる…守る…まもる…盛る…盛りとなる」「しる…知る…知れ渡る…汁…滲み出る…濡れる」「べく…べし…だろう」。


 古今和歌集の歌ではない。


 恋歌というより雑歌のよう。久しぶりに逢った恋人どうしの性急な合いのありさまか。

歌の姿は、田守人の日常生活。用いられた言葉の戯れぶりは絶妙。


 

 難波潟しほ満ちくればあま衣 たみのゝ島にたづ鳴きわたる 
                                    
(二百十四)


 (
難波潟に潮満ち来れば、あま衣、田蓑の島に、鶴鳴き渡る……何は方に、肢お満ち来れば、ひとの身と心、多見のの肢間に、ひと泣きつづく)


 言の戯れと言の心

 「なにはがた…難波潟…潟の名…名は戯れる。何は方、あのあそこの方、はっきり言い難いところ」「潟…濱、洲、渚などと共に女」「しほ…潮…士お…肢お…おとこ」「あま…海人…漁師…女」「衣…心身を包むもの…心身」「田蓑の島…島の名…名は戯れる。多見のの肢間、多情なおんな」「しま…島…肢間…洲…す…女」「たづ…鶴…鳥…女」「鳴き…泣き…嬉れし泣き」「わたる…渡る…移動する…ずっと何々する…連続する意を表す」。


 古今和歌集 雑歌上、題しらず、よみ人しらず。


 歌の清げな姿は、潮満ち来る難波潟と鳴き渡る鶴の風景。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、合いの喜びに泣くひとのありさま。

 

 この本歌は万葉集にある山部赤人の歌でしょう。

 貫之は仮名序で、赤人について次のように述べている。「山のべの赤人と言ふ人有りけり。歌に、あやしく(奇しく・妖しく)、たへ(妙え・絶妙)なりけり。(歌のひじりの)人麻呂は、赤人の上に立たむこと難く、赤人は、人麻呂が下に立ったむこと難くなむありける」。これは、赤人も又「歌のひじり」であると称賛しているのと同じでしょう。一首、その歌を聞きましょう。


 万葉集巻第六 神亀元年甲子冬十月五日、幸于紀伊国時、山部宿祢赤人作歌。

 わかの浦に潮満ち来れば潟をなみ 葦辺をさしてたづ鳴きわたる

 (和歌の浦に潮満ち来れば、潟が無くなるので、葦辺をめざして鶴鳴き渡る……我の心に

、わがうらに、士お満ち来れば、片男波脚辺をさして、ひと泣きつづく)。


 「わか…若…和歌…わが」「うら…浦…女…心」「あしべ…葦辺…脚部…脚辺」「たづ…鶴…鳥…女」「なきわたる…鳴き渡る…泣きつづける」。

 
  妖艶、絶艶な有様が、絶妙な言葉使いによって、玄之又玄なるところに顕れている。

  何よりも重要なことは、これまで明らかにしてきた歌々と、
赤人の万葉集の歌の様や言の心が、同じだということ。


 
伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


   新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。