■■■■■
帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が全く無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直せば、仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞ成れりける」とあるように、四季の風物の描写を「清げな姿」にして、人の心根を言葉として表出したものであった。その「深き旨」は、俊成が「歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる」と言う通りである。
古今和歌集 巻第四 秋歌上 (189)
是貞親王家歌合の歌 (よみ人しらず)
いつはとは時はわかねど秋の夜ぞ 物思ふことのかぎりなりける
是貞親王家(宇多天皇と御兄弟のお方宅)での、寛平の御時の歌合の歌。 (詠み人知らず・女の歌として聞く)
(何時とは、時はわからないけれど、もの哀しい・秋の夜長ぞ、悩みごとなど・思うことの、極みだったことよ……いつとは、時は、わからないけれど、飽き満ち足りの夜ぞ、もの思うことの頂点・この世の快楽の頂天、だったことよ)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「いつ…何時…射つ…射た…放出した」「時…時期…とき…好機…ときめく時」「わかねど…分からないけれど…判別できないけれど」「秋…もの悲しい季節…飽き…満ち足りる時…厭き…嫌になる時」「物思ふ…もの思いする…憂い悩む・悔やみ悩む…恋いする・乞いする」「かぎり…限り…極限…ものの極み…感の極み…有頂天」「なりける…なりけり…(何々で)あったなあ…気付いてみると(何々)だった」。
何時とは、時節は分別できないけれど、もの哀しい秋の夜こそ、悩みごと思う極みだったことよ。――歌の清げな姿。
射たなとは・時は分からないけれど、飽き満ち足りの夜こそ、この世の快楽の感の極みだったわ。――心におかしきところ。
匿名の女歌は、自己のエロス(性愛・生の本能)の躊躇なき表出である。それは、俊成のいう通り「煩悩」である。
「是貞親王家歌合」のことは伝わらないが、「歌人」の男歌と組み合わされたに違いない。その両歌の「心におかしきところ」が、相乗効果により、いっそう、心におかしさ増しただろうと想像される。それが歌合わせの醍醐味だろう。清げな姿を合わせてもなにも起こらない。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)