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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。
歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。
古今和歌集 巻第四 秋歌上 (239)
是貞親王家歌合によめる 敏行朝臣
なに人かきてぬぎかけし藤袴 来る秋ごとに野べをにほはす
是貞親王家の歌合に詠んだと思われる・歌。 藤原敏行
(なに人が来て脱ぎ掛けた藤色袴か・藤袴草か、来る秋毎に、野辺を、ほんのり淡い紫に色づける……如何なる男が来て、抜き、ふりかけし、ふちはかまか・淵端彼間か、繰り返す飽き満ちたり毎にひら野を、お花の香に・匂わせる)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「なに人…如何なる身分の人…如何なる地位の人…どのような男」「ぬぎかけし…脱ぎ掛けた…抜きかけた…抜きふりかけた」「藤袴…草花…言の心は女…ふちはかま…紫に染めた袴…草花の名…名は戯れる。上品な色合いの袴、淵端彼間・おんな」「ふぢ…ふち…淵…川の深いところ…言の心はおんな」「はかま…袴…腰から下の衣の名…名は戯れる。端か間、女の身の端」「は…端…身の端」「ま…間…言の心はおんな」「くる…来る…繰る…繰り返す」「あき…秋…飽き満ち足り…厭き」「のべ…野辺…山ばではないところ…ひら野」「にほはす…色付かせる…色に染める…香を漂わせる…匂わせる」。
なに人が来て、脱ぎ掛けた、淡い紫の袴か、秋来る毎に、野辺を染め匂わせる・藤袴草よ。――歌の清げな姿。
如何なる男が来て、抜き、ふりかけたか、淵端か間、繰る飽き満ち足り毎に、ひら野を、おとこの色に染め匂わせる。――心におかしきところ。
エロス(性愛・生の本能)の極致の、ふち端か間(おんな)を、詠んだ歌のようである。
言語観の異なる今の人々は、歌言葉が「ふぢ…ふち…淵…川の深いところ…川の言の心は女…おんな」と意味が戯れることに、拒否反応を起こすだろう。
古今和歌集とほぼ同じ文脈にあったと思われる枕草子の「淵は」を、「ふち…おんな」であるとして読んでみよう。枕草子(十四)、
ふちは、かしこふちは、いかなる底を見て、さる名を付けんとおかし。ないりそのふち、たれにいかなる人のをしへけん。あを色のふちこそおかしけれ、蔵人などの具にしつべくて、かくれのふち、いなふち。
淵は、畏くも尊い淵は、如何なるそこ(其処)を見て、そのような名を付けたのでしょうとおかしい。入るな!の淵、誰に、如何なる人が教えたのでしょう(どなたにおかれては、如何なる人のお肢圧し折ったのでしょうね)。青色の淵こそおかしいことよ、蔵人(六位)などの、具(衣服・配偶者)にするといいので、隠れている淵。(六位では)否という淵」。
「淵」を「おんな」と聞く事ができる「聞き耳」持てば、当時の読者とほぼ同じ「をかし」を享受できるはずである。笑えれば、清少納言の文芸の術中にはまることができたのである。
清少納言の文芸を、無意味な物の名の羅列にすぎないとか、意味の通じない下手な文章などと、今の人々は、いつまで誤読しつづけるのだろうか。そもそも、「古今和歌集」の歌を、うわの空読みして誤解していることが、誤読の原因である。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)。
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