帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第三 別旅(百九十一と百九十二)

2012-07-07 00:07:56 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第三 別旅 二十首
(百九十一と百九十二)


 別れをば山の桜に任せてむ とめむとめじは花のまにまに 
                                   
(百九十一)

(花見の別れをば、山の桜に任せるのがいい、尋ねよう求めないは、花の様子に従って……峰の別れを、山ばのお花に任せるがいい、咲き散らすのは止めよう、もう求めないは、おとこ花の気のままに)。


 言の戯れと言の心

 「別れ…人との別れ…情態との別れ…絶頂との別れ」「山…山ば」「桜…木の花…男花…おとこ花」「てむ…そうしよう…強い意志を表す…するのが良い…適当・当然の意を表す」「とめ…とむ…尋ねる…求める…止む…止める…やめる」「む…意志を表す」「じ…打消しの意志を表す」「花…おとこ花」。


 古今和歌集に「山にのぼりて、帰りまうできて、人々別れけるついでによめる」とある。法師の歌。


 歌の清げな姿は、花見の散会の時のついでに詠んだ歌。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、峰でのものの別れは、主である男の意志の外にある、おとこ花に任せるがいいというところ。

 


 このたびはぬさもとりあへず手向山 もみぢの錦神のまにまに 
                                   
(百九十二)

(この旅は幣も用意できず、手向山の紅葉の錦織を、どうぞ神のご随意に……この度は、ぬさも堪えられず、手向の山ば、飽き色のにし木を、かみのお気の召すままに)。


 言の戯れと言の心

 「このたび…此の旅…この度…今回」「ぬさ…幣…棒の先に白い紙や布を付けたもの…かみに手向けるもの…おとこ」「とりあへず…用意できず…我慢できず…堪えられず」「たむけ…神に幣などを供えること…ひとへの餞別」「山…山ば」「もみぢ…紅葉…秋色の葉…飽き色の端…もう見じの身の端」「錦…織布…錦木…求婚のしるしに女の家に立てる木」「かみ…神…上…女」「まにまに…随意に…思うままに…なりゆきまかせに」。


 古今和歌集によると、上皇が奈良にお出ましになられた時、手向山にて、供の臣が詠んだ歌。

 
 歌の清げな姿は、素晴らしい紅葉をお洒落に愛でているところ。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、飽きの果ては、あなた任せになるしかないおとこのさがを、言い表したところ。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。