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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。
歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。
古今和歌集 巻第四 秋歌上 (248)
仁和帝、親王におはしましける時、布留の滝御覧ぜむとて
おはしましける道に、遍昭が母の家に宿り給へりける時に、
庭を秋の野に作りて、御物語のついでによみて、奉りける。
僧正遍昭
里はあれて人はふりにし宿なれや 庭もまがきも秋の野らなる
仁和の帝が親王であられた時、布留の滝を御覧になられるということで、お出かけになられた道中、遍昭の母の家に宿泊なさった時に、庭を秋の野に作って、お話のついでに詠んで奉った・歌。 僧正遍昭
(古里は荒れて、人は古老の宿だなあ、庭も、まがき・竹製の粗い垣根も、秋の野良であります……さ門は荒れて、女人は老いた、や門だなあ、ものごと行われた・にはも、間餓鬼も、今や・厭きのひら野でありますよ)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「滝…言の心は女…たき…多気…気の多い女…多情な女」「宿…言の心は女…やど…やと…や門…おんな」「庭…言の心は女…には…もの事が行われるところ…おんな」「秋…飽き…厭き」「野…山ばでは無くなったところ…ひら野」。
「里…言の心は女…さと…さ門…身の門…おんな」「まがき…竹などで粗く編んだ垣…戯れて、間餓鬼、おんなの貪欲」。
老いた母の住む、古里と家の秋の風情。――歌の清げな姿。
老女の、さ門、や門、には、間がき、即ち、おんなと、その性(さが)も、年とともに枯れゆくことを言い出した。――心におかしきところ。
持続力強く常磐のように見える女の性(さが)も、歳と共に衰え、無常であることを示した歌のようである。
これにて、古今和歌集巻第四秋歌上は終わる。当ブログの古典和歌解釈の方法は、国文学的うわの空読みを脱却して、原点に返って、次の三人の歌論に基づいて歌を紐解いていることを改めて示す。
紀貫之、「歌の様を知り、言の心を得たらん人は」、歌が恋しくなるだろうと、仮名序の結びに述べた。(国文学は、ことの心を、事の心と読み、この一文の意味を曲解した)。
藤原公任、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところある」と、優れた歌の様(表現様式)を多重の意味があると捉えた。(国文学は、この多重の意味がある和歌の表現様式を無視した)。
藤原俊成、「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れる」と述べた。(国文学は、浮言綺語の戯れを、掛詞や縁語という新たな別の概念で捉えたようである)。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)
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