帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百二十五)(百二十六)

2015-03-31 00:22:35 | 古典

     

 


               帯とけの拾遺抄



 藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って拾遺抄の歌を紐解いている。

江戸時代以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。

このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。近世以来の学問的解釈方法の方を棄てたのである。

 


 拾遺抄 巻第三 秋
 四十九首


       ちくぶしまにまうで侍りける時もみぢのいとおもしろく水うみに影の

うつりて侍りければ                  法橋観教

百二十五 水うみに秋の山辺をうつしては はたばりひろき錦とぞ見る

竹生島に詣でた時、紅葉がたいそう興あるさまに湖水に影が映っていたので  法橋観教

(湖水に、秋の山辺を映しては、機張り広い錦織と見えるぞ……をみなのうみに飽きの山ばを移しうえては、端張り広い錦木だと、見るぞ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「水うみ…湖…琵琶湖」「水…言の心は女…をみな」「うみ…産み…海…言の心は女」「秋の山辺…飽き満ちた山ば」「を…対象を示す…おとこ」「うつし…映し…移し」「はたばり…機張り…機織り機の横幅…端張り…身の端の張り…おとこの太さ」「ひろき錦…横幅の広い錦織…はばの大きい錦木…ふといおとこ」「錦木…求婚の標しに彼女の家の前に立てた五色に染めた木という…男木」「見…覯…媾…まぐあい」

 

歌の清げな姿は、湖水に映る山の紅葉を幅広い錦織と誇張しての讃美。

 心におかしきところは、色事の果てしなさ、おとこの張りなど人の願望を誇張してみせたところ。


 

「法橋」は位の高くない普通の法師のことである。なぜ、観教法師としないのだろうか、人の名も戯れて、「見せて説教するほ伏し」などと聞こえ、たぶん滑稽過ぎるからだろう。

 

女たちは法師を「ほ伏し…お伏し」などとからかうこともあった。

枕草子(一六八段)に、表向きには意味の完結しない文がある。原文もこのままの漢字(真名・法師の言葉)だったようである。

法師は、律師、内供。

法師は(僧正・僧都の次の)律師、(内裏で奉仕する僧の)内供……ほ伏しは立しない具。


    清少納言枕草子は、紫式部日記によると「清少納言こそ、得意顔してひどい人、漢字書き散らしている程度も、よく見ると堪えられないことが多くある」という。

枕草子(四段)の「思はん子を法師になしたらむこそ心くるしけれ、ただ木のはしなどのやうに思ひたるこそいといとほしけれ。云々」という文も、聞き耳(によって意味の)   異なる「女の言葉」の見本だとして、そのつもりで読めば、表向きの意味とは別に、心におかしい聞き方があることがわかるだろう。

 

 

題不知                        読人不知

百二十六 秋きりのたたまくをしき山ぢかな もみぢの錦おりつもりつつ

       題しらず                      (よみ人しらず・女の歌としてきく)

(秋霧が立つのでしょう、惜しい山路だことよ、紅葉の錦織り積もりつづいている……飽き限りが絶えるのでしょう、惜しい山ばの途中かな、飽き色の錦木、折り重ねつつ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「秋きり…秋霧…飽き限…飽きの限界…飽きの限度」「たたまく…立つだろうこと…絶つだろうこと」「をしき…惜しき…愛着を感じる…お子木…おとこ」「山ぢ…山路…山ばへの通い路」「かな…感動・感嘆」「もみぢの錦…もみじ葉がおり重なった錦織…五色の錦木…色づいたおとこ」「おりつもり…おり重なるように積って…折り重ねて」「おり…織り…折り…逝き」「つつ…反復・継続・詠嘆の意を表す…筒…中は空…充実感なし」

 

歌の清げな姿は、山路に散り積ったもみじ葉の織りなす錦織。

 心におかしきところは、継続希望の飽き満ち足りの断絶の予感と詠嘆と叱責。

 


 『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百二十三)(百二十四)

2015-03-30 00:06:48 | 古典

        


 

                     帯とけの拾遺抄


 

藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って拾遺抄の歌を紐解いている。

江戸時代以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。

このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。近世以来の学問的解釈方法の方を棄てたのである。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首

 

題不知                              躬恒

百二十三 なが月のここぬかごとにつむきくの はなもかひなくおいにけるかな

題しらず             (躬恒・古今集にも後撰集にも載らない歌、初老の頃に詠んだ歌として聞く)

(菊の節句・九月九日毎に摘む、長寿の花びら・菊の花も効果なく、老いてしまったなあ……長つきのおとこの、此処寝が毎に積み重ねた、効くときくの花も、効なく、はててしまったなあ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「なが月…九月…長月…長寿の月人壮士…長つきのおとこ」「ここぬかごと…菊の節句九月九日毎…此処寝が毎…此処寝のうらみごと」「ぬ…寝る…臥す…伏す」「がごと…の毎…かごと…恨み言」「つむ…(花びらを)摘む…積む…積み重ねる…毎年繰り返す(長寿を願って飲む花びら浮かべた菊酒や、菊の露の綿で身を拭うと若がえるというおまじない等)」「きく…菊…長寿の花…聞く…効く」「はな…花…端…身の端…おとこ」「おい…老い…年齢の極まり…感の極まり…ものの極まり…果て」「けるかな…気付き・詠嘆」

 

歌の清げな姿は、菊酒などが老いに効かなかった恨み言。

 心におかしきところは、きく酒などが長つきのおとこに効かなかった恨み言。

 

       東山にもみぢ見にまかりて又の日のつとめてまかりかへるとてよみ侍りける恵京法師

百二十四 昨日よりけふはまされるもみぢばの  あすの色をばみでやかへらむ
      
東山に紅葉見に出かけて次の日の早朝帰るということで詠んだ      恵慶法師

(昨日より今日は優っている、もみじ葉の、明日の色彩を見ないで帰れるだろうか帰れない……昨日よりも、今日の・京は増さっている、飽き色づいた身の端の、明日の色情見ずに、かえれるだろうか、かえれないだろう)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「けふ…今日…京…極み…感の極み…絶頂」「もみぢば…もみじ葉…飽き色した端」「は…葉…端…身の端」「色…色彩…色事…色情」「みで…見ずに」「見…観賞…覯…媾…まぐあい」「(みで)やかへらむ…(あすの色を見ず家に)帰れるだろうか帰れない…(明日の京を見ずに)帰れるだろうか帰れない」「や…疑いを表す…反語の意を表す」。拾遺集では、第五句「みでやゝみなむ」となっている。この方がわかりやすい。「見ないで止めるだろうか…媾せず止められるか止められないだろう」。

 

歌の清げな姿は、紅葉の色彩の美しさ絶賛。

 心におかしきところは、色欲の果てしない様。


 

歌は、初老の男の色情の衰えについてのうらみ言、片や、果てしない色欲の貪欲についての法師の説教。

このような歌を、ただ、菊酒が老いに効かなかった恨み言や、紅葉の色彩讃美程度の歌にして、あえて裏の意味を無視するのは詠み人に対する侮辱である。解釈の貧困に因り、表向きの意味しか聞こえないのならば、知らぬ間に古代人を侮蔑していることになる。

 しかし、伝統ある国文学を何だと思っているのか、勝手な解釈は許せない、このエロ好みな解釈こそ、我が国の古典文芸を冒涜するものだという人もいるだろう。そのような文脈に立っている人の、その立場を棄てさせるのは至難のわざだろう。今や和歌は表向きの意味だけで、永年にわたって凝り固まっているのである。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百二十一)(百二十二)

2015-03-28 00:12:20 | 古典

        


 

                     帯とけの拾遺抄


 

藤原公任『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。

近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首

 

(題不知)                         みつね

百二十一 露けくてわがころもてはぬれぬとも をりてを行かむ秋はぎの花

(題しらず)                        躬恒

(露っぽくて、我が衣の袖は濡れてしまおうとも、折って行こう、秋萩の花……つゆっぽくて、我が心と身の端は濡れてしまおうとも、折って・おを、逝こう、飽き端木の端)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「露…つゆ…液…汁」「ころもて…衣手…袖…衣の端…心身の端…おとこ」「衣…心身の換喩…身と心」「をりてを…折りて!…折っておを…果てておを」「を…おとこ…対象示す…感動・詠嘆を表す」「ゆかむ…行こう…逝こう…果てよう」「む…意志を表す」「秋…飽き…厭き」「はぎ…萩…秋の草花の名…名は戯れる。端木、おとこ」「花…草花の言の心は女…ここは、端木のはな…おとこ端」

 

歌の清げな姿は、野の花を折り行く男の風情。

 心におかしきところは、ものの果てを覚悟した男の心。

 

 

斎院御屏風のゑに                       伊勢

百二十二 うつろはんことだにをしき秋はぎに 玉と見るまでおけるしらつゆ

斎院御屏風の絵に                       伊勢

(色衰えるだろうことだけでも惜しい秋萩に、真珠と思えるほどに、降りた白露……衰えゆくことこそ、愛しい飽き端木により、宝玉と見るまで、贈り置かれた白つゆ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「うつろふ…色あせてゆく…衰えゆく」「をしき…惜しき…愛しき…愛着を感じる」「秋…飽き…厭き」「はぎ…萩…上の歌と同じ」「に…場所を示す…原因・理由を表す…により」「玉…宝玉…真珠…白玉」「見る…思われる…まぐあう」「おける…降りた…置いた」「しらつゆ…白露…白玉…おとこ白つゆ」

 

歌の清げな姿は、秋の草花におりた宝玉のような白露。

 心におかしきところは、うつろいゆくを惜しみ白つゆを真珠と称えるところ。


 

伊勢と躬恒は、平安時代人に特に優れた歌人と認められていたことは間違いない。並みの歌とは一味違うようだけれども、その違いは「歌の姿」の清らかさだけではないだろう。「心におかしきところ」と「心深いところ」の品質にあるのだろう。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百十九)(百二十)

2015-03-27 00:17:04 | 古典

        

 

                     帯とけの拾遺抄


 

藤原公任『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。

近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首

 

陽成院御屏風にこたかかりしたる所に              貫之

百十九 かりにのみ人の見ゆればをみなへし花のたもとぞ露けかりける

陽成院の御屏風に小鷹狩りしている所に             貫之

(狩りにだけ、人々が来れば、女郎花、花の袂ぞ、露で湿っぽいことよ……かりにだけ男どもが見れば、をみな圧し、花の手許のものぞ、つゆぽいことよ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「かり…狩り…刈り…仮…借り…めとり…まぐあい」「のみ…だけ…限定・強調する意を表す」「見ゆ…見える…表れる…訪れる…来る」「をみなへし…女郎花…草花の名…名は戯れる。をみな圧し…若い女圧し」「花…草花…言の心は女」「たもと…袂…手許…手許の物…身の端」「露けかり…露っぽい…湿っぽい…汁っぽい」「ける…気付・詠嘆の意を表す」

 

歌の清げな姿は、狩野に生える女郎花の風景。

 心におかしきところは、かりによりをみなのへされる情景。

 

 

題不知                            読人不知

百二十 こですぐす秋はなけれどはつかりの きくたびごとにめづらしきかな

題しらず                          (よみ人しらず・男の歌として聞く)

(来ないで過ぎゆく秋はないけれど、初雁の声、聞く度毎に、耳に新しく好ましいことよ……山ば・来ないで過ごす飽き満ち足りはないけれど、初かりひとの・声、聞く度毎に、愛でたくなるなあ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「こで…来ないで…来ずに」「すぐす…過す…時が経つ…好くす…好色事す」「秋…飽き…飽き満ち足り」「はつかり…初雁…初猟」「雁…鳥…言の心は女」「狩…猟…あさり…めとり…まぐあい」「めづらし…新鮮な…愛でたくなる…好ましい」「かな…感嘆・感動を表す」

 

歌の清げな姿は、雁の鳴き声に秋のけはい。

 心におかしきところは、初かりのをみなの声の愛でたさ。


 

「かり」を狩りと雁の掛詞などと捉えるのではなく、平安時代の人々のように「言の心」のあるもの、「聞き耳によって(意味の)異なる」もの、「浮言綺語の戯れに似て戯れる」ものとして、その多様さを心得るのである。

「よひよひにぬぎて我が寝るかりごろも かけて思はぬ時のまもなし」という古今和歌集恋歌二にある紀友則の歌。上の句を序詞などと奇妙な捉え方をするのではなく、「好い好いに抜きて我が寝るかりした身と心」「貴女に命を・懸けて思はない時間は無い」とでも解釈すれば、平安時代の文脈により近いだろう。

「ぬぎ…脱ぎ…ぬき…抜き」「かけて…被せて…掛けて…懸けて」「よひ…宵…夜ゐ…好い」「ころも…衣…心身を包む物…心身の換喩…身と心」、これらも、浮言綺語のような戯れと心得る。

 


 『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百十七)(百十八)

2015-03-26 00:15:34 | 古典

        


 

                     帯とけの拾遺抄

 
 

藤原公任『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。

近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首

 

延喜御時の屏風に                        躬恒

百十七 いづこにかこよひの月のみえざらむ あかぬは人のこころなりけり

延喜御時の屏風に                        躬恒

(どこかに今夜の月が見えるか見えないだろう・夜は明けた、飽きないのは、人の心だなあ……何処かにこ好いのつき人おとこが見えるか、見えないだろう、飽かぬのは、人の此処ろだなあ)


 歌言葉の言の心と言の戯れ

「いづこに…何処に…何処かに…出づこに…出た子に…果てたおとこに」「に…場所を表す…状況などを表す」「か…疑いを表す…問いを表す」「こよひ…今宵…今夜…こ好い…今好かった」「月…月人壮士…つきひとをとこ」「つき…突き…尽き」「みえざらむ…見えずだろう…見えないだろう」「見…覯…媾…まぐあい」「あかぬ…飽きない…飽き満ち足りることが無い…いつまでも貪欲である」「人…人々…男・女」「こころ…心…此処ろ…ここらあたり…身の端」「ろ…感動を表す…意味を強める…路…言の心は女」「なりけり…断定・気付き・詠嘆などの意を表す」

 

歌の清げな姿は、明け方まで月見していた人々の風情。

 心におかしきところは、見れど飽かぬ人のここらあたり。


 

鴨長明『無名抄』によると、或る人が歌の師に、貫之と躬恒の勝劣の事を尋ねたところ、「躬恒をば、侮らせ給うまじきぞ」とだけお答えになられたという。躬恒の歌の「よみ口深く思ひ入りたる方は、又類なきものなり」という。

『無名抄』の言わんとする躬恒の歌の評価が、躬恒の歌に接したときわかるような気がすれば、平安時代の歌の文脈に一歩ながら立ち入る事が出来ているのである。

 

 

屏風に                             平兼盛

百十八 よもすがら見てをあかさんあきのつき こよひはそらに雲なかりけり

屏風に                            (平兼盛・兼盛王、平の姓を賜り臣にくだった人)

(終夜でも見て明かそう秋の月、今宵は空に雲も無いことよ……一晩中、見て明かそう、飽き満ちた月人壮子、今好いは、空に雲なかりけり・こころも晴々だなあ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「見…観賞…月見…覯…媾…まぐあい」「あきのつき…秋の月…飽きの月人壮士・壮子…飽き満ちた男・おとこ」「こよひ…今宵…今夜…今好い…こ好い」「雲…空の雲…心に湧き立つ煩わしい雲…欲情…煩悩」「なかりけり…無いことよ…無く狩りけり…無くなるほどかりした」「かり…狩り…猟…めとり…まぐあい」

 

歌の清げな姿は、月見の宴たけなわの風景。

 心におかしきところは、月人壮子の飽き満ち足りたありさま。


 

大和物語(第五十六)に、兼盛が越前の権守であった頃、兵衛の君という人に通っていたが一年ほど別れてまた来て詠んだという歌がある。

 夕されば道も見えねどふるさとは もと来し駒にまかせてぞゆく

(夕方になると道も見えないけれど、古里はもと来ていた駒に任せて往くよ……ものの暮れ方になると、路も見られなくなるけれど、古さ門はもと来ていた股間に任せてぞ逝く)

女、返し

 駒にこそまかせたりけれはかなくも 心の来ると思ひけるかな

(駒に任せていたのねえ、はかなくも、わたしは君が・心から来ると思っていたわ……こ間に任せていたのねえ、それで女の・心が山ばに来るとでも思っていたのか・あゝ)


 「みち…路…言の心は女」「さと…里…言の心は女…さ門」「こま…駒…股間…おとこ」「ゆく…行く…往く…逝く」、これだけの言の戯れを心得ると、歌は俄然さま変わりしておもしろくなる。

 

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。