帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (268)うへしうへば秋なき時やさかざらむ

2017-08-12 21:11:10 | 古典

            

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下268

 

人の前栽に、菊に結び付けてうへける歌    在原業平

うへしうへば秋なき時やさかざらむ 花こそちらめ根さへかれめや

(他人の前栽に、菊に結び付けて植えてあった、歌……女の前にわに、菊に・貴具に、つけて植えた・歌) 在原業平

(植えたならば、秋でない時に、咲かないだろうよ、秋には・花は咲き散るだろう、根さへ枯れるだろうか、枯れはしない・長寿の菊ですよ……植えつけたからには、貴女に・厭きが来ない時に咲きはしないだろうよ、お花こそ咲き散るだろう。根さ枝、枯れるだろうか・涸れはしない・離れないぞ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「人の前栽…他人の家の前庭…女の前にわ…おんな」「きく…菊…草花の名…女花…言の心は長寿…名は戯れて、奇具・貴具・おんな・特別なおとこ」。

「うへし…うゑし…植えた…植え付けた…たね撒いた」「し…強意を示す…肢・士・おとこ…の連体形…(植え)た…(植え)た状態が今も続いている」「うへば…植えれば…うへは…上は…からには」「秋…飽き…厭き」「花…お花…貴具の花…おとこ花」「根…お根…おとこ」「かれ…枯れ…涸れ…離れ」「や…反語の意を表す」。

 

植えたならば、秋でない時に咲かないだろうよ、花は秋に咲き散るだろう、根さへ枯れるだろうか、枯れはしない・長寿の菊ですよ。――歌の清げな姿

植えつけたならば、貴女に・厭きが来ない時に咲きはしないだろうよ、おとこ花こそ咲き散るだろう、根さ枝、枯れるだろうか・涸れはしないぞ、離れないからね。――心におかしきところ。

おとこの薄情な色情を克服して、わがお根は、貴女に厭きが来るまで、折れない・涸れない・離れないと告げた歌だろう。、

 

この歌は「伊勢物語」の歌である。「伊勢物語」(51)には、むかし、男、人の前栽に菊うへけるにとあって、この歌がある。


 
 「伊勢物語」は「業平の日記」であり、業平原作の物語である。その清げな姿の内なる真髄は、次のように読める。「……武樫おとこ、女の前にわに、貴具うえつけたときに、……植えたからには、貴女に、厭きの来ない時には咲かないだろうよ、おとこ花は咲き散るだろう、貴女の音は嗄れるだろう、おとこ根は枯れも涸れもしない、離れないからね」。このエロスが清げな姿に包まれてある。

 

 次の(52段)の真髄を記すと、「武樫おとこがあった。女の許より、重なりちまきを贈って来た(重ねて、ちまき・おとこ、欲しいの)という意味らしい)、業平の返歌、

あやめ刈りきみは沼にぞまどひける 我は野に出でて狩るぞわびしき

(……美しい女めとり、貴女は情欲の沼に惑うたことよ、我はひら野に出て、枯れ涸れ離れている、わびしい)とて、雉(きじ・来じ・再び通って来ないだろうという意味らしい)を贈った。

 

少なくとも「歌の言葉」は、浮言綺語に似た戯れの意味で詠まれてあると知り、国文学的うわの空読みを脱すれば、「伊勢物語」ほどおもしろい物語は他にない。武樫おとこと言えども、女の性(さが)には、勝てないらしい。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)

明日より当分の間、都合により新規投稿は休みます。


帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (267)さほ山のはゝその色はうすけれど

2017-08-11 19:52:16 | 古典

            

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下267

 

秋の歌とてよめる          阪上是則

さほ山のはゝその色はうすけれど 秋はふかくもなりにける哉

(秋の歌といって詠んだと思われる・歌……厭きの歌といって詠んだらしい・歌) 坂上是則(此の頃、大和国の役人だったか)

(佐保山の、はゝそ・柞の色は、薄い・黄色、だけれど、秋は深くなってしまったことよ……さ男山ばの、端端その色情は薄いけれど、厭きは深くなってしまったなあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「さほ山…佐保山…山の名…名は戯れる。さお山・さ男山ば・おとこの山ば」「はゝそ…柞…楢の木などの総称…木の言の心は男…名は戯れる。端端そ・身の端s…おとこ」「色…色彩…色情」「薄…黄葉…薄い…薄情」「秋…飽き…厭き」。

 

佐保山の、柞のもみじ色は、薄い黄色だけれど、秋は深くなってしまったことよ。――歌の清げな姿

さ男の山ばの、端端その色情は薄いけれど、厭きは深くなってしまったなあ。――心におかしきところ。

おんなのめんどう見ることに、厭き厭きしたおとこの詠嘆だろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (266)秋きりはけさはな立ちそさほ山の

2017-08-10 20:02:16 | 古典

            

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下266

      
     
是貞親王家歌合の歌           よみ人しらず

秋きりはけさはな立ちそさほ山の はゝそのもみぢよそにても見む

(是貞親王家の歌合に提出したと思われる・歌) (詠み人知らず・匿名で詠まれた女歌として聞く)

(秋霧は、今朝は立ちこめないで、佐保山の柞のもみじを、離れた所でも見たいの……厭き限りは、今朝は断たないでよ、さ男の山ばの、端端そのも見じ、そよそしくとも見ていたいの)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「秋…飽き…厭き」「きり…霧…限…限度…これっきり」「今朝…けさ…あさ…はやい時…浅」「たちそ…立ち込めるな…断ちきるな」「さほ山…佐保山…山の名…名は戯れる。さおの山ば・おとこの山ば」「はゝそ…柞…楢・くぬぎ等の総称…木の名…名は戯れる。端端そ・身の端・おとこ」「もみぢ…秋の色…厭きの気色…も見じ…も見ない」「も…強調」「よそ…他所…離れた所…よそよそしい…気が進まない様」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「む…意志を表す」。

 

秋霧は、今朝は立ちこめないで、佐保山の楢のもみじを、離れた所でも見たい。――歌の清げな姿

厭き限りは、今、浅く早くは、断たないでね、貴身の山ばの、端端そのも見じ、そよそしくとも見ていたいの。――心におかしきところ。

おとこの浅い厭き限りよ、今朝は、断ち切らないで、よそよそしくてもいい、見続けたい。――おんなの本音だろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (265)誰がための錦なればか秋ぎりの

2017-08-09 19:43:28 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重、言葉での意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下265

 

大和の国にまかりける時、佐保山に霧の立てりけるを

見てよめる                紀友則

誰がための錦なればか秋ぎりの さほの山べをたちかくすらむ

(大和の国に行った時、佐保山に霧が立っていたので、見て詠んだと思われる・歌) 紀友則

(誰の為の紅葉の錦なのか・人々が見ているのに、秋霧が佐保の山辺を、どうして・立ち隠すのだろう……誰のための、色情の織り成す錦なのか・女は見るのに、厭き限りが、さ男の山ば辺りを、どうして断ち隠すのだろう)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

 「錦…もみじ色の葉の織り成すもの…極めて美しい物のたとえ…西木…おとこ」「秋きり…秋霧…厭き限り」「さほやま…佐保山…山の名…名は戯れる。さお山・おとこ山」「さ…接頭語…美称」「ほ…お…おとこ」「山…山ば」「たち…立ち…接頭語…断ち…断ちきり」「かくす…見えなくする…なくす…亡くす」「らむ…どうしてだろう…原因理由を推量する意を表す」。

 

誰の為の、紅葉の錦なのか・みなが見とれているのに、秋霧が佐保の山辺を、どうして立ち隠すのだろう。――歌の清げな姿。

誰のための、色情の織り成すにし木なのか、厭き限りが、さおの山ば辺りを、どうして断ち隠すのだろう。――心におかしきところ。

いつも「厭き限り」を後ろめたく思い、どうして断ち隠れるのだろうかと嘆く。――おとこの本音だろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (264)散らねどもかねてぞをしきもみぢ葉は

2017-08-08 19:25:49 | 古典

            

 

                        帯とけの古今和歌集

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下264

 

寛平御時后宮歌合の歌       よみ人しらず

散らねどもかねてぞおしきもみぢ葉は 今は限の色と見つれば

(寛平の御時、后宮の歌合の歌)      (詠み人知らず・匿名で詠んだ女歌として聞く)

(散らなくとも、以前から、惜しいと思うもみじ葉はよ、今は此れっきりの色彩かと見ていれば・なお惜しまれる……散らなくとも、以前から愛しいの、も見じ端はよ、井間は、これが限りの色情かと見ていれば・なお愛しい)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

 「をしき…惜しき…愛着を感じる…おしき…お肢器…おとこ」「もみぢ葉…秋色の葉…厭き色の端…も見じ端…厭き色したおとこ」「は…強調する気持ちを表す」「いま…今…井間…おんな」「は…特に提示する意を表す(井間を主語のように用いる)」「色…色彩…色情」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」。

 

散らなくとも、以前から、惜しいと思うもみじ葉はよ、今は此れっきりの色彩かと見れば・さらに惜しまれる。――歌の清げな姿。

散らなくとも、以前から愛おしいの、も見じ端はよ、井間は、これが限りの色情かと見ていれば・なおも愛しい。――心におかしきところ。これは、おんなの本音だろう。

 

エロス(生の本能・性愛)から発する人の本音は、そのまま言葉で表現し難い。和歌という文芸は、万葉集以前から、それを清げな姿に包装して、表現する高度な表現様式を持っていた。その歌の真髄が、中世に「古今伝授」一子相伝となり、世に埋もれた時から、われわれは、和歌をうわの空読みしかできなくなったのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)